『干ししいたけ』作者:AI / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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原稿用紙約11枚
むしむしと体に湿度がまと割り付いてくる夜で、私はいつもよりも酔っ払っていた。パブでダックジャニエルのロックを何杯かと、その後のバーでも、最近はまっていたイエローというシャンパンをがぶがぶ飲んだ。オーストラリアに来てからというもの、平日でも酒を浴びるほど飲むという素敵な習慣が身についてた。今日は五十ドル持っていたはずなのに、気がつけば財布の中には二ドル五十セントしか入っていなかった。

バーからの帰り道、私は自分の斜め前を、ふらつきながら千鳥足で歩道を歩く友達に車のキーを投げ、ふと間に止まったATMで金を下ろすことにした。その時だ、牛乳が腐敗したような匂いが鼻を突いた。私は息を止めた。
「ちっ、あのじじいか」
できるだけ早く作業をこなし、ATMから離れたかった。この匂いに心当たりがある。いつも自転車の両ハンドルと、かご一杯にビニール袋に入った腐った重そうな物質を力いっぱいぶら下げてうろつくあの、近所のホームレスの爺だと思った。ここいらでも有名で、悪臭を振りまきすぎるため何度なく警察が出動している。私も被害者の一人だ。私のアパートの階段に住み着き、今でも匂いが取れないので階段には絶え間なく置かれている芳香剤。これで三つ目だ。

私はそそくさと財布におろした二百ドルをしまいながら振り返った。なんと、そこには老婆がいた。五十センチと離れていない。予想外の事実に驚愕だ。どうしてこんなところにおばあちゃんが。そして、匂いの原因はそのよぼよぼのおばあちゃんだった。臭い。何ヶ月も洗っていないと思われるほころびて色も形も不明な布を体にまとわりつけ、全身全霊でものすごい異臭を放っている。その老婆に私は思わずのけぞりそうになりなった。それでも他国で日本人のモラルが問われてはと、
「エクスキューズミー」
とできるだけさわやかに、若者らしくささやきながらその場を立ち去ろうとした。その瞬間だ、その婆は私の右腕を掴んだ。
「ぅおうぅっ」
とっさに掴まれ私は震え上がった。誰だって驚くだろう。当たり前だ。そして気がついた。大変最悪なとこに私は今日、ノースリーブを着ている。彼女の手が私に直接触れている。いくら酔っ払っているとはいえそれはさすがにいただけない。乾燥しきった干ししいたけのような手が私の腕を捕らえて離さないのだ。怖い。私、怖いです。気持ちが悪いです。泣きそうです。せっかく五十ドルもした酔いが冷めてしまうじゃない。私はがちがちに震えている。
「なんなのよ…なんで私掴まれてるのよ」
うまくしゃべることができず、私は聞こえないようなか細い声を出した。それでもしばらく私の手を離さない老婆。金が欲しいのだろうか。あげます、あげます。今、二百ドルおろしたところですから。とりあえず離してください、その手を。私は恐怖のあまりに何も言葉が出てこない上、全身は硬直している。そして老婆の意図していることが全くわからない。それでも私は必死だ。そしてなぜだか解らないけど、老婆も必死だということが感じられる。なぜだろう。

「ぅうおおおうっ っうぅっ うぅっ」
「へ?」
老婆は突然嗚咽を漏らした。泣いてるの?おばあちゃん泣いているんですか? 泣きたいのは私ですよぉ。恐怖が絶頂に達した。このまま私はどうなってしまうのだろう。恐怖のため私の頭の中は麻痺し、全てがどうでも良くなってきた。そして、ぶちんと音を立て、私の緊張の糸は途切れた。きっと五十ドルも払った甲斐があったのだろう。酒の力に助けられながら私は落ち着き始めた。いやそうではない、投げ出し始めたのだろう、自分が今この場にいると言う事実を。それでもなぜ、この人は泣いているのだろう。
「おばあちゃん、どうしたの?」
私はなるべく優しく聞こえるだろう声を出そうと試みた。それでも内心かなり震え上がっている。泣くにしろなんにしろ、この手だけは離してほしい。それなのに婆は、私の声に感化され右腕をこれでもかと言うくらい掴んだ手に更に力を込め、そのまましゃくりあげ始めた。
「おばあちゃん、だからどうしたの?」
こんな夜中に道端のATMの前でアジア人の腕をつかむ老婆なんて正気ではない。そしてそんな老婆に腕を掴まれている私だって正気ではない。助けを呼ぼうにも、友人はすでにちゃっかりと車の助手席に乗り込み、私の到着を居眠りでもしながら待っていることだろう。安易に予想がついた。

私の問いかけに答えることなく泣き叫び始める老婆。誰か、通りがかってくれ。しかし非常に残念ながらその日は平日で、深夜二時をまわっているため、いくら酒好きなオーストラリア人でもどうやら出歩いたりはしないらしい。おばあちゃん、私、何か悪いことしましたか? いえ、してませんよ。何もしてませんよ、あなたには。
「おばあちゃん、とにかく腕を離してくれない?」
私は再び諭し始めた。
「ぅおおうおうおう。 ひっく、 っひっく」
無視。
「ひっく、 うぉうおう」
加えて無言。言葉を失う私。泣き続ける老婆。話が前に進まず、私はかつてないほど困惑していた。混沌としている。もはや私の許容範囲を遥かに超えてしまっている。酔いだけに頼りきれないところまできている。私は冷静にならねば、と老婆にもらい泣きしそうになる自分に耐え、力の限り思考した。まず、まず、老婆の顔を見よう。彼女のことをもしかしたら知っているのかもしれない。私は彼女の顔を覗き込んだ。
「うん、やっぱり知らない」
予想通りだ。それでももう一度だけ覗き込んだ。その時だ。あれ、もしかして、と言うことが脳裏に浮かんだ。このおばあちゃんもしかして、そう思い顔をまじまじと凝視した。きっとあの人だ。そう直感した。

大学へ通う途中の道に、大きな現代的なデザインのホテルがある。私が今暮らしている町の中で、一番大きくて立派な建物だ。そのホテルの横には、ホテルの敷地の三分の一程の大きさの駐車場がある。車はいつも数台しか止っていない、そのホテルには大きすぎるぐらいの海に面した駐車場。私はいつも車の窓越しに、横目でその駐車場を見ながら通り過ぎる。その駐車場には一人、人間が住んでいる。もちろん、車の中にではない。地に足をつけ、頭を地につけて寝暮らしている。その人の人生が狂ってしまったのだろうということは、地元の人々を始め、私達よそ者にも察しがついていた。誰も何も言わなかった。私が知っている限り、その人はすでに三年以上そこから離れていない。

そして、その駐車場の住人は今、私の目の前で私の腕を掴みながら狂ったように泣いている。もうこの先長くなさそうに見える老婆は、生まれて間もない子供のようになんの恥じらいもなくわんわん泣いている。私はそのおばあちゃんを哀れみと驚きのこもった目で見た。
「おばあちゃん……」
彼女は昔、この国ではかなり名の知れたピアニストだったらしい、ということを風の噂で聞いたことがある。しかし、彼女は息子が自殺してしまったことから気が病まれたと言うことだ。本当かどうかは定かではない。まあ、よくある話だ、気の毒だとは思う。しかし、彼女だってわざわざ駐車場で暮らさなくともほかに住める場所ならたくさんある。ここは第三世界ではない。むしろホームレスが毎日酒を飲んで暮らせるほど、社会福祉が十分すぎるぐらいに発達している国だ。どちらかと言えば、そんなところで寝起きされてしまったらホテルの人だって迷惑だろう。もっと良く考えてほしい。第一、危ないではないか。まさか初めてそこに来た人は、人が住んでいるとは思わないだろう。私は思わなかった。そのため、私は異国の地で危うく第二級の犯罪を犯してしまうところだった。

 夜だった。駐車場は真っ暗で、私は海の一番近くに車を停めようとしていた。その時、私は人を一人ひき殺してしまうところだった。いくら若いとはいえ、殺人はまずい。
「ねえ、ちょっとなんかいるよ」
「とめて、とめてぇ」
隣に乗っていた友人は叫んだ。私は勢いよくブレーキを踏み、車はエンスト共に止った。よくよく目を凝らして見ると人が白線に区切られた一角の中で寝転んでいた。予想外にも程がある。なんとか事件には至らなかったものの、その後しばらく震えが止まらなかった。なんて危ないんだ、私は一言物申してやろうと威勢良く車から飛び出した。助手席の彼女も参戦して来た。そばまで寄るとあの、うっと、嘔吐を覚える色々なものが化合しあって酸化しいる匂いがした。その当の駐車場の住人はぴくりともしていない。
「大丈夫ですか?」
一言目から弱気な私。やっぱり私はノーと言えない日本人代表だ。
「ちょっと、危ないじゃない何やってんのよ、死にたいの?」
頼りになりそうで感心しますなあと羨望の眼差しを彼女に向けていると、横になっていた住人はいきなりむっくりと起き上がった。相手側の急な臨戦的態度に、今まで強気だった友人もさすがに怯んだ。
「なによ?」
しかし、尚も強気な彼女にその駐車場の住人は生気なく
「ひいてくれたらよかったのに」
と、消えてしまいそうにつぶやいた。闇の中だっただけに顔ははっきり見えなかったが、その言葉に嘘はなさそうだった。

その夜はいつもよりぼやけた星が遠くに見え、海か空かわからないほど闇が深かった。

胸がきりきりした。心臓がちぎれる程、左右に引っ張られた気がした。さっきまでの私達の興奮は、その重すぎる言葉により沈黙へと変わった。もう、これ以上何も言えなかった。私達は、夜の海を見ながら飲もうと用意していたビールと赤ワインを開けることなく、無言のままそこを去ろうとしていた。せっかくの夜なのに、酒を飲みたいと思えるような空気ではないことは明確だ。
「はい、これあげる」
私はそう言ってその住人に持っていた六本入りのビールと赤ワインを一本差し出した。私は自分でもわかりきっている。同情だった。住人の表情ははっきりと読み取れなかったけれど、その場の雰囲気と同様、混沌していただろう。そしてそのままギアをリバースに入れ、私達は駐車場を後にした。その時は、そうした方がいいと思ったような気がする。十八歳だった。

あれからもう、三年も経っているのだ。

こんな形で再会するなんて夢にも思っていなかった。大体、そんなこと相手側も覚えているとは到底想像できなかった。私は酔いがまわっているのか、こらえ切れずこみ上げてくるものを感じた。喉が熱く、こめかみが痛い。人間について、ますます解らなくなる。おばあちゃんが必死に私の右腕を掴んでいる手に、自分の左手を重ねてみた。その手はやはり干ししいたけのようだった。
2005-06-07 20:37:33公開 / 作者:AI
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■作者からのメッセージ
かなり前に書いてみたものなのですが、手を加えて作品にして見ました。よろしかったらどんな感想でもかまいませんのでいただけると嬉しいです。

読んでくださった方々、ありがとうございます。
この作品に対する感想 - 昇順
羽堕です(o*。_。)o読ませて頂きました♪ふーむ、切ないというかやり切れない気持ちになりました(ノ◇≦。) 最後が、イマイチぼやけているのは狙いなのかな?とも思いつつ、お婆さんにビシと閉めて欲しかった気もしました(^-^;他の国を舞台にした作品のリアルさのような物を私は感じれたように思います(>o<")細かい所ですが「間に止まった」=「目に留まった」かな?では次回作、期待しています(。・_・。)ノ
2005-06-07 22:08:53【☆☆☆☆☆】羽堕
拝読しました。はて……文章自体はおかしくないんですけれど、構成というか流れというか、それが慌しい様に感じました。悪く言うとちぐはぐですかね。前半の間に対して後半が短かったと言うのも要因の一部だと思われます。今回はあまり切なさは感じなかったなぁ、最近作品を読み過ぎているのか。いや、まだ足りないな。戯言は置いておいて。失礼な事を語りました、申し訳御座いません。この長さなら文の改行を詰め過ぎないようにするのも一つの手かな、あまり役に立たないアドバイスですが。次回作期待しております。
2005-06-07 22:32:13【☆☆☆☆☆】京雅
作品読ませていただきました。深い悲哀があるのは分かるのですが、ラストが弱くいまひとつ読後の印象がぼやけていた感じがします。でも、現実にこんなことがあればこの程度のことしかないだろうし、ある意味凄くリアルなのかとも思っています。できれば主人公の感情をもっと強く書いた方が良かったのかなぁ……曖昧な感想で済みません。では、次回作品を期待しています。
2005-06-08 07:40:26【☆☆☆☆☆】甘木
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