『花咲ける水底へ』作者:ゅぇ / V[g*2 - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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原稿用紙約9.72枚
 




 ――あはれ、逢はばや。


 すす、と仄かに響く衣擦れの音を聴く。御簾越しに眼を遣り、望まぬ訪れ人を彼女は見つめた。
 ぱちり、ぱちり。
 粋だと思っているのかもしれない扇の音が、彼女の耳にはひどく障る。さぁさぁと清冽な音をたてて大地に降りそそぐ五月雨だけに、この身体をくるませておきたい。余計な音に、己の物思いを遮られたくなかった。彼女の思いとは裏腹に、女房たちは慌ただしく訪れた男をもてなす急《用意》をする。
 (………………)
 御簾越しに見慣れぬ男君――そしてその向こうに降り続ける小雨を感じながら、彼女は身動きひとつしない。契れば安泰であろう、眼前の男君は今を時めく左の大臣《おとど》の御曹司であると聞いた。
 五月雨時の生温かい風だけが、寝殿から幾ばかりか離れたこの西の対の屋に吹き込んでくる。女房たちは麗しき女君の身体を慮って妻戸を閉めようとするのだが、しかしその吹き込む風が趣き深いのだと、彼女が戸を開けさせているのであった。男が幾ばくか困惑しているように思われた。
 「……笛でも」
 花もすっかり散り果て、曇天が続いているせいであろうか。
(笛など――)
 歌を詠むでもなくひたすら黙りこくる女を気遣ったのだろう。御簾越しに窺える誠実そうな男は、懐から笛を取り出そうとする仕草を見せた。見目が悪いわけでもない、性が悪いわけでもない、まして家柄が悪いわけでもない――おそらく漢籍の教養にも優れているのであろう素晴らしい殿方である。
 並の姫君であれば瞬く間に惹かれるであろう男が眼前にいるというのに、なぜかこの男のふとした仕草で妙な苛立ちを覚える。
 控えて居る若き女房に、彼女は男君の退室を促した。
 「身体が重いのです」
 それも当然のこと、と言いたげに女房は呟く美しい女君を見上げる。いったい何を物思いしているのか、彼女がここ数日まるで何も食せぬことを憂慮しているのである。
 貴女を心配しています、と男は歌を残して出て行った。欲しいのは貴方の心配ではない、と彼女は冷たく思った。

 

 ――あはれ、逢はばや。

 

 嗚呼、逢いたい。あの方に逢いたい、と彼女はゆるりと外《と》の方を眺めやる。あの方以外の殿方など、我が身には欠片も必要ない。
 一度灯った恋の焔は消えることをつゆ知らず、まるで炭櫃《すびつ》の炭火のごとく心の奥底に燻り続ける。近頃咲きはじめた紫陽花を、ぬばたまの双眸に映しながら彼女は物思いに耽った。
 (このように縛られる身でなければ……)
 今すぐにでも彼の人のもとへ飛んでゆくのに。やんごとなき大納言の娘に生まれついたのは、いったいどれほどの因果であろうか。
 雨の中を訪うて来た男君の情はありがたい。長雨は男と女の情が涸れるときでもあると詠われる――その雨の中で訪うて来た男の愛。天の神は何を思って雨を降らしているのであろうかと不可思議に思いながら、しかし我が欲する愛は彼のものではないと眼を閉じる。
 幾たびとなく縁談を持ち込んでくる両親が、己を何よりも愛してくれていることを彼女は知っていた。彼女はまた正妻の子であるが故に、このうえない貴人を婿にせねばならぬ。行く末はこの家を背負って生きてゆかねばならぬ。己の想いがどれほど重く深くとも、日々じわりじわりと消してゆかねばならない宿命《さだめ》。
 「御菓子でも……」
 懐紙を敷いた器に、蜜柑の砂糖漬けが盛られてある。ひと月ほど前から生彩を欠きはじめた彼女のことを心配した、同じ歳ほどの女房の眼が悲しそうに歪んでみえた。
 「要らぬ」
 我ながら性が冷たくなったものだ、と彼女は寂しく雨空を見上げる。蜜柑の砂糖漬けのひとつでも、どうして無理をして食すことができぬのか。幼い頃から長いこと仕えてきてくれた女房に、優しい言の葉ひとつかけてやれない己の冷たさが彼女には痛い。いやそれよりも、なぜ我は決して叶わぬ恋をしてしまったのかと。



 
 彼女が恋したのは――父に仕える卑しき随身《ずいじん》。
 
 けして結ばれぬ泡沫の恋。



 
 「御髪《みぐし》を!?」
 雨がすっかり途絶えてしまった水無月十余日、苦しいほどに秘めていた想いが弾けて飛んだ。女房が思わず甲高い声をあげて、そして己のはしたなさに気付いて慌てて口許を隠す。
 「尼になりたい」
 (……俗世と離れてしまえば、何ひとつ思い煩わずにすむ)
 結ばれぬ恋にも諦めがつこう。思わぬ男と契らず生きてゆけよう。たとえ彼の随身と結ばれなくとも良いのである。
 ただ彼と異なる男と契ることだけは――どうか。
 「お考え直されませ」
 取り乱す女房が哀れであった。このまま悉く縁談を断り続けるのは、親に申し訳ない。まさか父親に、随身に恋をした、添わせ給えと泣きつくわけにもゆかぬ。彼女ももう十七、身を固めねばならぬ時節にさしかかっている。
 「御髪下ろすなど……許されませぬ」
 「母君が泣かれまする、どうか落ち着いて……」
 これ以上どのように落ち着けというのであろうか、と彼女は不思議なほど静かな心で女房を見つめた。
 彼の人と添いたいと想うこの心は、決して誰にも打ち明けられない秘め心である。言の葉ひとつ出しでもすれば、おそらく彼はこの邸から追い放たれるに違いない。ずいぶん昔に聞いた――彼には年老いた母親と病がちの妹人しかいないのだと。
 「そのようなことをなさるなら、式部は喉を切ります」
 やんごとなき女君の出家など、それほど珍しいことではない。この女房は何故こんなにも我を慕ってやまないのだろう。彼女が出家することを、まるで己の不幸のように思っている。
 
 彼女は何度も夢を視た。
 彼の人と御簾越しに笑いさざめく夢だった。
 彼の笛にあわせて琴を奏でる夢だった。
 凛然とした容貌《かたち》に見惚れ、そして彼と契る夢であった。
 夢の中の彼は毎夕彼女のもとに現れて、そして逢瀬を重ねては毎朝細やかに後朝の歌を寄越すのだった。

 それが叶わぬならば、誰を婿に迎えても変わりはすまい。何度もそう言い聞かせるのに――泥沼にはまりこんだ心は一向に抜け出す術を知らぬ。
 「式部に喉を切らせたいと思し召されるのですか」
 ともに育った女房を、誰が殺めたいと思うものか。

 

 
 ――あはれ、死なばや。


 

 石山寺へ参詣したいという彼女の唐突な願いは、意外にもあっさりと叶えられた。塞ぎこむ彼女を見て、この石山詣でが気晴らしになればと思ったのであろう。そして父親は先払いとして彼の随身をつけた。
 「………………」
 牛車《くるま》の御簾からほんのわずかに垣間見える、彼の容貌が清らかである。もしかすると祖は今よりも遥かに貴なる族であったのかもしれない。随身という身分にしては優麗な顔立ち、人の上に立ってもおかしくないだけの凛々しさがあった。
 ざあ、ざあ、と音が聞こえる。烈しく流れる渓の水音は、渇いた夏空を潤すにふさわしく。
 (夢のよう……)
 この想いをどうか秘めて。
 この想いをどうか隠して。
 この想い出をどうか抱いて――……山寺に着いた暁には己の心を静めようではないか。
 「来世は必ず……」
 来世は必ず彼の人にふさわしい身に生まれつきたい。この石山詣でを、天からの贈り物だと思えば良い。
 


 「――――っ」
 牛車が激しく揺れ、近く遠くでこの世の終わりともつかぬ悲鳴が聞こえた。牛が、と叫ぶ男の怒鳴り声が遠くから聞こえたような気がする。
 渓の水音になぜか興奮した牛が、小舎人童《こどねりわらわ》や随身たちの腕をふりきって駆け出したのだとすぐに彼女にも知れた。知れたが、間もなく大きな岩か何かに思いきりぶつかったらしく、激しい衝撃が彼女を襲った。
 牛車の外の方へ放り出され、彼女の身体が宙を舞う。
 遠のく意識の中でふと真っ青な空が彼女の眼に鮮やかに映り、ごうごうと流れ落つる渓の水音が一瞬消えた。女房たちの悲鳴が聞こえた。


 
 ――あはれ、死なばや。


 
 「宮…………!」
 若い男の凛とした声だけが、一際大きく響いた。ゆっくりと堕ちてゆく彼女の眼に、青空と重なって飛び込んでくる彼の姿が映る。
 嗚呼、何とした倖せ。
 悲鳴をあげて惑い泣く女房たちを置き去りに、彼女の紅い唇に微笑みがゆるりと湛えられた。
 
 青き空に華やかなる単衣。ごうごう流る命の渓水。
はらりはらりと散る花ぞ。追うは凛々しき地下人《じげびと》か。
 
 それはこの世にない倖であった。重く沈んでいた心がふわりと飛びあがり、空へ放たれるような心持ち。単衣に焚きしめていた香が、夏風に煽られて彼女の鼻腔をくすぐった。 ふ、と全てが消え――眩暈のような感覚とともに視界が昏く閉ざされた。
 哀しいほどに倖せな暗闇が、彼女を包んだ。
 (嗚呼…………)

 


 ざあ、ざあ。
 命を流す滝音よ、儚き恋の水鏡。
 
 ざあ、ざあ。
 屍ふたつ沈む水底、恋ぞ積もりて淵となりぬる。

 



 あはれ、逢はばや。
 願わくは、後世いつの日か、ともにならんことを。





2005-07-07 20:40:49公開 / 作者:ゅぇ
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■作者からのメッセージ
まぁたやっちまいましたッ!! 悪癖登場ゅぇでございます。バイト中に思いついたこの話。賛否両論分かれるだろうと思いながらも、どうしても書きたくて書きたくて仕方がなくなって書いてみたはいいけれど、途中で疲れてギブアップ(コラ
だから途中の展開がぶつ切りになっているのか!!っと今さらに自分で納得。でもあんまり長すぎるのもアレだし、ちょっとした息抜きにでもなればと思い、勇気を出して投稿です。いつも通り予防線はってもいいですか? あのですね、あたしの思い通りにショートで話を運ぶために、細かい平安時代のしきたりやら何やらはほぼ無視状態になっております。ので、そこらへんはスルースルーで(≧∀≦)

本当は百人一首を片っ端から挙げて、現代風にアレンジしていきたかったんですけれども、それやると百個やらなきゃ気がすまなくなるから却下。

そしてこの主人公ですけれども、何か結局作者のあたしが感情移入できないまま書き終わってしまったような気がします(言うなよ)いや、もうバイト帰ってきてから、アイス食べながら携帯でメールしながら、挙句の果てに野球中継見ながら書いてたものですから――と言い訳をしてみたり。

お気に召さなかったら申し訳ありません。少しでも雰囲気を感じていただければ非常に嬉しいですっ。どうにかして現代の若者の古典嫌いをなおしたいゅぇですが、ともかく自分の煩悩と偏見と独断によるショートを傍若無人に投稿したことをお詫びして、今回はこれにてッ(汗


※追記※
要注釈語がありましたら教えてくださいっ。博識の方が多いので――どこまで注釈が必要なのやらわからないのですっ。

急《用意》というまどろっこしい言い方をしたのは、『いそぎ』という名詞が『準備・用意』という意味を持つからでございます。ややこしい書き方をして申し訳ありませんっ。

※京雅さん>注釈をつけないほうが雰囲気はやっぱり出ますよねぇ。でも注釈を消してしまうと「ワケわからん」とそのうち言われそうなので、もう暫くの間はこのままで(大汗)よろしくお願いいたします(笑

※微修正加えました。申し訳ありません。
タイトルを【花咲ける水底】にしようかどうかで迷っています。どちらがよろしいでしょう??(聞くな
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2013-08-28 16:53:34【☆☆☆☆☆】Olaf
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