『倅芭』作者:松家 / t@^W[ - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角39529文字
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          一

 櫑延山は天山の異名をとる。蜃国西方に連なる山脈の、その中でもひときわ蹶然と屹つ峻峰であった。尋常の紫雲が山容を隠し、故に、雲際に鳳凰の往還するという。
 いまだ尾上を極めた人はない。
 山嶺の大気は一所に留まらず、昇っては、遥か頂に雲海を生む。白浪の溢れて、潮頭は砕け散り遍く地に潤いをもたらす。湿りを含んだ空気はやがて、坤輿の隆起に導かれて再びの流れを成す。
 対流は風を呼びおこした。ためらうことなく山の端を駆け、時に突風となって稜線を貫く。風はわずかに春の一時を除いて吹き止むことをしらず、染み入って陰鬱な嗚咽を漏らしては時を経て巌を抉り、山肌をより嶮岨なものとした。
 だから、人は昇れない。頂はおろか、膝下も許しはしなかった。いかなる者にも山は堅く門扉を閉ざした。
 然して、旱の年には雨を求めて峰に祈り、豊穣の年には頂に向かい、人はこうべを垂れた。
 畢竟、願いは自然に帰し、恩恵は自然に注がれる。
 それを摂理とするなら、この国に皇を称す者が芽生えたときでさえ、その理に従ったであろう。はたして、国は興こされ、御して後も雲上遥か天を極めんと欲することはなかった。
 ――天神、朕を扶け賜れば、天下を得む。風雲、之、加被に非ずば、浪の如し。以て下濁れども、如何とぞ浄きに逆はむ也――
 そうして、国は統べられた。
 天山を目指すは無謀であった。まして、そこに棲まう者などあろうはずもなかったのだが。

 ――岩肌が翳った。
 上空に、朧な陽を横切る黒影があった。
 突如として出でた影は一路峰に近づく。
 尋常の速さではない。
 風を嗅ぎわけたものか、山際の気流に乗ると急転して天空に駆け昇った。薄紫の雲海を突き破り、蒼穹に長く残香のような尾を靡かせて再び一点の滲みとなった。
 暫し旋回した後、黒点は滑翔に移った。峰の広さに比して粒ほどの閑地を目指し弧を描いた。
 折から流れはじめた霧を翼が斬り裂く。一瞬にして分断された白い粒子の帯は、しかし、再び柔軟に丸まって元の流れに包まれた。霧に飲み込まれてなお翼は力を失わず、それ以上に強く先端を反らせた。
 深淵が微かに揺らぎ緻密な結晶を縫って翠緑の鱗を捉えると、翼は一度きり大袈裟に羽撃いた。途端に速度が落ちる。遅れて短く生えた下草が揺れ、影はするりと地面に舞い降りた。
 焦躁を知らぬ霞が地を覆っている。光の帯に撫でられると、それが呼び水となって円熟した叢生の吐息が艶めいた。それぞれの呼吸が無秩序に、それでいて互いに感応して地表を蒸す。苔さえもが、そのあどけない身体をひらいている。青い臭気に混じって甘美な滴りを続けるのは在るはずのない橘の木々だ。物欲しげに幹をくねらせ樹液を分泌させる。蟲が根元に群がった。気配に飛び去った小動物は物陰で耳を立てる。たとえ、それが主だと判っても臆して警戒を怠らない。
 それは、すべての中心だった。
 靄の薄らぐにつれて、その全姿が現れる。
 大地をつかむは鋭利な爪。研ぎ澄まされた爪を得た脚は全部で四つ。もとより贅肉はそがれ、張りつめた筋肉が腱にそって伸びる。その上に四肢をむすぶ胴体。これもまた見事なまでに発達した雄偉な筋肉の塊であった。隆々とした胸から、腹部にいたっては極端に狭まり、太い腿を支う臀部へとつながる。全身は黄金色の毛で覆われ一部に縞のような文様が窺える。
 こうべも同色の繊毛が取り巻く。やや広めの頭頂部。そこから斜めに下降すると、四角張って吊り上がった両の目には銀色の瞳が半月の形で収まる。突き出た鼻先。頤は尖り、大きく裂けた口には牙が揃う。
 容貌は極めて魁偉である。獅子か、虎か、少なくとも獣に違いはなかったが、体躯はそれらよりもはるかに巨大だった。さらに、獣の異形を示すもっとも奇怪なるものは、その肩口から生えた翼であった。身体の何倍もあろうかという大きさは、あまりにも不釣り合いで不格好にさえ見える。無数の羽根で埋め尽くされたそれは、対を成して大仰に天を指す。
 胴がわずかに蠢いて、首より先が緩やかに垂れた。
 翼の先端が震い、根元からしなやかに振り降ろされる。両翼は地表間近のところで器用に折り畳まれ、胴の真横に吸い寄せられる。同時に胴体ほどもある長い尾も、力が抜けるように垂れた。――と、
 それまで翼で遮られていた獣の背に動くものがあった。それはゆっくりと獣の肩口まで移動し、翼の付け根を蹴って地面に飛び降りた。
 その姿は形のうえでは人であった。それも、いたって小さな。
 地に降り立ったその者は両腕を挙げて全身を伸ばした。それから比べてしまえば見上げるほどの獣の前脚を、ぽん、ぽん、と二度ほど叩く。何ら臆することのない態度は従順な飼い犬を操るようなものであった。
 それが合図のように、獣は四肢を折って身を伏せた。緩やかに這ってぺたりと伸ばした首を、その者が撫ぜる。
 獣の喉が低く鳴った。
 呼気を聞いて、さらに二度、三度と摩り、柔らかな笑みを見せた。この場にはとうてい相応しくないあまりに幼い笑顔だった。
「疲れたの? 饕餮。おまえらしくもない」
 発せられた声もまた、幼い。その声に反応して再び獣の喉が鳴る。
「そう……」
 独り言のようだが、明らかに意思の交わりがあった。証拠に獣の目が声に合わせて瞬きを繰り返す。
「じゃあ、少しだけ、ここに居よう」
 獣が短く唸って、それから安心したようにゆっくりと瞼を閉じた。

 ――羽化登仙。天山たりとて一籌を輸する。否、既にその掌中に収められたのか。
 一人の孩児と一頭の獣は、そうして暫しの間戯れていた。
 誰も知る由のない天山の一角で。
 あたかも、それが自然であるかのように。

          二

 万丈の連峰から遥かに東へ。
 沃野に散在する山塊のひとつに翠巒の名所がある。樹々は深く、山峡の水は清い。満山の樹木は季節に彩りを添え、川瀬は岩根に撓められて随所に白滝をつくった。
 大台ヶ原と云うが、古くから、えしな、の地名が残り、転じて吉野と称した。
 外山の中腹、谷懐で川は屈曲し流れを緩める。この辺りで幾らか水嵩も増し、川面もなだらかになって膝下の丘陵に向う。
 丘陵との鞍部には小ぢんまりとした河原があった。あまり人は気づかない。対岸が懸崖になっていて、目隠しの役割を果たした。
 岸辺に釣り糸を垂れる人影があった。朝からもう長い間、座り込んだまま身じろぎもしない。ただ時折、思い出したように竿先をすくい上げるだけだった。
 齢は定かではないが、相貌に刻まれた皺が、自ずと寄る年波を語っている。
 その背後の梅林から、小径を縫ってもう一人、男が現れた。こちらは若い。比べるまでもなく、細面の肌には張りがあった。
 男は釣人の数歩手前まで歩み寄って立ち止まる。
「釣果のほどはいかがですか、司空」
 声をかけられて、老人はゆったりとした動作で真白な鬚髯を撫でた。
「釣れる釣れないに、如何ほどの意味がありましょう。こうして川面を見つめ、暫し安んずる、その所業こそが老耄には大事なのです。そもそも、この川、釣るに適う佳肴はおりますまい? ――のお、総己」
 総己と呼ばれた男は眦を下げて笑む。
「総己……ですか。なにや、不可思議な響きですね」
 男の名は海武。老人の方は慮笙。共に数年前までは蜃国朝廷の重臣であった。

 先帝は稀代の名君と謳われた。諱を智兄と云い、その名のとおり学問に秀で、理を知り、加えて武術に長けた。街中には耳目となる人をおき、声望の高まりをもって様々な改変も親政にて構えた。倒れかけた財政は、その立て直しのため、各戸ごとの籍をまとめて富の偏在をなくし、瘠土を知っては、それに応じて領地を割譲し、あるいは労役とした。さらには、宮中諸官から夫役の衆に至るまで節制を心掛けさせ、徹底して約定を交わした。
 しかし、あまりの切り詰めもこと国軍に及ぶと、五府上級官吏の間から諫めの声が上がった。国を護るべき役所の質を落としては国益にかなわない、というのが彼らの云い分だった。皇も、これには折れた。これを機に、憑き物が落ちたように精力が衰え、官の上奏にもきわめて等閑になった。端目にも心無く、寵愛する采女のもとに入り浸るようになっては、もはや政を顧みることはなかった。
 その窮状に司空慮笙は、皇太弟で時の御史大夫、海武に政を摂るよう申し出た。謹厳な慮笙の説得に、聞き入れた海武が皇のもとに出向くと、後宮の池に花船を浮かべて寝転ぶ帝の返事は、おまえに任せる、と一言であった。
 ここに帝紀上、二人目の令外官が誕生したのである。総己百官職、すなわち、皇と等しい権を有した。

「総己は――」
 慮笙は少しだけ首を傾け、海武の表情を窺った。
「総己と呼ばれることが疎ましいのですかな」
 二人が官職の名で呼びあうのに意図はない。名残でありもするし、これ以外の呼称はどことなく馴染まなかった。
「いえ、そのようなことはありません」
 海武は細い口許をわずかに緩める。
「遠ざかると、忘れることも多いものです」
「――都が、懐かしいと」
「それは、少し違うような気がする」
「では、政が気掛かりですかな」
「主上は、善くなさっていると思います。両河の治水は滞りなく、このところは豊作が続いている。お陰で民は皆、無事に春を迎えられる」
 云いながら海武は欺瞞だと思う。氾濫の絶えない渭水は例外としても、二つの大河は潤沢で灌漑には文句のつけようもない。だが、それが皇の力でないことは周知の事実である。あまつさえ、このところ出挙と呼ばれる稲の貸し付けが激しい。秋になれば利子をつけて返済を迫られるのだ。強制ではなかったが、それに近いものが行われている。彼らのいる舒州でさえこの有り様なのだから、収益の薄い辺境の州や県ではさらなる苛政と推すべきであろう。必要以上の国庫の蓄えが専行されているように思うのだ。
 ――事実、そのことでこの場に来たのではないか。真意を測るために。
「艮の方角が、少々きな臭くなってきておりますな」
 川面を見つめながら慮笙が云う。
 蜃、すなわち舒州のほぼ中央に、この国の都はある。その南西には淡海と呼ばれる茫洋たる湖が広がり、河川が一筋、皇都を掠めて渭水に注いでいる。舒州の北部を流れる渭水は、下って滌州に入るとそこから蛇行を繰り返して河口をむかえる。いま二人が見つめるこの川は、だから、淡海で一旦流れを失う。そうして、対岸の都から再び流れ出せば、渭水の流れに乗って滌州に達することになる。――滌州、旧称を紫恭。いずれ良くない噂の絶えない地であった。
 海武は川下のさらに先に視線を転じた。
 空は高い。雨水を一候ほど過ぎ、間もなく渭水が満ちれば仲春の訪れである。
 海武は短く息を吐いた。慮笙にかかっては己の細かしい考えなど、途端に見透かされてしまう。
「ええ、確かに。朝廷の取り持ちが、なにやら蠢動をはじめたようです」
「……その程度で済むならよいが」
 海武は軽く眉をひそめ、同時に自嘲めいた笑みを浮かべる。
「――お教えください」
 慮笙は海武をちらりと見やる。
「皇に取り入った臣の中に紫恭の国人がおりまして――名は、允螺と申したか。かなりの野心家であったと記憶するが」
「よくご存じで」
「総己も知っておられたでしょう」
 海武は頷く。
「しかし、わたしの執務のうちは悪計を抱く者とも思えなかったが」
 慮笙はゆっくりと首を振り、
「奸雄は五万とおります。こと、総己退官の後には機会を窺っていた賊人どもが揃って暗躍したことでしょう。――あれから、四年と三月。彼らも自然と淘汰され、残った真の蛇蝎が冬眠を終え、いよいよ表に出てきた、といったところでしょうな」
「滌州令は大蛇に化けましたか」
「大蛇であるかどうかは……ただ、幼帝を捲くだけのとぐろを持つ者であることは確かでしょう」

 蜃宮に総己百官職が立って、暫し国政は安定した。
 しかし、宿痾に身を窶した皇が己の死期を悟ると、寵姫との間にもうけた長子に皇位を譲ると云い出した。中老にようやく授かった子を可愛がるのも無理からぬことだが、すでに衆口一致して海武の皇即位を唱えていただけに、宮人の間でもあからさまに苦言を呈す者が現れ朝廷はにわかに騒がしくなった。
 周囲の混乱をよそに就褥の智兄は、皇嗣は唯一人と、うわ言のように呟きながら三月の後にあえなく崩じた。
 その中陰、殯に移って間もなく、官僚は紛糾し、士大夫たちもそれに倣った。すなわち、皇嗣弘友の即位を支持するか否かである。慣例に従えば践祚は当然の流れであった。しかし、それにはあまりにも皇子は幼かった。数え七。まだ、ようやく物心がつきはじめたばかりである。もっとも、支持すると表明した者の大多数は、海武の令外官を継続させよ、との条件付ではあったのだが。
 法務官はあまりに不遜と突っ撥ね判断を留保したが、官僚の歪みは、もはや時間の問題であった。いずれ喪が明ければ選択を迫られるに変わりはない。
 はじめは、おとなしく成り行きを見守っていた地方の国人も、そわそわと互いに牽制し合いながら、その出方を窺った。
 もっとも機敏な反応を見せたのは閃州の州侯であった。追善と称して自国の官吏を都に遣わし、春宮坊に探りを入れたのだ。これは通常のことではない。服喪であっても皇の等親でなければ謹慎に留まるのが習いだ。閃州令は外戚ではあったが、その系列は遠い。あくまで分を越した行為であった。
 一が動けば他も動き出す。後から後から泡立つように、州侯、県令はおろか騒動に遅れてならじと里長までもがこぞって調べに躍起となった。
 待つまでもなく大勢は二分された。近しい者同士が寄り集まって縁者の居る国府を頼り、また、ある者は国宰に媚びて派閥を形成した。ここにいたって、わずかな諍いが内訌の火種となるのは火を見るよりあきらかとなった。
 これには朝廷の官僚も動じずにはいられなかった。中央組織の逡巡がこれ程まで早急に地方の混乱を招くとは予想だにしなかったのである。
 主を失った組織はことごとく脆い。
 兵衛府はその範囲を州外へも展開したが、頼みの兵卒は急場しのぎの農兵であるうえ、それぞれに繋がりをもった諸侯との対立を恐れてか、最下位ながらも官位をもつ少志ですら密かに伺いを立てるなど、まったく士気のあがらない有り様だった。あまつさえ、上官の方針がばらばらなのだから、どこを攻めたら良いのか皆目見当がつかない。
 見方を変えれば混乱は立身の好機でもある。実際、野心を抱く諸侯も多かった。だが、この時期にして皇軍を動かすわけにもゆかず、国宰は監察使に繋いで鎮守府の動員をはかった。
 鬱積した賊臣がいよいよ煮詰まり、先走りのもっとも危険と思われる州侯私領へ鎮守府が牽制のための兵を派遣しようとしたとき、その布告がなされた。いわく、官衙より総己百官職を除す、と。
 陵墓の地も定まらぬまま、法務官はいち早く弘友即位の式次を取りまとめ、春宮坊にその全権を委譲した。
 かくして、皇位継承の筋を通すことでひとまずの安泰を得たのである。
 海武が都を去り、吉野に隠棲したのは弘友践祚の後、すぐのことだった。

 ところで、司空とは三公の一。すなわち宰相であり、三公はそれぞれに幕を開くことが許される。則ち闕く、とされ、適任者が居なければいずれの官もおかれない。抜きん出た者が勅命によって召し上げられたとしても、もとより申し分のない家柄であるのが当然の習いである。
 しかし、慮笙に限ってはその出自が知れない。本人は多くを語らず、時とともに周囲も訊かなくなった。ただし、至極文辞に富み異国の言葉も能く解すというから、元来かなりの素養を身につけていたのは確かである。
 狩猟の折り、渭水上流で釣り糸を垂れる慮笙に出会い、智兄自らが口説きいれたのだという。のたまわくは、見初めたのだと。まさしく皇の待ち望んだ俊髦であったのだ。
 乗っけから智兄は慮笙に門下令史に相当する位を与えた。これにはさすがに異議を唱える者も多く、異例の抜擢を妬む輩も少なくはなかった。皇も反発を避け、また、官職の名が重荷になることを気遣って新たに議政官を設けることを検討したが、慮笙は一向に構わなかった。そのかわり廟議に参加することはせず、より多くの奏聞の機会を得ることを願った。
 慮笙の英邁な才はたちまち発揮された。戸籍を改めることで直接に盗賊と浮浪を断ち、それによって永らくの懸念であった各州の不平等が是正されたうえ、本来国庫に収めるべき税を掠め取って私腹を肥やしていた氏族らの歯止めともなった。また、令の編纂においても陰ながら重役をはたし、目立たぬながらも能吏である慮笙の存在は次第に認知され、後に諫議大夫を経て司空を拝命したのである。
「奸臣にとっては、充分な時間であったでしょう。まして衆望の厚い総己が、御身を引かれたのですから、彼らは、いい気なものです」
 慮笙の表情は変わらない。声音も抑揚なく落ち着いたものだった。
「非は、わたしにあると」
「言葉が過ぎましたかな? しかし、諫めているのではありません。なにをもって、わたしがそれを申せましょう。それこそ筋違いと云うもの。――総己の行為は、慥かなものでした」
「時に迷うことはある。なおも問われたならば、わたしには重すぎた、としか申せません。しかし、それも――」
「過ぎたこと……ですか」
「――はい。真を申せば、そうなります」
 やや間があって、海武が応えた。
「皇が在ろうと在るまいと、国の政など誰が司っても同じようなもの。信頼のおける諸官の廟議を経て、皇はただ裁可を下せばよろしい。国が富み、民の暮らしが善きに向かえば、それでよいのでしょう。いや、むしろ皇などいないほうが国のためかもしれませんな。皇が居らぬなら、その座を狙う奸臣も居らぬ。まして、かの昏君の現れようはずもない」
 海武は驚いて慮笙の背を見る。
 かの昏君とは、誰を指すかは訊くまでもない。だが、かつて二人の間でもこれほどまではっきりと断言したことはなかった。
「しかし――、それでは、国が成り立たない」
 慮笙は涼しい顔に微笑を浮かべた。
「やはり、気になりますか」
 海武は返答に詰まる。それを何ととらえたのか、慮笙は一つ息を吐いて、
「過日、法印の許に詩賦をしたためました」
「沙羅に……」
「はい。吉野の良木にはなかなか麗しい声で鳴く鴬が来ぬ、と」
 海武は目を細めた。
「――なにを、お考えで?」
「考えなどなにも。ただ、まずは勝手を知る者の報せが必要かと――」
 その時、水面を漂う浮がぴくりと動き、そのまま唐突に水中に吸い込まれた。刹那、慮笙は短く呻き、一呼吸遅れてから竿先をすくい上げた。
 細い竹竿が撓る。糸は突っ張り右往左往と走りつつ川面に線を描いた。
 慮笙の骨張った手の甲に力がはいる。思わず立ち上がった。
 なおも糸は疾走する。慮笙は巧みに竿を操り、糸を浅瀬に引き寄せようと試みた。竿が、ぎりぎりと唸りを上げる。
 揺れる水面に魚影が映った。
 岸の寸でのところで銀鱗がきらりと光り、大きく跳ねたかと思うと水しぶきを残して長い尾鰭は再び水中に没した。同時に張りつめていた糸が波を打って宙を舞い、それからゆっくりと落下した。ややあって、先端の伸びた針は振り子のように慮笙の面前で揺れた。
 冷ややかな微風さえも凪いで、暫し無言の間があった。
「大きかった……ですね」
 ぽつりと海武が云う。
「――そのようで」
 応えた声は消え入るほどに弱い。

          三

「まったく、あの爺、なに考えてやがる」
 馬を牽く男が愚痴を吐く。関所を出てから、もう何度目かの文句であった。
 男は名を埜亜という。男のこの悪態は、そもそも関所の必要以上の調べに因るところが大きい。
「あんたねぇ、その減らず口どうにかなさい。公卿に対して、その云い様はないでしょう。口を慎みなさい」
 埜亜の馭すものとは別に、もう一頭の騎馬から叱咤する声があった。
「公卿だあ? やつはとっくの昔に罷免されたんだろう。て、ことは、いまは布衣じゃねえか。無位無官、逸民、ただの人。そんな野郎に呼ばれたからって、どうしてこの俺までがのこのこと出向かなきゃいけない? だいたい、あのわけの判らない下手くそな歌はなんだ。いちいち回りくどいものの云い方しやがって、来て欲しいなら来てくださいと素直にそう云ってよこせばいいんじゃねえの」
「あんたねぇ!」
「おやめなさい。二人とも」
 吉野へと続く山路に三人の姿があった。
「本当に、あんたみたいのを童蒙と呼ぶのよ」
「もう、およしなさい、沙棗。二人の仲がいいのは良く判ったわ」
「やめてよ、姉さん。こんなやつ、なんとも慕ってないわよ」
 埜亜はこちらも同様とばかりに鼻を鳴らす。
「あなたがた、大内裏でもそうなの? 近頃忙しくてあまり構ってあげていないけれど、その様子ではさぞかし威儀師も苦心なさっていることでしょうねえ」
 一つ溜息をついて沙羅が云った。
「相変わらずの心配性ね、姉さんは。大丈夫よ、大佑はお心の広い方ですから」
 沙棗は真顔で冗談めかす。沙棗の位は法橋、官は律師である。したがって、威儀師とはその被官であった。
「あなたは、いつも陽気ね。羨ましいわ」
「そうお? だって久しぶりなんですもの、洛外の空気を吸うのって」
 言外に非難を込めたつもりであったが、いっかな気にせず沙棗は浮かれたように馬上で腕を伸ばす。
「これでは、わたくしは当分退官できそうにないわね」
 眉をさげて沙羅は呟きを漏らした。
 沙羅の役職は法然である。法然とは司法府、法務官の総称であるが、同時に同官の最高位、法印をも示す。法然の法然たる権威の表れであった。
 法然は世襲にして永世位。唯一人が生涯にわたってその役を全うする。年に一度、正月五日に皇より叙位を賜るが、あくまで名目に過ぎず、国が傾くでもない限り罷免はおろか降格すらあり得ない。そのため、資格をもつ者は幼少より専従の博師がつき、様々な養育が施される。女児とてそれは変わず、沙羅も先任の父を継ぎ法然を拝命したのである。
 当然ながら沙棗も法然たりうる資格をもつ。沙羅が世を去ればその役が廻ってくるのだ。然るべき吟味の後、審美方の同意を得て皇より賜ることになる。よって彼女にも教育係がついている。それが国子監から出向した現在の威儀師であった。
「あらー、姉さん、懇意にしている御方がいるの?」
 聞き逃さじとばかりに眼を輝かせ、沙棗は姉の顔を覗き込んだ。法然と云えども、女に限っては妻問婚による退官が定義上は認められている。
「おりませんよ。もめごとは沢山です」
「またあ、隠さないでよ」
「わたくしは、あなたの心配をしているのです」
「――なに、それ?」
 沙棗は小首を傾げた。
「肌が病的に勇んでるから、お手入れをしなさいってことだろ」
 埜亜が云う。沙羅の馬を牽きながら少々投げ遣りな云い方であった。沙羅は裳裾が乱れぬように丁寧に鞍に腰を掛けるが、沙棗はまるで少年のような水干姿で揚々と馬に跨がる。
「まあ、御上品な御厭味ですこと。まことに痛み入りますわ」
 云って、沙棗は馬上から埜亜を見下す。
「あんたねぇ……本当に、なんで、あんたみたいのが未だに罷免されずに官に留まっているんだか理解に苦しむわ。ろくな仕事もしないくせに」
「それは、お互い様だろう。官吏の子は面倒なく国府に入れる。入ってからも色々と便宜を図ってもらえる。親の七光りってやつだ。ま、楽だからな、こうしているのも」
 埜亜の位は法橋。官職も沙棗と変わらない。宮中では共に沙羅の部下ということになる。
 ところで、埜亜の言葉は少なからず正確ではない。詳細は後述のとおりであり、かくて彼らが今の職に就くにはただ臑を噛るだけではいられなかったのだ。
 官吏の位は通常数字で示され、一品から八位までの正と従から成る。さらに四位以下には正従それぞれに上下の区別があるから、初位を加えて全体では三十階級となる。これに名称がつく場合もあるが、法務官に限っては逆に名称のみでしか通じない。法印を筆頭に法眼、法橋、法師、法侶、沙門と続く。これは法務官が僧伽という機関に管理されているからだ。
 僧伽とは法務官吏になるための、いわば研修機関であり、法務官を目指す者は国子監で学んだのち、ここでの課程を修めなければならない。上級の公家はしばしば国子監での実習は免除され、親の官位に応じた位が与えられることがある。これを蔭位というが、法務官だけは何人たりとも僧伽を通らねばならず、官僚となった後もこれの基となる僧綱に帰順する。法然が敷居を要し、皇より他に門外漢の容喙を許さず、大内裏においても特異な職といわれる所以である。もっとも、僧伽の総統は法印が兼ねるため、僧綱に准じた位階は法然自身の意志がより濃く反映されると云ってもよかった。
「あんたと一緒にしないでくれる」
 沙棗が云う。
「あんた、このまえなんか十日も顔を出さなかったじゃない。お勤めも果たさずに、なにを楽しんでいたのかしら。知ってるのよ、町家のいかがわしい場所。免職ものの規律違反ね」
 沙棗は捲し立てる。
「それも一度や二度のことじゃないわよね。叩けばいくらでも埃が出るんだから。わたし、主上とは割と親しいのよ。そのうち申し上げて、あんたなんか絶対に辞めさせてやるわ」
 へえ、へえ、と前を向いたまま埜亜の返事は疎い。
「――それは、無理でしょうね」
 小さく沙羅が云う。沙棗の視線は横に並ぶ姉の顔にそそがれた。
「今上の裁可は便宜上のもの。三公の任命も皇の御意ではないわ」
 辺りに誰もいないことは判っていたが、思わず沙棗は周囲を見渡す。
「傍成って云ったっけ、今の司徒。もとは地方の宰史だったのでしょう」
 つられて、沙棗も少しばかり小声になった。現三公の着任は二年前、慮笙が辞して、ほぼ一年後のことであった。
「そうよ。滌州のね」
「どうして、位も持たない人が、いきなり殿上に入れたのかしら」
「三公だけではないわ。八官四職二十寮、すべて、多かれ少なかれ入れ替えが行われているわ」
「全員が紫恭と繋がってるってこと?」
 ええ、と沙羅は頷く。
 滌州と紫恭は共に同じ地域を指す。皇都より北東へ徒歩で半月ほど、渭水下流の一帯が滌州である。この地に以前は王を擁した小国が存在した。紫恭といい、いまだ当地をそう呼ぶ者もある。滌州とは蜃朝平定後に定められた呼称なのである。
「……誰かが裏で糸を引いているのね、幼君を利用して」
「あなた、言葉遣いが悪いわね。ちゃんと学問に励んでいるの」
「こんなときに、そういうこと云う? 無粋ですわね、御姉さまも」
 語尾は強まった。
「あら、ごめんなさい。でも、注意できるときにしておかないと、なかなか会えないものね」
 憤懣やるかたなしといった風情で、沙棗は、あーあと喚いた。
「――それで、よけいに内裏がよそよそしいんだな」
 顎に手をやって埜亜が云う。
「そういやあ、ここんとこ弘友の謁見もぜんぜん聞かなくなったし、正月も顔を出さなかった。意気地のない官は、寝首を掻かれないように声を潜めてるってわけだ」
「それだけではないわね。外戚も権ほしさに入内の機会を窺っているわ。公家の籍が替われば、諸官は一斉にすげ替わってしまうでしょう」
「だけど法然、あんただってそれは一緒だろう。法務官なんて、よほど狙い甲斐のある役所だぜ。公家の籍を外されれば、それこそあんたも都には居づらくなる」
 蜃宮で沙羅に向かってこんなことを云えるのは、沙棗とこの男くらいなものだ。彼女が行けば宮人は途を譲り、着座の度に叩頭する。それだけに、明け透けに云うこの男には信頼が持てる。
「そうね。――あるいは、二度と都には戻れないかもしれないわね」
「姉さん――!」
「悪いわね。あなたがたまで巻き込んでしまって。でも、お陰で助かったわ。わたくし一人では、遠出の許可は下りなかったでしょうから」
 法然が随身を従えずに外出することなど、まずないと云っていい。特に沙羅には侍女が伴うが、私用であっても万一に備えて武器を携えた扈従がつく。まして輦や輿を用いずに自ら騎乗するのは尋常でなかった。
 これらの措置も同行者の人選も沙羅の独断である。信頼のおける切れ者を宮中に残し、気心の知れた二人を供とした。怪しまれず、というわけにはいかなかったが、最善を尽くしたつもりであった。それに、実を云えば法然の雑役夫にも既に数名の奸物が見受けられていたのだ。加えて、万全と思われていた近衛府にもこのところ不穏な動きがあった。ことは急かねばならなかった。
「大内裏を出るのも一苦労だったものね……。でも、安心なさい。僧都はそう易々と場を明け渡すような人ではないわ。暫く留守をしても大丈夫よ」
「そういうことを云ってるんじゃないわ。どうするつもりなのよ」
「……どうしようもないわね」
 沙羅の表情は柔らかい。
「もう! 誰なのよ、皇を懐柔してるのは」
「允螺という滌州の令。おそらくはね」
「じゃあ、主上に云って罷免させちゃいなさいよ、その大馬鹿者の奸臣を」
 言葉遣い、と窘めてから沙羅は継ぐ。
「無理ね。もう手遅れでしょう。そういったことでは動じないよう策は講じているでしょうから」
「春宮坊は、なにをやってるのかしら」
 苛立たしげに沙棗は眉を寄せた。春宮坊とは皇の世話役の官職。側近中の側近である。
「最初に籠絡されたのが春宮坊よ」
 あっさりと沙羅が応え、最近になってわかったのだけれど、と付け加えた。
「それじゃあ――」
「それで、海武を頼るか」
 沙棗の言葉を遮って埜亜がしたり顔で云う。
「だけど、隠棲したあいつにどれほどのものがあるっていうんだ」
「先程の関所、あまりに厳しかったと思わない? 手が回っているのよ。吉野の力を警戒してね」
 説得力には乏しいが埜亜は細かく頷く。
「……二重詠み、か。なるほど、爺は異国の言葉を解すのだったな」
「そう。検閲は免れないものね」
「小賢しい爺だ」
「揶揄するものではないわ。よくしてくださる御仁よ」
「まあね。でも酔狂だ。わざわざ好き好んで都落ちして海武について行くとは」
「時を待って、見定める――それも、一つの生きる道だわ」
「処世術だろ」
 沙羅は微笑む。
「会って、自身の目でお確かめなさい」
「ちょっと、なによ、二人して得心がいったって顔しちゃって」
 呆れたように沙羅と埜亜を見比べて沙棗が割り込む。
「戻らなくていいの、宮中に。まずいんじゃないの?」
「あなた、またあの関所通りたいの?」
「嫌よ。あの役人の顔、思い出しただけでもぞっとするわ。本当に厭らしいったらありゃしない」
「でしょう。それなら、このまま進むしかないわね、馨涼苑へ」
 でも、となおも沙棗は釈然としない。
「おまえらしくねえな、沙棗。こうゆうの好きなんじゃねえの?」
 にやりと埜亜は笑む。
「役所は無聊きわまりないって云ってたじゃねえか」
「冗談じゃないわよ。いくら退屈なところだからって、帰る場所が無くなっちゃったら困るじゃない」
「別段、俺は困らないがな。それほどの未練もない」
「わたしはよくないの!」
 やれやれ、と呟いて埜亜が云う。
「判らんやつだな。だから、わざわざよけいな世話を焼いて、そうならないようにしようって云ってるんじゃねえか。――ま、難儀なことに変わりはないが」
 沙棗は頬を膨らませてそっぽを向くが、すぐに勝ち気に埜亜を睨めつけた。
「なによ! 偉そうに、わかったようなこと云っちゃって。――いいわ。何処へでも行ってやろうじゃないの。その代わり、役所が大馬鹿者の奸臣に乗っ取られてわたしが飢えるようなことにでもなったら、あんた責任とりなさいよね!」

          四

 吉野の春は遅い。初春を過ぎ、やがて啓蟄を迎えるというのに、蟲は未だ土中で眠りを貪る。水は温みをしらず、朝夕の炊事には手厳しい。この時期、山間からもたらされる流水は雪解けを含み、いっそうに川面を凍てつかせるのだ。それでも、陽が昇れば灰櫃の炭団は用を為さなくなる。屋形の櫺子から射す陽光も日増しに寝台から板の間へと降りてゆく。
 ――馨涼苑と称する。
 梅林に囲まれた広大な陵の一角に鈍色の瓦が群れる。四方には、これも瓦屋根の二重の塀が延々とわたされている。櫓門を潜った中には森や築山もあれば、川から水も引かれている。樹木はあくまで自然と茂り、それに隠れるように亭が点在する。棟は前庭から少し退いた地から並び、ほとんどが渡殿で結ばれている。その内にさらに塀が掛けられ、中門を過ぎると、ようやく寝殿造の屋形があった。
 建立は幾代か前の皇に逆上る。吉野をこよなく愛でた皇は生前からこの地に陵墓を建てさせ、完成までの視察の宿として屋敷を築いた。没後は皇の好んだ梅を植樹しながら皇族が鎮魂に訪れたが、改装を繰り返し、やがては避暑地の離宮として用いるようになったのである。
 馨涼苑は壮大ではあるが華美ではない。贅沢人故の贅沢というものか、政務を離れて余暇を過ごすにはどれほども装飾は要らぬという。
 その馨涼苑に従事する家人の娘が、都からの来訪者を路上に見たのは、朝の仕事を終え厨房に飾る花を摘みに出たときだった。

 法然の一行が屋敷の主に目通りしたのは、馬を預け、雑舎で脚湯を使い装束を改めるなどして、それからさらに暫く経ってからであった。
 人払いのされた奥座敷に通され、幾許もなくして海武と慮笙が現れると、着座を待って沙羅はまず叩頭した。
「長の無沙汰をお許し願います。条司公におかれましては風聞に違わずのお健やかなご様相、何よりにございます」
 皇の等親の公家ともなれば、いかような者も几帳ごしに侍るのが礼儀だが、ここにそれはない。帳の四隅についた飾りが欲しいという臣下の子供に、必要がないからと海武が取りはずし、与えてしまったのだ。以来、留め具のはずれた几帳は納屋で埃を被る。上座はあるが海武も慮笙も特に気にせず好きに座る。お陰で沙羅は少しばかり斜めに礼をせねばならなかった。
「条司というのも久しく聞かないな。ここでは皆、名で呼ぶか、あるいは総己だ」
 容儀を正す沙羅に海武が応えた。
 条司とは海武が摂政を退いて後に封ぜられた爵位の号である。名とは諱のことだ。古来、諱を教えるのは心を許した相手でなければならないとされる。また、位の高い者に対して本名で呼ぶことは大いに礼を失するのだが、海武は舎人たちにもあえて名で呼ばわすことが多かった。
「お気に召さなければ、改めますが――」
 わずかに顔をあげて沙羅が云う。
「いや、どうでも構わないよ」
「わたしは好きだわ、条司公っていうの」
 沙羅から一歩下がって座した沙棗が口を挟む。こちらはとうに面をあげていた。
「本当に、海武さまは高雅で理知的だもの。ぴったりのお名前よ。名はその体を現すって云うじゃない。高貴な名を賜るのもやっぱり生まれついての素養がなくちゃねえ。どんなに偉くなったって、どこかの童蒙なんかじゃ絶対無理よねえ」
 よほど癇に障ることがあったと見え、沙棗が云う。一瞬面食らって、それから海武は透垣に両腕を掛けて立ったままでいる埜亜を見つけた。
「一緒だったのか、埜亜」
 よう、と片手を挙げて埜亜が答える。
「沙羅、どうやら、わたしは当て馬のようだ」
 向き直って海武は笑む。
「申し訳ございません。躾がゆき届きませんで――」
「そうじゃない。楽しいよ」
 横で笑い声があがった。慮笙がさも愉快そうに膝をたたく。
 海武に呼ばれて座敷に上がった埜亜は近くの床板を大袈裟に蹴るが、澄まし顔の沙棗は別段相手にする様子もなかった。
「笑い過ぎだぞ、爺さん」
 矛先を変えて埜亜は慮笙を睨む。
「ああ、済まん。つい、な」
 慮笙は悪びれるでもなく謝って首を振った。
「しかし、おまえさんは尻に敷かれるのが、やはり性のようだ」
 慮笙は沙棗も埜亜も幼少より知る。
 二人が舎人に預けられると役所は途端に賑やかになる。叱られて泣くのは決まって埜亜だった。
「もう、公卿までそんなことをおっしゃって」
 沙棗が不満げに云った。
「そうかな? なかなか似合いと思うが」
 嫌です、ときっぱりと否定する。
「わたしは上品な人が好みですから。広いお屋敷に暮らせて贅沢しほうだいなら、なおいいのだけれど」
「――沙棗は律師だったか?」
 海武に問われ、沙棗は殊更にこやかに、はい、と頷いた。
「ならば、親兄弟の力ではなく沙棗自身が有望の証しだ。良吏に辞められては法然も困るだろう」
 能吏と良吏は違う。権勢の座にあって高く業績を評価される者を能吏と呼ぶなら、搾取や賄賂に長けた佞者も能吏となってしまう。良吏というからには、権威を翳さず高い理想のもとに職を全うする者でなければならない。世辞もあろうが、最上級の褒め言葉だった。
「でも、仕事より大切なこともあります」
 沙棗は真顔で云う。
「それに、官職の代わりは他に幾らでもおりますから」
 目の隅に映る慮笙の相貌から、その言葉で笑みが消えたのに海武は気づいた。視線は沙羅に向かう。
「法然でも不本意なことが行われているのか」
「小官は、今のところ事態を静観しております。ですが、八官はかなりの者が――」
「しかし、それでは御史台が黙ってはいないだろう」
「大尹は既に罷免。当初は、ほとんどが皇の勅命にございました」
 沙羅は姿勢を崩さずに応える。忠臣で聞こえた諫議大夫は不敬の罪に捕らわれ、後に封ぜられたのは病がちの老人だという。
 なるほど、と呟いて海武は脇息を寄せた。その際にちらりと慮笙を見るが表情からはなにも窺えない。その視線が、御随意に、と語る。
「――では、大内裏の近況を知りたい」
「四位より上の官で申しますれば、特進上柱国が皇の勅命にて更迭されました。二十日ほど前のことにございます」
「まさか、近衛か?」
「はい。近衛大将久圻です。今は中将が兼任、左右の師団を統括しております」
「どういうことだ」
 眉根を寄せて呟いた海武の言葉の意味を何と受け取ってよいものか、沙羅はややためらうような素振りを見せ、言葉を選びながら云う。
「卿伯は、もともと条司公の御政務の間に登用された官にございますれば、一方には目障りであったものと――」
 海武は軽く頷く。
「覚えているよ。確かにあれは忠義が強い。黙って籠絡されたを装い成り行きを見守ることのできるような器用さは持ち合わせていないだろう。しかし、わたしが任じたということを、いまさら蒸し返したところで、久圻の評価が変わるものではない」
 顎をひき、海武は沙羅を直視する。
「よもや――死を賜ったか」
「いえ、それはございません。報せは受けておりません。とりあえずのところは、三月の禁足を云い渡され、洛中の別宅に留め置かれていると聞きます」
 その実は半ば幽閉だろう。久圻が別宅を持つという話は聞いたことがない。だが、その処遇で済んだのにも理由があった。八官の一人、紀宸が彼を擁護したのだ。
 紀宸は都に残る内通者で唯一廟議に参加できる人物である。紀宸が海武を慕っていたのを知る者はほとんどいない。なぜなら、彼は海武が都を離れてから後に矢継ぎ早に八官まで昇進したからで、それ以前は士大夫にすぎなかったのだ。その昇進を手助けしたのは他でもない沙羅だった。これは本来あってはならないことである。法然が関与したと判れば沙羅の立場も危うい。それでもなお、沙羅は可能な限りあらゆる方面に圧力をかけた。廟議の様子をどうしても把握する必要があった。
「幽閉――、か」
 海武が云う。沙羅の云わんとするところは充分に伝わったようだ。
 久圻ほどの忠臣は滅多にいない。人々の人気にも根強いものがある。まして、高官だけに殺せばその対処に困る。民衆は気づかずとも、将の付く武官であるからには下士官は気づく。軍の士気もろとも活かさず殺さずにおく方法はこれ以外にないというわけだ。
「どういう了簡だか」
 埜亜が苦笑して混ぜっかえす。
「中将殿は敵さんに惚れちまったか」
 それを沙棗は冷たく睨めつけた。
「すべては滌州令――、ということなのだな」
 海武の問いに、沙羅は少しばかり視線を慮笙に向けてから緩りと頷く。
「まず、間違いなく」
「確たる証拠は?」
「語るよりも実状をご覧なされば、お判りいただけると存じます。目に余るほど、かの州の者たちで宮中は溢れております」
 幾度か頷いて海武は視線を逸らす。
「中枢が押さえられたか。だが、どういうことだ。滌州令はなぜ、早々に近衛に手をつける。政を執るに足るのであれば皇軍を欲することもない」
「允螺の狙いはおまえだろうが、海武」
 埜亜が云う。
「……」
 海武は何も答えず、ただわずかに唇の隅を緩めた。
「おまえさえ居なければ、やつは好きなようにやれるからな。――皇の血筋を引くのは、いまのところおまえと弘友だけだ。おまえの首を取って、弘友はそのあとでゆっくり料理すればいい」
「埜亜!」
 沙棗が声を上げた。構わず埜亜は続ける。
「允螺が欲しいのは皇の座だ。そうだろう? 爺さん」
 慮笙は否定も肯定もしない。
「紫恭の力では、とてもじゃないが国はとれない。州兵五千と聞くが、それだけの民が居るかどうかも疑問だな。だから、やつは真っ先に弘友を抱き込んだ。それから司徒を就け、要職をとりつけ、ここに来ての近衛だ。卿伯は生きているかもしれないが、おまえ寄りだった官が排除されてる現状を考えれば、やつが本気でおまえを狙ってることくらい判る。知ってるんだろ、宮嶋が抑えられてることは。あれは彌濃への防備じゃない。ここを落とすための布石だ。おまえを討つために、やつは皇軍を手に入れたんだ。法然も本音のところでは警告しに来たんだろうよ。今やらないとやられるってね」
 埜亜は特に気負うでもなく淡々と云う。
「いま法然が都を出るのは相当に危険なことなんだろう。それを推してここに来たからには、それだけの理由があったはずだ。それが皇軍ならなるほど、納得できる。だとすれば、おまえは確実に殺される」
「なんということを云うの、埜亜!」
 堪らずに埜亜を遮って沙棗が云う。
「あんた、自分の云ってることが判ってるの? さっきから聞いてれば脅し文句のような台詞を、誰に向かって云ってると思ってるのよ。――それに姉さんもよ」
 続け様に沙羅を振り返る。
「なにも出来ない、どうしようもないなんて云って、なにもしてないだけじゃないの。人身御供みたいに、全部を海武さまに押し付けるようなことばかりで。あんまりだわ。無責任よ」
「――それは違うよ、沙棗」
 苦笑して海武は宥めるように云う。
「沙羅はなにもしていないわけじゃない。複雑な朝廷の中にあって難しい舵取もよくしてくれている。無責任なのはむしろわたしのほうだ。――押し付けのように見えても、そうではない。これは当然のことなんだ。わたしには立場というものがある。剣を振りかざす者があるというなら、わたしは相手をせねばならない。なぜなら、わたしは不幸にも皇族だからね。わたしの首一つでことが収まるならばそれで良い、わたしの命で安寧が買えるなら安いものだと、そう思わなくてはいけない。元来、皇族とはそういうことのためにあるものなのだから」
 沙棗は海武の顔をじっと見る。海武は一度微笑んでから視線を外した。
「しかし、どうやらこれはそう容易ではないようだ。臣に玉座を譲ることは皇の御意ではなかろうし、もし、道理の判断を下されることが可能であるとすれば、なおのこと御命が危うい。だから、最善の道を探るのだよ。うまい具合に穏便に済ませられるなら、それに越したことはないのだがね」
「最善の道なんか端からねえよ」
 埜亜が云う。
「奸臣があれば朝廷は荒れる。朝憲の紊乱は民にも及ぶ。防げなかったものなら、それは諦めるしかない。綺麗事だけじゃ国は救えないんだ。元を正せば皇も所詮は奸夫のようなものだからな。ちょっとくらいの悪事はいいさ。場合によってはそれで善くなることもある。けど、それが度を超したものなら、奸臣であろうと皇であろうと誰かが排除しなけりゃならない」
「――だが、犠牲は少なければならない」
「俺はやられる前にやれと云っているだけだ。皇軍を出されてはそれも容易でなくなる」
「でも、それでは海武さまと主上が対立することになりはしませんか」
 海武の目を覗きながら、沙棗が云う。
「かもしれない。そうなるとわたしは逆賊だな」
「そんな――、困ります」
 海武は薄く笑う。
「ここしばらく、わたしも考えていた。――ただ、久圻が罷免されたと聞いて、いまさらに判らなくなった」
 云いながら海武の表情が失せる。
「簒奪を企む者にとってわたしが目障りなのはよく判っている。しかし、わたし一人を斬るのに大軍はいらない。刺客を向けるか、さもなくば勅諚をもって使者をたてればよいのだから。罪状など幾らでもあろう。にもかかわらず、皇軍を動かすとなれば、滌州令は戦を望んでいるとしか思えない」
「――望んでいるのでしょうな」
 徐に慮笙が口を開いた。一様に視線が集まる。
「各州は感づいております。滌州令を逆臣と見なせば立ち向かう。同胞と見れば我もと謀叛を起こす。そのための準備もしておりましょう。いまはそれほど固まった国ではないのです。皆、力のある方へと転がろうとする。いずれにしても、五府を率いれば後の争いは避けられない。ならば、滌州令にとって早いうちにここを攻め落とすのが得策というのもでしょう」
「戦に、なるのですか」
 掠れぎみに沙棗が問うた。
「なる――と、見るべきでしょう。少なくとも滌州令は確実にその方向へ動いている。いまはまだ、誰もが動かぬだけに、相手も口実を掴みかねているだけのこと」
「――勝てるのですか」
「我々は後手に回っています。加えて成すべきことが多すぎる」
「たしかにな。前提として皇を守るんなら、弘友を掻っ攫ってなお允螺を討たなきゃならない。朝廷の阿呆どもにしたって束になったら何をするか判ったもんじゃない。――並大抵じゃないわな」
 埜亜が笑って云う。
「傍から見れば本当に謀叛になるぞ。少しでも間違えば自滅する。なんにしても皇軍を相手にするなら勝ち目はないな。――で、どうなんだよ、爺さん。こっちに力を貸す諸侯は?」
「表立って朝廷に反旗を翻す者は、無論ない。大義はあくまで皇にある」
「そんなことは判ってる。わざわざ道理を説かなくても、奸臣の非道を解して国宰を丸め込める州侯がどれだけいるんだ」
「さて――逓州と伊州、それに閃州がつくかどうか」
「いつもながら祢琵は日和見か。三州あわせても一万に満たないな」
 州侯はそれぞれに自治自衛のための兵を持つことが許され、その数は朝廷が監理する計帳によって変動する。つまり、州に住む民の数が多ければそれだけ多くの兵役が認められるのだ。州兵は州侯が統帥するが、謀叛を事前に防ぐ意味で朝廷より国宰が派遣され、武器の取り扱いにも相応の制限がつく。
 ちなみに朝廷の持つ軍隊は近衛府、衛門府、鎮守府、兵衛府、衛士府の五つ。これを五府という。鎮守府を除く四つは左右二つの師団から成り、合わせれば八つの師団となる。このうち常時兵を擁するのは近衛、衛門の二つだけだが、毎年更新される計帳によって即座に動員可能な兵の数は十万を下らない。各地方の鎮守府を加えればその五倍は越えてしまう。
「正面きって行くのは、みすみす死ぬようなものだな」
 埜亜は肩を竦める。
「とりあえず彌濃の令に繋いで兵を募らせるか? やつなら理解に乏しくない。閑期だから男手もあるだろうよ」
 慮笙は応じるでもなく相槌を打った。
 会話を聞き流して海武は小さく溜息をつく。視線は窓外の中庭に向いていた。
「……罰が、当たったか」
 呟いた声音よりも、その瞳の色は重かった。

          五

 傾き始めた陽を浴びて沙羅は馨涼苑の造庭を行く。薄らと肌寒さを覚え袿の襟元を整えた。
 沙羅が初めて馨涼苑を訪れたのは、彼女が博師にあずけられたばかりのころだった。皇の行幸に伴い吉野に参賀する先の法然である父に同行してのことであった。まだ執政の志操が堅固であった帝は臣下に過労を諫められると度々吉野を訪れた。既に崩じた太上皇は吉野に祭られているわけではなかったが、智兄は馨涼苑を好んだ。吉野に息づく先人の志しを夢想して再びの充溢を図ったのだという。その行旅は常に少数であったが、時として朝廷の重臣をつれて国の行く末を語り合うこともあった。そのころ存命であった沙羅の父もそうして帝に随行したのだ。
 里心もあったのだろう、沙羅は父との旅路が嬉しかった。しかし、父の表情が和らぐことはなく、彼女もまた、それに深い意味を見出せず漫然と親心と受け取った。
 小高い築山を左手に沙羅の脚は迷うことなく前方の森へと向けられていた。
 やがて、赤味がかった翠緑の壁が目の前を覆うと、立ち止まって見上げ、沙羅はそっと息をついた。
 森はどこまでも深い。故意に造られたものか、建造以前から存在したものか、いずれにせよ不思議なほど違和感を持て余しながら森は馨涼苑と同化していた。
 雑多な木立の間に埋もれた小径を確認すると、沙羅は足を踏み入れた。歩を進めるにしたがって樹木の密度が増し周囲の視界が狭まる。まだ存分に寒さの残る気候だというのに、綯い交ぜに絡む蔦と苔むした地面は季節を知らぬようで、枝葉を透かす陽光と相俟っていっそうに翠を際立たせた。
 広大な馨涼苑にあって、ここだけはあきらかに手入れがなされていない。いや、かなり以前は整えられていたはずなのだ。しかし、少なくとも沙羅の知る限りでは、この森はあの時から――彼女が初めてこの小径に分け入った時から、すでに成すままになっていた。
 人の領域にありながら、鬱蒼とした翠はここを一方的に隔絶し他者の侵入を拒んでいるように思う。
 記憶の断片にある父親の言葉のせいだろうか。あの日、父はいつになく堅い口調で森へ行ってはいけないと云っていた。
 ――ここは、人を選ぶのかもしれない。
 草の匂いとともに湿気を含んだ微風が肌を撫でると、ふと、あの日の感覚が蘇った。
 あの時も、この心地よさにつられて自然と迷い込んだ気がする。父の言いつけを破ったことなど一度たりともなかったが、なぜかここに来ていた。足を踏み入れたのは本当に自らの意志だったのか。
 気持ちとは裏腹に身を覆う心地よさに脚はさらに森の奥へと誘われる。わずかに差し込む木漏れ日は柔らかく、草木の発する息吹と相俟って身体は羊水に包まれる。それまで感じたことのない快感を全身に受けて宙を彷徨う。抗う心は萎え、いつしか現を忘れた。――そして、
 それを打ち崩した突然の緋色。漠たる記憶の中で、ひとつだけ脳裡に焼き付いている鮮烈な光景――。

 ――なにをしているのか、との少女の問いかけに、少年がびくりと震えた。
 暫くの狼狽の後、両膝を折ってうずくまっていたその巨石から、少年が徐に身を起こした。最初に少女の眼に飛び込んだのは、少年の小さな顔から着衣にかけて付着した生々しい血の色だった。
 鋭い視線を少年が投げつけた。しかし、少女は怯まず、わずかに眉根を寄せただけで、
「貴公は何者か。そこでなにをしている」
 と、再び問うた。
 大人びた言葉遣いは法然の子であるという自尊心から出たものか、あるいは強いて恐怖を隠したものか。
 少年はなにも応えない。ただ、真っすぐに少女を見つめる。
 対峙した二人の間で時が止まった。
 食い入るような少年の視線に、少女は身動きを失った。
 緋色に染まった少年の頬から顎を伝って一滴の血が落ち、それで、少女はようやく我に返った。
「――その血、怪我をしているの」
 発した声が掠れていたことに、少女は云い得ぬ恥ずかしさを覚えた。
 少年は頑なに口を閉ざしたまま、瞬きさえもしない。視線はあくまで敵視であったが、殺気立ったものは感じられなかった。
 わずかに逡巡したが、少女は少年の方へ一歩踏み出した。
 途端に少年が動く。緩く左腕をあげて、開いた掌を彼女の方へと向けた。来るな、の意だろうか。少女は立ち止まった。
「あなた、口がきけないの」
 返答はない。
「でも、怪我をしているのでしょう。だったら、はやく治療しないと――」
 云いながら、少女は身振りで示す。
「わたしは敵じゃない。あなたを傷つけたりしないわ」
 だからね、と念を押しながら少女は少年の方へ歩み寄る。少年は今度は掌を押し出すようにして制止を促した。
「大丈夫、大丈夫だから……」
 低い声音で、あるいは自らに云い続けて、少女は慎重に歩を進めた。
 少年はかぶりを振った。二人の距離が縮まるにつれて、目は大きく見開かれる。にわかに息遣いが荒らぐ。苦しげな呼吸を繰り返して、少年は再び激しく首を振った。
「来るな!」
 叫びに、少女はびくりと立ち止まった。手を伸ばせば触れそうなほどの距離まで近づいていた。
「厭だ……もう、厭だ……」
 少年は視線を外し、放心したように緩々と首を振る。
 その様子に、少女の緊張がとけた。冷静に少年を見る。
 歳は自分と同じくらいだろうか、血で真っ赤に濡れてはいるが、整った美しい顔立ちをしている。歪んだ眉や口許も、この状況ですら凛然と感じられるのだから、平素はかなりの好男子であろう。着ているものも赤く染まってはいるが、絹の上等のものだ。傷のない足首は、重労働をする必要のない身分であることを物語っていた。
 平らな巨石の上に投げ出された身体は、今も腰を落としたままだ。それでも石に高さがあるぶん、少女の背丈と釣り合いがとれている。だから、見下ろすことなく目線が合ったのだ。
 その巨石に溜まった血液がある。中央が少しへこんでいるのだろう、池のように満ちていた。それでも収まりきらずに溢れた血が石の周囲を流れたようだ。それらは、すでに凝固して黒々とした染みになっていた。見れば、石を取り囲むようにして根を下ろした四対の巨木の幹にも同様に飛び散った血糊が付着していた。
 どうやら、これらの血は少年のものではないようだ。これほどの量を失って生きているはずがない。してみれば、少年は自らの意志で血の海を泳いだということか。緩く首を振り続ける彼の身体に裂傷は見当たらなかった。
 少年の顔をまじまじと見て、少女は抑えた声で云う。
「あなたは、誰なの?」
 三度の問いに、少年はその時になって初めて少女を見たかのように目を見張った。
「……ぼくは……違う」
 呟きながら、再び激しく喘ぎはじめた。
「……なんで……こんなこと……」
 見る間に身体は震えだす。両手で引き千切らんばかりに自らの頭を抱えて、獣のような咆哮を放った。
「ねえ、落ち着いて――」
 伸ばしかけた少女の右手を、少年は打ち払った。
「やめろ! 違う、違うんだ!」
 叫んで彼女を睨みつけた。今しも襲い掛からんばかりに身構える。その目線を逸らさぬまま、しかし、じりじりと後退ると転げ落ちるように巨石から飛び降りた。
 それから鋭い眼差しを置き残して少年は踵を返す。これまでのことが嘘のような俊敏さで一気に疾走し、立ち竦んだ少女の反対側の木立に向かった。
 少女は追いかけることをしなかった。してはいけないような気がした。いつまでもそこに残る少年の強烈な瞳の印象のせいもあったろう。激しい憎しみの眼差しが、いったいなにに対して向けられたものだったのか、あるいは、その時の彼女には判っていたのかもしれない。あまつさえ、自分はなにもしてやることが出来ないのだということも。
 全身を血で染めた緋色の少年は、そうして彼女の前から消えた。

 沙羅が薄い記憶から見るのはそれだけだった。
 それからあと一つ、その夜が騒がしかったことを覚えている。誰かが居なくなったという。後日、夜通し捜索が行われたことを聞いた。
 以来、この日のことは誰にも話してはいない。その数年後に急逝した父にも、ついに語ることがなかった。
 忘れなくてはならないという無言の強迫は、どこから来たものか、容易に殻を破ることができない。
 緩く首を振って、沙羅は回顧を止めた。
 なにを思い出したところで仕方のないことだろう。すべては過ぎ去ったことだ。そのことで今の境遇が護られているとしても、それを保身ゆえの怯懦な術とは考えたくはない。それに、記憶の糸を手繰るのは――瀛真――あの人に対しても良いことではないはずだ。共感を得たとて、哀傷だけでは誰も救えはしない。
 しかし、それが判っていながら、どうしてまたここに来てしまったのか。法然としての役割を全うするためか、あるいは慮笙の命を奉ずるためか。彼を信頼していないわけではない。だが、すべての考えを理解するのは難しい。あきらかな背信行為が、いったいなにを生むというのか。すべてが徒爾に終わり、すべてを失いかねない。
 ――いつだって自分は無意味な葛藤をしている。
 再び沙羅は緩く首を振った。
 ――いまは考えるのはよそう。
 考えるほどに迷い、迷うほどに深みにはまる。すべきことをして、後は待てばいい。
 意を決すると沙羅は脚を速めた。
 相変わらず足許の悪い小径であったが、躊躇することはなかった。ややもすれば、裳裾が絡みそうになるが、歩みは衰えず、さらに奥へと進む。
 やにわに木々が途絶え、目の前がひらけた。
 そこは広々とした円形の平地だった。森の中でそこだけが樹木の密生を許さずに、丸く空を覗かせていた。
 腰まで伸びた一面の草葉は夕映えに朱い。わずかな風に、こころばかりにそよぐ群萌は夕凪の海を思わせた。
 平地の中央に樹がある。四対の大樹が、何かの支柱のごとくに等しく間隔を保って生えている。はじめてであれば、それを一つの樹と見紛う。それらの梢は互いに上方で絡み合い、さらに枝葉は別れて陽を模索する。茂った様は、もとは同じ根であるように思えるのだ。
 幹に囲まれた中には、一段と目をひく平らな巨石があった。そして、その上に人影がひとつ――あの日と同じように。

          六

 沙羅は一歩踏み出した。その拍子に近くの梢から鳥が飛び立つ。ことのほか大きな羽音が辺りの寂寞を破った。
 音に石の上の人影が動く。やおら面をあげて二人の視線が交差した。夕陽を受けた顔に、一瞬だけあの日の少年が重なって見えた気がする。
 ――瀛真。
 暫しの間、海武は堅い眼差しで彼女を見据えていたが、やがてぎこちなく微笑んだ。
 歩を進めて、沙羅は努めて無表情でこうべを垂れる。
「追蹤の無礼をお許しください」
「……無礼?」
 微苦笑して、海武は首を振る。
「わたしに礼をつくす義もあるまい。――ここには、わたし一人しかいない。それを承知で、わざわざ来たのだろう。ならば、楽にしたらいい」
 はい、と一揖して沙羅は海武の側に歩み寄った。
 海武は巨石に無造作に身を投げ出している。踏み分けられた草の径を真っすぐに進んだために沙羅は海武の斜め後方に立つことになった。
 礼を重んずるならば、それでも前に廻って跪拝すべきであろうが、それをしないのも気遣いだろう。また、今このときばかりは、海武が背を向けていることが沙羅にしても有り難いといえる。間の取り方も、それぞれの居心地のよさを慎重に捉えていた。
 以前より石が小さく感じられた。腰を下ろした海武の背中は、沙羅の目線よりも幾分低い。最後にこの光景を見たのは、もう何年も前のことだ。
「――お訊きしてもよろしいでしょうか」
 静かに沙羅は口を開いた。
「構わないよ」
 振り向かずに海武は云う。
「なぜ――条司公は、なぜ都をお離れになられたのでしょうか」
「朝廷をと、問うているならば、見捨てたわけではない。わたしはただ――、血を見たくなかっただけだ。内乱は民への裏切りだ。朝廷は人民の信頼の上に在る。その内輪揉めで無辜の民が火の粉を被るのは、わたしには耐えられなかった」
「さらなる大きな戦火が起ころうとしています」
「犠牲を少なく留めるならば、あのときに支払っておくべきだったと、そういうことか」
「あの混乱の中、幼き帝なれば、いずれ簒奪を企てる者が現れるのは必至。それは、お判りになられていたはず」
「厳しいな」
「申し訳ございません」
 沙羅は海武の背に頭を下げた。
「謝るな。沙羅の云っていることに間違いはない。そもそもの原因がわたしにあるのは否めない。それは紛れもない事実だろう。無責任な振る舞いを諫められては、返す言葉もない」
 沙羅は海武の視線の先を追った。
 感覚の裡で一回りほど小さくなりはしたが、根を下ろした石は、依然、大地と巨木とに対等に渡り合うだけの風格をそなえている。しかし、馴染みすぎたようにも思う。石である以上、地にも草にも木々にも、周囲に対して何も求めてはいけないはずだ。それが本来の姿であったのだ。
 人がものに性向を見い出せば、それはただのものでなくなる。
 馨涼苑のこの石は海武そのものだ。情念がそのまま封じ込められ、裡に魂を秘めた塊となった。
 いつか巨大な塊は、自らの重圧に耐えかねて厭世の念を抱く。それは安らぎであり、快楽である。虚構の浄化は一時だけの忘却を与え、叶わぬ贖罪は、そうしてなすがままの風葬を求めるのだ。想い続けたところで、恐ろしくも永い間、決して消えはしないと判っているのに。
 草の途切れた地面には苔が繁殖している。いつかはここも完全に蝕まれてしまうだろう。
「何度目になる? ここでこうして沙羅と会うのは」
 海武が云った。殺伐とした会話を嫌悪したわけでもなかろうが、緩く首を振っていた。
 沙羅は幾分柔らかい声で応じる。
「三度、正確には四度目になりましょうか……」
 はじめて馨涼苑を訪れたその日に、沙羅は海武と出会った。
 あの日の少年が皇の弟だと知ったのは、それからしばらく経ってからのことだった。
 あくる年の叙位の折に、御簾の陰からその横顔をみとめたとき、沙羅はすぐに彼と理解した。なんら疑惑も湧かず、不思議と納得していたように思う。
 皇太弟の行幸に快哉を叫ぶ宮人たち、対照的に厳しい表情の法然の父をはじめとする重臣たち。違和感に満ち満ちた宣陽殿の東廂にあって、沙羅はすでに定められた軌条のあることを認めた。
 その後、海武と再会したのは、やはり馨涼苑でのことだった。
 宮人どうしであっても横の繋がりは、得てして少ないものである。まして、相手が皇族ともなればなおのことだ。当時の海武は立場上、位は高いが官は低いという、有り体に云えば俸禄を吊り上げているだけのことなのだが、滅多にあり得ぬ珍しい官職であったから大内裏にもほとんど姿を見せることがなかった。無論、若年故の措置でたいした仕事もないのが実状であった。
 いつのころからか海武はしばしば内裏をあけて吉野に滞在するようになっていた。避暑とは云い難い芒種をようやく過ぎたばかりの、まだ朝廷の雑務が数多く残る時季に供さえ従えずに都を下るのである。それを知るのは、ごく限られた一部の者だけだった。
 偶然ではあったが、沙羅の心に兆すものはあった。所用で隣州に出向いた帰りに馨涼苑に立ち寄り、苑内の森に分け入ると、はたしてそこに海武は居た。――同じように、石に身を投げ出して。
 会話らしき会話はしなかったはずだ。暫く互いの顔を見て、それから石に腰を下ろし、夕暮れの草原をわたる緋い風を眺めていた。打算もなにもあったものではない。まだ、それほどに若かった。
 以後、幾度か二人は顔を合わす機会を得た。だが、あの日の出来事に触れたことは一度もない。時は流れ、一方は法然に、一方は御史大夫から総己百官となり、日常での接触も増えたのだが、後にもそれは変わらなかった。
 そして、海武は都を離れた。帰すべき当然の場所のように、ここを目指して。
「条司公――」
 暫くの沈黙を払って沙羅が云う。
「これよりは、領内でもせめて刃物をお持ちください」
 海武が寸鉄も身に佩びていないのはあきらかだった。一人で出歩くことを規制するのは憚られたが、身を守る手段は講じておかなければならない。
「心くばりは嬉しく思うが、この期に及んで刺客への配慮は無用だろう」
「ですが――」
「それとも、沙羅がわたしを斬るか」
 云った顔は笑ってはいなかった。
 一瞬、沙羅は戸惑う。
「……なあ、沙羅」
 その反応を確かめるでもなく、海武は話を変える。
「里人は時に朝廷を雲に準えるだろう。皇や朝廷などというものは、まさしく雲のように不安定なものだ。皆がそこにあるのが自然と思うから存在できる。一度疑えば、途端に風に流されて消えてしまう。だから、それを維持するには互いに信じ合うしかない。民は皇を信頼し、皇は期待を信じてそれに応えるよう尽力する。そうして、ようやく均衡を保っている。それが信義だ」
 言葉の真意を測りかねて、沙羅は黙った。
 海武は、なおも独り言のように続ける。
「だけど、こういう生温い正論も、多くの民には無意味だよ。彼らが皇を選んだのではないのだからね。ある日、突然に誰かが名乗り出て、わたしがおまえたちの皇だという。これは、裏返せば滑稽な騙し合いかもしれない。埜亜の云うように、皇や朝廷そのものも民にとっては彼らを酷使する奸夫だろう。だが、皇も朝廷も必要なものだ。それが仕方のないものであっても存在しなければならない。個々の力では成し得ない事業を施し、率いて国を統べるあらずもがなの先駆者を、民衆は求めるのだから。互いに判っているから、この騙し合いも成立する。どちらが悪いわけでもない。悟られぬよう利用するのは同じことだが」
 不意に、海武が向き直った。
「沙羅は血縁を重んじるか?」
 さあ、と沙羅は軽く小首を傾げた。
「愚問だったか。それを云っては、わたしも沙羅も我が身を疑わねばならないからね。民から搾取して暮らす者がなにを云っても、空嘯くとしか思われないだろう。だが、血の繋がりをおしいだき、政略におもねるばかりに、赤心を失うこともある。権威や偽りの尊厳を振りかざしたところで、皇や朝臣の意味があろうはずもない。彼らは諸侯の主君、百官を束ね、延いてはよろずの民に君臨する。――では、君とはなんだ? 道に悖り虐げる者は後を絶たない。それは君に権があるからだ。権は理にたって導くためのもの。どこかで履き違えた者は、いずれ活殺自在と思い込んでいる」
 ――名君と謳われたあの皇でさえ、と海武の口唇はそう続けたかったはずだ。
「それは、今に始まったことではありません」
 沙羅が口を開く。
「権を悪用する者は、遅かれ早かれ罰せられましょう。たとえ、蔓延り栄えたとしても、そのことですべてを否定なされては、善しとする道も途絶えてしまいます」
「そうだね……そのとおりだよ」
 海武は少し声音を落とす。
「でもね、沙羅。だからというわけではないが、わたしは、資質ある者なら誰が皇になっても良いと思っている。いや、本来そうあるべきなんだ。もし、仮に滌州令がその器量を具えた、権を貪るだけの者でないのなら、無意味な争いで多くを苦しめるより、むしろ、このまま黙して身を滅ぼされるのも悪くはないとさえ思う」
「――条司公」
「判っているよ」
 表情だけ笑ってみせる。
「この度のこと、わたしより沙羅のほうが詳しい。どれほどの力もないが、わたしに出来ることならなんでもしよう。案ずるな。そう幾度も逃げ出したりはできないよ。――なにより、皇をお救いせねばな。まだ、生きていただかなくてはならない」
 沙羅は海武の肩を見る。その背は何倍も齢を重ねたかに見えた。
「条司公、あなたが国や皇や朝廷を傍観なさりたいお気持ちは判りました。遠回しなことでわたくしに悟らせずとも、その理由はお訊きいたしません。ですが、条司公を、あなたご自身を必要としている者が居ることもご記憶なされませ」
 暫くの後、海武は緩く首を振る。
「そんなことを云いにきたのではないはずだ。つまらぬ慰めは無用だ」
「本心にございます。たったいま、あなたご自身がおっしゃったことです――資質ある者なら誰が皇になっても良いと。国の傾きを直し、統べることの出来る御方は他におりますまい」
 はっとして海武は沙羅の顔を見る。
 辺りは既に夕闇が迫り、近くであったはずの二人の距離が急激に遠ざかったように感じられた。
「玉座の重みを解し、皇位の基を正せるは、条司公をおいてありません。それが、たとえ皇と――」
「成さなければならないことがあるのだろう、沙羅には」
 海武は沙羅の言葉を遮る。
「たとえ、それが信念でないとしても沙羅がそれを望むのであれば、わたしは騙されてもいい。だが、皇だけはいけない。わたしはその器ではない」
「……課せられた務めだと、お思いにはなりませんか」
「己すら護れぬ者が、どうして何万もの民を護れるというのか」
「……」
「すまない。聞かなかったことにしておく」

 はたして、彼女は知っているのだろうか。本当のことを――あの日に皇位をなげうって吉野に籠もった真の意味を。そして、薄々は感づいているのだろう、かつてこの場所で行われた事実を。
 海武のひらきかけた口は、しかし、その視線が沙羅の深い瞳に吸い込まれるのを避けるのと同じように静かに塞がり、ついに言葉を発することはなかった。

          七

 埜亜は慮笙の差し出した地図に見入っている。
 どこで入手したものか、細々とした谷や小川までもが丹念に描かれた最新のものだ。国子監の蔵書にも、埜亜はこれほどのものを目にしたことがなかった。舒州を中心とした狭い範囲ではあるが、川幅や山々の標高、あるいは土壌の様子などが随所に記されている。
「それで――なにか、策はないのか」
 視線を上げて埜亜が云った。
「……どうかな」
 と、応じる声は一つ。
 馨涼苑の奥座敷である。夕餉を終えて、再び五人が顔を合わせていた。
 話題の要は朝廷への対応にあった。逓州、伊州、閃州への使者を海武の舎人と決め、同時に大内裏の間者に賛意を得られる者の数を窺わせる手筈を固めた。その後は募兵とその割り振りに話は進むが、これは一向に妙案が出ない。もっとも、口を開くのは専ら埜亜で、それに慮笙が鈍く応じていたのだが。
 沙羅はただこの場に居るだけといった風で、未だ一言も発していない。沙棗も同様で、所在なげに少し離れた一隅で俯き加減にしている。
「出帥の時機だが――」
 見渡せど目を合わせる者はない。必然、正面に座した慮笙を相手に語る。
 ともあれ、と埜亜は継いだ。
「海武が兵を挙げると聞けば、州兵以外にもある程度の人間は集まる。こいつは民意ってやつだけには、えらく強いからな。しかし、どう考えても数の上では不利だ。なんとか渡りをつけて五府を内側から崩すしかない。それまでは兵を一所に集めるのはまずい」
「……たしかに」
 お座なりに短く頷いたのは、やはり慮笙だった。
「それに、だ。近衛は無論のこと、武衛の連中は戦い慣れている。数でも劣るというのに、経験のない州兵やら烏合の衆を皇軍と対等に渡り合えるよう、一端に仕上げるまでの刻を稼ぐ余裕があると思うか?」
「……いや」
「兵を集めるのもまずい、集めないのもまずい。いずれ、正攻法は危険だ。かと云って、相手の出方を待っていては、ここで軍糧攻めに遭うのがおちだ。事実、宮嶋は固められている。允螺とて、後々のことを考えれば兵の浪費は避けたいだろうからな」
「……もっとも」
「とはいえ、こっちが動けばやつに口実を与えることになる。逆手にとられて、吉野に謀叛のおそれあり、ということだよな」
「……しかり」
「そうなれば、いやでもわんさか押し寄せてくる。それでもって、ここで足止めを食わされてみろ、兵を挙げるどころか州侯との繋ぎも取れなくなる。つまるところ、早めにここを出るべきだ。守城など、とても無理だろう」
「……だろう」
「……」
 言葉を切って、埜亜はまじまじと慮笙を見やる。
「……爺さん、あんたやる気あんのか?」
「――ん?」
 ふいに声音を変えて問われて、慮笙は愛想笑いのまま固まった。
「さっきから、やけに軽々しく頷きやがって、ぜんぜん真面目に聞いてねえだろ」
「いや、いたって真剣。もっともなご意見、傾聴してますよ」
「傾聴ね……。傾聴ってのは、聞き流すって意味か? どこかの役所と同じだな。俺もこれからは心を入れ替えて、執務の間は皆の小言を傾聴してやるよ」
「そういう戯言を……」
 だんっ、と埜亜は拳で床板を叩く。
「呼び出したのはあんただぜ、爺さん。戦になると云ったのもあんただ」
 埜亜は慮笙を見、それから、片眉を上げて睨むような視線を周囲に送る。
「まったく、どいつもこいつも覇気がねえな。判ってんのか? 結構やばいのだろう」
 埜亜、とそれまで傍観していた海武が口を挟む。
「気持ちは判らないでもないが、焦っても良策は生まれない。それに、いまの時点で戦の相談をするのは、どうも気が進まない」
「おまえがそれでどうすんだ。おまえは三州から軍を借り受けて挙兵すればいい。戦いたくなければ、あとは奥で寝てろ」
 海武は苦笑する。
「まだ、本当に戦になると決まったわけでもない。滌州令の人為や気宇も知らないし、元の滌州宰史――傍成といったか、彼の素性も知りたい」
「おまえも煮え切らないな。ある程度の準備はしておかねえと手遅れになるぞ。法然がここに来たことは、もう承知なんだ」
「それでも、相手を知らなければ何もはじまらない」
「だから、最初に大内裏の連中と繋ぎをとる。何をするにしても人手がいるんだ。いかにも力不足だからな。それでもって、短期間で連中の気持ちを朝廷から引き離して、こっちに付けなくちゃいけない。噂をばら蒔くだけじゃ駄目だ。でっち上げでも何でもいいから、象徴となることが欲しいんだよ。――そうだろ、爺さん」
 慮笙は軽く頷いた。
 結局、それに尽きる。話が逸れてはここに戻り、堂々巡りを繰り返す。より多くの人を味方に引き入れるというのは、やはり容易なことではない。
「不正の事実を暴こうにも、やつらは簡単に握り潰す。そういうことに関しちゃこなれたもんだからな。だいいち首謀者の顔が見えていない。允螺本人が姿を見せないのだから、そっちから攻めるはかなり厄介だぞ」
 埜亜はいま一度息を吐いてから慮笙に云う。
「それで、隠しねたの一つや二つもないのか?」
「隠しねたとは、また頓狂な……」
 慮笙の柔和な表情は変わらない。
「……しかし、まあ、ないこともない」
 皆の視線が一様に慮笙に集中した。
「なんだと?」
 埜亜は慮笙を睨む。
「あるなら最初から云えよ!」
 片手を上げて慮笙は埜亜を制した。
「斯くなるうえは……」
 一つ咳払いをして云う。
「――天啓を仰ぐ」
 慮笙を見たまま、埜亜の顎が落ちた。
 乾いた室内に沙棗の呟きが響く。
「それって……」
 溜め措けなくなった息をつき、やがて、再び発せられようした声が無遠慮な大音声に遮られた。
 ぱくりと口を開けたまま凝固していた埜亜が、大声で笑い出した。
「惚けちまったのか、爺さん。なにを云うかと思えば、天啓だあ? それってあれか、伜芭のことを云ってるのか? 信心深いというか、俗離れしてるというか、まったく畏れいったよ」
「神佑天助、そう侮ったものでもない」
 慮笙は微笑をたたえる。
「帝紀にも天子の行啓は記されておる。廃朝の危機を救ったとな」
「真面じゃねえな。だいたい、それ、いつの話だ?」
「ほんの数百年前」
 埜亜は再び、けらけらと笑う。
「やっぱり爺だな。あんた、何万年生きてんだよ。あんたは頭の切れる爺さんだと思ってたけど、俺の買いかぶりだったな」
「――なんて無礼な人なの、あんたって」
 震える声を背後から浴びて、埜亜は振り返った。たまりかねたように乗り出して、沙棗は堅い目線を投げつける。
「よくもまあ、そうぬけぬけと蕪辞を連ねられたものね。あんた、仮にも律師でしょう。法に仕える者が天啓を信じなくてどうするのよ!」
「あいにく、俺は偶然なったような律師だからなあ……」
 埜亜の笑いは止まらない。
「呆れたものね。いったい僧伽でなにを学んだのかしら。やっぱりあんたが官に留まってるのは間違いだわ。国のためにならないもの」
「あのなあ……、これは子供の遊びじゃない。幾万もの生命にかかわることだ。戦なんだ。戦略とか戦術を論じなけりゃ見える活路も見い出せないだろうが。神頼みも大いに結構だよ。けど、それはすべての労を尽くした後の話だ。この非常時に迷信に縋ったってしょうがないだろう。見当違いもいいとこだ」
「どうやら、本当に僧綱を忘れてしまったようね。伜芭は迷信なんかじゃないのよ」
「そんなことは、どうでもいい。この際、そんなもんは居ようが居まいが関係ない」
「愚弄は許さないわよ。伜芭は居ます」
「誰か見たやつがいるのか? 居るなら連れて来てもらいたいもんだ。まあ、いかれた爺はどうか知らんがな」
 云って埜亜は下卑た笑いを漏らす。
「証明すればいいんでしょう。そうすれば天啓を信じる?」
「――はん?」
 埜亜は沙棗を覗き込む。
「簡単なことよ。天山に昇ればいいんじゃない」
 一瞬、時が止まったような間が開いた。
「……無謀だ」
 言葉を吐いたのは海武だった。
「危険すぎる。風に飲まれてしまう」
 蜃国の者なら誰でも知ることだ。余程の躁狷であっても、百年に一度も天山に昇ろうなどと思い立つ者はない。
「伜芭にお逢いする一番の近道は、天山に昇ること。その天山も、春分の一時だけは風が止むと聞きます。この機に昇れば伜芭に目通り叶うはずです」
「そうは云うが、山路自体が厳しい。昇るとしても、雇いに応じる人足がはたして居るものかどうか判ったものでもない」
「ご心配には及びません。こう見えてもわたし、脚は丈夫なんです」
「――沙棗自ら昇るというのか」
「はい。もちろん」
 沙棗はにこやかに頷く。
「しかし――」
「いいんじゃないの。物好きで行きたいって云うんだから、行かせてやれば。まあ、すぐに諦めて帰ってくるだろうよ」
 失笑して吐き捨てた埜亜を沙棗は笑顔で振り仰ぐ。
「なに云ってんの。あんたも一緒に行くのよ」
「――へ?」
「当然でしょう。わたしだけ伜芭に逢っても、証明にならないじゃない。それに、かよわい女独りじゃ山道は危険ですものね」
「かよわい?」
「文句を云わずに、少しは役に立ちなさい。嬉しいでしょう、天山に昇るなんて滅多にあることじゃないもの。律師の本望ってものよ」
「だから云ってるだろうが、俺は別に身持ちの堅い律師じゃねえって……」
「つべこべ云わない。あんたでも、わたしの荷物持ちくらいにはなるわ」
「あのな……」
「よろしいでしょう、公卿。天啓を仰ぐ大任、わたしに命じてください」
 問われて慮笙は沙羅を見た。はじめから目線を床に落としたままの彼女の表情は、いまもっても、なんら変化がない。
「判っているとは思うが――」
 視線を戻して云う。
「天山は険しい。風が止むのは、ほんの数日。そのわずかな間に、雲居の庭が見つかるかさえわからない」
 沙棗は真顔で頷く。
「承知しています」
 では、と慮笙は姿勢を正した。
「この老耄は命を下す立場にはない。よって、人民に代わって願う。――蜃を導く伜芭の迎えを頼み申す」
 云って深々とこうべを垂れた。
「おい、こら、ちょっと待て――」
 割って入るように立ち上がって、埜亜が声を荒げる。
「おまえら、なに神妙なことやってんだ。気味悪りぃぞ。なんでこうなるんだ、おまえらおかしいんじゃねえか? 沙棗、おまえ云い出した手前で引っ込みがつかなくなっちまったんだったら、今が機会だ、早くやめるって云え」
「うーん、なかなか良い配慮だけど、残念、足りてるわ」
 見上げて、沙棗はにっこりと笑む。
「悪いわね、もう決めちゃったのよ、天山に昇って伜芭にお逢いすることに。――もちろん、あんたもだけど」
「勝手に決めるな! おまえが行くのはまだいい。けど、人を巻き込むな。行きたきゃ一人で行け」
 沙棗は悪戯げに瞬く。
「ひょっとして、怖いの?」
「馬鹿か、おまえは。付き合いきれんと云ってるんだ」
「しょうのない人ね」
「なんとでも云え。冗談じゃねえぞ」
「仕方ないわね。あんたは、ここで待ってなさい。荷物持ちには、海武さまの舎人をお貸し願うわ」
「ああ、そうしろ。――いいか、どんなに頼まれても、俺は天山へは行かない。たとえ允螺が玉座を乗っ取ったとしも、断じて俺は伜芭なんてものは信じないからな!」
 云い放って踵を返す。が、座敷を出て行こうとして、埜亜は脚を止めた。
 慮笙を振り返る。
「爺さん、あんた正気か?」
 わずかに笑ったように見えたが、慮笙の返答はなかった。
「――勝手にしろ」
 捨て台詞を吐き、埜亜は改めて踵を返した。
 その背を見送ると、沙棗は肩を竦めて、わざとらしい溜息をつく。
「まあ、いいわ。あんなやつ、居ても足手纏いなだけだもの。わたし一人で充分よ。そうと決まれば早速支度をしなくちゃ。春分までに、あまり時間がないものね」

          八

 一夜明けた早朝、慮笙の姿は川岸にあった。
 馨涼苑での食客の暮らしを享受するようになってからというもの、季節の良いころは日課のように釣り糸を垂れた。
 無論、食す為ではない。実際、この瀬で魚を釣り上げたことなど一度もないのだ。川辺に現れては日がな一日を過ごし、事情を知らぬ里人からは呑気者だの惚けだのと揶揄されながらも、もとより悪意のない雑言に甘んずるのだった。
「どうかな、允螺の動向は」
 浅瀬にはぜる水音と野鳥の囀りに混ざると、話声は大きくない。
「ご指示どおりに邯硬に数名を差し向けましたが、二度にわたる失敗の後、姿をくらまされ、現在はようとして在所が知れません」
 傍人は沙羅。二人の他、周囲に人影はない。
 邯硬とは滌州の州都である。もとは紫恭の都として栄え城下に多くの軒を連ねたが、それもいまは廃墟が目立ち、棲みつく小動物さえないという。
「――既に入内をすませたか」
「あり得ないことではありません。むしろ、そのほうが自然でありましょう。手回し良く今上の傍には滌州の息のかかった者が据えられておりますので」
 短く慮笙が頷く。
「だろうな。さもなくば、軍を動かせはしないだろうし、皇を傀儡するのも、そう容易ではあるまい――まず、ここまでは順当か」
 ええ、と応えて沙羅は慮笙の横顔を窺う。
「よろしいのですか、なにもせずとも」
「相手が内裏では打つ手がなかろう。こちらから使者をたてるのも筋ではあるまいし、おとなしく待っていれば、そのうち否応なしに向こうから出てくる」
「……」
 無言で沙羅は視線を落とした。この落ち着き払った老人の様を、どう受け取れば良いのか彼女自身、いまもって測りかねている。
 允螺の暗躍は、昨日今日に始まったことではない。二年前の傍成の司徒就任、それに続く滌州からの相次ぐ人員の流入。云うまでもなく、すべては綿密な策謀に基づいた纂奪であった。
 滌州は蜃朝に併合された国々の中でも古株に属する。都よりさらに先、渭水下流の平野にあって、広大な地域を領有する。だが、領地は決して恵まれた境遇とは云えなかった。国の北東に位置し、北の大部分は一年のほとんどが凍りつく。その寒冷な気候に加え、わずかな農地を守ることさえ常に難を要した。原拠は渭水にあった。この国内最大の河川は、氾濫の周期がきわめて短いのだ。春先の雪解け、夏の大水、秋の野分と年間を通じて一つ所に流れを据えていない。多くの支流を飲み込み膨らみ続けた濁流は、狂濤逆巻き、曲がりくねって大地を押し流す。そうして、氾濫の度ごとに厭きるほど甚大な被害を及ぼすのだ。――紫恭が滌州と呼ばれる所以である。
 治水は歴代の領主の宿志であった。いや、領主ばかりではない。渭水を治めた者は国を治めるという。渭水の氾濫はそれほどの難敵であった。これに打ち勝った者はない。
 紫恭が蜃朝の平定を受け入れた要因もそこにあった。他国に借金をしてまで多くの金銭と労力を注ぎ込んでなお、治水を果たせず、ついには軍門に下ったのだ。
 しかし、朝廷にとってもこの治水は生半可なものではなかった。水流を調整する手立てもなく、堤を造るにしても、流域すべてを覆うには莫大な経費と時間がかかる。造り始めた堤は半年ともたず決壊し、直後には必ずと云ってよいほど疫病が蔓延した。限られた予算と人員ではとうてい追いつかない作業であった。
 朝廷は無理をしなかった。朝廷にしてみれば、紫恭に頼らずとも穀物は全土から採れるのだ。また、渭水にばかり構っていられるほどの余裕もなかった。治めた国土は、そのころあまりに肥大していた。
 滌州ほど無益な土地もなかろう。広大な大地があっても実りがないのだ。だが、渭水の氾濫は、水が引くと同時に種子を含んだ土をもたらした。再建を図らんとする時の領主は馬を放牧させ、わずかな間でも戎馬を育てた。収入は、ほとんどをこれに頼った。しかし、それも蜃朝の馬政にあって厳しく統制された。軍事に係わる多くの馬を一州に抱えさせるのは危険と判断したからだ。
 辛うじて得られた収入も他国から穀物を買うのに充分ではなく、結果、民は離散し、残った者もいつぞや疲弊して、荒地の雑草を口にするよりなかった。
 繁栄の蜃国にあって、唯一辛酸を嘗めさせられたと感じていたのが滌州だ。蜃朝の下での豊かな生活は紫恭の民にとって願い以上のものであったに違いない。多くは望まぬとも、併合を受け入れたならば、それまでよりは幸福な未来があると信じて疑わなかったのだから。
 その滌州の現領主が允螺である。氏族であり、すなわち、允螺とは祖を受け継いだ氏名であった。継いだのは氏だけではない。歴代の傷、歴代の苦渋もまた、その身体に染み込まされてた。
 允螺の欲するところは南であった。己の双肩に担った紫恭の民の願い、暖かく豊饒を約束された南の大地――ただ、それだけであったはずなのだ。

 すべて君命を奉じて平静を装い見過ごせ、との慮笙からの伝達を、命として沙羅が受けたのは、その直前のことだった。
 允螺の動向を慮笙がいかにして仕入れたかを沙羅は知らない。だが、想像に難くはなかった。おそらくは慮笙が地方に囲っている者たちから採取したのだ。司空に就いた頃から、慮笙は各地に信頼できる間者を潜り込ませ、民情を報告させていた。彼らのことを慮笙は遠方の友と呼ぶ。当然ながら、無位無官であり個人的な情報源なのだ。司空を辞して以来、送金は途絶えているはずだから、どうして彼らが糊口をしのいだものか。しかし、いち早く紫恭の動きを察したからには、その繋がりは現在までも続いていると推知できる。世塵を脱して山中に閑日を送る老人に、いかにも似合いの図柄だ。
 彼らが慮笙と縁を切れずにいるというのも解らないでもない。沙羅とて、かつての司空を不用意にも信頼してしまうのだ。また、そうでなければ大切な時機と知ってなお吉野に赴く危険を犯してはいなかったであろう。
 洛中で育った沙羅にしてみれば、そこはやはり馴染み深いものだ。邦家の宮人を身近な存在と感ずるのも謂れなきことではない。しかし、それだけの理由からではなかった。慮笙には抗い難い何かがある。慮笙に限っては、その関係以上のものを胸奥に想う。明瞭な答えはなかった。だが、それでもなお法然たる沙羅をして、ずれの生じた国の行く末をこの老人に委ねせしめたのは、そうせざるを得ない特別な何かがあったのだ。
 ところが、允螺の動きに対する慮笙の反応はあまりに疎かった。何もせず、ただ報告を怠るなと、そればかりであった。
 都は変わらぬ潤いを見せていたが、不穏な空気は徐に広がりつつあった。
 噂は端々で上るが、それに対する慥かな応えを持つ者はなかった。謀計が表立っては見られなかったのである。また、そうなるに充分な素地があった。先帝崩御より後、わずか四年の間に利権の奪い合いは貴族の秩序を乱し、階級による統制は有名無実のものとなっていた。
 策略は気づかぬところから始まり、静かにより深くへと侵入する。事情を知り始めた宮人の中で、業を煮やした官僚は、次々に紫恭の手の者によって排除され、官席を惜しむ者は呆気なく忠誠を売り払った。幼君を国の御柱と据えた朝廷の中枢は、それほど荒廃しきっていたのだ。
 沙羅は情況を逐一慮笙に報せた。しかし、待ち続け、ようやく発せられた刺客の命とて、允螺の動きを煽ることでしかなかった。この時点においては既に邯硬の警戒は固まっていた。もとより奏功しない目論見だった。結果として、允螺の蜃宮への侵入を促し、盤石の構えを許すに至った。
 こうなれば、もはや紫恭は捨てたに等しい。領主自ら逆賊に成り下がり、土地と共に民の願いもまた、葬り去ったのだ。
 そうして後に、沙羅は吉野に呼び寄せられた。――なにより理解できぬ命を受けて。
「本当に、これでよろしかったのでしょうか? おっしゃるとおりに二人を連れて参りましたが――」
 囁くほどの声で云う。
「なにを、迷っておられる?」
「なぜ、沙棗と埜亜なのかと――」
「あの二人でなければだめなのだよ」
「……」
「あの二人ならば、伜芭との邂逅を果たす」
 川面を見つめながら、慮笙は緩く息を吐く。
「意識に昇らぬ記憶は、条件を満たしたときに限って現れる。真摯に信じる想いと、猜疑し否定する想いとが純然と衝突し、やがて解け合い重なるとき、はじめて光明は見いだせるのだよ」
「……そういうものでしょうか」
 具体性を欠く云い様では、ほとんど真意を掴みかねる。結論を急ぐならば、先の言葉をそれと受け取るが、それにしても、どうしてそこまで云い切れるものか。行き着く先は一つ――それは、ともに抱く志しであったが、いまだ確かな道程は示されてはいない。いや、微かに条理は呈れた。昨夜の大いに芝居がかった慮笙の言動で、兆す最初の一歩を踏み出したことにはなる。だが、たとえそれが必定であったとしても、各々の寄り道が求める結末への妨げとなる危惧を感じずにおれないのも事実だ。
 吉野にあっても慮笙には見えていたはずだ。允螺の入内への足固めは、傍成の司徒就任が決定づけた。そのうえで土壌を均すための時間を与え、さらにはきっかけさえも与えた。
 それでいて、慮笙はまるで世情を無視したように平然と嘯く。允螺の方策とは、あまりに対照的だ。
「あの二人は必ず伜芭と巡り逢う。万が一逢えないとしたら、それは伜芭がそう望んだということだ。それは受け入れるしかない。無論、あり得ぬことだが」
 沙羅はただ頷く。
「心配かな?」
「いえ、それが本分でありましょう」
 云って、沙羅は少し苦笑した。いかにも取ってつけた優等生の言葉だ。
 つられたように慮笙も軽く笑う。
「伜芭は、すべての鍵。機が熟すのを待って現れ、それを迎える者の内なるを知る。偶然でありながら必然に遭い、見ず者には振り向かず、気づかぬうちに在り、気づかば去りゆく……」
 ――その性、温厚にして横暴。有翼の獣を駆って泰山を亙り、天下に一国を臨む。深邃に生まれ、遷りて後は天の息子と託される――故に、伜芭という。
 くすりと沙羅が笑った。
「なんだか、掴み処がないですね」
「そうかもしれない」
 慮笙も声に出して笑う。
「皇がなくとも民があれば、いずれ国は立つ。しかし、伜芭なしでは個々人は立ち行かない。拠り処になにを求めるかはそれぞれ違っても、与えるものと与えられるものの関係は決して崩れはしない。あとは、その意向を汲む意思の問題だ」
「――なにもかも判っておいでなのですね」
 否、と慮笙は首を振る。
「なにも判ってなどおらぬ。ただ、少しだけ歳をとった」
 不安はいつも付き纏う。齢を重ねれば、それだけ不安は薄らぐものなのだろうか。不安の中で生きる時間はあまりに永い。持て余し、耐え切れなくなって、だから人は何かに祈るのだ。それが何とも知らずに。
「事情は刻々と変化する。人の心もそうだ。判らなくなったときは、待つのも一つだと思う。気づくまで」
 慮笙の云う意味は判る。海武も、允螺も、沙棗と埜亜も、そして沙羅自身も同じなのだ。
「周りは混乱します」
「そう、深く入り過ぎたときは、そうかもしれない。しかし、だからこそ必要なのではないかな、人は、待つということが」
「それが、伜芭なのですね」
 それには、慮笙は何も答えなかった。
「埜亜は大丈夫でしょうか。かなり激高して息巻いておりましたが」
「無理もない。埜亜にしてみれば、いいようにあしらわれたと思うだろうから。だが、あれは必ず天山に昇ることになる。そうして、必ず伜芭に逢う」
「……」
「あれは童蒙ではない」
「……ええ」
 頷いて、沙羅は視線を川面から彼方の平原に向けた。その距離の遠さに、既に後戻りの出来ないところまで来てしまったことを実感する。
 海武と允螺は本来、対立しあう間柄ではなかった。それを仕向けたのは他ならぬ自分ではなかったか。忸怩たる思いから、いつか允螺の裡に野心が芽生え、道に悖る行為に及ばせたと見るのは易いが、それを防ぐはずの自分があえて見過ごしたのは、とうてい許されることではない。
 この国は、すべて伜芭の手の内にあるという。見極めるのは伜芭であると。ならば、伜芭が二人を救ってくれるのか。そして、しかる後には、自分の罪を裁いてくれるのだろうか。
「ところで、総己の様子はいかがでした」
 慮笙の言葉に心を見透かされたような気がして、沙羅は頬をやや赤らめた。
「いまだ、はっきりとは――」
「……そうか」
「条司公は、戦や政より、なによりご自分を嫌っておられます。繊細なお方ですから、苦しみも人一倍感じておられるのでしょう。憎しみも、すべてご自身にお向けになって」
「優しすぎる感情は国を滅ぼす」
「……」
「だが、なくてはならないことだ」
 はい、と頷いた沙羅に、徐ら振り仰いで笑顔をくれる。
「今はまだ、それでいい」


2005-05-11 21:24:12公開 / 作者:松家
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■作者からのメッセージ
1〜7
全30(400枚)程度です。
この作品に対する感想 - 昇順
初めまして、京雅と申します。先ずは松家様の文章力に感嘆しました。聞き慣れる単語が多かったのは私の読解力不足、厳かな文章と確立された物語の流れに時間は掛かりましたが読み進める事が出来ました。言葉と言葉の掛け合いも巧く、惹き込むには充分だと思います。ここからは個人的な意見で御座います。文一つ一つは確かに素晴らしい程洗練されていますが、時折その構成に一瞬目が止まってしまいます。それと歴史雰囲気を大切にするとはいえここまで硬くする必要性はあるのでしょうか。その雰囲気を伝える事を目的とするなら大成功で御座いますが、おそらく(私も含め)人によってはテンポを殺しているでしょう。いえ、先ずこの愚か者がこのような作品を読む事自体間違っているのかも知れませんが、世の中には読解力の劣る者も居ると考えて下さい。私なんかは内容よりも文章のほうに気をとられがちだ、というのは正直な感想です。長長と好き勝手言いたい放題語ってしまいましたが、どうかお許し下さい。博識高い方にとっては堪能し過ぎる程出来る作品と思います。全ては京雅の戯言、読解力の低い者の遠吠えだと認識して下さい。お仕事の合間に辿り着いたという事で、忙しいとは思うのですが、また作品を投稿する機会があれば読もうかなと思います。では。(失礼な事をつらつらとすみません!)
2005-05-08 15:06:56【☆☆☆☆☆】京雅
初めまして★文章自体はとても洗練されているように思いました。この歴史的な雰囲気もまた非常にあたしの好みでしたので、良かったと思います。ただ、少々置いてきぼりにされた感が否めませんでした、ごめんなさい。たぶん普通に登場人物とか難解語とかにふりがながなかったからだと思います。いや、そりゃあもう『きっとこう読むんかな』と推測はできるんですが。あと……これはホントに個人的なあれなんですが。あんまり大量に一気に投稿された分を見ると、途中で疲れて読む気がなくなってしまうという致命的な……馬鹿者だったりするんですよね(汗。一気に読むのが好きだという方もいらっしゃいますが、少しずつ更新という形をとっていただけるとあたし的にはもっと読みやすいです(笑)って、我儘はスルーしてくださって構いませんので。ではでは。
2005-05-09 12:42:09【☆☆☆☆☆】ゅぇ
初めまして甘木と申します。作品拝読させていただきました。頭の中が中国史と日本史でグチャグチャになっています。雰囲気は良いし作品も読みやすいです(私は一気に読む方が好きなので、読み応えもばっちり)。ただプロローグのせいか世界観がいまいちつかめないままラストまできてしまいました(すいません私の読解力不足です)。途中で司空なんて出てきた時には中国の役職が浮かばず、韓国の実際にある名字を思いだしたものですから、あれ? モデルは朝鮮半島か。なんて馬鹿なことまで考えてしまいました。饕餮ってあんな生き物でしたっけ? 羊をモデルにした生き物ですよね。身体が牛で虎の牙を持ち赤子のような鳴き声を出す、ってイメージがあったものですからちょっと違和感があったような……。下らないことですが「埜亜」なんて名前が実際にあり得るんですかね? あるとしたら、あんまり良い名前じゃないような気がするんですけど……下らないこと書いてすみません。では、次回更新を期待しています。
2005-05-09 16:31:08【☆☆☆☆☆】甘木
京雅様
早々に、ご意見をありがとうございます。
本文自体は、あまり書き直すことを考えておりません。修正し始めると歯止めが利かないような気がします。ですが、このWebサイトに接し、また何か別なものを書いてみようかなという気持ちになりました。
もう少し、ゆっくりとサイト内を巡ってから、削除するか続けるかを決めようと思います。

ゅぇ様
みなさまのルールがあるのですね。よろしければ、お教えください。
本文は、もとからあるものを、ほとんど手を加えずにそのままアップロードしています。
どのようなペースにすれば、よろしいのでしょう?
それとも、あらたに書きはじめたほうが、よろしいのでしょうか?

甘木様
私も滅茶苦茶だと思います。名称に一貫性がありません。定石を踏むことを嫌い、特定の地域、時代を避けて漢字の形や音から伝わり易いものを選択したのですが、これが実に本末転倒です。ファンタジー云々以前の問題であったと思います。むしろ、恐れずに、すべて造語にするのが正解だったのかも知れません。逆に饕餮は安易に定番の語句を摘み喰いしたようです。恥じ入ります。本来であれば、鵞鳥とすべきだったのですが、あまりに冴えないので、単語を創造するよりはと、この名称を借用した記憶があります。慮笙、渭水等についても同様です。いずれ、没にするだけの粗雑さがあったのだと思います。書いていて私自身が混乱したのを憶えています。
埜亜は深慮なく当てた漢字です。よくわからないのですが、後学にもう少しご教授いただければ幸いです。
2005-05-11 21:44:55【☆☆☆☆☆】松家
続き読ませて頂きました。面白かったです。でも、松家さんの独特の作風に置き去りにされそうになって、必死に追いつこうとして読んで、作品の世界そのものは楽しんでいなかったのでは、と不安になっています。こんな風に書いていますが、この作品の雰囲気はとても気に入っているんです。上手く表現できないのですが、この作品は読者サイドに一切近寄ることなく、御自分の世界を邁進されているように感じてしまいました(邁進されることは良いことですし、読者に媚びることが重要だとは思いませんが……矛盾しているなぁ)。一応私は大学は史学部なので大体の地名や官職名は読めますが、一般の読者が全て読めるとは限りません。漢字が読めないだけで読まない読者がいるかもしれません。それは書き手にとっても読み手にとっても大きな損失だと思います。読めなければ調べればいいだろう、と言う考えもあるでしょうが、一般の読者はそこまでしないのが現実だと思います。また、現実にあった役職名が、そのまま作品の世界の役職と同じなのかどうか分からず私は混乱していました。一層のこと、オリジナルの役職名の方が良かったのかななどと思ってしまいました。失礼なことばかり書いてしまってすみませんでした。
埜亜の件ですが、私は大きな勘違いをしているかもしれません。私は「埜」を名字、「亜」を名前と捉えていたんですが……違う気がしてきた。仮に「亜」が名前だとしたらで書きます。「亜」は背中が曲がった人間から来た文字で、「醜い」という意味です。その他に「次」「足りない」「至らない」「〜のようなもの(否定的意味)」の意味があります。例えば「亜美」という名前は音は綺麗ですが意味を考えれば「美しくない」「美しさが足りない」、すなわち「ブス」と言っていることになります。ただ、埜亜で一つの名前なら「野蛮でない」「愚かではない」など良い意味になりますね。その場合は、前回の暴言を取り消すと共に謝罪いたします。
では、次回更新を期待しています。
2005-05-13 00:33:55【☆☆☆☆☆】甘木
この京雅、愚か者故この作品に感想を書き込んでいいのか一寸躊躇してしまいますが、読んだ事への礼儀として。厳格かつ歴史的背景を据えた雰囲気は惹かれるものがありますが、やはり極度の硬さが未熟者には何とも。文章を読む事が好きな身となればやはりそちらに気が削がれ、殆ど内容を読み取れなかった(頑張ったのですよ?)です。すみません、何の役にも立てない事しか書けなくて。
2005-05-13 11:34:33【☆☆☆☆☆】京雅
甘木様
埜亜について、ありがとうございました。よく解りました。多様な名前を併用したのが間違いでした。モデルから一切を切り離すべきでした。人に読んでもらうと本当に勉強になります。頭の中を白紙にし、自分の文書を客観的に読むことの難しさをあらためて知りました。

京雅様
本文は十年ほど前に書いたものです。放棄したものを惜しく思い、また、誰かしら他者の反応を知りたかった、というのが実のところです。読み飛ばすことのできる箇所の配置を心がけておりましたが、試みが成功したとはいえません。ご指摘のとおり、ストーリーを読めたものでなく、娯楽性に欠けたものとなりました。独善的な思想と文書をお許しいただきたく存じます。お付き合いいただいたことに本当に心より感謝しております。何かこう書くと嘘っぽく聞こえますね。私は書き込みに慣れていないもので、日常のE-Mailも、ついつい事務的になりがちです。うまく伝わらなかったらごめんなさい。
2005-05-14 15:50:20【☆☆☆☆☆】松家
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