『紫蒼になびき 7まで』作者:戮煦 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角32422文字
容量64844 bytes
原稿用紙約81.06枚

--紫蒼--




 思い出してみると、どうにも腑に落ちない。
 どうして俺はあいつにあんな名前を付けてしまったのか。
「なあ、ジュリア」
 呼ばれて振り向いた、頭の中にいる女の顔。
 俺と同じ物質で作られた肉体を持たない、けれど決して架空の物ではない美女が、俺にしか聞こえない声で答えを寄越す。
「何?」
 振り返る動作で、短い髪が風を作りなびく。
 いつも、その髪が通り過ぎた空気には、蒼い色が残った。
 彼女に声を掛けると、必ずその背後に広がる風景も一緒に脳裏に浮かんでくる。広い場所だ。背の低い草が一面に生えていて、なだらかな平地が遥か遠方まで広がっている。空を眺めるのに視線を上げる必要は無い。緑色の風が、時折強く、弱く、暖かな温度と匂いを運んでいった。ジュリアはいつでも同じ服しか来ていない。体を隠すためだけの白いワンピースドレス。誰かに与える印象など、彼女にとっては無意味だ。
 無論、その場所にいる限り、彼女でなくとも他人への配慮は意味をなくす。
  
 ただ、俺の干渉を除いては。

 数日前まで、この部屋は幼少から身についた自分と言う個性に塗りたくられた、見慣れた部屋だったはずだ。壁はざらざらとした茶色い砂で表面を加工され、指でこするとボロボロと落ちる。壁と畳が交錯する線で、それは俺の指が届かないことを知っているかのように、落ちたままの色を保っていた。
 頭に埃をかぶった薄くない、箱型のテレビには、自分の趣味でない、個性を反映しない映像が流れていく。そんな風に、約一週間前からこの部屋には、自分以外の個性が根を下ろし始めた。俺が欲しいと思わない物がいくつか入り込み、必要としていない清潔感が部屋を埋めている。
「いい加減に、本当の名前を教えて欲しいもんだがね」
 ジュリアが家の内へ、否、我が心の内へ入り込んだあの日、一番最初に名前を付けさせられた。
 その次、その次と彼女は俺に自分の都合をどんどん押し付けて、この数日前まではゴミだらけだったアパートの一室を、思うが侭に改造していった。カーテンを取り外して洗濯し、煙草のヤニを落とし、冷蔵庫からビールの本数を激減させ、代わりに野菜を中心とした食材を満たす。万年床だった部屋の中央には、細い足を折り込める低いテーブルを二つ横に並べ、一方には原稿用紙、一方にはノートパソコンを設置する。
「貴方も、その響きが気に入っているからそう付けてくれたのでしょう。私はとても気に入ってしまったわ。言いにくくも無いし、美しいし。
 ただ、私がジュリアのイメージに色を関連させると、どうしても紅になってしまう。」
 大体、自分は原稿用紙などを率先して目の前に広げたことは無い。義務教育中に経験した作文なる物にも、完全にやらされている感覚を持っていた。それでも、こうして俺は自分の部屋のど真ん中に、その忌むべき存在を据えて、傍らにペンなど転がしている。
「私の色は、何色?」
 人を小馬鹿にしたような、鋭く、しかし魅力的な瞳で聡明な光りを俺に突き刺す。
 彼女の背後、そしてその瞳が見ているであろう、彼女がたたずむ世界の先に、雲をたたえて広がる空を遮る物は無く、世界が球体であることに気づいてしまうほど、膨大な存在は迫ってくる。
 しかし、ジュリアを最も美しく色取る、蒼い揺らめきはその圧倒的な景観に飲み込まれる事なく、少しばかりの紫色をその中に混ぜ込み、空の色と同調することを拒む。
 今にも消え入り、べた塗りのように平面になろうかと言う瀬戸際で、ジュリアの髪は確かに孤独だった。
「急にそういう事を聞かれて、すぐ思いつけるのは凄いのか?」
「そうね、私は凄いと思うわ。過去、何人かに聞いたことがあるけれど、いろいろ悩んで結局あやふやな色を何色か並べて、その真中だろうとか、面白みの無い答えが帰っただけだから」
 そうか、なら、こんな身勝手な奴の言うことを一々聞いて、八十枚も書いた後で尚、いまいち信用できない未来の利益を頼りに、原稿用紙に向かっているのも、少しはマシな事なのだろう。

「紫蒼、じゃないか」 
 
 聞いたことの無い色を言った。
 ジュリアは少しだけ足元に目を落として思慮する。
「素晴らしいわ」
 満足した顔でジュリアはその響きを繰り返す。しそう、しそう。
「思想、死相とはアクセントが違うわね。シを一番強く発音する。色の名前としては記憶に無いものだけれど、私は気に入った」
 ジュリアは嬉しそうに言う。
「それで、本当の名前はどうなったんだ」
「どうでもいいのよ。私だって、貴方の名前を知らないでしょう。本名は大切な物よ。一番最初にもらえる証だから。けれど、知り合ったら必ず教え合わなければならないなんていう規則に従う気は無いわ。秘密にしていた方が、場合によっては関係が意味深くなっていく事も在るでしょう? 私たちはまさにそんな関係だと思う。」
 まあ、知ることが必要な状況には無い。それに、知るべきかどうかと言っても、俺の考え方ではどっちでも良くなってしまう。もういいか。
「このテレビは変えよう。何か面白くない」
 こんな料理番組など見てもさっぱり面白くない。タレントの反応が癇に障るだけだ。
「そうね、確かに今日のゲストは、かなり違和感のある反応を見せるわね。いつもなら、もっと反応の薄い、黙って食べられる人が来るのに。番組の趣旨を勘違いしているの?」
 澄んだ声がとげとげしくなった。
「こんなの見たこと無い。」
「これは、美味しそうなものを美味しそうに食べている人間を見て、食べた気になる為の番組ではないわ。私にはあの形式自体、良く分からないけれど。どの部分、要素が面白いのかが分からない」
 とりあえず、傍らにあるリモコンでチャンネルを回す。選んでいる間にも、ジュリアは番組について話していた。
「この番組での料理の美味しさと見た目は、食べる前のゲームを白熱させるためにある。食べられない可能性を強く意識させるために。つまり、メインはゲームに在って、ここで起こる台本で作れないハプニングの可笑しさに確かな面白さがあると言う形式。レギュラーはいない、毎回登場する人は全員が違う人間だけれど、それを分かっている人は料理の味にはそれほど口を出さない。前者の形式を見慣れたこの国の人間にとって、それがギャップになって面白いこともある」
 一気にまくし立てた。俺の内側に現れた時から何も変わらない語り方。
「今日は駄目。面白くないわ。全部台無しになっている」
 空を背景に大草原で番組の仕組みを熱く語った。見ようによっては滑稽だ。
 結局、スポーツニュースに落ち着いて、二十四時近くなった時間を潰した。
 また、一日が終わっていく。ジュリアが現れてから数日目が、終わっていく。



--灯--



 正直に言って、俺は病んでいてもおかしくは無い。
 精神がやられたと本気で考えた。特にこの二年間にはそうなっておかしくない出来事がつまっている。高校三年の折り、両親を亡くした。現在の日本で、家族が乗った車が事故を起こして、数名が死んだって、それは別に少数しか起こらない出来事では無い。どちらかと言えば、よくある話になってしまう。大学進学が決まっていた俺は、収入を完全に無くしてしまい、食うのも困る状態に陥った。がっぽりと入って来たはずの保険料は、知らず知らずの内に削り取られて細くなってしまった。それでも保険料を持っていった親戚をフル活用して、どうにか就職先を見つけ出してみても、何ともはや落ち目の人間はどうしようもないのだろう。トップの不祥事が発覚、信用を無くして一瞬で倒産した。
 結局今のフリーター生活に足をはめ込んで、どう抜け出すかと考えながら、夜道を一人歩いて、アパートへ帰るそこに来て、ジュリアが声を掛けてきた。
 いつもの道だった。疲れと睡魔で朦朧とする意識でもたどれるほど慣れた道。仕事を求めて街中に移り住んだが、実際に住むアパートが在るのは、人気の少ない郊外だ。星の出ない夜ともなれば、あたりは見えないほど濃い闇が広がる。そんな道の途中に、一本だけ街灯がある。電信柱から突き出た、細長い蛍光灯の光りに、虫が寄り付くように俺は足を進めて、寄りかかった、その時。
「なんだ?」
 小さく、声が聞こえたような気がして、辺りを見回すが、何の気配も無い。頭の上でジジッと蛍光灯がなっているのが、声に聞こえたのだろうと思い、ふとそのカバーの下で光る白い円柱の発光部を目に入れた瞬間に、あの草原が脳裏に広がり、はっきりとジュリアの姿が浮かび上がる。
「繋がったようね」
 同じくはっきりと、声も届いたのだ。
 彼女の予想に反して、俺は黙りこくってしまった。とうとう来てしまった、と心は泣いていた。彼女の姿が美しかった事も、俺を落ち込ませた大きな要因になる。どうせ、逃避するなら理想に近い場所へ行きたいものだ。
「私は貴方が生み出した物ではないわよ」
 呆れたように彼女は言ってくる。
「失礼な人」
 なんと言われようとも、そのときの俺に答える気力など無かった。
「何をしているの? こんな所で途方にくれていても仕様が無いじゃない。さあ、貴方の家に行きましょう」
 その意見には賛成だった。だから、早足で歩を進めた。何事か彼女がまくし立てていたが、全く意識することも出来ない。一刻も早く家に帰って、眠りに落ちてしまいたかった。ビールを開けて、一気に煽って、面白くないテレビを付けっ放しにして、風呂にも入らず、死ぬように眠りたかった。だが、当然そんな風に出来るわけが無い。
「待って、眠ってもらっては困るわ。汚い部屋ね。ああ、待って。分かったわ、すぐに眠っていいから、これだけは聞いて。私の呼び名を決めて欲しいの。そうすれば、キーが設定されるからいつでも繋がることが出来る。貴方が呼んでくれればいつだって。それだけしてくれれば、こっちから今日は完全に消え去ってあげる」
 ビールも開けずに布団に潜りこんだこの状況で、名前など思いつくはずも無い。それでも、何か言えば彼女は消え去ってくれるのだろう。そう考えて口を滑らせたのが。
「ジュリア」
 ボソッと言ったその言葉に、脳裏の彼女は酔い痴れる様に瞳を閉じ、唐突に消えた。

 
 翌朝、皺だらけの布団から身を起こす。バイトだけで生きるためには、睡眠をそう長く取っていられない。昨晩は以外にもあっさりと眠りに落ちることが出来た。精神を病んでしまった割には安らかな眠りを得られた。そう考えた瞬間に、気づいてしまったのだ。
「俺、どうなった?」
 はたして、このまま放置してよい物か。よく考えれば、昨日のあれは確実に閉じ込めた形に終わっている。欲求を閉じ込めたまま精神を病んだ状態を続ければ、無意識の内に悪質な犯罪を犯す可能性も考えられた。我ながら、病んでいるにしては恐ろしく冷静だ。
 ごくりと、息を飲む。その音が大きく聞こえた。のどの外へ漏れ出すはずも無いほど小さなその音が、スピーカーで耳元に怒鳴りつけられたように。
 確かめなければならない。
 のどが、からからに渇いた。粘ついた声で、言う。
「ジュリア」
 途端に、止めようもなく広がっていく世界と、振り向く美しい女性。俺は頭を抱えてうずくまった。
「さて、まずは誤解を解くことから始めなければいけないわね。冷蔵庫を開けてくれる?」
 彼女の言葉に微動だにできない。
「私が病気の産物でない方が、貴方にとってはいいことでしょう。それを証明してあげようと言うの。遣ってみる価値はあるでしょう?」
 病気でなければなんだと言うのだろうか。考えながら、それでもそれが自分の欲求なのだろうと無理に納得して、冷蔵庫を開ける。
「よろしい。それじゃあ、うわ、何と劣悪な栄養環境。仕方が無いわね。言う通りに作業して。」
 声のままに作業を進めた。冷蔵庫に在る食材を引っ張り出す。僅かな野菜を水で洗って、おぼつかない包丁で切り分けた。なべに湯を沸かし、どうにか一通りそろっている、どれもほとんど減っていない調味料を、指示通りに加えていく。段々と、完成が近づくに連れ、俺は心底、驚愕した。
 生まれてこの方、料理が成功したためしは無い。しかし、彼女の指示に従うことで、生の野菜たちとただの湯が、確実に美味しい味噌汁へと変わっていく。途端に、空腹を思い出した。
「どう? 分かってもらえたでしょう」
 一気にできた分だけの味噌汁を、空いた腹の中に落としていった。彼女の声はこれで安心と言うように、頭の中にやさしく鳴っている。
 確かに、今しがた起きた事には驚いた。その作業は確実に、今、自分が持っている経験と知識では行えない事だ。それならば、彼女を作り上げている物は、俺の中には無いと言うことだ。病などではなく、不安やストレスが作り出した欲望の表れ、幻想などではなく、外から入り込んだ完全に隔離した意識。
「いや、いや、ちょっと待て」
 しかし、またも俺の意識は冷静に事態を分析してしまう。今食べた物は味噌汁だ。幾ら料理ができなくても、出来上がるまでの手順を、一回通すだけで思い出せるくらい記憶できるほど、単純な作業だった。ならば。
「忘れていただけで、本当はできたことかもしれないだろう」
「やっと声が聞けたのに。そんなこと言うし」
 脳裏の彼女がむくれて向こうを向いてしまう。
 母親の料理などを見て、無意識の内に記憶の断片は蓄積されていても、実際に思い出したり実践することはできなかっただけで、味噌汁は自分の記憶をたどって作った可能性がある。忘却の空に浮かんだ物の影が、無意識の地表に射し、行動に反映したのかもしれない。
「味噌汁ぐらいなら、そんなことも在るだろう?」
「だからって、複雑な料理は作れないわ、この材料では」
 彼女は少し思案した後に、提案を出した。
「分かったわ。少し遠い所へ行かなければいけないけれど」
 俺が忘却したまま、頭のどこかに置いていた可能性が絶対に無い記憶を明示するという。
 指示された場所は確かに遠く、費用的にも厳しかったが、俺はその提案にのった。
 現実に、ジュリアが全く別の隔離した意識であり、彼女が立っている場所が存在する可能性を認めたからだ。もし本当にそうなら、精神を病んだのでは無いことが完全に証明できる。
 そして、彼女はやってのけた。
 古くから続く書店のようだった。家族で運営し何代も血縁で受け継いでいると言う。怪しまれながらも、何とか四代前の店主の本名を聞き出す。
「名前が変わっていたから少し心配したわ。まあ、ここが駄目でもまだ幾らか方法は在ったけれど」
 その店の四代前の店主の名前は、確かに、自分の記憶には絶対に在りえないと確認できる物だった。
 こうして、ジュリアとの生活が始まる。
 全ては、真っ暗闇に浮かんだ蛍光灯の、冷たい灯から。



--挑戦--



 行動をルールで束縛される事をとみに嫌う。
 そういった人間が、身勝手に網を突き破ってやりたいことをやってのける事態を、世間体はとみに嫌う。
 そう考えると、数日間、脳内にてコミュニケーションを取れる状態で過ごした結果、ひしひしと感じた事だが、ジュリアは世渡りが下手だ。大体、成熟した確たる意思を持った一人の人間の意識に、内部からコンタクトを取る上で、事前に俺を選んだ理由を踏まえた説明も無く、唐突に自分の都合で入り込んでくる事自体、極めて悪質なルール違反だ。
「その説明が、唐突な進入になり得るでしょう」
 講義したが、下らないとばかりにそっぽを向いて言い捨てる。確かにそうではあったが、多少なりともショックは小さくなったのでは無いだろうか。
 今だってそうだ。
 勝手に奴は俺から楽しみを取り上げる。冷蔵庫の中で待っているビールの缶の声が聞こえてきそうだ。仕事を終えて帰宅した二十三時前、風呂から上がって早速向かうのは、冷機を吐き出す白い扉の前ではなく、原稿用紙とペンの居場所だ。
 これに向かって座る時、飲酒は許されない。
 俺はこの作業を率先してやっているわけでは無い。作業中は、彼女のルールに最も肝要に受け応えている瞬間だ。だったら、俺の要望も少なからず受け入れるのがルールと言う物だ。深刻な違反が続いている。
「ビールを飲ませろ」
「駄目よ。何度も言っているでしょう。駄目よ」
「嫌がらせは止めろ。分かってるんだぞ。俺の体を乗っ取れないと言う、無かったら余りにも俺が可愛そうな規則が気に入らないから、そうやって八つ当たりをしているんだ」
 ジュリアの身勝手が通用しない規則群が一つある。どんなに彼女が頭を捻って何かを陥れても、俺と彼女の回線に関わるルールだけは曲げられない。それだって、俺にとっては追い詰められたサッカーチームのサポーター的気分になるほど不利な内容だ。
「確かに、そんな気持ちも持っているけれど、貴方の脳みそが余りにも漢字に弱すぎる事が最大の理由よ。感性は良い物が有るけれど、能力は低いわね」
 けしからん。何のために傍らでノートパソコンを起動しているのだろう。これがあれば漢字の使用に飲酒がネックとなることは無い筈だ。
「パソコンが有るだろう」
 大体、なぜ原稿用紙に手書きを徹底させる。ここにディスプレイと言う極めて便利な物があるではないか。下にスクロールするだけで、ほぼ無限に書く場所は生まれていくというのに、何故これで文章を作っていかないのだ。
「どうして一々書くんだ。これで打てば良いだろう。嫌がらせ以外の何物でもない」
 いくら心の中で叫んでみても、俺の主張がジュリアを捉える事は無い。彼女に意思を届ける為には、己の鼓膜を震わせる必要があった。
 ああ、そう言えばジュリアの様に無言でも、表情と仕草で明らかに俺を見下し、馬鹿にしていると伝える事は出来なくもない。十分にそれを伝えてから、ジュリアは声を使い始めた。
「貴方にも分かってもらいたいのよ。脳により言葉を検索し、筋肉により打つのでなく、書く事で得られる、圧倒的な力を知って欲しいのよ」
 彼女はさっさと机に向き直るように指示する。立っている草原に一陣の風が吹いた。ジュリアの背中にぶつかって、服と髪を揺らす。しかし、俺のところまでその風が届く事はなく、俺の目は脳裏の風景とは一片、狭く蒸し暑い部屋の中で、ザラザラした壁を捉えている。
「文章なんて所詮は記号の集まり。意味を与え、ストーリーを形作る何万個もの文字よ。それを記す時、一個の形が出来上がる道である、筆記器具の芯が辿る過程を感知し、完成するまでの一瞬と言う時間経過を感知し、紡いでいくという感覚を感知し続けて文章を完成させた時にしかえられない、信じられないほどの力を貴方に知って欲しいから、紙を強制しているの」
 見ろ、また奴は極めて勝手な事を言っているぞ。
「そんなモンはいらん。俺が欲しいのはビールだ」
 奴は一瞬、軽蔑の眼差しを向けてから、そっぽを向いてあっちへ行けと言う様に手を払った。
「なんてつまらない人間に育ってしまったの。まだ知り合って一週間そこそこよ。何回、私を失望させた? 私の作った料理と一緒にタバコを吸い、私が選んであげた本をビールの下に敷いた。そして今しがた私が信じている物のうちで、最も大きな存在を、ビールよりも下等な物だと明言した」
 ジュリアはそっぽを向いたまま早口でまくし立てる。今の内に俺は冷蔵庫を空け、風呂から上がって今までの分だけ余計に冷えてしまったビールを開ける。
「何と言う愚かしい、ちょっと」
 蓋を開けた音を俺の耳を通して聞き、俺のほうに振り向いた。回線が繋がっている限り、彼女の脳裏にも俺と、この部屋、つまりは俺がいる世界が広がっている筈だ。こうあっては、御互いの状況など無意識の内に監視する事が出来る。それなのに、どうにもジュリアは隙だらけだ。
「どうして、そう言う事をするの。おかしいじゃない、この状況で隙をつく何て」
 腕組みをしてジュリアが睨んでいる。
「君が、すぐに向こうを向いてしまうから」
「むかつくわね」
 アンニュイな目でかすれた声を出すと、ジュリアは無表情のまま、瞳だけで言葉が意味する感情を光らせる。余計な物が混じっていない分、より直接的に俺を撃った。
 どんな状況にあろうとも、彼女は一瞬で一人だけになれる。俺とは違う。ジュリアをどれほど無視しようとしても、その存在を見失う事は出来ない。一点に集中した時の、ジュリアには自分の言葉しか聞こえず、自分の脳内構想にしか存在を許さない。自分自身すらも忘れてしまうかのように、彼女は考察に全てを傾ける。例え、満員電車の中心でもみくちゃにされながらでも、彼女の形、大きさだけの空間を切り取って、人が到達した事のない深海、はたまた星空の果てに放り出すが如く、触れることもかなわない遥かな孤独を呼び込む事ができた。
「繋がっているのに見失われるのもそれなりに寂しいが」
 ジュリアは鼻で笑って俺の脳裏に広がる空を仰いだ。
 果たしてその途方もなく続いていく緑の海に、彼女の寂しさを削いでくれる同種、人はいるのだろうか。俺はここ数日、ジュリアと回線を開いている間、彼女の後ろに鳥が飛ぶのを見たことは無いし、虫が跳ねるのもみたことが無い。ただ、緑色の優しい風が、ジュリアの髪をなびかせ、音を立てて蒼く光るだけだ。
「寂しさは、価値よ」
 変わり逝くのは敷き詰められた、緑色の葉。さわさわと揺れて、草原の形は刻一刻と波打っていく。流れて逝く雲だけが、時間を持っているかのうように規則正しいゆっくりとした速度で、想像も出来ない距離を進んで行く。あの白く、薄く、あるいは濃く、薄青い雫の集団が、雨となってジュリアを濡らす事はきっとないのだろう。
 ジュリアの口が紡ぐ小説を文字にして、原稿用紙にしたため始めてからというもの、俺はこうやって彼女が立つ世界を無意識の内に文章で表現するようになった。口に出す事もないので、ジュリアにその内容は聞こえないし、そんなことをしているとも感づかれない。
「どうでもいいから、続きをさっさと書きなさい」
 日を追うごとに、確実に俺の表現は、使われる単語を増して、その、ジュリアにとって価値があるのだろう、寂しい世界を映していく。
「今日はビールを飲んだから、もう止めよう」
 仕事が終わって帰宅するのが、二十一時以降、遅くなると二十三時。眠るまでの、時間にして二時間余り。今日も、俺とジュリアの挑戦は続く。
 今日の内にも彼女の挑戦は百枚に到達するだろう。果たして俺は明日、今日よりもジュリアの世界を知る言葉を見つけ、ジュリアを知る何かを拾うことが出来るだろうか。
 俺の挑戦は一歩でも先へ進むだろうか。悔しくもあり、納得も出来ないが、確かに俺は文章での表現に、何かしらの期待をもっている。
 俺の指が進めていく物語は、彼女の挑戦の序章に過ぎないと言う。
 彼女はまだ、硬すぎるハンマーを必死に引き上げている。トリガーに指もかけていない。だが、俺と言う作文嫌いの活字嫌いでも、どうしようもなく感じてしまう、面白さが既に滲んでいた。
 ジュリアが撃ち出した弾丸は、どんな速度で世界を駆け抜ける。そんな期待が確かにあった。
 しかし、それだけで眠る前の貴重な自由時間を奴の思惑に費やそうとは思わない。
「そう。もうこれは仕様がないでしょう。今回に限り、ビールは許すからとっとと始めてくださいと私が頼んでいるのに、貴方は自分の立場を完全に忘れて、更なる勝手を働こうと」
 むう、まずい。
「いや、そうだな。始めよう。それと、明日はビールを飲まない事にしよう。だから消えろ」
「いい心がけよ。だから消えろとは何事? 立場をわきまえた言動だわ。だから消えろとは何事?」
 ぬう。
 奴め、今度は目だけではなく体全体を使って、本当に言いたい事を伝えてくる。これはこれでむかつく。
「分かった。謝罪しよう。脅すのは止めろ」
「謝罪を受け取ったわ。まったく。もういい加減、学習して欲しい物ね」
 奴との回線を繋げたままでは、到底眠れたものでは無い。目蓋を閉じれば、より一層はっきりとこの無駄に美しく、実際激しく憎たらしい顔が目の前に映りこむ。
 かといって目をあけて眠れるほど器用では無いし、開けたからといって奴が消えるわけでは無い。
 さらに、眠る段階で回線が繋がっている場合、大抵、奴の機嫌を損ねて御仕置きタイムになっている為、全力でえげつない睡眠妨害を続けてくる。いかに美しい響きでも、ぶつぶつ、ぶつぶつ言われては子守唄にはならない。
 回線を切る操作は、ジュリアだけに許された余りにも大きな特権だった。
「馬鹿な人。そんなに嫌ならどうして呼び出すの。私を呼ばなければいいでしょう?」
 まったくだ。ジュリアを呼び出す魔法はどういうわけか俺しか知らない。ただ、ジュリアと口にすれば言いだけなのに、とうのジュリアはそのキーを持っていない。
 
 それに、考えてみればジュリアは、俺の名前も知らないし、呼び名も必要としていない。

「お前がいなければ飯が作れない」
 これは本当にどう言う訳だろう? どうして、奴が語った手順通りに調理しているのに、味がこうも変わってしまうのか。彼女の作る料理はいつも味がいい上に、何より経済的だ。今現在の俺にとってこれは非常に大きい。よって、どうしてもその誘惑に負けてしまう。どうなっているんだ? 今まで、いな、これからも、ジュリアとの回線は、あくまでも会話、態度でのコミュニケーションを可能とするレベルに止まり、思念でのやり取りは不可能である筈だ。
 なのにどうして、微妙な匙加減とか、その辺の細かい所が互いの行動に影響する。
 彼女の指示に従ったり、彼女と共に何かをする時、その感覚的な物が俺の体を通じて外に漏れ出す事がある。特に、料理に至っては顕著に表れた。
 逆に、俺の指示で何かをする時、ジュリアにも同じような事が起きるのだろうか? やったことがないので分からない。
「情けない限りよ」
 どうして、奴が言う。それは俺の台詞だろう。



--枯渇--



 まったく、落ち目の人間にもついている日というのはある物らしい。
 帰宅時間は二十一時。今日に限ってはこれから夜食を作るためにジュリアを呼び出す必要がない。バイト先の先輩がパチンコで大当てをしたらしく、焼肉なるここ二年ほど完全に自分の領域外にある代物を口に入れることができた。バイト中の俺には何の興味もないらしく、いつもジュリアは家を出るとすぐに回線を遮断する。
「なんと静かな」
 靴下を脱いで脱衣所へ放り込む。とりあえずは風呂をこさえなければならないが、先に便所を済ませた。居間の真中で、常時設置の原稿用紙と、それを踏んづけるつまみ付きの文鎮が、銀色に光っている。やはり、部屋の中には、俺の部屋としてこの場所を見れば、違和感をかもし出す物が所々に点在している。
 ジュリアの挑戦も、俺の挑戦も今日は休止だ。
ビールを飲もうと思ったが、風呂上りの楽しみに取っておく。ミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫から出して、ふたを捻った。風呂がたまるまでテレビを見て過ごす。
「そういえば、先週これを見逃した」
 毎週続けてみていたバラエティーだが、仕事がおそくなれば見れないこともある。だが、ジュリアの横暴により見れない事の方がきっと、この先多くなるはずだ。奴は裏番組の世界遺産を巡って、なにやら難しげな歴史を大げさに紹介していく番組をとみに気に入っている。
 なぜ、この俺が世界遺産などという、むやみやたらと埃っぽく、大抵の場合、機能性皆無な巨大建造物を愛でねばならんのだ。無理だ。
 今、ブラウン管が写し出す、この余りにも馬鹿げた行いに命をかけている、自分よりもはるかに年を食った連中を、ひたすら哀れみながら容赦なく笑い飛ばしている方が、よっぽど俺にとっては有意義だった。しかし、そんな充実感もすぐに消えてしまうことになる。
 グラリと、自分のバランスがなくなるような感覚とともに、抗いようのない振動が襲ってきた。ほんの一瞬のことだったが、大抵の人間に恐怖心を植え付けるには十分な、災害だ。
「揺れやがった」
 ジュリアの回線を開いていたらどうなっていたろう。いや、きっとどうもならない。奴はおそらく俺と同様、大地震のニュースに切り替わった番組に物凄い勢いで恨みをぶつけるだけだ。一気に不愉快になった俺は、風呂がたまったのを確認してテレビを切った。
 服を脱ぎ捨て、久しぶりにゆっくりと湯船につかる。
「何という気持ちよさだ」
 後に何も嫌な事が控えていない真の安らぎが俺の身を包み込む。今日はゆっくりと、癒す場所をジュリアに盗られて、仕方なしに蓄積された疲れを取らねばと、気合を入れて風呂から上がったが、どうしてこうなってしまうのか。
 ビールを取り出して口をつける前に、俺は原稿用紙の前に座ってしまった。
 テレビをつけても、地震の被害を映すばかり。知ったことではない。すぐにでも冷蔵庫を開ければよかったのだが、時間はたっぷりあると高をくくって、やる事のない俺は原稿用紙を拾い上げてしまった。
 考えてみるに、そんなことは普通有り得ない。さっさとビールを飲んで、布団に入ってしまいたいはずなのだ。やることもない、明日もは早い、そんな時今までの俺の欲望ならばもう、安らかな睡眠に向いていなければおかしい。
 必死で、自分に言い聞かせる。
 それなのにもう、俺の目は物語を追い始めていた。
 だが、すぐに分かる。俺は物語に、面白さに飢えているのではない。
 ジュリアの小説は確かに面白い。物語は強制的に俺を非日常的な世界に引きずり込み、冒険を強要させる。書かれているものはけして、モンスターを倒す英雄物語ではない。だが、そこには確かに魅力的な非日常が描かれ、鋭い感性で俺を主人公にしてくれるのだ。百何枚かを読み終えてなお、続きが欲しくてたまらないと感じるだろう。
 だが、それでは満足できなかった。
 ああ、そうだ、もう俺は分かっている。何が欲しいのかすでに気づいているのだ。だから、ビールに手をつけず、布団も敷かずに、原稿用紙の前に座っている。
 数日間、毎日、たったの数時間それを与えられただけで、もうなくては落ち着かない。
 この依存性はタバコや酒にはない強烈さだ。ともすれば、俺はやったことがないから定かではないが、麻薬よりもなお強く、欲しがることを命令するのだ。
「くそったれが」
 ペンを握ってしまう。俺だけでその欲求を満たせれば、小説以外で満足を感じられれば、こんなに苦しまずともすむという物だ。まったく、たちが悪いものを、ジュリアは俺に、またも断りなく打ち込んだ。
 俺に、その快楽を呼び込むだけの表現力はない。そして増幅させていく怒涛のごとき感覚の暴走はない。ジュリアの言葉をただ、紙にしたためるだけで、確かにそれは俺に伝わった。同じ手順をたどった料理を、食えるものと食えないものに分ける、非常に小さく、だが確かに存在する感覚と同じように、小説を書くその時、ジュリアが感じている、危うく、艶かしく、背筋を上る快感を、確かに俺の意識は汲み取っていた。
 その快楽を纏ったジュリアは、途方もなく緻密なからくりを文章の中に、一瞬のつまりもなく織り込んでいくことができた。一つの文字を発音する間に、奴は知識の宇宙を飛び回って、必要なものをかき集め、次の文字を発音するまでの時間で、全ての材料をつなぎ合わせて物語を紡ぐ事ができた。
 原稿用紙に書き写す俺にも、ジュリアとの回線により、視界よりも明確に構想を捕らえるあの、冴え渡る感覚の激流が、止めようもなく押し寄せるのだ。
 読んで得られる面白さではない。書いていく面白さでも、創造する面白さでもない。
 そんな平和な物ではない。
 語るという行為の裏側に潜む、圧倒的な力を刺激する恍惚だった。
「ふっくっくっ」
 あぁ、もう俺は逃げられないな。見ろ、ペンが枯渇している。寄越せ寄越せと呪詛を詠う。
「ジュリア」


--進入--



 早速、飯を造ろうと俺に指示を出し始めるジュリアを止めるが、至って冷たい視線が帰ってくる。新種の生物を発見したが、さしてそれに興味を持っていない人間の眼が俺を捕らえる。
 だが、それだけで何も聞かず、いつもの様に小説の続きを話し始める。俺はペンを取って原稿用紙へ書き写した。
「何で何も聞かない。飯を作る必要がないのに、お前を呼び出しても俺は損なばかりだ。どうしてそれに付いて疑問がないんだ?」
 切りがいい所で語るのをやめ、奴は質問に答えるべく俺を睨む。別に睨まなくとも良いだろう。
「どうでもいいから」
 まあ、そうだろうけれど。どうなんだ、その無関心さは。こうして俺は寛容にもジュリアの要望を極力飲んでやっている。安静な睡眠を人質にとられてはいるが。
「ジュリアはなぜ俺の所へ来た。初めて解決を計るのが自分でも不思議な疑問だが、俺を選んだ理由は何だ」
 これだけ自己紹介という物をし合わなかった知り合いは過去にいないのでは無いか。脳裏で同居しているような我々は、状態を考えると余りに御互いを知らなさ過ぎる。
「選んだ分けでは無いわ」
 かなり酷い結果が生まれそうな出だしである。
「私はただ、同類である事が好ましかっただけ。選ぶなんて事はできないの。その所為であなたの前に繋がった時は面倒な事になったわ」
 ジュリアはまた小説が遅れると愚痴りながら、過去に記憶を飛ばす。俺が知らないと確実に確認できる、遠い街にある本屋の四代前の主人が生きていた過去へと。
「優秀な作家だった。それも私とは全く別の角度から、小説という力に魅入られていた。意見の衝突が絶えず作品は一向に進まないし、彼女は苦しみ続けるし。今回、貴方の様な人であって非常に運がいいのよ。私が今回こちら側に繋がる為に選んだとすれば、あの街灯だけ。昼間でさえ殆ど人が通らないあの道で、ぼやっと白い灯りによって来るような危うい人間は、経験上、同類である事が多いから」
 ジュリアの言う同類とは如何なる種類か。俺はそれに当てはまっているのだろうか。いや、少なからずその気はあるだろう。確かに彼女の言うとおり、あの光へ近づいた時、俺を動かしたのは飲み込まれそうになるような、危うい闇だった。周囲の光量の少なさは関係ない。俺の中にずんと横たわり、日ごとに重くなっていく影の塊が、ぐらりとぼやけた灯りの方へ傾いて、重さに耐え切れず足が泳いだ。
 ジュリアには多方面への意欲が。俺の内側には向上心の生まれる場所が。共に人間らしさを形作る基礎的な要因が欠落している。
「誰かを決める必要はなかったわ。同類である必要もなかった。それはあくまで私の好みよ。小説を書ける、そしてそれを世に送り出せる環境、住所があれば大体必要な物は揃うわ。人間性の欠落も、殺人に及ぶ罪も、勝手に持っていてくれればいい。私はただ、従わざるを得ない何かを握り、小説を書いて貰う。そう言った作業を余りしなくて済んだ分にも、あなたに当たったのは運が良かった。戦う場所を手に入れる。その為だけにこちら側へ繋がり、人の内側に言葉を送った」
 つまり、俺は運悪くあの道を通って帰らざるを得ない場所に住んでいたから、ジュリアが来たと。これは実に運が悪い。俺の運の悪さでも、仕方がないで終わらせる事が出来ないほど。
「あなたの側はとても羨ましい。私は私たち側の世界に失望した。そうして禁忌を犯してあなた達に接触し、この容赦のない内容絶対主義に満足しているわ。あなたが書く事を嫌がらなくなった理由など、全く持ってどうでもいい。打つのではなく、書く事でしか得られない力があると前に言ったわね。知って欲しいとも言った。あれは感傷的な意味ではなく、私にとって有利な事だからよ」
 喉が渇いてきたので、ミネラルフォーターの蓋を開けた。もう半分も残っていない。
「私の小説をこれから審査しなければならない人間たちは、きっと誰もがその力を知っている。ストーリーを作っているのは私だけれど、書いているのはあなたよ。打つにせよ書くにせよ、例え最終的に出来上がるのがワープロ文字の集合体であっても、知らない人間の指がつづった物とは決定的な差が出る。あなたが作っているのは文字だから」
 ジュリアの視線は相変わらず俺を睨んでいるが、冷たくもなく、情熱に燃えてもいない。説明書を読み上げるように淡々としている。
「冷たい御言葉ですこと」
「むかつくわね」
 少しだけ感情が混じった。パソコンの画面は既にスクリーンセーバーに変わってしまった。何処から入ったのか小さな虫が、電源の入っていないテレビの周りにうろついて、かと思えば壁に止まる。ざらざらした足場は非常に止まりやすかろう。
「けれど、聞いてあげなくもないわ。書きたくなかったはずの小説を書くために、私を呼んだ理由。興味は薄いけれど、その行為に免じて聞いてあげる。聞きたくないわけでもないから」
 そんな事をしている暇は無い。パソコンが消耗する電力が勿体無い。
「固有名詞が分からんから説明が難しい」
 俺は、ジュリアが語っている時に伝わって来る興奮を、しどろもどろに伝えた。ただとにかく、早いところ寄越せという主張はしっかりと言い切る。
 色々とジュリアの表情には不愉快な思いをしてきたが、ぞっとしたのは初めてだ。顔の表面はただ小さく動いただけだ。眼が僅かに細くなり、鋭さを増して笑みを作る。右の口元が気付けないほど僅かに吊り上る。
 吐き出す吐息が熱を帯びるのが分かった。黒い眼球がどろりと揺れて、豪雨の直前に訪れる陰りのような色が染み出した。
 脳裏の空が遠くなる。
 一瞬で表情を戻して小説の続きを語りはじめた。俺の指が文字を作ってストーリーを原稿用紙につづる。次第にジュリアの声が速度を上げて、俺が欲した感覚が濃くなっていく。物語は山場に差し掛かろうとしていた。散りばめた布石が数式を解く方程式の様に、美しい連立を見せて相互に干渉しあう。
 そうして主人公は、問題がようやく解決の一点に走り出したのを感じながら、共に戦ってきた十数年の生涯佑一の友にして、戦友と肩を抱き合い、彼の発した一言によって更なる深みにはまり込みつつある事に、あらがいようなく気付いてしまう。ジュリアが描く世界には、宿命は無いし謎も無い。常に登場人物には幾万通りもの選択肢を与え、彼らが望む道を踏ませていく。強制が働くのは欲求にたしてだけだ。助けなければならないヒロインを与えず、行き先を世界中に設定し、それでもキャラクターは欲求を満たす為に、自ら危険な道標に立ち、苦しい一歩を重ねていく。
 欲求と言う業は宿命ではない。運命ではなく自意識に従い選び出した、一つの我が侭に過ぎない。

 一時、俺を十分に満足させる感覚の嵐は吹き続け、小説は佳境に向かう転換部で今日の進行を止める。消耗の激しさはそのままなだれこんだ興奮の激烈さに等しい。俺の体は一刻も早い休息を求めた。
「こんなに嬉しかったのは久しぶりだわ。やっぱり貴方は同類だった。あの灯へ虫のように寄ってきた貴方の姿は、まさにあなた達の世界に寄り付いた私の姿と同じだったから、きっとそうだと思っていたけど」
 ジュリアはどういう訳か一向に消えようとしない。いつもより微妙に大きな声で話している。非常に困る。
「何がそんなに嬉しい。お前、別に同類がいたからって喜ぶようなたちじゃないと思うが。その同類と言うのも良く分からん。ジュリアと同じ種類だと言われていい気分になるのは難しい。」
「失礼極まりないその態度も、今夜に限って大目に見てあげる。確かにその通りよ。私が喜んでいるのは、孤独が薄らいだからでは無い。私たちが合い間見えたとしても、孤独は欠片も失われはしないわ。 だって、私も貴方も所詮はこういう種類。あの興奮のために、欲求のためにとただ熱く煮えている。私のことなんて見えていない。貴方の事など眼中に無い。与えてくれる内容物にだけ目を向けているのよ。人間としての互いに何の興味も示す事は出来ない。そう言う種類よ。顔をあわせても寂しさは増すばかり」
 昼も夜も関係なく、同じ色の太陽光に満たされたジュリアの場所が、やはり変わりなく今は非常に眩しい。確かに、こう疲れていると目の前で主張しても、決して考慮してくれないジュリアの人間性には全く興味がわかない。
そして奴はまた勝手な事を言い出すのだ。
「眠りなさい」
 理不尽な命令だ。そんな事が出来れば最初からやっている。昨日までの俺はそれが出来ないから、引っ込まないぞ、眠らせないぞと脅されていたのだ。
「お前が来てからこっち、今の言葉が最も知識に欠けている」
「眠れるわ。前に繋がった作家はできたもの。貴方を脅す為に極力、私の方から眠る事ができないように勤めていたから、できなかっただけよ。今日は私が誘ってあげる。ビールは飲まなくていいわ。そんな物に頼らなくても大丈夫よ。ほら、さっさと布団に入って、目を閉じなさい」
 非常に迷惑だ。なぜ突然そんな事を言い出す。俺のみになって考えるという事を全くしない。いつもの事だがこれはひどいだろう。時計の針はどんどん進んでいく。眠る時間はどんどんなくなっていく。
「これだけは譲れまい。俺が抱えるジュリアに付いての色々な危険性は、初めてあったときからこれっぽちも変わっていない。お前が言っていることが全部本当だと信じるすべは無い。この状態が長く続いて、果たして俺の健康状態が健全を保つ保障すらない。ただ、病気で無い事が確実であるだけだろう。確かに、ジュリアから流れ込む物は必要になっている。無くてはもう落ち着かんくらいにな。だが、お前の要望を完全に満たして尚、眠るときに引っ込まないとなれば完全な敵だ。次に引っ込んだら二度と呼ばん。今の内に早く消えてくれなければ」
 目を閉じてジュリアに集中する。何処へ向けるでもなく、奴にだけ向けて意見を主張するが、最後まで言い終えることができず俺の口は止まってしまった。
 紫蒼と俺が呼んだ短い髪の色が、それまでより明らかにはっきりと脳裏に映った。同じく目をつむり、息を整えるように俯いていたジュリアが顔を上げ、見詰める。
「布団に入って。早くしないとそのまま眠ってもらう事になるわよ」
 そう言われても、もう体の自由は余り利かない。倒れこむように先ほど敷いた布団に転がり、やっとの事で引き寄せた掛け布団が体を包む頃には、もう目蓋が上がらなくなっていた。
「どうなってる」
 かすれた声でやっとジュリアに問う。
「いざなう、と言ったでしょう。あなたの持っている私に対する恐怖も分かるけれど、別に持っていてもらって問題が無いから放っておくわ。あなたは今こうして私の思い通り、いや、決して思い通りでは無いけれど、必要な事項はこなしてくれている。それならあなたが私をどう思おうとも知った事では無いから」
 瞳が俺を捉えて放さない。透明な黒が無機質の様で密かに甘い光を、俺に叩き込んで来る。見た事のない瞳だった。眠るどころかジュリアの姿は、彼女が立つ世界は、さらに鮮明に色をはっきりとさせていく。冴えていく。だが、どこかで確かに俺の意識は白濁の一途を辿っていると自覚するのだ。いつもの眠る瞬間が確実に近づいている。
 ジュリアがすっとしゃがみ込んで手招きした。冴え渡る色とは裏腹に、その声は水の中のように鼓膜の揺らし方を鈍らせている。否、俺の脳が既にその振動をはっきりと捉えようとしていない、休息モードへ移行しているのだ。
 意識の白濁は進み、ある一点を過ぎた瞬間、俺の頬を風がなぶった。俺の布団よりふわりとした無数の小さな感触の集まりが体を包む。枕だけが柔らかなぬくもりに変わっていた。脳裏にはもはや何も浮かばず、視界の中にジュリアの美しい姿が有った。草の匂いに満ちた世界で、空は遠く雲は高く、寝転んだ俺の視線の先で、覗き込んだジュリアの紫蒼がなびいた。
「さあ、どうするの。起き上がってみる気が無いのなら、私の足が痺れてしまうから無理矢理、膝枕を引き抜く事になるけれど」
 それは勘弁つかまつりたい。いくら下がふかふかで、顔をうずめてもきっと心地良かろうとも、ゴチッといっては痛いだろう。
「どうしていつも事前に説明ができんのだ、お前は。」
 起き上がりながら、改めてこの場所の景観に圧倒される。立ち上がった時には平衡感覚を見失い、ふわりと押し返す草の感触も相成ってよろめいた。信じられない事にジュリアが支えに入る。確かに、彼女は俺に触れていた。
 こうして、またしても俺の意思を垣間見ず、進入はなされ、紫蒼を揺らす風の匂いと温度を知った。
  


--価値--



 ここにいると、距離の感覚が崩れてしまう。まるで目の前にあるかのような空は、手を伸ばしても決して触れる事はできない。しかし、少しばかり目線を上げて、足元に広がる地面を視界から外せば、一瞬で自分の大きさを忘れてしまう。立っているという意味が希薄になり、足裏に掴んだ地面が、ふっと遠ざかるように感触を弱めた。
 機嫌が善いと言う理由で放り込まれたわけだが、なるほど見れて損な景色では無い。
「ここは何だ」
 四歩ほど離れた場所で背を向けるジュリアニ声をかけた。
「呼んだのは私だから、まあ、話してあげる」
 知る必要などないとお叱りを受けるかと思いきや、珍しく俺が知らないでいい事を話してくれるらしい。
「ただし、あなたの知識レベルに合わせる気はこれっぽっちもないから、理解できなくても知らないわ」
まあ、そうだろう。今までだってそうだった。知識レベルに限らず俺に合わせようと試みているジュリアは見た覚えがない。
「ここは、牢獄よ」
 鉄格子など何処にも見えないが。奴は相変わらず向こうを見たまま、白いワンピースの裾を風に揺らめかせている。
 背中から一発けりでも入れてやりたいな、この機会に。
「あなた達が言うところの、ファンタジー、魔法と剣と勇者と魔物の世界で、私は史上、類を見ない強力な存在だった。ゲームの職業に例えるなら吟遊詩人ね」
「嘘をつくな」
 まあ、ジュリアが今、自分が生きている世界と同じ所で生まれた物だと認めるわけにもいかないが、かといってファンタジーゲームの世界を呆気なく認める事もできまい。
「あなたがどう思い、どう考えようとも事実は曲がらないのよ。否定する努力を止めはしない。頑張ってね」
 思うに、俺の権限と言う物が軽視され過ぎてはいまいか。恐らくその主張にはこのような皮肉も与えられはせず、無視を決め込まれるに違いない。
「まあ、いい。嘘だろうが本当だろうが、ジュリアがそうだとしか言わないのなら、他に情報の得ようがないからな。だが、俺の記憶が正しければ吟遊詩人は、史上類を見ない強力な存在とかにはなりずらい筈だが」
「いいえ。私が作ったストーリーは確実に世界中の人語を理解する者達に、統一国家王族の偉そうな武勇伝よりも大きな影響を与えていた。私は世界を動かそうとも思わなかったし、征服やら平和の維持やら、そんな物には興味がなかった。ただ、ただあなたが感じた、いえ、端っこ程度を拾う事ができたあの、書く事でしか得られない快感の為に生きていたのよ」
 時間の経過はどういった事になっているのか分からない。自分の世界側から覗いていた時のように、雲だけが一刻に従って流れる。
「私は必死で世界を自分の言葉で埋めようと歩き回った。何年もかかったけれど、私の筆名は知れ渡り、物語る内容は進歩を続け、先へ進むに従い創作が与える興奮も拡大した。さらなる高みへ、更なる快感をと、求め続けてたどり着いた答えは、世界の限界だったのよ。
 失望したわ。思えばなぜ、物語を人々に配布する方法が吟遊なの? 貧しくとも文字を知らない者は、私が生きた時代には珍しかった。なのに庶民に対してあまりにも、書物が広まっていなかったのよ。出版物は教科書か、武勇伝を伝える実在した人物の為の、いわゆる伝記にしか使われない。世界にあふれ返っている魔法書は、それこそ庶民の手には無用の長物。書物は一般にとって崇高なもので、吟遊詩人が語る娯楽に使われるべきものではなかったのよ」
 情けないという様な感情が見え隠れする眼差しを、なぜか俺に向ける。
「そんな目で見るな」
「何より問題なのは、日々ヒーローとヒロインは実在の中にあり、新聞や噂話に登る現実に、貧窮する社会や常に不安を持ち掛ける魔物から、心理的に逃避するための十分な魅力があったこと。
 私がいた世界であっても、村を作り街を作る一般人と、魔法使いや勇者の様な人種の数的な比率には圧倒的な差があった。だから彼らは現実であろうと無かろうと、同等のように勇者を捉え、憧れた。現実だからこそより一層その有り得ないと感じられるノンフィクションに、強い感応を見せたのかもしれない。
 とにかく、そうして私の世界は創作された物語に必要とする面白さに、糸目をつけたのよ」
 ジュリアはまた俺に背を向ける。俺という障害物のない空間を視界に欲したのか。邪魔なら呼ぶな。
「世界の風土がフィクションに無関心になった。当然、作家、つまりは私を含む吟遊詩人のレベルは逃れようなく限界が設定される。冗談じゃないわ。世界に必要な面白さの限界を、私の快楽探求に伴う進歩が追い越したときには、異端とみなされたわ」
「なるほど。それで牢獄に放り込まれたと。俺はてっきり王様に殺すよりひどい愚弄を働いたのかと思ったが」
 此処へ来てからジュリアによく無視されるようになった。
「異端として生きるのに何の問題もなかったわ。さげすむなら勝手にしてくれればいい。話をなじられようと知ったことではない。面白くないと石を投げられ、気味が悪いと虐げられても関係ない。面白いといってほしいのではないから。どう抵抗しても一瞬だけ聞こえてくる呻き声があれば、次に物語を作るときには、筆の走りが更なる熱をもつから。けれど我慢できないのは、風土だの常識だの、そんな物が私の進歩を妨げる世界そのものよ。勝手に満足して、勝手に腹の中に飼っている私の欲求まで、勝手に否定して、その否定は何を捻じ曲げても壊せないなんてたまった物じゃない。だから私は禁忌を犯して、貴方達の世界に活動の場所を移したのよ。魔法使いだの魔王だの、『非現実的な物』が完全に非現実であるからこそ、風土が不満を永遠に抱え続け、一瞬たりとも進歩を望まない瞬間が発現し得ない世界に」
 ジュリアが腕を広げる。ぐるりと一周して、空を抱え込もうと指先を伸ばす。
「ここがその代償。ここにいなければ貴方達の世界に繋がれない。一度入ったら出られない。
 つまり、牢獄よ」
「待て、待ってくれ、勝手にそんな場所へ招待するな」
 何ということだ。俺はまだ自分の世界に飽きていない。絶望はしているが、こうも唐突に、こんな理由で死にましたと同意の発表をされてはあまりにも理不尽だ。
「あなたは鍵を持っているでしょう。はじめて繋がった時に言ったはずよ。私の呼び名を決めてくれればキーが設定されると」
 俺は盛大にため息をつく。毎度毎度ジュリアは俺を不安にさせる天才であると深く思う。
「先に言え。何度いったらわかるんだ。先に言ってくれ。驚くだろう。
 しかし、なんだ。ここには何もいないんだな。ジュリアのように寂しそうな素振りもないお人だからこそ、こんなところに意識を放り込める分けでだ」
 俺の言葉にはまだ先があったが、振り向いたジュリアを見て止まらざるを得なかった。思えば何か違和感があった。ジュリアが先ほどまでしていた話、ああいう類を語るとき、ジュリアは何かしらの空気をまとっていたはずだ。あるいは冷たく、あるいは熱く、何にしてもは激烈で極端な光を瞳に宿し、雰囲気に匂いをつけた筈だ。なのに、今までのジュリアは呆気ないほど静かだった。
 ジュリアの音を変えた声が届く。聞いた瞬間、空気の透明度が急増した。
「寂しそうな? その素振りを見せない人間は寂しくないというの? 馬鹿げているわ」
 荒げているわけではない。音量も変わらない。ただ、俺の聴覚を突き通す、強い声だ。
「人間はなぜ生きているか知っている? 動物である限り、その理由は種類の存続に完結される。それ故に同種が周囲に少ない事は優先的に避けるべき物になるのよ。統計的に繁殖の機会が減ることに繋がるから」
 眠りに落とされた時、余りにも唐突で強烈な効果におののいた。ぞっとした時、背筋を上る恐怖に似た、名前を知らない感覚に引っ張られるように一瞬だけ目が泳いだ。ジュリアがこういう光を瞳に宿すときには、どうしても直視することができなかったが、今、俺はその目から目をそらせない。
 吸い込まれるなどという生易しいものではない。喰らいついて放さないのだ。ゆっくりと、ジュリアが俺のほうへ歩む。
「孤独感、寂しさといった感情は人間というからだの仕組みを持った生き物なら、この、周囲に同種がいない状況を極力作らないために、感じるべき状況下で感じない事態など有り得ないようにできている。
 ただ、私は孤独を確かな理由をもって迎え入れただけ。
 連帯感で繋がった仲間と、恋人と、誰であれ人間と共に見上げる空の包み込むような暖かさを私だって知っている。その力を否定しないし、それを追うことを邪魔しない。
 でも、私は決して追いかけない。一人きりで見上げる暮れ行く空を知っている?」
 知らないはずがなかろう。ここ二年ほど、毎日のように見てきた。
「私は、鋭く突き刺してくる、あの美しさに、温もりより、心地良さより刻んでくる冷たさに焦がれたのよ。私という性質が望んだ属性の力は、皆で見上げる温もりの中にはなく、遥か遠方に彼らを置き去りにして、一人で見上げる高さにしかなかった」
 ジュリアが胸倉でもつかむように、俺の手を握る。ただただ、存在を伝える。なるほど、それが本当の理由か。小説にしろ何にしろ、ジュリアは隠すことを得意としない。
「この空を見て。暖かい光に包まれて、夏のくもを湛えている。けれど、私を包み込んではくれない。いつでも飲み込んで、喉の奥に落とし込もうと狙っているのよ。この凶暴な美しさに惚れ込んでしまっている私が、どうして寂しさを否定するような、同種を、人間を求めるような態度をとらなければならないの」
 握った手を、心臓の上にどす、と打ち付ける。柔らかい膨らみの感触に解けそうになる快感中枢は、肋骨の下から殴りつけてきた心拍の衝撃に驚いて姿を隠す。自分の場所を示し、温度を握らせて属性を主張する。この柔らかさの使い方など、ジュリアにとってはただのこけおどしなのだろう。
「私の快楽は性行為なんかにはない。SEXにおける快楽の連続など、所詮は遺伝子が繁殖を推進する誘導に過ぎない。私の意識が感じる快感は、命を落としてなお求める物は、孤独が深まるほどに強く濃くなる」
 きんきんと燃える瞳が、言葉よりも強い伝達を撃つ。
「貴方に、分からないとは言わせない」
 すっと、手を離した。胸元から遠ざかる。俺はその場所を恋しく思えない。こうも自分との繋がりを、これだけ近い場所にいる状況の相手から否定されて、胸が躍った。
 書く時に、ジュリアからなだれ込む物は、これで絶対に強くなる。強くする方法を知ったことに興奮した。
 同類、同類か。単語の意味が強くなる。文章の意味が膨れ上がる。
「悪かった。前にもいっていたな」
 ジュリアの唇が蠢く。右端がくっと、見えないくらいに吊り上った。
「寂しさは、価値よ」
 風は紫蒼になびき、どこを目指すもなくなお旅を続ける。



--開幕--



 アパートの部屋、つまり俺側の世界で目を覚ます。寝た気がまったくしないという説明されていない副作用の中で考える事は、ジュリアの明らかな異変だ。
 そもそも奴の世界に俺を引っ張り込む必要は無い。昨日の会話の流れを見ても、奴が迎え入れた理由というのは曖昧で、弱い。何やら回りくどい理由をつけて聞かせた、俺側に干渉する分けとやらにも矛盾が見受けられる。真実味がない。俺がどの程度ジュリアを理解しているか分からないが、少なくとも世界の風土だの何だのと、そう言った邪魔な存在を消すのに、いちいち別世界にちょっかいを出すまでもなく、自分の文章力と作り出す面白さで叩き潰そうと試みるほうがジュリアらしい。
 そして同時に俺に語る必要もない。これまで奴が徹底的に重視していた必要性の有無が無視されている。布団を片付けて窓を開ける。今日は晴天の様で、朝の日差しは強い。
 寂しそうにない、と言う発言に対しての、俺からジュリアを知ろうとしたり、寂しさを紛らわせようとしたりなど決してするなという命令とも取れるあの主張はまだ分かるが、それより前半の説明的な言葉は何なのだ。あの部分はジュリアが表れてからこっち、奴に関する連続した出来事の見えない流れから外れているように思われる。
 ただ分かるのは、いつも通りジュリアの指示に従い作った味噌汁の味が、明らかにおかしい事だ。
「何だこれは。この辛さは尋常では無い。水なくして食えない味噌汁を作るな」
 向こうを向いたジュリアの背がぴくっと動く。
「そんな日も有るわ。嫌がらせでは無いわよ。ちょっと失敗してしまったの」
 確かに、今日の調理にはいつもと違う手順が含まれていた。しかしながら、これは別に珍しいことでは無い。味噌汁を作るにもジュリアはたまに工夫を入れる。それを入れて、と言われて手にした見慣れない調味料も新しい工夫を思いついた為に入れるのだと思われた。
 昨日からの異変がまだ続いていると思って間違いなかろう。どうやら奴は動揺しているらしい。
「お前に何か予定外の事が起きているな」
 ジュリアがグリッとこっちを向いて睨んで来る。
「何を分けなのわからないことを。小説の進み具合、貴方との距離、その他何をとっても問題となるほどの想定外は起きていないわ」
 いいや。それは嘘だ。やはり俺側に干渉してきた理由も嘘だ。睨みを効かせても泳ごうとする目の動きは見逃さんぞ。何だ、俺は何をした。この部屋意外でジュリアと繋がっている時間は非常に少ない。買い物の時に呼び出すが、必要な物だけささっと指示してすぐに引っ込む。ジュリアは出来るだけ外では回線を閉じるように努力している。そうなると部屋の中での俺の行動がジュリアの動揺を生んだと思われる。
「馬鹿なことを言ってる内に時間が来るわよ。早いところ仕度をしなさい。ああ、それと貴方の書く速度も上がってきたし、そろそろ小説の完成が近いわ。一つ世に送り出さない事にはどうしようもない。そろそろどこか送りつけてやる所を探さないといけないわ。前の時に応募したのは今でもあるのか分からないけれど、有ればそれにすればいい」
 さらに問い詰めようと思ったが、確かに時間がないし奴はもう引っ込んでしまった。俺は仕度を済ませて仕事場へ向かう。思えばジュリアが見せたこの同様から、既に事態は動いていたのだ。

 数日の間奴の動揺は表に出てこなかった。俺と奴の間にある関係の距離も、縮まることなく、遠くなる事もなく、何処までも平衡を保つ。小説を送る先も決まった。ジュリアが選んで買わされた、ビールの下敷きにしたとを奴が怒った本が、名前は変わっていたが、前の時に応募したと言う賞の大賞に選ばれていた。言ったとおりジュリアの小説はすぐに完成をみて、即刻応募する。奴はすぐに次の作品に手をつけるかと思いきや、間を置くといってきた。
「構想を練るのと簡単な取材期間よ。これからは外にも出る事が有るから、その時は言うとおりにしてもらうわ」
 応募した賞の結果が出るまで数ヶ月ある。これで出版されるほどの位置につける保障は何処にあるのか、奴は余裕を見せているが、それに付いて質問すると、駄目なら次のを書くと言うだけで、駄目になる可能性を余り考えていない。大した自身だが、期待もさしてしていないようだ。
 ジュリアが動揺を見せる理由はまだ分からない。時々小説を書く時にも、不意に考え込む事がある。あの夜まではそのような素振りはなかった。やはり、何かしらの理由で、俺側に接触した理由を早急に、俺に対して伝える必要性が出たと思われる。あの理由が嘘であるなら、これから何かしらの形で、俺側に接触した本当の理由を知られる可能性があり、そうなるとまずい場合に、自分の世界に引っ張り込んでまで使用させる必要性が出る。残念だが、ジュリアほど隠し事が苦手な奴が、このうまいこと騙される事には百戦錬磨の俺をそそのかそうとは、土台無理な話だ。いろいろな手口を見てきただけあって、単純な物はすぐに気づいてしまう。
 事が少しばかり動いたのは、いつもの様に食材を求めて立ち寄ったスーパーでの事だ。食材を買い終えて既にジュリアは引っ込んでいた。奴が取材か娯楽ためか、行けと指示した場所意外では、前と変わらず顔を出さない。その日は漫画でも買おうと立ち寄った本屋で、ある物を見つけて俺が呼び出した。
「続きが出ているが」
 その時、確かにジュリアの繭が動いた。平静を装うが、本を手にして開いた時には、やはり表情が違っている。
「いらないのか」
 そう、とだけいって黙ったままの奴に聞いた。
「まだ、殆ど読んでいないでしょう。買ってもどうせビールの下敷きよ」
 確かにそうだ。棚に戻そうとして、ふと気になった。作者の名前もまだ見ていない。一巻を買う時に中身を少しばかり見たが、ジュリアは作者名を見ずにそれを買えと押し付けた。家でも確認していない。題名の下に、亞駆亞とある。普通に読めば、あくあ、なのだろう。ジュリアは棚へ戻そうとした時には既に引っ込んでいた。
 思えばあの夜、ジュリアが動揺を明らかにしたあの日の前日に、確かこの本の一巻を少しだけ開いた。ジュリアもなかを見たはずだ。選んだ時より真剣に、ある程度の量を読み進めた。その時、ジュリアはどうといった風もなくしていたが、今思えば感想の一つもなかった。奴のなかでも必要だとか何だと言わずに、趣味的な感覚でやっているであろう、テレビ番組に対する文句や感想を思えば、本の内容に何も言わないのは少しばかり気になる。
 その日、ジュリアの小説が完成してからこっち、睡眠に入っていた時間を利用して本を読む。ジュリアに感想を求めようと考えていたが、飯を作った時点ですぐに引っ込んだ。これは何時もの事だ。今日は奴の好きなテレビ番組もない。行きたい場所にきちんと行ってやらんとこっちが脅しているために、飯はちゃんと作る。と、俺は思う事にしているが、実際はきちんと行かねば飯を作らんと俺が脅されている。
「まあ、何やかやと巧みに読むのを邪魔されるよりはいい」
 内容はジュリアが書くものとまったく逆の思想に基づいている。奴は周りに誰がいようと関係なく、ともすれば誰もいない事を肯定する観念を全体に出すが、亞駆亞はとにかく仲間意識だの恋愛感情だの、特定の対象に向ける感情を重視していた。どうやらジュリアはこの辺りを見て俺に勧めたようだった。しかし、いくら読んでみても奴を動揺させた物が何かわからない。ただ、異世界が重要な位置を占めていることは気になった。主人公はこの世界から異世界へ逃げ出そうとしている。
 しかしながら確信は得られない。小説を書き終わる時間と同じになった。もう寝ねば明日がきつい。窓にへばりつく虫が多くなってきた。ぶつかって来る音がバチンとなる。電気を切って蒸し暑い夜に付した。壁に足の親指が当たり、砂を擦り落とした。

 発表された結果を、ジュリアは当然の出来事のように受け流す。俺は手に入る賞金のでかさに慄く。 ジュリアが来てからもう大分、月日が流れた。奴は取材期間を一ヶ月ほどで終えて、次の作品を作り出した。今回はかなりの分量になるとの事だ。しかし前よりもゆっくりと進めていく。この数ヶ月に色々と面倒が起こった。まず、ジュリアの作る料理の種類が激増した。実際に作業を進めるのは俺なので、奴の説明どおりこなす事が出来ず、大失敗をすることも珍しくない。これに対して文句を言おうものなら、もう作ってやらないと引っ込んでしまう。これの何処に必要性があるのか分からんが、またテレビの感想と同じように趣味的なものだろうから、そんな事を当てはめる物では無いとか言い、また俺を傷つける事を付属して口走る事が予想されたので指摘しない。
 テレビ番組に関しても大きな問題が起きた。お気に入りの番組が司会タレントの不祥事で廃止になった。この時初めて奴が落ち込んだのを見た。がっくりと膝をついて、なぜか俺の悪口を延々と呟く。その日は小説を既に書き始めていたが、テレビからその情報を得た瞬間に書き止め、三十分ほどげんなりした姿をさらして、俺のテンションを急激に下げた後、一度だけ思いっきり睨んで引っ込んだ。それで終わればよかったが、司会を変えて番組が再開したのは憎むべきことだ。余りにも実力に差のありすぎる為に、ジュリアの番組に対する愛着が馬鹿にされたと踏んだらしい。もう見ていないにもかかわらず、その番組がある日は非常に機嫌が悪くなった。俺へのとばっちりも大きくなる。
 あれ以来一度もジュリアの世界には入っていいない。動揺を見ることもなくなったが、本の続きを買えとの指示もない。一巻は既に読み終えている。ジュリアの知らない所でだが。
「まさか本当にこんな所へ来るとは思わなかったぞ」
 受賞式場の扉を開けながら、小さくジュリアに声を送る。部屋はそれなりに広く、床にシートが敷かれていた。受賞者の数名が既に椅子で待機している。久しぶりの堅苦しい服装に、息が詰まるような感覚が付き纏う。
「どうと言う事は無いわ。昔より大分、大きくなっているけれど」
 ジュリアが前に繋がった作家とやらを介して応募した時には、こうも沢山人はいなかったと言う。何やらどういう関係なのかわからないが、確かに正装した人間がゴチャゴチャと立ち並んでいた。
 受賞者が並ぶ前にスタンドマイクがあり、左の壁際に審査委員らしき数名が、椅子に座っている。
 一人、際立って若い女性がいるほかは、誰もが四十歳以上と思われる。高そうな扇子を仰ぐ物、隣りと談笑するものの中で、俺と同い年か少し大きいくらいの彼女は、ただ、黙って身動きもせずに座っていた。あまり見ているのも変に思われるだろう。さっさと椅子に座って正面を向く。スタンドマイクに照明が反射して変にまぶしい。
「変わったのがいるわ」
 奴も彼女を見つけて俺に言って来る。隣りに別の受賞者がいるので迂闊に声は出せない。
「貴方側の世界では、あの年齢であの格好はかなり珍しい」
 奴もそれが分かっているので、俺の返答を待たない。
 もう一度彼女を見ると、確かに変わっている。夏と言う事もあり薄着だ。だからこそ余計に年頃の女性は、限られた身に付ける布製品に工夫を凝らす。だが、彼女はまったくそんな風でない。見るものに与える印象をまるで無視している。ジュリアのようだ。白が目立つが、それを上手く使っているわけでもない。ロングスカートだが、可愛らしさも綺麗さも感じさせない。仕事着のような雰囲気だった。髪型も、意識していじっては居ないだろう。肩の辺りまで伸びた髪は、少し櫛を通しただけの様だった。
 どうと言う事は無い、まさにジュリアが言ったとおりに授賞式は終わるかに思えた。しかし、部屋を出て解散となったその後に、大きな意味を持った。人のひしめく廊下から何とか抜け出して、休憩用のロビーに出る。自動販売機とソファー、丸机が設置してあった。カップのコーヒーを買って腰掛けようとした時に、例の彼女が現れたのだ。
「はじめまして。ジュリアさんですね」
 俺の筆名はジュリアになっている。ジュリアからそう言った指示はなかったが、他に思いつかないし、何より適切だと考えた。
 普通、こう言った場面では本名を使わないだろうかと考えが着く前に、ドキリとしてしまう。彼女はまるで俺と話しているようになかった。俺の眼でなく、その入り口をこじ開けて無理矢理に引きずり出した物に視線を向けていると感じられた。ジュリアも同様、表情を変える。
「ああ、どうも。この度は」
「先ほど紹介に預かりました、亜駆亞です」
 彼女の瞳の黒がゆらりと波打つ。瞬間、ジュリアの世界で奴に睨まれた時の様に、鮮明に脳裏の世界が光りだす。現実の世界、亜駆亞の姿も鮮明になる。自分の瞳から曇りが取れるように。
ただ、一瞬だけジュリアの世界が闇に消えた。ジュリアの姿だけが、唐突に塗り潰された黒い海に化けてしまった脳裏の世界に浮かび、まばたきの間に元に戻った。
 怒りとも怖れともと取れる表情がジュリアの顔に張り付く。ぎゅうと、その瞳に感情の在りかが集まっていった。
「これから、色々とお世話になると思いますので、宜しく」
 亜駆亜は軽く会釈する。
「確かに、こちらもお世話になるでしょうね。そうなりたくなくても」
 ジュリアが背を向けて、苦々しく言った。
「こちらこそ」
 俺は瞳から逃げるように、頭を下げて床を見下ろす。今は時間がないと、彼女はすぐに廊下の角の向こうへ消えた。ソファーにへたり込んだ時に、ジュリアが引っ込んでいる事に気付く。
 ジュリアを見失ったのは、その時が初めてだった。


--接近--


 部屋に戻るとむっとした空気が包んで来る。とりあえず付けてみたテレビは、やはり面白くない。チャンネルを回すのもだるくて電源を切る。
 俺は少しばかり自分に怖れを感じている。ジュリアの世界が黒に沈んだあの一瞬、あれは確実にジュリアの存在が消える可能性を、小さくも匂わせている。なのに、俺の心は波を打つ事はなく、いたって冷静にその瞬間を受け入れられるとでも言う様に、静かに成り行きを見ている。
 同類。やつの言葉がつくづく俺をなぶる。一般的な神経では、俺のやっている事はかなり馬鹿げている。何の保障もない脳内に居座った奴の書く小説の面白さに、言わばこれからの生活を賭けていると言っていい状況だろう。俺は博打のやり方を知らないし、楽しみ方も知らないが、この考えに至って背を駆ける物がある。ジュリアと共に小説を書いている時の快感に似ていた。違いは何処に有るか分からない。
 とりあえず、博打は一瞬の勝ちを収めている。手元に賞金が入った。これから向かわねばならないバイトも、今日は少し気を楽にしてできるだろう。
 ジュリアを呼び出す必要は無い。時間まで休んでから家を出よう。
「完璧に飲めんな」
 机の上に放り出したままのペットボトルのお茶があった。喉はかなり渇いている。手にとって見ると嫌な温もりを伝えて来る。流しに捨てた。冷蔵庫の中には牛乳がある。昨日、ジュリアが買わせたが、この部屋に来てからはじめて牛乳が冷蔵庫で冷やされている。奇妙な光景だった。嫌いでは無いが、買って飲むことは無い。飲む事に抵抗は無いが、いざ選ぶ時には後口に残る微妙な粘っこさばかり頭に浮かび、結局お茶や水を買い物篭に放っていた。
「ふっ」
 その隣りにあるイチゴに手を伸ばす。コップに二、三個放り込み、牛乳を注ぐ。スプーンで無残な姿になるまでイチゴを潰す。久しぶりに見たその残酷な光景。家族が生きていたころ、父親が好きでよくこれを作っていた。言うまでもなく美味い。少し飲んではまた潰す。コップにスプーンの腹で擦りつけると、小さな種の感触が伝わって心地良い。半分ほど減ったころには、牛乳は元の白をなくし、不気味なピンク色にぬめっている。実を言えばここからが美味い。
 久しぶりの味に満足した後、相変わらず空のビールの缶の下敷きになっている亜駆亜の本を少し読むと、バイトの時間がきてしまった。

 バイトの数は減らさないのかと言う申し出に、俺は一つなら良かろうと首を立てに振った。今日もいつもの時間に帰宅した俺だが、これから本格的に作家でやっていく体制が出来ただろうと叱られた。今の生活では、さすがに机へ向かう時間が少なすぎる。
「またしばらく、外に出るのは止めにするわ」
 ジュリアは小説を書き出す前に言う。
「特に、亜駆亜と接触する可能性が高い場所では、なるべく繋がっていることを避けなければならない」
 やはり何か有るらしい。ブラックアウトは消滅の前兆だろうと聞いたら、苦い顔で応えた。
「前兆と言えるほど障害は出ていないけれど、それは間違いでは無いわ。私と貴方は思念での会話なんて出来ないけれど、この回線の仕組みは私の思念に頼っていると言っていいわ。そうすると、何らかの媒体を介してこれを否定する属性をもった思念を打ち込まれると、システムが崩壊する可能性が有るわ。まったく、冗談じゃないわね、貴方にアクセスが成功するまでどれだけ苦労したと思っているの。あの亜駆亜の眼光はかなりやばい類にある」
 ジュリアは珍しく膝を抱いて座っている。
「で、彼女はなぜにお前の思念を否定するんだ。何かしたのか」
 俺は亜駆亜の小説を手にとる。ジュリアは乱暴に置いておけと命令をくだす。
「知らないわよ、何を言い出すかと思えば。したとすれば貴方でしょう」
 また勝手な事を言う。そこでなぜ俺が彼女に対してした事が関係して来るんだ。
「俺に対する否定では、お前との回線に傷はつかんだろう。大体が、なぜ婦女子から恨まれる様な事をせねばならん」
 亜駆亜は俺に向かって話しているように思えなかった。そして、ジュリアとの回線に何らかの影響を与えるほど、ジュリアを否定しているとなれば、彼女がこの困った居候を知っている可能性が極めて強い。一体どういう経路でそんな状況が生まれる。
「お前は以前から亜駆亜という人間を知っていたのか」
 ジュリアに聞いてみるが、そっぽを向いて馬鹿にされた。
「貴方は馬鹿よ。私は元々そっち側の人間じゃないと言ったでしょう。前にアクセスした時にあっている人間はあんなに若い筈がないし」
 まあ、それはそうだろう。ならば、亜駆亜がジュリアの存在を知っている場合、恐らくジュリアも分かっていない経路を辿ってその情報が彼女にたどり着いた事になる。
「どうでもいい。いたってどうでも良いわ。今知っておいて貰わなければならないのは、亜駆亜と合うなら呼び出すなということだけよ。繋がってない時ならば、どんなに見詰め合ってもらっても結構よ。さあ、小説の続きを書きなさい」
 はっきり言って彼女と見詰め合うのは苦痛だろう。勘弁してもらいたい。こう何人も何人もジュリア並の眼光を向けられてはたまらない。あれは体力を消耗する。
「嫌な事を言うな。お前もあんまり睨むな」
 今日もジュリアの声は澄んでいた。文字の上を走っていく。それに乗って快感がなだれ込んだ。

 翌日の買出しで大きな問題が発生する。それを見た途端にジュリアの眼が嫌な曇りを帯びる。かなり不機嫌なご様子だが、どうやら避けて通れない関門のようだ。行きつけのスーパー、食料品売り場で亜駆亜と遭遇、彼女はこっちへ直進している。相変わらず地味すぎて逆に目立つ。商品はまったく見ていない。
「どうも」
「こんばんは」
 無表情な声で無表情のまま挨拶を交わす。なぜこんな所に、と言う驚きのような物をまったく混ぜない。
「驚かない……」
 小さく呟く彼女だが、実を言うと君の態度にも確答する疑問だ。もしや、行きつけだと言う事を知った上で待ち伏せていたのか。
「偶然です」
 そう言う設定ですとでも言う様に彼女が言う。しかし真意は掴めない。本当に偶然である可能性も。
「どっか行ったら呼び出して」
 かなり危険な目つきだったジュリアが勝手に引っ込む。困った。どう追い払えばいいのか。
「此処へはよく?」
 俺の質問に何だかなぁとでも言いたげな眼を向ける。情報を寄越せという響きが強かったか。残念だが、君のような人間と感情を織り交ぜた話をしても痛い目を見るだけであると、毎日の様に勉強している。
「いいえ。今日始めてきました」
 待ち伏せの可能性が高くなった。
「一昨日、近くに引っ越してきまして」
 偶然と五分に戻る。ふと、すぐ横にニンジンがある事に気付く。ジュリアの話しではカレーを作るといっていたのでニンジンが必要になる。それを掴むと亜駆亜が身構えた。
「どうしました」
 何でも有りません、と言って額に手をやる。何か思慮して俺を見た。
「ニンジンを食べるんですか」
 何と言う質問だ。別に良かろう、何を食おうとも。機械のようにそんな事を聞かれては少し怖い。
「おそらく」
 彼女はまた額に手をやって、今度はしまったと言うような表情を作る。何だというのだ、一体。ニンジンを食う人間を軽蔑しているのだろうか。俺の表情を見てか、亜駆亜は苦笑いを浮かべる。
「いえ、いいんです。ジュリアさんこそこの店へはよく来られるのですか」
 ふむ、それに付いてだが、これからは少し考えねばなるまい。どうやらこの近くに彼女が引っ越してきたらしい。此処は他の店と比べて安い。品質も悪くない。規模は小さいが客は多い。やはり彼女も常連になるだろう。
「よく来ます」
「そうですか」
 これからはそうも言っていられないだろう。無駄を減らすためにジュリアの指示をリアルタイムで仰ぎ、買出しをしている。書き置きでは何かとわからない事もある。もう一本ニンジンを取る。やはり彼女は緊張した。それに付いて聞こうと思ったが、自分の買い物を済ませると言って逃げてしまった。どうやら彼女を追い払う方法は見つかったようだ。それにしてもなんと淡白な会話だったか。
 ジュリアを呼び出す。
「帰ったの?」
「どこかで自分の買い物をしている」
 とても不機嫌だ。困ったものである。
「さっさと済ませるわよ」
 言葉どおりに手早く買う物を指示し、さっさと消えてしまった。どうやらこれは、生活がかなり面倒になりそうだ。  
2005-07-31 17:35:19公開 / 作者:戮煦
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■作者からのメッセージ
久しぶりなのに、かなり短い更新になってしまいました。感想、批判等お待ちしております。よろしくお願いします。
この作品に対する感想 - 昇順
[簡易感想]しんみりしました。良かったです。
2013-08-28 04:14:45【☆☆☆☆☆】Guayubin
計:0点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。