『世に満ちた残酷な何か   読みきり』作者:恋羽 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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原稿用紙約23.17枚




 いつも通りに始まった一日。僕は変わらず街角に座りこんでいた。
 僕はいつもの様に渇いた唇で、道行く人々の同情を誘っていた。
 全身の痣を見せて、無言で自分が置かれた状況を語り、そしていくらかの金を得る生活。それを恥じるだけの余裕は無かったし、そんな感情とは無縁の世界に僕はいたのだと思う。
 拳銃とマフィアとドラッグが蔓延る街で。暴力と産声が交差する街で。
 僕はただ無力な一片の落ち葉の様に気まぐれな風に翻弄されながら、憎むべき何かを睨みつけて生きていた。僕から実の父親を奪った銃弾でもなく、そして僕をこの街から救い出そうとしない無気力な大人でもない。目には見えない、声を発することのない何かに僕は心の底からの憎しみを感じていた。
 幾許かの良心を持ち合わせた大人の置いていく小銭で僕は煙草を買う。肺をタールで汚し尽くして、僕は憎らしい何かに対してささやかな反抗を試みるのだ。黄色く濁った煙に包まれながら、僕は苦しみ死んでいくのであろう自分の死を、ただ通り過ぎていく列車を見送る様に見つめている。
 僕は、きっと人間の歴史の中に一瞬現れて、そして何の輝きも見せずに消えていく運命なのだろう。それを止めようとも思わないし、それが自分に与えられた運命だとも思っている。
 だが。一人の少女が僕の前に現れた時、僕の人生はほんの少しばかり輝いた。
 ――消え行く僕という星が、僕の中に宿る僕という人間の本心が、
                         そっと自分自身の死を悲しむ様に……。







                『世に満ちた残酷な何か』







 石と煉瓦。灰色の雲。霧と霧雨。そして、僕。
 僕の中のこの街は大抵僕の目にそう映っていた。絵葉書みたいに少しも姿を変えずに、この街は同じ側面を僕に見せ続けている。
 そしてこの街に僕が見せ続ける姿もそう変わらない。まるで年老いたこの街の背景に溶け込む様に、僕は相変わらずそこに座り続ける。
 通り過ぎていく杖の老人は車が上がるのも難しいほどの急な坂道を、息を切らしながら登っていく。僕は彼に手を貸す事も無く、ただその煉瓦敷きの坂の下で帽子を逆さに置いて金が投げ入れられるのを待っている。
 古臭い車がもうもうと黒煙を吐きながら狭苦しい車道を走っていった。後に残された黒煙も少しずつ周りの空気に飲み込まれ、しばらくすると見えなくなる。
 僕は地面に置いた帽子の中を見た。……何度見ても同じ。こんな小銭だけでは煙草も買えはしない。
 いっそのことこの道を通りかかる誰かを襲って金を奪ってやろうか、などと何度も思った。だけれど、僕のような人間にそんな度胸があるはずも無い。結局僕にはこうしていつ現れるともわからない金を何の努力もせずに待つ事しか出来はしないのだ。
「坊ちゃん、こんにちは」
 聞き慣れた声が静かな雨の囁きに混じって聞こえてくる。
 そこにいるのは、ジョゼル婆さん。よくこれほど曲がったものだというほどに湾曲した背骨の持ち主で、いつも僕にどこから持ってきたのかわからない菓子を与えてくれる。
 ジョゼル婆さんはまるで決まった日課に従う様に僕の帽子にクッキーか何かの小さな包みを入れた。そして愛嬌のある笑顔を僕に向ける。
「坊ちゃんにも神様が幸せをくれるといいのにねぇ」
「神様なんていないよ」
 もう何度繰り返されたかわからない会話。ジョゼル婆さんは僕の言葉にただ微笑むだけだ。
 そして僕の前を通り過ぎていく。……前に毎日教会に通っているのだと言っていた。だから彼女は通りすがりの僕のような人間にも哀れみを抱くのだろう。だが肝心の神様とやらが何もしてくれないのはどういうことか。少なくとも僕にはわからない。
 柔らかく降り続く雨の中で、僕はジョゼル婆さんが持って来てくれた菓子を食べた。食べながら見ず知らずの他人に精一杯自分がいかに無力で哀れな存在であるかを目で訴える。……ほとんど誰もが僕を無視して通り過ぎていくとわかっていても。
 神様、か。神様なんてものが存在するのなら、僕に今与えられた試練の厳しさについてもう少し理解して欲しいと思う。捻くれていく僕の心を、もう少し優しく扱って欲しい。そう望んでしまうのは贅沢なんだろうか。
 だが僕は知っている。神様なんてものはやっぱり存在しない。僕の父や兄弟達がいとも容易くその命を鉛の銃弾に奪われ、そして命を奪った張本人が今もきっとこの街のどこかで、偉そうに葉巻を吹かしているのだろうから。……こんな街でも祈れば救われるというのなら、いくらでも祈ってやる。
 教会の時計塔の鐘が街に三度の鐘を響かせた。
 三時。僕が隙間風があちこちから吹きこむ凍えそうな家に戻るまで、あとたった一時間。
 相変わらず帽子の中にはほんの少しの小銭しか入ってはいない。現実というのはそう簡単には覆らない物らしい。
 煉瓦敷きの歩道を歩く人々は、もうほとんどいなかった。
 それもそのはずだ。もうすでに街角には死の匂いが漂い始めていたのだから。
 皆夜に食われてしまうのは怖いのだ。死の影を背負った商人達が歩き回る表通りを夜に歩く人間などいるはずもない。
 薬物の売人達が、三人連れで僕の目の前を通りすぎた。そして坂を下ると交差点の所で別れ、街に散っていくのがわかった。……微笑を湛えて。
 僕はその見慣れた風景をただ呑気に眺め、そして相変わらず僕の前を通りすぎる人々に寂しげな視線を投げていた。
 そうして時計塔の鐘が一度だけ鳴った時。
 僕は彼女を、白い霧雨の中に見つけたのだ。
 彼女は……、そう、吹き溜まりのようなこの街には不似合いな服装だった。白いレースのドレスや青色の装飾が施された傘なんていう物は、この街にはあってはいけない物だ。もっといけないのは、重そうに抱えている大きな鞄である。……物盗りの格好の餌食だ。
 そしてなにより、彼女の顔立ちにはどこか高貴さが感じられる。黒いクラシックな車に乗り込む腹黒いお偉いさんとは違う、心の底から湧き出るような気品。それは生まれてからこの街を一度も出た事が無い僕にとって、衝撃的であり、胸をつかまれたような強い感動に震えるような類の物だった。
 僕は、一切動く事も出来ずただただ目を見開くだけだった。
 そんな僕に、――彼女は微笑みかける。
 彼女の笑顔を、僕は単純に「鈴蘭の様だ」と感じた。……満面の笑みではなく、ささやかな微笑み。恥じらいながらも、内に秘めた美しさを隠すことはしない。ひたむきな、純真な、見る者全ての心を温かさで包み込む、そんな表情。
 僕が大袈裟にもそんな感想を抱いたのは、おそらく彼女と大して変わらない年齢の自分を恥ずべき存在だと感じていたからだと思う。確かに僕は、……恥ずべき存在だ。学校にも行けず、食べる物にも困っている。そして、努力をしようともせず、他人の足に縋っているのだ。これを恥じなくて何を恥じるのだろう。
 彼女はそんな僕に近寄ってきた。
「あなたはここで何をなさっているんですか?」
 明るい声。綺麗な整った白い歯。どれを取っても彼女は僕と同じ世界にいてはいけない人間だった。いや、彼女は僕とはきっと違う生き物なんだろう。それほど彼女は完璧に見えた。
「……見たらわかるだろ、物乞いだよ」
 僕は彼女が放つ光のような物に目を背けた。彼女のその姿を見る度に、彼女の髪から香る香水を鼻に感じる度に、僕は自分を卑下し心で罵倒する。
「ごめんなさい、失礼な事を聞いてしまって」
 彼女は多少表情を濁らせると、僕の帽子に硬貨を入れようとした。……たったそれだけの仕草で、彼女は僕を魅了してしまう。
「ルクセンドール教会はこの道を真っ直ぐでいいんでしょうか」
「ルクセン……、ああ」
 僕は彼女の顔を直視する事は出来ずに、民家の向こうに見えている教会の時計塔をぶっきらぼうに指差す。
「……あの塔の下が教会だ。この道を真っ直ぐ行くと……」
 僕はこの街の解り難い入り組んだ道を不熱心に教えた。それに対して彼女はしきりに頷いてる。……どこか誇らしい気分だった。
「ありがとうございました、それでは」
 少女は僕の前を立ち去ろうとする。……だが。
「ちょっと、あんた」
 僕がそう声をかけると、彼女は全身を使って振り返る。
「なんでしょう」
「今から教会に行くのかい? だったらやめたほうがいいよ。もうすぐ四時だ」
 彼女は僕の言葉に首を傾げた。言葉の意味がわからないのだろう。この街の人間ではないのだから。
 僕は何も言わずに帽子を拾い上げて立ちあがると、彼女の方に向かって歩き出す。
「……あんたのその格好じゃ、生きて教会まで辿り着けない」
 やや睨み付けるような表情で言うと、彼女の顔に猜疑心のような物が浮かぶ。
「なんでそう仰るんですか? 一体何を根拠に」
「根拠なんて関係無いんだ。……ついてきてくれ」
 僕はそう言うと彼女の手を握り締めて、足早にいつもの街角を歩き抜けた。
 色白の少女の絹のような、そして白磁器のような手触りが僕の薄汚れた手の中で静かに震えている。
 僕にはただ、より強く手を握り締める事でその震えを抑えることしか出来なかった……。
 




 醜い娼婦。血の匂いがする男。片腕の無い鋭い目をした老人。……全てが悪に見えた。誰もが僕の握り締める手の先にいる少女の命を狙っている様に。そこらの店の主人までもが確かにこちらを見ていた。
「どこにいくんですか、私をどこに連れていくんですか?」
 後ろから小鳥のような震えた声が聞こえてくる。だが答えてはいけない。僕には彼女と親しげに話をすることは許されていない。
 ――これは、俺の物だ。
 僕は精一杯自分の表情を、悪に染めた。情の通わない顔をするように努める。
 これは自分の商品だ、そしてあくまでも自分は大人に騙されてこうして商品を輸送しているだけなのだ。そう心の中で唱え続ける。
 血抜き通り。この人の多い通りは昔からそう呼ばれている。ここに佇むほとんどの人間は食事に、ドラッグに、金に、飢えているのだ。求める物の為ならば誰の命でも簡単に奪ってしまう、そんな恐ろしい眼光がどこにも溢れている。生ける者の血を啜る者達の通り、だから血抜き通り。
 こんな危険な通りを、女を連れて歩くなんて事はありえないことだ。女はこの街では金なのだから。
 だが、僕は情けない肩を強張らせながらもこの通りを抜けて、いち早く彼女を自分の家に連れていかなければならなかった。……残念な事に僕の家に向かうにはこの通りが一番の近道なのだ。それにどう遠回りしたところで、どの裏通りにも危険はある。結局最短距離を進むのが妥当と思われた。
 道を急いでただ早足に歩き続けていると。
 突然引いていた少女の手が引き返された。僕は振り返ろうともせず力任せに引きずろうとしたが、動かない。
「おいボウズ」
 僕はそのしゃがれ声に、全身から冷や汗が吹き出てくるのを感じた。
 振り返ると、そこには大男が少女の腕を掴んでいる。男の丸太のような腕は大きな傷跡だらけで、そのどれもが医者に掛からずに治したものの様で妙な跡になっていた。
「上玉じゃねぇか。……いくらだ」
 男はそう言いながら少女の顔に髭面を近づけていやらしく笑った。彼女の表情は完全に凍り付いてる。
 僕はすぐには答えようとはせず、一度大きく深呼吸する。……なけなしの勇気が試されるのだ。
「お兄さん……、この子は高いんだよ」
 僕は男に向かって法外な値段を提示する。
「なんだと、そんな金を持ってる奴がどこにいるってんだ! ボウズ、俺はなぁ、ここらじゃそれなりに名が通ってんだぜ。ガキだろうがおちょくると、痛い目見る事になるぞ」
 怒鳴り終えると男は偉そうにふんぞり返っている。だが僕は決して表情を動かさなかった。
 少女は気絶寸前で震えあがっている。握った手からその震えが伝わってきた。
 ――すぐに済むからな、ちょっと待ってくれ。
 僕は目で訴えると、それから鼻で笑った。僕の態度を見て大男の額に血管が浮かぶ。
「お兄さん、あんたが金を持ってないからって俺に当たられちゃ困るよ。それにね、あんた名前が通ってるとか言ったけども、それはジョゼフノートンの旦那よりかい?」
 僕は精一杯声が震えない様に気をつけて、一気に喋る。……マフィアの親玉の名前を騙るなんて本当はこの町では法度なのだが、このさいそんなことは関係無い。
 男は僕のその言葉を聞いて、少し怯えた表情を見せた。ジョゼフノートンはここいらで一番有名な、冷酷なマフィアなのだ。
「……旦那は普通の女に飽きたみたいでねぇ、最近はこういうけつの青いガキが好みなんだとさ。……ただあんたの汚い手で触られたと知ったら、旦那はどうするのかねぇ」
 冷ややかな視線を作り、男に浴びせ掛ける。すると男は少女の腕を握り締めていた手を離した。
「い、いや、待ってくれ。知らなかったんだよ」
「念の為に名前の方を教えてもらってもいいかなぁ、有名なお兄さん?」
 僕の演技がそろそろ限界に達していた時、ようやく男は後ずさって逃げ去った。
 男の姿は見えなくなった。
 だが僕は胸を撫で下ろす事も出来ない。まだここは血抜き通りの真っ只中なのだ。
 僕は今まで祈った事も無い神様とやらに、これ以上の罰は与えない様に心から願った……。
 




 空の白さは段々とその明るさを失い始め、徐々に灰色へと変わり始めていた。
 石造りの道路を挟み、両側に人が住んでいるとは思えない建物が群れを成すように立ち並んでいる。今まで見てきた古臭いけれどどこか統一感のある街並みとは、似ても似つかない木造のバラック群。
 辺りに人気は無い。つまり、血抜き通りは抜けたのだ。
 僕はバラックの中の一つに歩み寄ると、その簡素な扉を軽く押し開けようとしたが。
 中からは……、男女の声が聞こえてくる。そして布が擦れる音と、木製のベッドの軋む音。
 母の声が。毎日の様に聞いている声がいつもとは違う響きを持って、扉の中から聞こえてくる。
 僕の胸は少女に対して抱いたような物とは少し違う何かに握り潰されそうだった。
「ここは?」
 少女が声を出しかけたのを、手の平で塞ぐ。声なんて出しちゃいけない。……これは仕事なんだから。
 僕は扉を閉めるとバラック――つまり自分の家――から離れ、人気の無い道端まで少女を連れ出した。
 湿った道。降り続ける霧雨が、音も無く僕の服を濡らす。
 そして家々から聞こえてくる人の声が、僕の不思議な寂しさを誘った。
 ――皆、辛いんだ。それでも生きてるんだ……。
 僕は自分に言い聞かせた。
「……泣いてるんですか?」
 少女は僕の方を、自分も悲しそうな目で見つめる。やめてくれ、同情なんてしないでくれ。僕は心底そう思った。
 僕はその彼女の視線に耐えきれず彼女の手を離すと、道端に無造作に置かれたブロックに腰掛ける。そして俯いて濡れた地面を見ていた。
 すると。
 少女は僕の方に歩み寄ってくると、青い傘を僕の上にかざした。降り注ぐ霧雨から、僕の体を守ってくれる様に。
 それに気付いた時、急に心が張り裂けそうになって。僕の目からは堪えていた涙がもうこれ以上耐え切れずに溢れ出した。恥ずかしいなんて事は少しも考えないで、ただ流れるままに涙を流した。
 少女は何も言わない。俯いている僕には彼女の表情を窺い知る事も出来ない。だが、傘に守られた雨の降らない空間に大粒の雨が降っていることだけはわかった。
 しばらく僕と彼女は冷たい雨の中で動かずに、声も出さずにそこにいた。何を話していいのか、心が乱れた僕には見当もつかなかったし、それに今聞かなければいけない事ではないはずだから。
 だから、僕らはその冷たい石畳の上で向かい合い続けていた。
 音の無い場所。霧雨が遠くから来る音を遮断して、ただすぐそこにいる彼女の鼓動と呼吸音だけを際立たせている。
 ようやく落ち着いた僕は、彼女の顔を見上げる。彼女の涙はその白い顔に一筋の線を引いていた。
「……座りなよ」
 僕は涙で掠れてしまった声で小さくそう言うと、二人も腰掛けられるほど大きくは無いブロックの片側に寄り、彼女の為のスペースを作った。
「ハンカチは持ってないから敷けないけど」
 少女は少し笑って、僕の隣に座る。そして二人の間で傘を持つ。思ったよりも二人の距離は近く、肩が常に触れ合う状態だったが僕は嫌な感じはしなかったし、彼女も多分同じだったろうと思う。
「勝手に連れてきちゃって、ごめんな」
「……助けてくれたんでしょう?」
 彼女が明るい表情で言うのを聞くと、僕は妙に照れくさくなった。
「金をもらった相手が不幸になるのを見るのも嫌だしな」
 僕はちょっと偉そうに言うと、少し考えて疑問を抱く。
 改めて少女を見つめてみる。……やはりどう見ても彼女はこの街には似合わない人間だった。
「なんで、あんたは」
「エリザと呼んで下さい」
 彼女、エリザは僕の言葉を遮った。あんた、と呼ばれるのが嫌らしい。
「……エリザはなんで教会なんかに行こうとしてたんだ? しかもこんな時間に。この街の普通の連中なら誰もこんな時間に出歩いたりしないぞ」
 一体何故こんな時間に、しかもこんな街の教会なんかに向かっていたのか。それが妙に引っ掛かっていた。
 エリザはしばらく何も言おうとしなかった。……表情から、未だにどこか僕に対する疑念を捨てきれないような様子が窺えた。無理も無いことかもしれない。
 だが少しして彼女は僕の顔を見る事無く、話しはじめた。
「……私は、あの教会の神父様の所にお世話になる予定だったんです」
 それからまた少し間を置いて、
「両親が、死んでしまって……、身寄りも無くて」
と付け加えた。
 彼女も、持っていたのだ。大きな、傷を。
 僕は同情はしなかった。したくても出来ないのだ。同情が与える鋭い痛みを知っているから。自分よりももしかしたら悲しいことを多く背負っている彼女を、苦しめる気は少しも無かった。
「……じゃあ偶然なのか? この時間に来たのは」
 僕が静かにそう聞くと、彼女は微かに頷く。
 運命という物はなんと残酷なのだろう。もしかしたらエリザは両親の後を追って死んでいたかもしれない。たった何時間かの時間のずれが命を軽々と奪ってしまうこの街に彼女がこうして来たことによってだ。いや、多分ただ死ぬだけでは済まなかっただろう。彼女の可憐な笑顔は安いありふれた誘惑にすりかえられて、そして女としては最悪の形でボロボロにされ、死ぬのだ。
 僕はただ漠然と、エリザを守りたいと思った。触れた肩の温もりや透き通る肌、そしてその純真さを、自分の命に代えても守りたいと本気で思ってしまう。彼女と一緒にいるだけで僕の心は締め付けられ、時に解き放たれる。それは今までに感じた事の無い感覚だった。
 この胸を満たす何かを守りたい。
 僕は無意識に彼女の肩に手を掛けていた。
 彼女は僕の顔を見る。
「……僕と一緒にいてくれないか」
 エリザは何も言わずに僕を見ている。その瞳に僕を否定する光は宿っていない。
 それだけで僕は嬉しかった。唇を触れ合わせる事も、SEXも、僕には必要無い。僕はただ、エリザと同じ時間に自分が存在していることが幸せだった。
 それから僕達は夜の闇の中、ささやかな夢を二人で話し合った。……この街を出ていく、そんな夢を。見たことも無い果てしない世界を旅する夢を。
 エリザは密やかに、さりげなく、僕に微笑みかけた。





 
 火薬が弾ける乾いた音。






 僕が覚えている彼女の顔は、そこで終わっている。
 僕の記憶の中の彼女はその時の笑顔を最後に消え去ってしまった。霧雨の夜に、僕をただ一人残したまま。
 彼女は無言で僕の前から逃げていった。……自分自身の壊れた抜け殻を残して。
 エリザは、薬物常用者の放った凶弾によってその儚い命に終止符を打った。……その薬物常用者が誰だったか、僕はよく知っている。知らない訳が無い。
 でもそんなことはもう僕にとってはどうでもよかった。
 僕は全て使い果たしたはずの涙が湧いてくるのを止めようともせずに、ただバラック群の中を通る石畳に膝を付き、彼女の体に手を当てた。
 冷めていく彼女の体に触れながら、どこか冷静に死んでいく彼女を傍観していたのだ。
 次の日、彼女の抜け殻が街の業者に運ばれていく時も、僕は冷静だった。まるで現実とは切り離された場所から、望遠鏡か何かでこの街を覗いている様に。
 それから。何十日もの日々が音も無く過ぎ去った。モノクロームの映像がただ漠然と流れ、僕はそれを眺めるだけの日々だった気がする。
 僕はその色彩の無い世界で、ただ煙草の煙を燻らせる。
 悲しさ、憎らしさ、怒り。そんな感情はまるで眠りの季節を迎えてしまったかのように姿を隠し、空虚な寂しさだけがそっと僕に寄り添っている。
 いつもの街角に、草臥れた僕は相変わらず座りこみ、道行く人々を見送っている。
「坊ちゃんにも神様が幸せをくれるといいのにねぇ」
「神様なんていない」
 かつての僕が口にしたよりも、強い自信を持って言う事が出来る。
 もし神様なんて奴がいるんなら、何故あんたは祈る人間しか救ってくれないんだ?
 それにエリザはきっとクリスチャンだったんだろう?
 何故彼女は救われなかったんだ?
 僕には、……わからない。
 きっといつまでもわかりはしないんだ。
 僕はいつまでも、死ぬまでこの街角に居続ける。
 進んでいく僕の運命と言う奴が、ニコチンやタールに汚されている。僕はただその運命とやらを遠くから見つめている。いつも通りの霧雨に打たれて。
 マリファナやヘロインよりも遥かに残酷に人の命を奪ってしまう、
                 この世に満ち満ちた何かについて静かに考えながら――。






                  完





 
2005-04-14 14:56:30公開 / 作者:恋羽
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■作者からのメッセージ
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