『シャボン玉:第二話・12』作者:rathi / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角73823文字
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第一話「シャボン玉、飛んだ」



――トントントン。

 台所から何かを刻む音が聞こえる。

――ジュー。

 続いて聞こえる、何かを焼く音。
「朝……か」
 寝ぼけ眼を擦りながら、鹿野川 喜介(かのがわ きすけ)は欠伸を噛み締める。台所から聞こえてくる音、それが喜介にとっての目覚まし時計だった。
 喜介は寝室のふすまを開け、居間を通る。そして、
「おはよう、トモ」
 台所に立って調理している、早川 朋美(はやかわ ともみ)に朝の挨拶をする。喜介の声に気が付き、朋美は微かな笑みを浮かべ、包丁を持ったまま振り向いた。
「おはよう、カキ。もう少し待っててね」
 よっ、というかけ声と共に、朋美はフライパンを返す。どうやら、目玉焼きを作っているらしい。朋美は、目玉焼きは両面からじっくりと焼く、というこだわりがある。
 朋美は、喜介の事を『カキ』と呼ぶ。朋美がそう名付けたのは、当時流行っていた『頭文字あだ名』からきている。かのがわ きすけ、氏と名の頭を取って『カキ』だ。このカキというあだ名は、海の幸の牡蠣のカキなのか、山の幸の柿のカキなのかは、今もって不明だ。当時はあんまり好きではなかったが、知り合ってからずっとそう呼ばれているので、喜介は朋美からそう呼ばれているのに愛着を持っていた。
「顔でも洗って来たら?」
 朋美の言葉に、喜介は唸るようにして答える。喜介は欠伸を噛み締めながら、洗面所へと向かった。

 ※

 手洗い場にお湯を溜め、バシャバシャと洗う。近くに掛けてあるタオルを取り、それで拭き取った。それから髭を剃るために、喜介は鏡の向こうにいる自分を見つめた。
 人よりやや太い眉毛。剃ろうかと喜介は考えていたが、朋美はそのままで良いと言っているので、結局そのままだった。
 人よりやや大きい瞳。誠実そうな眼だから、女の人をじっと見つめたらイチコロよ。喜介はそんな朋美の言葉を思い出していた。試しに自分自身をじっと見つめてみる。ただ単に見慣れた自分が居るだけだ。何の変化もない。もしもこれで胸がトキめいたのなら、自分はナルシストなんだろうなぁ、と思い少し笑う。
 ジェルを鼻から下、頬と顎と喉仏近辺の皮膚に塗りたくり、横滑り防止の三枚刃剃刀で剃る。流石というべきだろうか、肌を傷つけることなく剃れた。
 再び顔にお湯を浴びせるように掛け、ジェルと髭が混じった液体を洗い落とした。
「出来たよー」
 扉一枚越しに朋美の声が聞こえてくる。
「はいよー」
 喜介は顔をタオルで拭きながら答えた。手洗い場に溜まった、お湯とジェルと髭が混じった液体を流すため、栓を抜く。ぐるぐると渦を巻きながら、それらは消えていった。

 ※

「いただきます」「お召しあがれ」
 小さなちゃぶ台の上には、ご飯とみそ汁と目玉焼きの和風セット。そして、パンと目玉焼き、それと、薄く輪切りにしたトマトが数枚ある洋食セット。和風が喜介で、洋食が朋美だ。
 忙しい朝の中、二種類も作っているんだからご苦労な事だ。みそ汁をすすりながら、喜介は思った。
 食べたいものを食べる。朋美が初めて朝食を作ったときにそう言った。作るのはどうせ朋美なので、喜介は特に反論しなかった。賛成でもなければ反対でもないし、朋美のやりたりようにすれば良い。喜介はそう考えていた。
 喜介はみそ汁をすすりながら、目玉焼きとトマトを乗せたパンを頬張る朋美を見ていた。これが、彼にとっての朝食風景だった。
 思えば、不思議な関係だな。ふいに、喜介は感慨深くそう思った。
 喜介から見て、朋美は美人だと思っている。肩胛骨まである、やや青み掛かった髪の毛。パッチリとした瞳。胸は…やや大きめで、Dカップと言ったところだろうか。ウエストも、くびれがハッキリしているほどだ。容姿だけで言えば中の上か、上の下だろう。しかし、人柄というか、全身から発せられている朗らかな雰囲気が魅力的だと思っている。活力に溢れ、接しているこちらも元気が湧いてくるような、そんな気すらしてくるのだ。
 喜介と朋美は結婚していない。かと言って、恋人同士でもない。しかし、友達同士とも言い難かった。いわゆる、友達以上恋人未満。しかし、喜介はそれとも違うと感じていた。
 最も近いモノをあげるとするならば――それは、家族。朋美が姉で、喜介が弟だ。実際、朋美の方が一歳年上――と言っても、誕生日が早いだけなのだが、性格的にもそんな感じだった。
 つまるところ、こうして居るのが当たり前なのだ、彼らに取っては。
「ごちそうさまでした」
 朋美が手を合わせ、小さく御辞儀をしてから、食器を片づけ始める。喜介も詰め込むようにしてご飯を口に入れ、みそ汁で流し込む。それから、後を追うように喜介も食器を片づけ始めた。

 ※

 スポンジに洗剤を垂らし、何度か握って泡立たせる。それから朋美は食器を洗い始めた。喜介はその隣で待つ。彼の仕事は拭き担当なのだ。
 水の溜めた桶に食器を入れ、じゃぶじゃぶと泡立たせながら、スポンジでごしごしと擦り始める。
「――そういえばさ」
 朋美が手を止め、懐かしむような口調で、
「洗剤って、シャボン玉の液代わりになるんだよね」
 泡がついたまま、朋美は頭上に手を挙げる。そして、両手の人指し指と親指を合わせ、三角形――いや、オニギリの形を作る。すると、そこにはタマムシのように輝く膜が張ってあった。

――ふーふー。

 その膜が割れないように、朋美は慎重に息をはきかける。ゆっくり、ゆっくりと膜は膨らんでいき、やがて大きな球となり、彼女の手から離れていった。
 シャボン玉は太陽に照らされ、独特な色合いを発しながら、宙をゆったりと漂う。
「シャボン玉……かぁ」
 喜介は漂うシャボン玉を見つめたまま、朋美と初めてあった時の事を思い出していた。
 シャボン玉。それは、喜介と朋美が出会うきっかけとなったモノでもある。もしも朋美がシャボン玉が好きでなかったら、もしかしたら俺達は会ってなかったのかも知れない。喜介はそんな『イフ(もしも)』を思う。しかし、彼らは会った。偶然か必然かは、誰も知らない。でも、彼らにとってそれはどうでも良い事だった。彼らは知り合ったのだ。シャボン玉という、儚い存在のお陰で――。

 ※

……あれは、そう、小学四年生の時だから…今から十年も前の事になるんだな――。

 喜介は小学四年生――十歳の時、父親の仕事の都合で引っ越すこととなった。勿論、学校も転校となった。今まで慣れ親しんできた景色や友達から離れ、全く新しい景色と友達に馴れなければならない。
 喜介が住んでいた場所は、良く言えば自然が多く、悪く言えば田舎である。喜介は、仲の良い友達と一緒に虫かごや虫取り網を持って走り回っていた。
 だが、今度住む場所は、良く言えば都会であり、悪い言えば自然がない。雑木林の代わりにあるのはビル群で、遊ぶような場所は公園ぐらいしかなかった。
 通う学校は、木造ではなく、真っ白な壁で作られた校舎。冷たい。それが、喜介が学校を見た第一印象だった。
 学校に通い出したものの、当時人見知りが激しかった喜介にとっては、新しい友人を作るのは至難の業だった。自分から話しかけなければ、赤の他人である相手も話してこない。逆に、自分から話しかければ相手は警戒心を解き、親しくなるチャンスも生まれる。だが、喜介にはそれが出来なかった。
 みんな親しい仲で小さな円を作り、わいわいと会話する。その中に入りたいと喜介は遠くから見つめる。ただ見つめるだけ。クラスメイトとはいえ、見知らぬ相手に話しかける勇気は、残念ながら喜介にはなかったのだ。
 放課後、一人寂しく喜介はリュックサックを背負う。周りのクラスメイト達はみんなランドセルだというのに、彼だけがリュックサックだった。転校する前の学校の規則が、そうだったからなのだ。
 教室を出ようとすると、みんなが喜介のリュックサックを見つめ、小さな円の中だけでこそこそと、耳打ちするように会話する。その視線、その会話、全てに於いて喜介は疎外感を感じていた。
 帰り道、折れた木の枝を手に持ち、あちらこちらを突きながら一人で帰る。途中、とても綺麗な石を見つけた。それは、喜介が今までに見た石の中でも、一番綺麗な石だった。誰かに自慢したかった。でも、もしも生意気だぞと言われ、この石を盗られたらどうしよう。そんな思いが過ぎり、結局ポケットにしまって一人寂しく帰路する。
 そんな日々が、一週間ほど続いた。
 帰り道、喜介は今日も一人寂しく、道に転がっていた小さな石を蹴りながら歩いていた。前の学校の方が良かった。前の友達に会いたい。前の家に帰りたい。ホームシックによく似た郷愁が、涙と共に溢れ出る。
 
――♪シャボン玉、飛んだ……。

 ふと、歌が聞こえてくるのに気づく。涙を袖で拭い、喜介は辺りを見渡した。上を見上げると、ふよふよと漂うシャボン玉が眼に止まった。太陽の光を浴び、タマムシのように輝くそれに喜介は眼を奪われる。だが、ものの数秒もしない内に、シャボン玉は割れ、消えていった。
 何処から来たのだろうか。喜介は再び辺りを見渡す。すると、右側の方に小さな小道があるのに気づく。垣根と垣根の間に出来た、ネコしか通らないような細い小道だ。
 誘われるように、喜介はその細い小道に入っていく。途中、木の枝に引っかかり、右手の二の腕辺りから血が出て来た。喜介は痛みで顔を歪める。しかし、注射で刺された程度の痛みだったので、構わず先に進んでいく。

――♪屋根まで、飛んだ……。

 進むにつれて、声は大きくなっていく。ちゃんと近づいて行っているのだろうか。そんな一抹の不安が過ぎったが、思った以上に小道は短く、砂利道のような場所に出た。

――♪屋根まで、飛んで……。

 一瞬、喜介は前住んでいた場所に戻ったのかと錯覚した。遠くに見えるのは、ビル群ではなく立派に育った雑木林で、辺りに見える家も、ペンキで塗りたくったような色合いではなく、木によって作られる味わいのある色だった。
 トンネルを抜けると、そこは別世界だった。昔、読書感想文の為に読んだ川端康成の小説の一文を思い出す。
 呆然としたまま上を見上げていると、ふよふよと漂うシャボン玉があった。ふよふよと、流れ流され、上昇気流に乗って更に上に登っていく。

――♪壊れて、消えた……。

 歌の通り、シャボン玉は壊れ、そして消え去っていった。あたかも、初めからそこの何もなかったかのように。
「……誰?」
 声を掛けられ、そこで喜介は初めて人が居るのに気づく。身長は喜介と同じぐらいだろうか。肩まで髪を伸ばした、女の子だった。手には青くて小さな容器が握られている。
「えっと…」
 どう言うべきか、喜介は悩んだ。こちらに来てから初めて、同年代――喜介にはそう見えた――の人から名前を聞かれたからだった。
「んじゃ私から言うね。私の名前は、ともみ。漢字は…え〜と、お月さまが二つに、美しい人、って書くの」
 喜介は頭の中で必死に漢字変換する。
「えーと、朋美…でいいのかな?」
「うん。みんなはトモちゃん、って呼ぶから、あなたもそうしてね」
 名前を言うべきかどうか悩んでいる内に、相手から言われてしまった。喜介はやむなく、しかし心の何処かではそれを嬉しく思いながら、
「きすけ…。喜ぶ介入、って書いて喜介だよ」
 眉をひそめ、難しそうな顔をしながら朋美は首を傾げる。喜介は木の枝を折り、自分のフルネームを地面に書いて見せた。
「鹿野川 喜介君…?」
「そう。僕の名前は鹿野川 喜介って言うんだ」
 そう言うと、朋美はえくぼを寄せてにっこりと笑い、
「良い名前ね!」
「そ、そうかなぁ…?」
 初めて良い名前と言われ、喜介ははにかむ。何となく気恥ずかしくなり、喜介は何をどう言ったら良いのか分からなくなる。
「シャボン玉…そう、さっき浮かんでいたシャボン玉は、トモちゃんが飛ばしたの?」
「うん! そうだよ!」
 大きく頷き、手に持っていた青い容器を喜介の目の前に差し出す。よく見ると、これまた青いストローのような物が容器の中に差し込んであり、朋美はそれを抜き取った。
「これをね…ほら!」
 ふうー、と息を吹き込むと、先端にある薄い膜が徐々に大きくなっていく。だが、飛び立つ前にパチンと壊れて消えてしまう。
「あーあ…。失敗しちゃった…」
 朋美は口惜しそうにストローを見つめる。その後、容器にストローを差し込み、喜介にそれを差し出す。
「やってみる?」
 怖ず怖ずと受け取り、喜介はストローを口につけ、ゆっくりと息を吹き込む。すると、シャボン玉はみるみるうちに大きくなっていき、喜介の顔よりも大きなサイズになって飛び立っていった。
 喜介と朋美は、やったやったと歓声を上げながら、ふわふわと浮かんでいくシャボン玉を見上げる。
「凄いね! カキ君、あんなに大きなシャボン玉を飛ばせるなんて!」
 興奮する朋美を余所に、喜介は眉をひそめて質問する。
「……カキ? それ、僕のあだ名なの?」
「え? あ、うん。『かのがわ きすけ』だから、カキ君」
「変な名前…。普通にきすけで良いよ。カキ、っていうと何だか食べ物みたいじゃない」
 喜介は遠回しに嫌だと言ったが、朋美は激しく顔を振り、頑とした様子で、
「ダメ! 友達を呼ぶときはそう呼ぶって決めたの! だから、あなたはカキ君なの!」
 カキ、と呼ばれるのはあんまり好きではなかったが、ここで出来た初めての友達なので、喜介は不承不承といった様子で頷く。
「んじゃトモちゃんは? 名字、なんていうの?」
「早川。早い川、って書くんだよ」
 早川 朋美。ひらがなにすると、はやかわ ともみ。…はと……ハト?
「ハトちゃん?」
 朋美に倣い、氏と名の頭を取ってみると、平和の象徴である鳩となった。しかし、そう呼ばれるのが嫌なのか、口を尖らせて抗議する。
「ダメ! 私はトモちゃんなの! ハトは嫌いなの!」
 僕もカキは嫌いなんだけど。そう喜介は思ったが、口には出さなかった。
「……あれ?」
 朋美は首を傾げ、喜介の足下辺りにある石を拾う。それは、喜介が一週間ほど前に拾った綺麗な石だった。
「あ、それ僕の…!」
 慌てて取り返そうとするが、既に時遅し。カラスが光り物を好むように、女の子もまた光り物が大好きなのだ。大きなえくぼを寄せ、にんまりと笑う。
「ちょうだい!」
「え、えー…。ダメだよ、それ気に入っているのに…」
「じゃね、じゃね、それと交換しよう!」
 そう言って朋美は喜介の手を指す。それ、というのは勿論シャボン玉の事だろう。
 喜介は悩んだ。確かに綺麗な石も欲しい。だけれど、シャボン玉というのも捨てがたい。しかし、シャボン玉は今日遊んだら、それっきりだし。綺麗な石は形が残る。でも、シャボン玉は楽しい。ふわふわと浮かぶ、この様子がたまらない。ああ、けど…。
「んじゃ、こうしょー成立!」
 喜介が悩んでいる内に、朋美は勝手に交渉を成立させ、ポケットの中に仕舞ってしまう。あの綺麗な石も惜しい気がするけれど、まぁ、いいか。少々強引な取引だったが、喜介は後悔しなかった。
 十分に溶液をつけ、ストローを口につける。それからゆっくりと息を吹き込み、再び大きく膨らませる。今度は先程よりも大きく、スイカほどの大きさになってから飛び立っていった。
「わー! すっごく大きい!」
 喜介は得意になって、もう一個膨らませる。
「もっともっと!」
 朋美に催促され、喜介は大小様々なシャボン玉は宙に放っていく。その全てが太陽に照らされ、タマムシのように輝く。二十個にも満たないシャボン玉だけでも、二人はまるでおとぎ話の中に入り込んでしまったような、そんな錯覚を受けた。

――♪シャボン玉、飛んだ。屋根まで、飛んだ。屋根まで、飛んで。壊れて、消えた。

 二人は大きく手を広げ、くるくると回りながら、楽しそうにシャボン玉を歌う。全てのシャボン玉が、壊れて消えてしまうまで。

 ※

……それから、俺達はいつも一緒に遊んでいた。日が落ち、帰りを促す放送が流れるまで。
   シャボン玉をどこまで大きく膨らますことが出来るか二人で競い合ったり。
   木の枝を片手に、流行りの漫画の冒険ごっこをしてみたり。
   近くのお店であめ玉やガムを買って、分け合ってみたり。
   時には喧嘩をして、一週間くらい会わなかったり。
   でも結局、まるで何事もなかったかのように仲良くなっていたり……。

 ※

……あっという間に月日は経ち、俺達は中学生になった。クラスは違っていたけど、仲の良い友達を集めてよく遊んだものだ。
   小学校の名残か、鬼ごっこをしたり、隠れんぼをしたり、見知らぬ場所へ行ってみたり。
   教室の隅っこに集まり、友人が持ってきたエロ本をこっそりと見てみたり。
   夕暮れが差し込む教室の中で、友達と集まり、誰が好きかを言い合ってみたり。
   柄にもなく、部活に熱を入れ、青春の汗をかいてみたり。
   バカをやって、俺もトモも職員室に呼ばれ、教育的指導を受けてしまったり……。

 ※

……そして、俺達は高校生になった。受験した高校のランクは普通で、選んだ理由は近いからだった。
   流石に物腰は落ち着き――と思いきや、まだまだおこちゃまな考えがあり、やはりバカな遊びをやったり。
   良い成績は良い将来を生む。頭でっかちな社会の先生の話を聞き流し、破いた紙に落書きをして友達同士で回したり。
   仲の良い俺とトモを妬んでなのか、思春期特有の傾向なのか、付き合っているのではないかとはやし立てられたり。
   なんで俺は授業を受けなくちゃならないんだろう。そんな疑問を持ち、抜け出してサボってみたり……。

……俺とトモは、付かず離れず接していた。それは、良き友人であり、良き幼馴染みであり、良き親友であり――。
   このまま、卒業するまでこんな関係が続くもんだと、俺は思っていた。
   だが、運命なのか偶然なのか、俺の日常は、ある日を堺に著しく様変わりしていった……。

 ※

 それは、高校二年生の時だった。季節は夏。あと一週間で、夏休みに突入する頃だったと喜介は記憶している。
「ただいまー」
 帰宅し、喜介は居間に入る。
 居間の床はカーペットで、中央には木製のテーブルがあり、それを囲むようにして白いカバーを掛けられたソファー四つある。喜介の家はそのほとんどがフローリングで、カーペットが敷かれているのは居間だけだった。
 ソファーには、いつものように顔を覆い隠すようにして新聞を見ている父が鎮座している。喜介が帰ってきた事に気が付き、
「お帰り」
と、新聞から眼を離さずに言った。
 別にいつものことなので、喜介は特に気を掛けることはない。ただ、マナーがなってないなぁ、と思うだけだ。
 鞄を置きに、居間を抜け、自分の部屋へと向かおうとする。途中、
「喜介、ちょっと話がある」
 先程まで凝視するように読んでいた新聞を丁寧に折りたたみながら、父は喜介を呼び止めた。
 なんだろう、父さんが呼び止めるなんて珍しいな。そう思いながらも、向かい合うようにして喜介もまたソファーに座った。
 咳払いを一つして、
「実はな、父さんまた引っ越すことになったんだ」






















「……は?」
 突然の、引っ越し報告。
「本当はお前が卒業するまで待ちたかったんだが、昇進が掛かった転勤でな」
 ちょっと待ってよ。それは、つまり――。
「またしても転校になると思うけど、我慢してくれ。昇進が出来れば、社長も狙えるし、そうでなくともお前をウチの会社にコネで入れることも可能になるしな」
 転校。その二文字が、俺の心にじわじわと染みていく。やがて、心の奥底に仕舞ってあったトラウマが無理矢理掘り起こされ、全身を駆けめぐっていった。
 息は途切れ途切れになり、手は震え、瞳孔が開いていく。熱病にでも冒されたように、思考は鈍り、頭は熱され、世界が傾いていく。
「……だ。そして……」
 父さんは何かを言っている。しかし、聞こえない。耳栓でもしているかのように、自分の呼吸すら籠もって聞こえる。
「夏休みに入ると同時に引っ越す予定だ。分かったか?」
 しかし、そこだけがやけにハッキリと聞こえた。
 残り、一週間。それで、仲の良い友達と別れを告げてこい、ということなのだろうか?
 仲の良い友達。一番最初に頭を過ぎったのは、朋美だった。
 それもそうだろう。この地に来て、一番最初に知り合った友達。一番最初に遊んだ友達。一番長く遊んでいる友達。一番――。
 その一番の友達と、離れる?
「喜介、分かったのか?」
 それは嫌だ。朋美と離れるなんて、嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
「絶対に、嫌だ!」
 大声で拒絶を表し、思いっきり机を叩いた。
「俺は…俺はまた引っ越すなんて嫌だ! 仲の良い友達と別れるのも、ここから離れるのも、全部嫌だ!」
 こうなることを予想していたのか、父さんは落ち着いた様子で、諭すように言う。
「喜介、我が儘を言うな。父さんだって好んで引っ越ししたいなんて思わない。だが、所詮父さんは雇われの身にしか過ぎないんだ。仕事をしろ、と言われれば黙って仕事をして、残業をしろ、と言われれば黙って残って、転勤をしろ、と言われれば黙って引っ越すしかないんだ。分かってくれ…」
 その言い分に、俺は初めて心の底から父さんを軽蔑した。まるで、自分は弱い働きアリにしか過ぎないと言っている、この脆弱な男を――。
 それが社会の仕組みというヤツだったとしても、今の俺には、駄々をこねる息子をなだめる為に取って付けた言い訳にしか聞こえなかった。
「嫌だ! 引っ越すなら、勝手に父さん達だけで引っ越せばいいんだ!」
 そう言った途端、父さんの目の色が変わった。
「…喜介、自分の言っている言葉の意味が分かっているのか? お前はここに残ると言っている。だが、父さん達は何処かへと行く。つまり、一人暮らし――いや、一人で生きていけるとでも思っているのか?」
 父さんは、一人暮らしというのを言い直し、一人で生きていけると言った。これは、お前がここに残るのなら、勝手に一人で生きていけ。遠回しに、勘当するぞ、と言っているように聞こえた。
「それは……」
 言葉に詰まった。俺は子供だけど、馬鹿ではない。誰の御陰で自分がご飯が食えるのか、誰の御陰で暮らしていけるのか。そのくらい、知っている。そして、俺が何の援助も無しにでは、暮らしていけない事も――。
「大丈夫だ。お前なら、また新しい友達だって出来るさ。新しい土地にだって、馴れることも出来る。人は、そんな風に出来ているモノさ」
 よく分からない根拠を元に、父さんは『大丈夫だ』と言う。親とはいえ、俺の何を分かっているのかも分からないのに、『大丈夫だ』と言う。新しい土地は別にいい。新しい友達は、確かにどこへ行くにしても出来るだろう。しかし、今仲良くしている友達と別れるのとはまた別物だ。
「父さん、俺はやっぱり嫌だ」
 父さんは軽いため息をはく。
「それじゃあ、一人で生きていくのか?」
 俺は首を振るう。
「それも…嫌だ」
 父さんは再びため息をはく。しかし、今度は深く、苛ついた様子で。
「あれも嫌だ、これも嫌だ、それも嫌だ…。自分の我が儘だけで世界が回ると思うなよ? 世の中には、どうにもならない事だってあるんだ。絶対的な流れがあって、逆らえない波があるんだ。無理に逆らえば、自分の身を壊してしまう…。分かるか? これはまさにそれなんだよ。父さんの力では、どうにも出来ない大きな波なんだ。それに逆らう力もなければ、それに逆らえばお前達にまで危害が及ぶ。馬鹿じゃないのなら、これがどういう意味か分かっているな?」
 逆らえば、クビが飛んでいく。生活するために、積み重なっていく借金。そして、最後に待つのは――。
 想像して、思わず涙目になる。
「…それは、分かってる」 
「だったら、お前はどうするべきか分かっているな?」
 そんなの、最初から分かっている。分かってはいる。でも、納得はしていない。俺の心が、絶対に嫌だと否定を続けている。トモと離れたくないと、叫び続けている。
 俺は、俺は――。
「父さん…」
 神妙な顔になり、俺は膝を床に付ける。そしてそのまま、おでこをカーペットに擦りつけるように頭を地面すれすれまで下げた。
「お願いします! 俺は…俺はここを離れたくないんだ!」
 突然の土下座に、父さんは戸惑う。それもそうだ。父さんがこんな俺の姿を見たのも、俺が土下座をするのも、今回が初めてなのだから。
「そ、そんなにお前はここを離れたくないのか…? し、しかし父さんにだってなぁ…」
 顔を上げ、もう一度勢い良く下げた。勢い余って、おでこが床にぶつかる。
「お願いします!」
 自分でも、何故ここまでしているのかは良く分からない。親に土下座するなんて、なんて不格好な事なのだろう。なんて、恥ずかしいことなのだろう。しかし、今の俺にはそんな感情などなかった。今頭になるのは、ここに残りたいという一心のみ。
「良いじゃない。好きにさせれば」
 いつの間に帰ってきたのか、母さんが今の入り口に立っていた。両手には、パンパンに張った買い物袋がぶら下がっている。
 居間を抜け、奥にある台所に買い物袋を置く。それから、俺の目の前に立つ。
「立ちなさい、喜介」
 その言葉に従い、俺は立ち上がる。
 母さんは背丈比べでもするように、自分の頭の上に手を水平に置き、その手を俺の方に水平に動かす。その高さは、俺の胸の真ん中辺り。
「…大きくなったものね。母さんも必死になって止めたかったけど、土下座までされたら、どうにも出来ないわ…」
 そう言って、母さんは微笑む。それは、千の言葉よりも俺の胸を締め付けた。
 本当に、これで良いのだろうか?
 母さん達と別れるのが、正しい選択なのだろうか?
 でも――。
「……ごめんなさい」
 俺は謝った。呟くように、ぽつりと。そしてそれは、母さん達と別れることを意味する言葉でもあった……。

 ※

……それから一週間後、父さんと母さんは予定していた通りに引っ越して行った。ここから電車で乗り継いでいって、二時間程の距離の場所だという。そして、俺もそれと同時に引っ越しを始めた。場所は近くのアパート。まさか俺がここに残ることになるとは思っていなかったらしく、今の家は既に売却済みらしい。
 アパートは2DK設計で、思いの外広い。床はフローリングで、材質は家の台所とよく似ている。何でも父さんの知り合いが経営しているアパートらしく、本来の家賃である六万円を四万円にまけてもらったからここに決めたそうだ。そりゃ、安いに越したことはない。
 父さんは出発直前までごねていたが、母さんの説得により不承不承といった様子で了承したようだった。しかし、父さんは一人暮らしにあたって、俺にいくつかの条件を提示してきた。

 1、家賃と光熱費、それに食費などはこちらで全額負担するが、お小遣いは自分で稼ぐ事。(そう言っているが、五千円くらいはくれるみたいだ)
 2、成績が下がったら、問答無用でこちらに強制送還。(これは当然だと思う。俺は中の中ぐらいだから、中の下にならなければ良いという事だ)
 3、何らかの犯罪をしても、こちらに強制送還。(実に失礼だと思う。信頼、という言葉を父さんは知っているのだろうか?) 

 他にも愚痴愚痴と言っていたが、あんまり憶えていないし、母さんに咎められ、口を噤んでいた。
 ともあれ、こうして俺の一人暮らしは始まった。幸か不幸か、夏休みと同時に始まった。これからどうなるのか、俺自身にも良く分からない。これで良かったのか、それも良く分からなかった。
 引っ越して初日、段ボール山に囲まれ、見慣れぬ天上を見上げながら早めの就寝となった。

 ※

「♪ふんふん〜ふん」
 上機嫌に鼻歌を歌いながら、喜介は卵を割り、フライパンに乗せる。コンロのスイッチを捻り、着火させた。その後、油を引くことを忘れていたのに気づき、慌ててサラダ油を注ぐ。ドポドポッ、という嫌な音と共に、大量の油が目玉焼きに注がれる。
「うぁ…!」
 しまった。そう思ったが、時既に遅し。バチバチと激しい音を立て、目玉焼きはいつもに増して激しく焼き上がっていく。
「あぁ…! あぁ…!!」
 どうしたらよいのか分からなくなった喜介は、取り合えずコンロのスイッチを切り、鎮火させる。ホッと胸を撫で下ろすが、出来上がった目玉焼きを見て、胸焼けするような思いになる。
 多少焦げたのなら我慢できよう。だが、油にまみれ、尚かつ中途半端に火を通しただけなのであちらこちらが生、という目玉焼きを食べようという気にはなれなかった。まして、もう一度火を通すという気にもなれない。
 結局、その目玉焼きは青いポリバケツの中へ収められる事となった。
 しょうがないので、喜介は朝食、兼昼食を買いに近くのスーパーへ出掛けることにした。勿論、買うのは既に出来上がった惣菜や、簡易食品の王様カップラーメンなどだ。
 両手一杯に買い物袋をぶら下げ、帰宅する。腐りやすそうなモノを冷蔵庫に入れ、食べる物はそのまま食卓に持っていった。食卓と言っても、小さなちゃぶ台一つがあるだけだ。
 今回のご飯は、シーチキンマヨネーズおにぎり一つと、エビチリ、それとオニオンサラダ(ドレッシング付き)だ。思っていたよりも美味しいことに驚きながらも、それらを淡々と胃に収めていく。それと同時に、だらしないなぁ、と喜介は思っていたが、結局晩飯も似たようなメニューとなった。


 一人暮らしを初めてから一週間が経過しようとしていた。未だ段ボールの山は解消されず、半分くらいしか片づけていなかった。
 一人で暮らすのってこんなに辛いモノだったのか、ここに残るって言ったのは失敗だったかなぁ…。ここ一週間、辛いことがある度に喜介はそんな事を思っていた。
 休みの日でも朝早く起きていた喜介だったが、今ではお昼近くにしか起きなくなり、料理も作ろうとはするものの、結局失敗して、最終的には既に出来上がっている物を食べるというオチだ。洗濯も最初は毎日やっていたが、だんだん面倒くさくなり、二日立て続けに同じ下着を着るというのがざらになってしまっていた。
 少なからず、喜介は一人暮らしというのに憧れていた。現に、最初の二日程は、まるで自分の王国が出来たような、そんな感覚すらあった。だが、日が経つにつれてそれは薄れていき、今では後悔の念を引きずるばかりだ。
 今はまだ良い。なぜなら、夏休み中だからだ。しかし、授業が始まればどうなってしまうのか、喜介には検討もつかなかった。


 アザラシのように横たわり、煎餅をかじりながら、小さなテレビを見つめる。引っ越して早々カーペットを敷いていた為、こうして横たわることが出来るのだった。フローリングでは冷たく、しかも固くて横たわる気になどなれない。
 時刻は既に深夜の一時。ちょっと前なら、喜介はとうに寝ている時間帯だ。しかし、家族というリミッターが外れてしまった今では、対して面白くもない深夜番組をたらたらと見ることが多くなっていた。
 目蓋が重い。うつらうつらとなりながらも、喜介は名前も聞いたこともないお笑い番組を見ていた。しかし、魂でも抜け落ちてしまったかのように、ふっと崩れながら喜介は眠りに堕ちていった。

 ※

――トントントン。

 台所から何かを刻む音が聞こえる。

――ジュー。

 続いて聞こえる、何かを焼く音。
「……あ?」
 寝ぼけ眼を擦りながら、喜介は上半身を起こす。いつの間に寝てしまったのだろうか。寝てしまう直前の記憶はなく、何故ベットではなくここで自分が寝ているのか、喜介は酷く疑問に思った。それと、ベットにあるはずの毛布が自分に掛けられていることも。

――トントントン。

 隣の部屋にある台所からは、相変わらず何かを刻む音が聞こえている。母さんかな。そう思って喜介は立ち上がろうとした。
「起きたの? もうすぐ出来上がるから、ちょっと待っててね」
「分かったよ、かあ――」
 ……ん?
 喜介は弾かれたように立ち上がり、声の発信源である台所へと向かった。
 そこに立っていたのは――。
「おはよう、カキ」
 若返った喜介の母でなければ、そこにいるのは間違いなく、思いの外似合っている白いエプロンを付けた朋美だった。
 なんでここに居るんだ。そう言おうとするが、酸素が足りない金魚のように、喜介はただ口をパクパクとさせるだけだ。 
「おはよう、って言っているでしょう? 返事は?」
 そう朋美に催促され、
「おはよう…」
と、喜介は呆然としたまま答えた。
「冷蔵庫にあった食材、使わせてもらったわよ。ダメよ、ちゃんとした食事を摂らなきゃ。わざわざ私が作ってあげるんだから、感謝しなさいよ。…と言っても、惣菜と私の持ってきた野菜を掛け合わせただけなんだけどね」
 よっ、というかけ声と共に、朋美はフライパンを返す。喜介はその中をちらりと見た。昨日買ってきたレバニラ炒めにキャベツやらモヤシやらを追加しているらしく、明らかに量が増えていた。
「あー……その、なんだ?」
「なに?」
 朋美はフライパンから手を離し、隣の鍋をお玉でかき回す。どうやらみそ汁も作っているらしい。
「だから、あー…だから」
「だから、なによ?」
 調理を止め、朋美は喜介と目を合わせる。そこで喜介はようやく言うべき言葉が見つかり、
「だから、何でトモがここに居るんだ…?」
と、指差しながら質問した。
 しかし、トモはさも当然と言わんばかりに胸を張り、
「朝ご飯を作りに来たのよ」
と、フライパンを指差しながら答えた。
 トモが俺の家にご飯を作りに来た。だから、それは何故? 確かにこっちに引っ越すとは学校で伝えたけど、それは朝ご飯を作りに来る理由にはならないし…。腕を組み、喜介はひたすら悩んだ。
「取り合えず、あっちのちゃぶ台に座って待っててもらえる? あと五分以内には作り終わると思うから」
「はぁ…」
 生返事をし、朋美に言われたとおりに喜介は居間に戻り、ちゃぶ台に座った。

――ジュー。

 台所からは、良い匂いが漂ってくる。久しく嗅いでいなかった、調理している時の匂いだった。

 ※

「いただきます」「お召しあがれ」
 小さなちゃぶ台の上には、ご飯とレバニラ炒めとみそ汁の和風セット。そして、パンと目玉焼き、それと、薄く輪切りにしたトマトが数枚ある洋食セット。
「…なんでパンがあるの?」
「あ、それ私の」
 そう言って、朋美は目玉焼きとトマトをパンの上に乗せ、香ばしい音を立てて食べた。
「いや、そういう意味じゃなくてさ。ご飯を作ったんだから、普通は統一しないか?」
 朋美は掌を広げ、喜介に向かって差し出す。ちょっと待って、というジェスチャーなのだろう。朋美は口の中にモノが入っているときは、決して喋ろうとはしない。ごくん、と呑んでから、
「私、朝食はパン派だから」
「それは知っているけど…。いや、今聞きたいのはそう言う事じゃないっての。つまり、ご飯かパンか、どっちかにしないか? って、聞きたかったワケ」
 理解したのか、朋美は小さく頷いた。
「別に良いじゃない。食べたいモノを食べる。それだけよ」
 さも当然、といった様子で言い放つと、朋美は二口目を頬張った。
 喜介は今一つ納得しない様子で首を傾げていたが、作ってもらったのにこれ以上文句を言うのは忍びないので、箸を持ち上げる。レバニラ炒めを摘み、口に運ぶ。
「…美味い」
 衝動的に、喜介は感想を口にしていた。本当に、美味しかったのだ。あのどぎつい味は消え、丁度良い味付けに変わっている。
 続いてみそ汁。家にはインスタントのみそ汁しかなかった筈だ。それが、どこまで味が変わっているのだろうか。不安と期待が入り混じりながら、喜介はみそ汁を口にした。
「…おいしい」
 またしても、喜介は衝動的に感想を口にしていた。これが、本当にあのインスタントから作られたモノなのだろうか。口の中に残る嫌なみそ臭さは消え、食が進むような味わいを醸し出している。
「どう? 美味しいでしょ?」
 朋美は自慢気に笑う。
「ううむ…」
 悔しいが、本当に美味しい。家にある食材だけ――持ってきた野菜は加わっているものの、それだけで作られたとは思えないほど美味しかった。
 思い起こせば、朋美は確かに料理が上手だった。中学二年生の時、調理実習でクッキーを作ることになった。その時、朋美は実に手際が良く、しかもかなり美味かったのだ。作ったクッキーを賭けて、ジャンケン争奪戦が起きるほどだった。
「参りました」
 素直に認め、喜介は頭を下げた。
「むふふ、参ったか」
 朋美は既に終わっているらしく、ちゃぶ台に肘をつけ、頬杖を付いたまま笑う。
 半ば掻っ込むような勢いでご飯を食べ終え、久々に充実した気分で両手を合わせる。 
「ごちそうさま」「どういたしまして」

 ※

 じゃぶじゃぶ、と朋美はスポンジで泡立てて食器を洗う。話に聞いたことしかないが、朋美は家事手伝いを良くするという。昔から一緒に遊んでいる所為か、がさつなイメージが強く、まさか、と思っていたが、その手慣れた手つきが嘘ではないことを物語っていた。
 喜介は朋美の隣に立ち、布巾を片手に待っていた。洗い専門が朋美で、拭き専門が喜介。いつの間にか役割が分担されていた。
「そういえば、答えてなかったわね」
 フライパンを洗いながら、ふと朋美が思い出すようにして言った。
「なにを?」
「私がここにご飯を作りに来た理由。それはね、お母さんに頼まれたからよ」
 お母さん、と言っても、朋美の母ではなく、喜介の母の事を指しているのだ。
 朋美には母が居ない。それは、喜介と会う一年前――朋美が十歳の時、交通事故によってこの世を去ったからだった。原因は、相手の赤信号無視によって起きた。時速は90kmを超えており、轢かれた母は即死だったそうだ。苦しまずに死ねたのは、せめてもの幸いだったのかも知れない。
 喜介と知り合ってから、朋美は度々喜介の家を訪ねていた。朋美の母が居ない、という事を知った喜介の母は、朋美に対してこう言った。
『私を本当のお母さんだと思って、甘えても良いのよ』
 その言葉を聞いた朋美は、「お母さん」と言いながら、胸に飛び込んで泣きじゃくった。喜介にとって、朋美が泣くのを見たのはこれが初めてであり、今に至るまでその一回きりだけだった。
 以来、朋美は喜介の母を、お母さんと呼ぶようになり、喜介の母もまた、自分の娘のように可愛がった。鹿野川家には喜介しか居なかったので、それも相成ってなのかも知れない。
「母さんが?」
「そう、『姉』として『弟』を頼むってさ。全く、我が儘な『弟』を持つと苦労するわ」
 そう言いながらも、朋美ははにかんだように笑う。
「お母さんから聞いたわよ。ここに残りたいからと言って、あの喜介が土下座をしたんだ、って」
「まぁ…そうだけど」
 母から朋美に伝えられることは何となく予想していた喜介ではあったが、何となく気恥ずかしくなり、照れ隠しに頬をぽりぽりと掻く。
「本当に、それで良かったの?」
「……え?」
 ふいに、朋美は手を止め、喜介の目を見つめながら質問した。
「だから、ここに居残ったのが、本当に良かったと思っているの?」
 喜介は、どう答えるべきか悩み倦んだ。既にそれは何度も自問自答しており、結局今に至っても答えが導き出せていないのだから。
「……トモは、どう思う?」
「ん?」
「俺がここに残って良かったと思っているのか?」
 顎に人差し指をあて、朋美は数秒ほど考えてから答えを出した。
「世間体的に言えば、良くないと思うわ。なにせ、一人暮らしになるということは、親の管轄下から離れるワケだし、ただでさえコミュニケーションが無い家族が、より一層無くなってしまうワケだし」
「じゃあ、トモ的には?」
「……分かんない。カキがここに残ってホッとしている自分も居れば、お母さんが心配しているだろうなと思っている自分も居るんだもの。どっちが正しいのか、私には言えないわ…」
 朋美が言い終わると、この場に不思議な沈黙が訪れた。
 しばらくして、朋美は再び手を動かし始める。じゃぶじゃぶ、と水と泡が混じる音だけが、部屋の中に響き渡る。
「俺は――……」
 ふいに、その沈黙を打ち破るように喜介は声を出した。
「俺は、ここを離れたくないって、心底思った。後悔してないと言えば嘘になるけど、ここに残って良かったと思ってもいるんだ」
「…それで?」
「別に、それだけ」
「そう」
 再び沈黙が訪れ、じゃぶじゃぶ、と水と泡が混じる音だけが部屋の中に響き渡る。
「何か喋ってよ」
「何か、って何だよ?」
「何かよ、何か。最近ハマっている事でも、最近起きた出来事でも何でも良いから」
「最近ハマっている事…ねぇ。あ、あれだ。お笑い芸人の――」
「それ、この前学校で聞いたわよ」
「そうだっけか? んじゃあ…家の父さんの事件でも」
「それもこの前学校で聞いたわよ。クシャミして、持っていた新聞紙を破ったんでしょう?」
「なんだ、これも聞いていたのか…。改まって話そうとすると、ほとんど話し終わった話題ばかりだな」
「言われてみればそうね。まっ、それだけ長く一緒に居るって事でしょう。小学四年からだから…もう七年の付き合いになるんだもの」
「七年か、意外に長いな」
「光陰矢のごとし、とは良く言ったものね。気づけばカキとの付き合いも七年ですもの。七年よ、七年。0歳の子供が七歳になるし、ブームは何回ぐらい様変わりするのかしらね?」
「ブームは年に二回と考えて…十四回ぐらいか?」
「分からないわよ? 一度冷めたブームはまた復活するというのもあるからね」
「言われてみればそうだな。確か…中学一年で流行っていた人形、未だに根強い人気があるからなぁ…」
「知ってる? あれ、流行った当時の限定モノだと十数倍の値段が付いているって」
「マジでか? もしかしたら片づけてない段ボールの中にあるかも。後で探してみるか」
「あったらさ、それを売ってカキの奢りで美味しいものでも食べましょうよ」
「俺の奢りかよ…。ま、あったらの話な」
「何を食べようかなぁ〜……」
「そうだなぁ〜……」

 ※

……月日は更に経ち、俺達は高校を卒業した。夏休み以降からもトモは毎朝俺の家に来て、ご飯を作ってくれた。たまに、夕食も作ってくれたりした。母さんの言いつけとはいえ、感謝しても感謝しきれない。
 そして、俺は就職をした。元々パソコンには興味があったので、今流行りのIT関連の企業に就いた。
 そして、トモも就職をした。家の近くにある、こぢんまりとした会社の事務だそうだ。いわゆる、OLというヤツになった。
 就職をした時、俺はトモと離れることを覚悟していたが、面白いことに、俺の勤め先は今住んでいるアパートから徒歩十分程度の場所にあるらしい。
 結局、今居るアパートにそのまま住み、トモも相変わらず俺の朝食を作りに来てくれている。
 それは、二十歳になってからでも全く変わりがなく、俺とトモとの付き合いも全く変わることはなかった。

 ※

「鍵は閉めた?」
 外に出て、ヒールを履きながら朋美は言った。
「閉めたよ」
 喜介はドアノブを握り、ガチャガチャと動かしてみせる。
「大丈夫みたいね。それじゃ、行きましょうか」
「あいよ」
 カンカンカン、と錆びた鉄製の階段を鳴らしながら、朋美は先に降り始めた。後を追うように、喜介はゴミ袋と鞄を左手に持ち、降り始める。
 一番下まで降り、朋美は左に曲がる。対して喜介は右に曲がった。
「それじゃね」
 振り向き、朋美は大きく手を振った。
「おう、また明日」
 答えるように、喜介も空いている右手を大きく振った。
 少し進むと、ゴミ収集場があり、喜介はそこにゴミ袋をそっと置いた。
「さて、今日も元気にいきますか」
 首を鳴らし、背伸びをして背骨を鳴らし、喜介は大きな歩幅で歩き始めた。



第二話「屋根まで、飛んだ」



 
 熱いお茶を飲みながら、喜介はキーボードをタイピングしていく。今行っているのは、今度行われるプロジェクトの企画概要を分かりやすいようにまとめる、という作業だ。
 プロジェクト、それは『レトロジスタ』と呼ばれる企画だ。『レトロ』というのは、回顧、つまり過去を懐かしく思う郷愁にもよく似た想いの事だ。その後ろに付いている『ジスタ』というのは、イタリア語の『ファンタジスタ』から由来している。これは、夢を与えるモノという意があり、それを組み合わせ、回顧を与えるモノ、つまり、懐かしさを提供する人達、という意味を持っている。
 しかし、こんなご大層な名前が付いているが、実際の所は自然が多い田舎への旅行プランなのだ。ターゲットは勿論、都会に疲れた老人達。彼らこそが回顧を最も求めている人達だろう。
 排気ガスで青空が濁る都会では、美味しい空気など吸えはしないだろう。事件が絶えない都会では、のんびりと夜道を歩くことも出来ないだろう。だからこそ、回帰を求めるのだ。彼らが生まれ育った、田舎へと。
 喜介は、カタカタとキーボードを打ち込んでいると、ふと昔居た家を思い出す。あの辺なら、今でも蝉取りやザリガニ釣りも出来るだろうな。強い郷愁に駆られたが、熱いお茶と共に胃の中に流し込んだ。
 ほんの数年前までは、この近く――朋美の家の近くでもそんな自然はあった。しかし、そこにも悪の手は伸び、今では物悲しいビル郡が立っているだけだった。
 俺もこの旅行に参加しようかな。ふとそんな事を思ったが、過去を振り返るにはまだ早すぎると思い直し、結局止めることに決めたのだった。
「鹿野川先輩、お茶入れてきましょうか?」
 少々甘ったるい声が聞こえ、喜介は振り向いた。そこには、喜介よりも一つ年下の井藤 歌織(いとう かおり)が複数の湯飲み茶碗を乗せた木製のお盆を持って立っていた。
「あぁ、頼む」
 少しだけ残っていたお茶を飲み干し、お盆の上に乗せる。
「じゃ、行ってきますね」
 喜介に微笑みかけるようにして笑い、それから給湯室に向かって歩き出した。その後ろ姿を、ため息混じりに喜介は見つめる。
 歌織は、喜介の一年前――つまり、去年入社した。先程のように、愛想良く話しかけてきたり、仕事の相談で困ったように話しかけてきたりと、何かにつけて喜介に話しかけてくるのだった。
 もしかしたら自分に気があるのかも知れない。あまりそういった色事に敏感ではない喜介がそう思う程だ。
 しかし、喜介は歌織をあまり好きにはなれなかった。
 毛先はカールがしてるのか、外にはねており、ストレートにすれば肩胛骨程の長さだろう。やや茶髪に染めているが、自然な感じであまり気にならない。眼は小さくクリクリとしており、ハムスターのような小動物を連想させた。
 外見が嫌いというワケではない。寧ろ、好感が持てるぐらいだ。しかし、あの甘ったるい声もあるのだが、身振りや素振りが男に媚びを売っているようで、喜介はそこがどうにも気に食わなかった。
 それが演技なのか自然体なのかは、判断が付かない。だが、自然な振る舞いで色気を出すトモとでは月とスッポンぐらいの差がある、と喜介は思っている。
「お前は良いよなぁ〜、歌織ちゃんに話しかけられて」
 トイレに行っていたのか、席を離れていた須賀原 大地(すがわら だいち)が恨めしそうに声を掛けてきた。
「そうか? あんまり嬉しくないけど…」
「贅沢な野郎だ。しかも、家には美人な姉ちゃんが居るし。この、この!」
 本当の姉じゃないんだけどな。そう思いながらも、須賀原の肘攻撃を甘んじて受ける。
 須賀原は喜介の二つ年上なのだが、入社した時期が一緒で、喜介はてっきり同い年だと思って話していた。だが、健康診断で須賀原の年齢を見たとき、初めて年上だと知ったのだった。唐突に話し方を変えるのも嫌だったので、結局二年経った今でも同い年に話しかける時と同じ口調になっている。
 髪はスポーツ刈りで、身長は喜介の頭半分程高い。しかし、物腰が柔らかい所為か、喜介と身長が大して変わらないと思われている。
「おっ、なんだ? 今度企画する『レトロジスタ』の書類か?」
 須賀原は、喜介のデスクトップ型パソコンを屈むようにして後ろから覗き込む。
「そうだよ。今は概要のまとめ方をやってる」
「ご苦労様。しっかし、IT関連の企業だってのに旅行を企画するとは、不思議な話だよなぁ」
 須賀原は腕を組みながら、首を傾げる。
「まっ、ここはIT関連って言っても、完全にそれ専門にやっているワケじゃないから。パソコンを扱えると言っても、俺はソフトウェアなんて作ることは出来ないし」
「ごもっともな話だな。オレなんて、この会社に入ってからパソコンを憶えたっていう快挙を持ってるからな」
 大きく笑いながら、須賀原は自分の仕事場である隣の席に座る。
「そんなんでよくこの会社に入れたと思うよ。結構、この会社もいい加減だな」
「だからオレみたいないい加減な人材が入ってくる、っていうわけか」
 今度は二人で大きく笑う。
「ゴホンッ!」
 やけにわざとらしい咳払いが聞こえた。喜介と須賀原は顔を合わせ、アイコンタクトを取る。
『部長だな。そろそろ止めるか』
『そうだね』
 姿勢を正し、喜介は再びパソコンを凝視してキーボードを打ち始める。隣の須賀原は、ビジネスバックから書類を取りだし、前屈みになって何かを書き始めた。
 五分ほど集中して打ち込み、喉が渇いたのでお茶を飲もうとするが、先程歌織にお茶汲みを頼んでいたこと思い出し、湯飲み茶碗を取ろうとして伸ばした手を引っ込めた。
「鹿野川先輩、どうぞ」
 しかし、まるで見計らかったかのようなタイミングで歌織は喜介の湯飲み茶碗をお盆から下ろし、そっと差し出した。
「ありがとう」
 喜介は短いお礼を言いながらお茶を受け取る。すると、
「どう致しまして」
と言いながら、先程と同じように微笑む。歌織は喜介の眼を見つめようとするが、喜介はすぐに視線をそらし、パソコン画面を見る。歌織の態度があまりに露骨過ぎて、やはり喜介には好きになれなかった。
「ありがとね」
 須賀原も頼んでいたのか、にこにこと満面の笑みを浮かべながらお茶を受け取る。
 それを横目に見ながら、喜介はお茶を啜る。普通の人にすればかなり熱い温度だが、喜介にとっては丁度良い熱さだった。お茶は熱いのに限る、と朋美に言ったら、爺臭い、と言われて少し落ち込んだの思い出し、笑う。
「熱ッ! 熱ッ!!」
 やはり須賀原には相当熱かったのか、苦悶の表情を浮かべながら舌を出し、民族の踊りのようにピョンピョンと跳ねてのたうち回る。
「熱ーーーーーーッ!」
 喜介は指を指して大笑いし、周りからはくすくすと零れるような笑いが生まれる。
 人の不幸は蜜の味、とは言うが、こういう場合はおいしいハプニングだろうな。喜介は笑いすぎて痛くなったお腹を押さえながら、そんな事を思った。

 ※

 定時の終わりを告げる鐘が鳴り響き、喜介は帰り支度を始める。といっても、持ってきた鞄をそのまま持ち帰る程度なのだが。
 玄関に設置されたタイムレコーダーに、自分の顔写真が入ったタイムカードを通す。6:12と表示された後、すぐに消えた。
 『鹿野川 喜介』と名札の貼られた自分の下駄箱を開けると、上の段には革靴が入っており、下の段には一昔流行ったエア入りのシューズが入っていた。喜介の務めるこの会社では、業務で会社を訪問する以外であればどんな靴を履いても良い、と定められている為、自宅からこの会社まではお気に入りの靴で通っているのだった。
 喜介がこの靴を気に入っている理由は二つある。一つは、デザインが良く、しかも履き心地が良いこと。もう一つは、就任祝いとして朋美から買って貰ったからだった。
 丁度喜介が新しい靴が欲しいと思っていた時、まるでテレパシーで意思が伝わったかのように、朋美が祝いの寿司と共に買ってきたのだ。以来、どこへ出掛けるにしてもこの靴を履き続けている。
 玄関を出てすぐに、喜介を呼び止める声が聞こえ、立ち止まった。
「もう…帰るのか?」
 須賀原だった。走ってきたのか、ビジネスバックを抱え、少し息を切らしている。
「勿論」
 軽い深呼吸をし、須賀原は息を整える。
「これ、付き合えよ」
 そう言って、須賀原は何かを握る振りをし、それを傾けるジェスチャーをする。仲間内にのみ伝わる暗号みたいなモノなのだが、喜介にとって、それは見慣れた動作だった。
「残念。今日はトモと夕飯を食べる約束をしてるから、飲み会には行けないよ」
 喜介の返答を聞いた途端、須賀原は怪訝な表情を見せる。
「またか。このアネコンが」
 恐らく、シスターコンプレックス、いわゆるシスコンの事を言っていると思うのだが、須賀原は時折妙な略し方をする。ブラザーコンプレックスなら、アニコン、もしくはオトコン。マザーコンプレックスだと、カアコンなどという別なモノを連想させるような言い方をしたりする。
「アレだろ? お前の大好物なチーズハンバーグでも作ってくれるんだろう?」
 須賀原は適当に言ったつもりだったが、喜介は少し驚いた表情をして、
「当たり。賞品は次回の飲み会で軟骨一本のサービス」
と、少し戯けた様子で言った。
 嫌味のつもりで言ったのだろうが、喜介は喜々として答えるため、須賀原は面白くなさそうにため息をはく。
「会社のアイドル歌織ちゃんよりも、実の姉である朋美さんを取るか…」
 だから、本当の姉じゃないってば。そう言いたかったが、面倒な事になるので喜介は敢えて伏せている。
「確かにな。オレ的にもあの人は好みだ。いや、直球ストライクで満塁ホームランだろうよ。でもな、愛したいよりも愛されたいではないのかい?」
 良く分からない持論を喜介に説いて説得しようとするが、結局は須賀原が朋美と付き合いたいと思っているに他ならない。朋美と須賀原は一度だけ会った事がある。そして、その一度だけで須賀原は朋美を好きになったのだ。いわゆる、一目惚れだった。
 須賀原の好きな女性のタイプは前々から聞いていたので、喜介は極力会わせる事を避けていたのだが、結局、偶然という絶大的な言葉の前に負けてしまう。
 それは、今から一年程前の事だ。
 

 交流会という題目で、上や下などが総勢に集まった飲み会があったのだが、今一つ盛り上がりが足らず、結局そのまま解散となってしまった。
 喜介と須賀原は相談し、喜介の家で飲み直そうという事になったのだ。知り合ってから一年以上経っているが、自分の家に呼んだのはそれが最初で、そしてそれが最後となった。
 古びた階段を互いに支え合いながら昇り、喜介の部屋の前に辿り着く。喜介がポケットから鍵を取り出そうとするが、須賀原が逸ってドアノブを回してしまう。当然、鍵が掛かっているから開かないだろう、と喜介は思っていたのだが、難なく開いてしまう。
 扉の隙間から明かりが漏れてくると同時に、
「お帰りー」
という、少し間延びした出迎えの言葉が聞こえてきた。
 須賀原と喜介は思わず顔を合わせる。
『喜介君。これはどういう事だい?』
 須賀原の眼が、追求するようにそう質問していた。頬を引きつらせながら、喜介は視線を外す。
 しかし、百聞は一見にしかず、と結論付いたのか、須賀原は勢い良く扉を開け放つ。
「夕飯、作りに来たよー…って、あれ? 友達も一緒なの?」
 そこには、予想通りというか予想外というか、小さなちゃぶ台の前に朋美が座っていた。
 眼が点になっている須賀原を玄関前に一旦放置し、喜介は台所を通過して居間に入っていく。
「トモ…。なんで来ているんだ? 今日は来ない、って言っていたのに…」
 胸を張り、朋美はさも当然といった様子で答える。
「夕飯を作りたくなったから来ただけ。悪い?」
 軽い目眩を覚え、喜介は目頭を押さえた。 
「悪いというか…。今は非常に都合が悪いというべきだろうな…」
 そう言って、喜介は玄関に視線を向ける。そこには、背筋をピンっと伸ばし、眼はキリリと締め、凛とした姿勢をみせている須賀原が居た。
 例の病気が出た。喜介は強い目眩を覚え、目頭を強く押さえる。
 歌織が入社したての頃も、須賀原は今のように、最も格好良いと思える自分を演じていた。しかし、日が経つにつれてボロが出始め、今では歌織の前でも自然体になっている。演じていても意味がないと判断したのか、こちらの方が良いと思ったのか、それとも面倒になったのか。そのどれなのかは、喜介には判断が付かない事なので、どうでも良い事だと思っている。
「初めまして、私、喜介君と同じ会社に勤めている、須賀原 大地と申します。現在二十二歳です。趣味は――」
「はいはい。そんなのどーでも良いからさっさと来なさい」
 放っておくと自分の将来プランまで話しそうだったので、喜介は適当な所で切り上げさせた。 
「はい! それでは、お邪魔致します」
 玄関前で一礼し、それから入る。靴を脱ぐときはいつも尻を見せる筈なのに、今に限っては正面から脱ぎ、半身を翻して靴をきちんと並べる。まさに、お手本とも言うべき靴の脱ぎ方だった。
「随分と礼儀正しい人だね。カキも見習えば?」
 本気なのか冗談なのか、朋美は微かに微笑みながら喜介に向かって言った。
「今日中にはボロが出ると思うし、遠慮しておくよ」

 ※

 予想していたとおり、須賀原は喜介が買いだめしていたビールを、朋美に煽てられるようにして五本ほど一気飲みしていく。結果、完全に出来上がった須賀原はいつも通り――それよりも数倍タチが悪いが――の言動と行動をさらけ出す事となった。
「いやー、喜介にこんな美人なお姉さんが居るとは、びっくらこきましたよ。しかも、料理が美味いし。こりゃ言うことナシですわ〜」
 夕飯と一緒に作った酒のつまみを、須賀原は掻っ込むようにして口の中に入れていく。
「んまい、んまい。ん〜む、デリシャス。ベ〜リ〜、おいしい」
 つまみを頬張った後、朋美に注いでもらったビールのコップを持ち、喉を鳴らして飲み干していく。
「サイコーだ! ベ〜リ〜、サイコーだ! 酒池肉林、サイコーだ!­」
 焼き鳥と空のコップを掲げ、須賀原は雄叫びを上げ続ける。飲み会で暴走するのは何度も見たことはあるが、ここまでワケの分からない状態まで陥ったのは、今回初めて見た。  
「はは……」
 最初はノっていた朋美も、流石に付いていけなくなったのか、先程から渇いた愛想笑いと苦笑いが交互に行われている。
 小さなちゃぶ台では座りきれないので、喜介は少し離れた場所にある壁に寄りかかり、ちびちびと缶ビールを飲んでいた。喜介は静かにゆっくりと飲むのが好きなので、遠くから傍観することに決めたのだった。人の対応に困っている朋美を見たのは初めてだったので、これはこれで面白いらしく、喜介はいつもよりも早いペースで缶を空けていく。
「んまい、んまい。ん〜む、デリーシャス! ベ〜リ〜、おい……」
 ぐらり、と須賀原は大きく揺れる。ついに限界を超したのか、最後まで言い終えることなく、白目を剥いたまま、須賀原は引力に逆らうことなく後方に倒れていった。 
「お、ついに死んだか」
 缶ビールを床に置いて壁から背を離し、喜介はのんびりと立ち上がる。
「ちょっ、ちょっと! これってヤバいんじゃないの!? 急性アルコール中毒とか起こしているんじゃないの!?」
 しどろもどろになり、朋美は慌てふためく。何か行動を起こそうと左右を忙しく見るが、良い対処が思いつかず、喜介に助けを求める視線を送る。大丈夫だよ、とでも言うように喜介は肩をすくめ、若干ふらついた足取りで台所へと向かう。コップに水を汲み、居間に戻る。
「ほれ、起きろー」
 腕を引っ張り上げ、上体を起こす。それから汲んできた水を、躊躇うことなく須賀原の頭の上に全部掛ける。
 信じられない、といった様子で朋美は大きく開いた口を手で塞ぐ。しかし、
「……あ、う……うぅ?」
 短い喘ぎ声が聞こえ、須賀原の眼には黒目が戻る。だが、呆けたように口を半分開け、焦点がうまく定まらないのか、眼球が細かく動いている。
「おい、生きてるか?」
 喜介の呼びかけに、須賀原は小さく頷く。どうやら正気は取り戻せたらしい。
 須賀原はたまにこうしてハメを外し過ぎて、事切れたように倒れる時がある。喜介も最初は心配したが、しばらく安静にするか、今のように水を掛けてやると、何事もなかったかのように眼を覚ますのだ。もしかしたら、須賀原はブレーカーと同じで、許容量を超すと落ちるのかも知れない。そんな冗談染み事を、喜介は本気で考えていた。
 頭痛がするのか、短い嗚咽を漏らし、顔を歪め、頭を手で押さえた。
「オレはまだ死ねんよ…」
 何の脈絡もなく、須賀原はそう呟いた。今度は三途の川でも見えたのだろうか。苦笑しながらも、喜介は須賀原を立ち上がらせる。
「歩けるな?」
「ああ、悪いな…」
 ふらついているとはいえ、先程酔いつぶれて倒れたのが嘘のように足取りはしっかりとしている。
「そんじゃまー、朋美さん。またいつか会える日を楽しみに待ってますよ」
 渇いた愛想笑いをしながら、朋美は手を左右に振る。それを見た須賀原は極上の笑顔を浮かべ、返すように手を大きく左右に振る。
「じゃなー、喜介ー」
 歩き始めるが、須賀原は大きくふらつき、壁に肩をぶつけ、大きな音を立てる。痛みはなかったのか、再びふらつきながら歩き始め、やがて玄関に辿り着く。ぐわんぐわん、と大きく揺れ動きながらも革靴を履き、立ち上がる。貧血でも起こしたかのように再び大きくふらつき、またしても肩を扉にぶつけ、銅鑼のような音が辺りに響き渡った。
 明日、確実に騒音苦情が来るだろうな。居間から須賀原を見送りながらも、喜介はそんな事を思った。
「お休みなさーい」
 最後にそう言って、須賀原は玄関の向こうに消えていった。カンカンカン、と錆びた階段を降りる音が聞こえる。途中、壁にぶつかる音も混じって聞こえたが、恐らく大丈夫だろう。
「ねぇ、あの人大丈夫なの…?」
 身体の心配をしているのか、おつむの心配をしているのか、喜介は一瞬迷ったが、多分前者だろう。
「大丈夫、大丈夫。あいつ、どんなに酔っぱらってても不思議と家には帰れるらしいから」
 喜介も相当酔いが回っているらしく、ケラケラと笑いながら答えた。
「なら良いんだけど…」
 先程まで飲んでいた缶ビールを手に取り、朋美と向かい合うようにしてちゃぶ台に座る。
「しっかし、なかなか面白いモンが見られたなぁ。パニックを起こしているトモなんて、そうそう見られたモンじゃないからなぁ」
 再びケラケラと笑い、それを話のつまみにして缶ビールを飲む。
「目の前で倒られたら、誰だってパニックを起こすわよ」
 そんな一面を見られたことが悔しいのか、朋美も新しい缶ビールを開け、勢いよく飲む。それに負けじと、喜介も手元の缶ビールを一気に飲み干した。

 須賀原が帰った後、今度は喜介と朋美とで飲み直す事となった。つまみも新しく作り、ビールもコンビニで調達し、喜介にとっては三次会で、朋美にとっては久々の飲み会となったのだった。

 ※

 しつこく食い下がる須賀原を何とか切り抜け、俺はやや小走りで自分のアパートに向かう。徒歩で約十五分程度。歩いていっても良いが、トモの料理を少しでも美味しく食べたい為、こうして小走りで向かっているのだ。
 空腹は最高の調味料。誰が始めに言ったのかは知らないが、偉大な言葉だ。その教えに従い、俺は会社での間食も控え、全てを万端にしてからトモの料理を味わう。それが俺にとっての礼儀であり、感謝の印でもあるのだ。
 アパートに付き、錆びた階段を駆け上がっていく。時刻は六時三十分といったところだろうか。運が良ければ、夕食が作り終わったところだろう。
 トモの会社は五時には終わるらしい。それから近くのスーパーに寄って材料を調達し、喜介のアパートに行って夕食を作り始めるそうだ。トモは会社からここまでは徒歩十分程で、スーパーに寄ってからだと、こちらに来るまでおおよそ三十分掛かる。
 勿論、トモには合い鍵を渡してある。かれこれ四年以上、今と同じようにトモと付き合っているのだ。今更部屋を漁られても困ることなど、何一つとしてない。
 トモの私服は、俺のアパートにある程度置いてあるので、自宅に帰ることなくそのまま料理へと移ることが出来る。トモはほとんど化粧を付けないので、少し熱めのお湯で顔を洗う程度だ。それからエプロンを付け、いよいよ料理を始める。
 料理にもよるが、始めてから出来上がるまで、トモの場合は大体三十分から四十分程度掛かる。今日は俺の好物であるチーズハンバーグと言っていたから、大体そのくらいだろう。
 残念ながら、トモは毎日夕飯を作りに来ているワケではない。二日に一回程度のペースで、仕事帰りにここを訪れてくれる。それでもまぁ、朝ご飯は毎日作りに来ているのだから、感謝は絶えない。だからこそ、毎日夕飯を作りに来てくれ、なんて図々しいお願いなど出来ない。あくまで、トモの気が向いた時に作りに来てくれるのが前提なのだ。
 自分の部屋の前に辿り着き、鍵を取り出すことなくドアノブを回す。徐々に開けていくと、部屋の中から光が溢れ始めると同時に、香ばしい匂いが漂ってくる。その匂いを嗅ぐと、俺は凄まじい空腹感を憶えた。そして、扉を完全に開け放つ。
「あ、お帰りー」
 朋美はフライパンを握ったまま、こちらに振り向き、微笑みながら俺を出迎えてくれる。この瞬間、トモが居る俺の部屋に帰ってきたんだな、と実感する。
 出迎えてくれるトモに対して、俺も微笑みかける。いや、自然と笑みが零れた。
 そして俺も、いつもように言うのだ。 
「ただいま」

 ※

 今、俺の目の前には、チーズハンバーグがある。
 ソース、ケチャップ、生クリーム、更に豆乳を少し混ぜ――もう一つ隠し味があるのだが、残念ながら教えてもらえなかった――熱しながらかき混ぜると、トモ特製のソースが完成する。そして、焼き上がったハンバーグの上にチーズを乗せ、その上から特製ソースを掛けるのだ。これを食べてしまったらもう、他のチーズハンバーグなど美味しく感じなくなるだろう。レベルの差を感じるだろう。店に出したら売れるかも、と思うだろう。それだけ美味いのだ。トモ特製ソースを掛けた、このチーズハンバーグは。
 ごくり、と唾を飲み込む。
「ほらほら。パブロフの犬じゃないんだから、それを見ただけでヨダレを垂らさないの」
 トモは、最後の一品であるコンソメスープが入ったお椀を両手に持ち、零さないようにと台所からゆっくりと歩いてくる。そして、それを小さなちゃぶ台に置いた。
 今日の料理は、コンソメスープ、そしてチーズハンバーグの二品のみだ。しかし、チーズハンバーグの皿が少し大きい所為か、たったそれだけでも小さなちゃぶ台の上には、もう一品追加出来るようなスペースはない。
 テーブルを買い換えようと思う反面、この部屋に暮らしだしてからずっと使っている所為か、この小さなちゃぶ台に愛着が湧き、捨てるに捨てられなくなっていた。しかも、部屋のスペースを考えると、これ以上にベストなテーブルはないのだ。このアパートを出るまでは、多分ずっとこれを使うことになるだろうな。
「いただきます!」「お召し上がれ」
 いつもよりも強く両手を合わせ、『待て』から解放された犬のように、直ぐさまチーズハンバーグを箸で半分に切り、頬張る。
「――――うまい…」
 今の俺は、感慨無量。思わず喜色満面を浮かべ、立ち上がって欣喜雀躍してしまいそうだ。
 もう一口。更に一口。おかわりをして、再び一口。何口食べても美味いし、食べ飽きない。
「おかわり!」
 三つ目に突入しようとトモに皿を差し出すが、顔を横に振る。
「残念。もう無いわよ」
「……本当に?」
「本当も本当。あっちのフライパンを見てきても良いわよ?」
 それを聞いた俺は、がくん、と肩を落とす。もう無いと分かって、本当にショックだった。
「また今度作ってあげるから、我慢してなさい」
 項垂れたまま、俺は頷く。しかし、今度がいつになるのかは不明だが、作ってくれるのは本当だろう。気を直し、顔を上げる。
 もっと味わって食べるんだった。悔やみながら、残っているコンソメスープを啜る。
「あ、そうそう。もしかしたら、一週間くらいこっちに来られないかも知れないから」
 ふいに、トモはチーズハンバーグを頬張りながらそんなこと言った。
「珍しいな。旅行?」
 もごもごと口を動かし、飲み込んでから喋り出す。
「ううん。ちょっとした個人的事情」
 そうなると、ますます珍しい。トモが個人的事情とやらでこちらに来るのを止める事は、滅多にない。
「その事情とやらを聞いてはダメ?」
「当たり前。プライバシーを尊重しなさい」
 かなり気になるが、これ以上追求しても答えてはくれないだろう。それは、長く付き合っている俺だからこそ余計に分かる。トモは穏和なように見えて、実のところ結構頑固だ。心の底から自分が正しいと思っていると、絶対に意見を曲げたりはしない。
「たまには一人暮らしを満喫してみたら? ここはカキの王国なワケだし」
 一人暮らし…。そうだ、よく考えてみたら俺は一人暮らしをしていたんだった。そんな当たり前の事を、すっかり忘れていた。いや、当然と言えば当然なのかも知れない。完全な同居ではないにしろ、トモと二人暮らししているようなモノなのだから。
「それも悪くはないけど…」
「歯切れが悪い言い方をするわね。一人は寂しい?」
 トモの問いに、思わず頷きそうになった。本音を言えば、寂しい。一週間も会えないかと思うと、結構苦痛だ。しかし、たかが一週間会えないだけで寂しがるカキ、と思われるのも癪だった。
「…いや、大丈夫さ」
「本当に?」
 少しだけ微笑み、覗き込むようにして俺の顔を見てくる。分かっている。この顔は、俺の気持ちを見透かしている時の顔だ。
「俺はもう二十歳を過ぎてるんだ。そのくらい、どうってことないさ」
 トモから顔をそらし、半ば意地になってそう答えた。
「分かった。それじゃ、明日からは自分で炊事洗濯を頑張ってね」
 そう言って、トモは一口大に残っているチーズハンバーグを全て頬張った。俺も少し冷めたコンソメスープを飲み干し、食器を持って台所へと向かう。流しに入れ、蛇口を捻り、水で少しだけ洗う。
 明日からは自炊か。もう少し早く分かっていれば、チーズハンバーグを一つ残して、明日の夕食にしたのに。
 天上を見上げ、そんなことを少し悔やんだ。

 ※

 トモが気に入っているお笑い番組を見終えると、時刻は十時近くになっていた。
「それじゃ、私はそろそろ帰るね」
 トモは立ち上がり、自分のハンドバックを持つ。そしてそのまま玄関へと向かう。俺も見送る為、立ち上がって玄関へと向かった。
 立ったままハイヒールを履き、靴べらで調整をする。
「んじゃ、一週間後に会いましょう」
 トモは軽く手を上げ、左右に振る。
「了解。俺が恋しくなっても、早めに来るなよ」
「その言葉、そのままそっくり返すわよ」
 はにかんだ笑顔を浮かべながら扉を開け、トモは半身程外に乗り出す。それから振り返り、
「じゃね」
 短い別れの言葉を告げ、扉を閉めながら外へと出て行った。外からは、カンカンカン、と錆びた階段の音が一定の間隔で聞こえてくる。それは徐々に遠くなっていき、やがて完全に聞こえなくなった。
「さて…」
 俺は振り返り、冷蔵庫を確認した。野菜やら肉やら残っているが、多分、明日の夕食分を作ったら無くなるだろう。後で買ってこなければ。
 それから台所を抜け、俺は居間に入った。
 何となく、部屋の中を見渡す。テレビがあり、ちゃぶ台があり、座布団があり、押入があり、向こうの部屋には寝室があり…。
 別に、何ら変わりのない部屋がここにあるだけだ。見慣れた空間が、ここにあるだけだ。
 トモがここに居ないのは、寧ろ当然なのだ。だから、これが本来あるべき姿なのだろう。
 一人暮らし。そんな言葉が、唐突に身に染みる。
 なぜこうも感傷深くなっているのだろうか?
 トモがもうここに来ないワケではない。たった一週間、ここに来ないだけだ。それだけだ。それだけなのだ。

――でも、自分では分かっている。寂しいのだ。もの凄く、狂おしい程に。

 トモが部屋に居ないのと居るのとでは、まさに天国と地獄並みの差があると言っても過言ではないと思う。自分一人でご飯を作って――トモからチャーハンやカレーの作り方を教えてもらった――食べると、非常に美味しくないのだ。味が云々の話ではない。更に、いつもは狭いと感じているあの小さなちゃぶ台すら、広く感じるのだ。食べ終わって、一人でテレビを見ていると更に酷い。世界中に見捨てられ、狭くて暗い箱の中に閉じこめられたような、そんな孤独感を感じたりのだ。
 しかし、トモがこの部屋に居ると、そんな事などは微塵にも思わない。のんびりとテレビを見ることが出来るし、まったりとした時間を過ごすことも出来る。
 俺にはトモが必要なのだ。そんなのは、とっくの昔に分かり切っていることだ。だから、俺はトモと暮らしたい。結婚したいと、本気で考えている。

……去年、今と同じように夕飯を食べながら、今後の生活について話し合っている時だった。

『どうせだから、同居しないか?』
 俺はそう言った。結婚という意味合いも含めて。今思えば、言葉に真剣さが足りなかったとは思う。けれど、眼だけはしっかりとトモを見つめ、冗談ではないことを物語っていたと記憶している。
『今の暮らしが気に入っているから、ゴメンね』
 トモはそう言ってやんわりと断った。付かず離れずの今が気に入っているのか、『恋人』という形に囚われるのが嫌いなのか、俺とは結婚したくないのか…。何度も何度も自問自答したが、未だに答えは出ていない。それもそうだろう。答えは、トモしか持っていないのだから。

……そして、それから三ヶ月後。

 俺とトモは昔話をつまみにして飲んでいた。しかし、トモがハイペースで缶ビールを飲んでいた所為か、途中で酔いつぶれてしまう。缶ビール片手に小さなちゃぶ台に突っ伏し、吐き気がするのか時折顔を歪めては唸り声をあげていた。
 ふと、前々からずっと聞きたかった事を質問しようと思った。鉄壁を誇るトモでも、ここまで出来上がってしまえば本音を零すだろう。多少卑怯臭いとも思ったが、俺もまた酔っぱらっている所為かブレーキは緩く、悪いと思いつつ疑問をぶつけた。
『どうしてトモは俺と一緒に暮らせないんだ? 俺が嫌いなのか?』
 俺の言葉に反応し、トモはもぞもぞと身体を動かす。そして、寝言のようにして答える。
『好きだよー。カキは大好きだよー…。私も一緒に暮らしたいかな、って思ってはいるんだー。でもね、でもねー…』
 でもね、その後にトモは何かを言った。しかし、口籠もるようにして言った所為で何を言ったのかはハッキリせず、何かを言った程度にしか分からなかった。
『でもね? …その後は?』
 もう一度、俺は質問した。耳鳴りがするほどの静寂の後に聞こえてきたのは、トモの静かな寝息だった。俺は大きなため息をはく。
 トモの手から缶ビールを取り、奥のベットに寝させる為に抱き上げる。今思えば、トモを抱き上げたのはそれが初めてだった。互いの会社が決まったとき、嬉しさ余って抱き合ったことはある。そのぐらいしかない。人生の半分をトモと付き合ってきたが、肉体的な関係を持ったことは一度もない。いや、キスなら一度だけしたことがある。恋愛映画のムードに流され、それとなくしたくらいだ。後はない。悲しくなるくらい、何にもない。
 ベットに降ろすと、それだけで酷く官能的な気がした。完全に酔ったトモがベットに寝ている。短い喘ぎ声をあげ、その魅力的な肢体を動かす。布の擦れ合う音が聞こえる。俺の心臓が高鳴っていくのが分かる。トモの身体から、眼が離れない。離せない。ごくり、と唾を飲み込む。これは、酔いが回っている所為なのか。それとも、本能なのか。分からない。どちらでも良い。今目の前にトモが居る。それだけで充分だ。馬乗りになるように、トモを跨ぐ。ギッ、とベットが軋んだ。
『…トモ』
 相手の名前を、口にした。それだけで、俺の心臓は高鳴っていった。なぜだろう。酷く興奮している。酷すぎるくらいに興奮している。息が荒い。鼻息も荒い。心臓は高鳴り続ける。壊れそうだ。このまま、壊れてしまいそうだ。そうだ。壊れてしまえ。トモと一緒に、壊れてしまえ。淫らに、官能的に、本能の赴くままに。そうだ。そうだ。何もなかった、今までの方がおかしかったんだ。所詮、俺とトモは男と女。こうなるのは必然だったんだ。そうだ。そうだ。今の関係を、全てぶち壊して――。

――そこで、俺はふと我に返った。

 ぶち壊して、どうなるのだろうか。トモは、今の関係が好きだと言っていた。今の関係を壊すということは、トモは俺との関係を壊すかも知れない。俺の家に来なくなるかも知れない。寂しい。それは、嫌だ。それは、悲しい。それは、怖い…。
 何も知らぬトモを起こさないよう、そっとベットから降り、布団を掛ける。それからふすまを閉め、寝室と居間を区切る。それから、俺は新しい缶ビールを開け、一気に飲んだ。こうでもしなければ、自分自身でも何をしでかすのか分からない。酔いつぶれてしまえ。そうだ。酔いつぶれれば、こんな変な衝動を消えてなくなるだろう。そう思って、もう一本一気のみした。更にもう一本。やけになって、調理用の焼酎をラッパ飲みする。

――それからの記憶はない。

 気づけば、俺は寝ていた。朝起きると、トモに掛けていた筈の布団が俺に掛かっていた。そして、小さなちゃぶ台には書き置きがあった。
<酷く酔っぱらっているようだから、会社に休みの電話を入れて於いたよ。朝ご飯は冷蔵庫の中に入っているから、気分が良くなったら食べてね>
 俺が酔いつぶれた後、どうやら素直に寝てくれたらしい。ホッ、と胸を撫で下ろす。それと同時に、胃のむかつきと吐き気と頭痛が一遍に襲いかかってきた。飲み慣れない焼酎などラッパ飲みするから、こうなったのだろう。自業自得と言えば、多分そうなのだろう。
 あの後、トイレに直行して胃の中が空っぽになるまで吐いたのは、今となっては苦い思い出だ。

……結局、トモが俺と暮らせない理由は聞けず、肉体的な関係は未だに何一つ持っていない。それで良いのかも知れないと思っている自分も居れば、このままで良いのだろうかと悩む自分も居る。
 俺の自問自答は続くだろう。トモが、その答えを出してくれるまでは――。
 
 ※

 朋美が喜介の部屋を訪れなくなってから、二日ほどが過ぎた。
 最初の一日目は、須賀原との飲み会に付き合い、何件も梯子した。家に帰って来た途端、世界が傾き、そのまま倒れてしまう。朝気が付けば、喜介は台所で寝ていた。時刻を見れば遅刻ギリギリで、シャワーを浴びることも出来ず、昨日の格好のまま出社する事となった。
 二日目は、大人しく家に帰り、直ぐさま床へと着く。二日酔いのせいで仕事に集中できず、その日の成果は散々としか言いようがなかった。指先が巧く動かず、タイプミスは連続し、途中、うたた寝をしてしまい、部長に怒鳴られて起きるという始末だった。
 そして三日目――今日は土曜日で、会社は休みだ。
 朝、起こしてくれる人が居ないせいか喜介は久々にお昼過ぎまで寝てしまい、少し自己嫌悪に陥る。
 ご飯を作ろうと台所に立つが、喜介はどうしても包丁を握る気にはなれず、結局ヤカンにお湯を注いで湧かすだけとなった。
 テレビを付けると、昔流行った恋愛ドラマの再放送が流れていた。しかし、興味が湧かず、すぐにチャンネルを変える。教育番組、刑事ドラマ、地方特集…。次々と変えていくが、どれにも興味は湧かなかった。喜介は仕方なく、ニュースに落ち着くことにしたのだった。

――ピーーーー!

 台所から、ヤカンが蒸気を発しながら狂ったように叫ぶ。叫び続ける。この音は、鼓膜の奥を引っ掻くような独特な甲高い音で、誰が聞いてもヤカンの音だと思うだろう。

――喜介は、そこでふと思った。

 なぜヤカンはこの音以外に無いのだろうか?
 もっと、軽快なメロディとか流れるモノは無いのだろうか?
 もしかしたら、本当はあるのかも知れない。
 しかし、俺はそれを見たことがない。
 やっぱり、それは本当にあるのだろうか?
 もしあるとしたら、どんな音楽が流れるのだろうか?
 そのヤカンでお湯を沸かし、沸騰させると、チャイコフスキーの『胡桃割り人形』が軽快に流れる。……悪くはない。
 他にも往年のクラシックを導入することによって、ヤカンミュージックというブームが到来するのかも知れない。 
 注文すれば、自分の好きな曲だって入れることが可能というサービスまで生まれる。
 更には携帯電話とリンクさせ、お湯が沸くと携帯電話が鳴るというシステムまで誕生する。老人介護システムの応用みたいなモノだ。
 電子ポットというのがあるように、ヤカンにも電子ヤカンというのが発売される。これは、コンセントに差し込めばどこでもお湯を沸かせるという品物だ。機能的には電子ポットと何ら変わりない。
 電子ポットがあるのに、なぜヤカンに拘るのか?
 それは、ヤカンという物体に人が価値を見出しているからだ。いや、形状と言った方が正しいだろう。
 少し昔の家を思い浮かべると、お湯を沸かす道具と言えば必ずヤカンが出てくる。
 三十代近くの人達や、それ以降の人達ならば、ヤカンとカップラーメンは切っても切れない縁にあると感じるだろう。
 そう感じる年代人達は、お湯を沸かす道具と言えばヤカンであり、ヤカンと言えばお湯を沸かす道具なのだ。電子ポットなどでは時代が新し過ぎる。
 それ故、ヤカンに拘るのだ。丁度今俺が考えている『レトロジスタ』の企画と同じように、人は皆回帰を求める。強い懐かしさは、涙腺が緩むほどの感動を覚え、瞬時に『あの頃』を思い出させる。
 俺にとっての『あの頃』とは、このアパートに入り立ての頃だろう。あの小さなちゃぶ台と同じで、入居と同時に買った物だ。今から四年ほど前の事とはいえ、そこまで強く感じるモノはない。それは、まだ若いからだろう。振り返るには、まだ早いからだ。
 しかし、三十歳四十歳となれば話は違う。思い入れの年期が深く、また過去の懐かしさも強くなってくるのだ。
 黒電話が唐突に流行った時のように、レトロなモノはふとしたことで流行り始める。ターゲットは勿論、おじさん達だ。
 思えば、あこぎな商売なモンだ。単なる再販にしか過ぎないが、そのもの自体はとっくに廃れて現存しているモノはほとんど無い。それだからこそ、売れるのだ。
 郷愁と良く似た感情を抱きつつ、『あの頃』は良かったと口ずさみつつ、レジへと持っていく。これこそが、再販した人達の狙いであり、目的なのだ。
 根っこの部分どころか、八割近く『レトロジスタ』企画と似ている。多分、この企画のそういった流行りに乗っての事だからだろう。
 ヤカンは所詮ヤカンにしか過ぎない。しかし、『懐かしさ』という調味料は時として絶大な効果を発揮させる。それは、どの人達にもある潜在的な感情であり、人生に於いて必要不可欠な要素でもある。
 生きる理由を探すのは人間だけなように、過去を振り返るのもまた人間だけなのだという。

――なんでヤカンについてこんなに熱く考えているのだろうか。そう思い直し、苦笑する。
 
 依然としてヤカンは叫び続けている。最近、ますます物思いに耽ることが多くなったな。火を鎮火させながら、自己嫌悪に陥る。
 カップラーメンの蓋を開け、調味料やら加薬やらを入れ、お湯を注ぐ。今喜介が食べようとしているのは、他のカップラーメンよりも二倍近く高いモノだ。パッケージに書かれているお店が作り方を提供したらしいが、喜介にとってはそんなことはどうでも良かった。要は、美味しければ良いのだ。
 小さなちゃぶ台の上に乗せ、水の入ったコップも乗せる。
 三分経ち、蓋を開ける。もわっ、と蒸気が溢れ出て、喜介は一瞬怯む。箸でかき回し、味が均等になるようにする。息を吹きかけ、程良い熱さになったところで口に運ぶ。
「……ん?」
 もごもごと口を動かしながら、喜介は首を傾げる。次いで、器を持ってスープを飲む。
「……んん?」
 先程よりも深く首を傾る。一旦、箸を置き、喜介は腕を組んで悩み始める。
 これは他のカップラーメンよりも高い。つまり、高級なカップラーメンなワケだ。売れているお店で作られているラーメンな筈だから、おいしい……筈だよな。しばしの間、喜介はそれと睨めっこしたまま悩んでいた。
 しかし、伸びてしまうと更に大変な事になってしまうので、喜介は今一つ腑に落ちないまま箸を持つ。
 終始首を傾げながらカップラーメンを食べていた喜介だったが、ラーメンにまつわるとある噂を思い出し、愕然とした。
 それは、売れているラーメンというのは不味いラーメンが多い、という奇妙な噂だ。現に売れているラーメン屋の常連客に、『おいしいですか?』という質問をすると、『不味いよ』という返答が多く帰ってきたという。
 なぜ不味いラーメンが売れているかというと、不味くとも無難な味よりも印象に残っている為だ、とも言われている。そのどれもが不味いとは言えないが、そういう結果が在ったのもまた事実だ。
 喜介が食べているラーメンもその例に漏れず、売れているという名目のみの、喜介の味覚に合わない不味いラーメンだった。
 三分の二ほど食べたところで限界に達し、喜介は勿体ないと思いつつ、排水溝に投げ捨てることとなった。胃は妙に重く、二の腕には鳥肌が立ち、背筋がやけに痒くなった所で身の危険を感じた為だ。
 喉の奥に残った味を取り払うため、喜介はうがいを始める。上を向き、ガラガラと口の中を濯ぐ。二度、三度と行い、味が取れた所でうがいを止めた。
「ツイてないなぁ…」
 一人で愚痴ながら、喜介は更に深い自己嫌悪に陥り、項垂れながら深いため息をはいた。
 
 ※

 日曜日の夜。いつもだったら、予定通り朋美が夕飯を作りに来てくれる日だ。しかし、朋美が予め言っておいたように、今日も朋美は喜介の部屋を訪れなかった。
 喜介は、雑学を紹介する番組を見ながら、缶ビールを飲みつつカップラーメンを食べていた。このカップラーメンも、昨日に続き他のより高いモノだった。今度は美味しいだろう。という気持ちを込めて買ったのだったが、不味かった。昨日のよりはマシとはいえ、好んで食べたい味だとは思えなかった。
 喜介は既に、ビールを六缶近く開けていた。量にすると3リットルも飲んでいることになる。だがそれでも、今一つ酔えず、変わりに酷い閉塞感に襲われていた。前にも感じたことがある、狭くて暗い箱の中に閉じこめられているような、そんな感覚だ。
 そんな感覚に襲われることはたまにあるが、今味わっているのは特に酷かった。
 八畳あるこの部屋だけが、自分の世界なのだ。テレビがあって、カーペットがあって、座布団があって、小さなちゃぶ台があって…。それだけが、この世界にあるモノ。他には何もない。朋美も居ない。自分だけがそこにポツンと存在しているような、そんな感覚だった。

――唐突に、部屋の壁が迫ってきた。ゴゴゴ、という腹に響く重低音を鳴らしながら、六方から迫ってくる。

 壁が迫ってくる。どうしようか、このままでは俺が潰れてしまう。喜介は、丸まって身を縮めた。すると、喜介の大きさは見る見る内に縮まっていき、やがてはダンゴムシ程度の大きさになった。
 しかし、壁は止まることなく迫ってくる。このままではいずれ圧死してしまうかも知れない。喜介は更に身を縮めていく。もっともっと、ずっとずっと。そうして、喜介の大きさはゴマ粒程度になった。
 しかし、壁は止まることなく迫ってくる。このまま俺は圧死してしまうのだろうな。そう、喜介は覚悟した。なぜなら、ゴマ粒程度の大きさになったのではなく、本当のゴマ粒になってしまい、手も足も無くなってその場を動けなくなったからだ。
 俺はここで死ぬのか。一人で死ぬのか。この小さな部屋の中で、誰にも知られることなく、誰にも看取られることなく、孤独に死んでいくのか。

――一人は、怖い。
――孤独は、嫌だ。

 喜介は叫びたくなった。自分の存在を誇示する為に。
 しかし、声が出なかった。いや、声を出せなかった。なぜなら、今の喜介は正真正銘のゴマ粒、口すら無いのだから。
 部屋は目前まで迫ってくる。もう、どうにも出来ない。足掻くことすら出来ない。

 やがて――。

 喜介は、そこで目を覚ました。どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 思わず、辺りを見渡す。壁は、いつも通りにそこに鎮座している。喜介は、ホッと胸を撫で下ろした。
 トモがいないだけで、こんなにも精神が不安定になるなんて。喜介は、改めて朋美の存在の有り難さに気づいた。
「トモ…」
 居て欲しい存在である、相手の名前を呼ぶ。しかし、それは暗闇の虚空に消えていった。
 一週間まで、残り三日。こんなにも長い一週間を過ごすことになるのは、喜介にとって初めての事だった。

 ※

 五日目、仕事を終えた喜介は須賀原の誘いを断り、帰路を歩いていた。馬鹿騒ぎして、今の憂鬱な想いを吹き飛ばしたいとも考えたが、どうしても乗る気になれず、重い足取りで家に帰ることにしたのだった。
 商店街に差し掛かったとき、喜介は足を止めた。

――見られている?

 背中に誰かの視線を感じる。その視線は妙に艶掛かっており、喜介は視線と共に背中に悪寒を感じていた。心の中で3カウントした後、喜介は思いきって振り返った。
 しかし、そこには誰も居ない。錆びた看板を掲げた、繁盛していないラーメン屋があるだけだ。
 単なる被害妄想か。そう思い直し、喜介は再び歩こうとした。だが、またしても歩みを止める。

――……トモ?

 一瞬だがスーパーの中に入っていく朋美の姿を見えたような気がした。朋美の姿が見えたというよりは、その残像がほんの少しだけ見えたと言った方が正しいだろう。
 もしかしたら人違いかも知れない。喜介はそう思ったが、自然と足はそちらに向かって歩き出していた。やがて、早歩きへと変わっていく。

――なぜトモがこんな所に居るのだろうか?
――なぜトモが一週間も俺の家に来なかったのだろうか?
――なぜ、なぜ……。

 喜介の疑問は、募るばかりだった。
 スーパーの自動ドアが開き、駆け込むようにして中へと入る。直ぐさま周りを見渡すが、朋美は見つからなかった。乳製品コーナーに入り、棚と棚の合間を順々に見ていく。最後の魚肉コーナーを見てみても、それらしい人すら見当たらなかった。
 気のせいだったのだろうか。喜介は一瞬見えた朋美の姿を思い出してみるが、やはり一瞬しか見えなかったせいか、その映像はぼやけていて何の確証も得られなかった。
 もしかしたら、トモを想うあまりに幻覚が見えたのかも知れない。喜介は俯き、自分を嘲笑った。
 ぞくり、と背中に悪寒が走る。

――また、見られている?

 喜介は、またしても背中に視線を感じた。妙に艶掛かっている、あの視線だ。再び心の中で3カウントし、今度こそと願いながら振り向く。
 30メートル程離れた位置にある棚の陰に、『誰か』が隠れるのが一瞬見えた。喜介は、弾かれたように走り出す。
 隠れたと思われる棚の陰を見るが、誰も居なかった。すぐに辺りを見渡す。すると、少し遠くにある自動ドアが閉まっていくのが見えた。
 外に出たのか。軽い舌打ちをした後、喜介も急いで外へと出る。
 外へ出てすぐに辺りを見渡す。しかし、夕飯近くとあってか人が多く、その『誰か』を見つけることは出来なかった。
 しかし、喜介にはその『誰か』かが誰なのかは、見当が付いていた。あの艶掛かった視線。そして、それと共に感じた悪寒。心当たりのある人物は、たった一人しかいない。
「井藤 歌織……」
 その『誰か』の名を、喜介は呟いた。
 何の目的があって、井藤 歌織は俺を見ていたのだろうか。喜介はそう思ったが、それは一瞬だけだった。元より歌織に興味もなければ、そんな事で悩むのも億劫だったからだ。
 喜介は、その問題を思考から削除した。
 来たついでに、夕飯をこのスーパーで買っていこうかと思った喜介だったが、もう一度入るのは抵抗感があった。家に買い置きのカップラーメンがあったことを思い出すと、途端に買い物をすることが面倒に感じ、結局何も買わず家に帰ることにしたのだった。

 ※

 一歩一歩、踏みしめるように階段を上っていく。別に疲れているわけでもないのに、全身が重い。喜介は原因を考えてみるが、やはり朋美が居なくなったこと意外に思い当たる節はなかった。
 なぜだろうか、胃がムカムカしている。頭痛がする。吐き気を催している。部屋が近づくにつれて、身体が更に重くなっていく。重い。重い……。一歩進むだけでも、喜介にとっては大変な労力に感じられた。
 おかしい。トモが一週間居なくなっただけで、どうしてこんなにも調子が悪くなっているんだ。ふと、そう疑問に思った。
 思い出してみれば、トモが数日間留守にしていたのは何回かあったハズだ。一週間留守にしたことがあったかどうかは憶えていない。けれど、こんなにも調子がおかしくなったことはないハズだ。何かの病気なのか。いや、身体そのものは元気だと思う。恐らく、精神面から来る体調不良だろう。しかし、これは度を過ぎている。喜介は眉間に深い皺を寄せ、立ち止まって考える。

――なぜだ?
 
 ふと、喜介の頭をある考えが過ぎった。いや、そんな馬鹿な。首を強く振って否定しようとするが、どうしてもそれ以外に思いつかなかった。
 もしかしたら俺は、これから起ころうとしている『何か』を感じ取っているのかも知れない。いや、既に起こっていた『何か』を感じているのだろうか。喜介は、昔読んだ小説に載っていた『シンクロニシティー』という言葉と、その説明文を思い出していた。


……シンクロニシティーとは、「世の中のもの全ては繋がっていて、互いに連動している」、というユングの仮説だ。見知らぬ相手の好きな食べ物を言い当てるように、言わずとも自分の考えていることが相手に伝わるように、深層部分で繋がることが多々ある。
  例えば、マウスを十匹用意し、一匹ずつ迷路に放つ。一匹目は一分掛かったとすれば、二匹目は五十秒となり、三匹目は四十五秒となり、そして四匹目は四十秒となり…。実験から分かるように、ネズミ達もまた繋がっているのだ。
  これが、シンクロニシティー。意識の奥底では、この世の全てが繋がっているという説なのだ。


 ここまでがシンクロニシティーの解説だ。しかし、今の俺とピッタリと当てはまる説は、もう少し先にあったハズだ。


……人は、無意識の内に災害を予想すると言われている。事実、飛行機に乗ろうとした乗客が体調不良を訴え、やむなく乗車を止めたところ、その飛行機は事故に遭い、墜落したという。
 無意識の産物である夢でも、そういったケースは多々ある。問題は、それを警告として受け止めて行動出来るかどうかなのだが。
 少し話はずれるが、私は、予知夢はシンクロニシティーから来るモノではないかと考えている。全てが繋がっているというのならば、記憶の殿堂――あのアカシックレコードとも繋がっている(繋がることが出来る)のではないだろうか?
 だからこそ、未来を垣間見る事が可能なのではないだろうか?
 そもそも、輪廻転生というように――。


 余計な部分まで思い出しそうになり、喜介は首を振るって無理矢理中断させた。
 俺とトモが深層意識で繋がっているとする。となれば、これからトモの身に降りかかる――もしくは降りかかった――からこそ、俺の体調が悪くなっているのではないのだろうか?
 トモの不幸が俺の不幸であるのならば、これからトモに不幸が訪れるぞ、と俺の深層意識が警告を鳴らしているのではないのだろうか?
 嫌な汗が、背中を伝っていく。
 気づいたときにはもう、喜介は走り出していた。電話をしなければ。電話をして、トモの安否を確かめなければ。その一心で、鉛のように重い身体を無理矢理動かしていく。

――なぜだろうか、自分の部屋が、酷く遠く感じる。

 残り数十段。喜介は覚束無い足取りで一気に駆け上がっていく。途中、踏み外して倒れそうになるが、咄嗟に手を出したお陰で擦り傷程度で済んだ。
 階段を全て登り切り、蹌踉めきながらも自分の部屋に向かって走る。途中にあった空の牛乳瓶を倒してしまうが、構うことなく走った。
 部屋に辿り着いてすぐ、喜介はポケットから鍵を取り出す。そして、差し込んで右に回した。
「……あれ?」
 カチリ、という音が鳴らず、喜介は思わず素っ頓狂な声をあげた。
 もしかして、開いているのか。喜介は、恐る恐るドアノブを握りしめ、一気に開け放った。

「あ、久しぶり。それと、お帰りー」

 そこには、いつものように小さなちゃぶ台に座り、リラックスした姿勢でテレビを見ている朋美が居た。五日前と、何一つ変わった様子はない。
「……はは」
 なんだ、全然なんて事はないじゃないか。
「……ははは」
 たった五日で、トモが変わるわけないじゃないか。
「……はははは」
 何がシンクロニシティーだ。何が予知しているだ。ただ単に、俺が寂しかっただけじゃないか――。

――喜介は、少し俯き、眼を隠して笑い続ける。嬉しさのあまりに零れそうになった、涙を隠すために。

 ※

「なぁトモ。もしかして今日スーパーの方に行ってた?」
 台所で料理している朋美に向かって、喜介は質問した。
「行ってたわよ。今日の晩ご飯の材料を買うためにね。それがどうかした?」
 フライパンに肉を投入したのか、ジュー、という香ばしい音が聞こえてくる。
「別に。多分トモだとは思うんだけど、スーパーに入っていくのを見たから」
「なるほどね」
 その後、よっ、という短いかけ声と共にフライパンを返す。再び香ばしい音が聞こえ、それと同時に肉の焼ける良い匂いが漂ってくる。五日振りに嗅ぐ、料理の匂いだ。喜介は、口の中に溜まった生唾を飲み込む。
 今日の献立は、喜介の大好物であるチーズハンバーグだ。五日前にも作ったばかりなのだが、喜介にとってはそんなことは関係なかった。
「なぁトモ。一週間って言ってたけど、二日も早く帰ってきたな」
「そう言われればそうだね。まっ、きっかり一週間じゃなくて、約一週間だったから誤差が出てもおかしくないわよ」
「そうなのか?」
「そうなのよ。悪い?」
 二日間も早く帰ってきてくれて、俺は非常に有り難いけどね。幸せそうに微笑みながら、そう心の中で呟いた。
 何気ない会話。部屋の中に漂う料理の匂い。朋美という存在感。その全てが、喜介の心を癒していく。心の中で蟠(わだかま)っていた閉塞感が、徐々に薄れていく。
 この部屋は、喜介が一人暮らしの為に借りた部屋だった。しかし、実は世話焼きな朋美が朝ご飯を作りに来始め、たまに晩ご飯も作ってくれたりした。そして、一緒に朝ご飯を食べ、一緒に晩ご飯を食べ、一緒に晩酌をして…。
 喜介がこの部屋について思い出してみても、そこには必ず朋美の姿があった。掃除をする時でも、洗濯をする時でも、料理をする時でも。そう、何処にでもだ。朋美無くしては、この部屋の思い出は語れないだろう。それだけ、喜介と朋美が一緒にいた時間は長いのだ。
 もしも、俺とトモが『あの時』に会っていなかったら、二人はどうなっていたのだろうか。喜介は、ふとそんな『イフ(もしも)』を思う。
 見知らぬ赤の他人として、目線を合わすことなくすれ違う。互いの名前も知らず、互いの私情も知らず、一生涯を過ごすのだろう。会話も交わすことはない。他人は他人のままで、喜介と朋美の道が交わることはないのだ。
 そんな事、考える必要もないか。頭を振るって、その思考を払う。なぜなら、二人は会ったのだ。そして、今こうして暮らしている。『イフ(もしも)』は、所詮『イフ(もしも)』にしか過ぎないのだ。喜介の部屋に朋美が晩ご飯を作りに来ている。これこそが事実。喜介が幸せだと思える、紛れもない現実なのだ。
「出来たわよー」
 朋美は台所から、チーズハンバーグが乗った少し大きめな皿を両手に持ってくる。チーズハンバーグにはいつも通りのように、トモ特製ソースがたっぷりと掛かっており、電灯に照らされて独特な光沢を放っていた。
 喜介は両手を上げ、満面の笑みを浮かべながら高らかに歓声をあげる。
「待ってました!」

 ※

 前回は数があるものだと思ってがっつくように食べたことを反省し、喜介は噛み締めるようにして食べていく。一口一口、まるでワインを味わうかのように口の中で転がす。そして、その味を一瞬も逃すまいと両目を閉じ、飲み込む。
「――…うまい」
 うまい。まさに、この一言に尽きるだろう。喜介にとって、この『うまい』とは様々な意味合いが含まれている。
 料理が上手い。食材を生かすのが巧い。そして、味が美味い。この三つが含まれているのだ。
「カキってさ、本当に美味しそうに食べるよね。料理番組に出られるんじゃない?」
 コンソメスープを啜りながら、朋美は言った。
「俺は本当に美味しいと思えるものしか、こんな顔は出来ないよ。いかにも不味そうな料理で、『おいしいですねぇ〜』なんて気の利いたコメントなんか言えないし」 
「それじゃあ、チーズハンバーグ限定の試食家とか?」
 想像してみて、喜介は眉を寄せる。毎日毎日チーズハンバーグの連続。いくら朋美の作ったチーズハンバーグだとしても、
「……遠慮しておくよ」
「そりゃそーね」
 そう言って、朋美はえくぼを寄せて笑う。
 今の喜介は、幸福感に包まれていた。朋美が側に居て、大好きなチーズハンバーグを食べ、他愛もない話をする。これらこそが、喜介が最も求めているモノなのだ。他には何も要らない。豪華な家も、豪華な食事も要らない。この狭い部屋で、朋美と一緒に居られれば良いのだ。たったそれだけ。何とも庶民的で、『漢が語る夢』としてはとてもつまらないモノ。しかし、喜介にとってはそれだけで十分なのだ。
 いつから自分の夢がそれになっていたのかは、憶えていない。小学校の頃はサッカー選手で、中学校では作家を、そして高校では高給取りの公務員だった。それが、いつの間にか変わっていた。そして、知らぬ間に叶えられていた。それもそうだろう。なぜなら、高校二年生の夏休みからこの状況が続いているのだから。
「……ねぇ、カキ」
「ん? なに?」
 朋美は、伏し目がちにして喜介に言う。
「実はね、私に彼氏が出来たの」
「ふぅん……」
























「…………は?」


















 今、トモはなんて言った?
「だからね、もうここには来られないと思うわ」
 だから、なんて言ったんだ?
「一週間留守にしたのは…私の……私の……彼氏、との話があって…」
 だから、トモはなにを言っているんだ? 教えてくれ、俺に、なにを言っているんだ?
「もう…ここには来るなって……。それで、それで……」
 お願いだから、教えてくれ。トモは、トモはなにを言っているんだ? 泣きそうな顔になりながら、なにを言っているんだ?
「もう……朝ご飯とか作ってあげられなくて……。もう……晩ご飯も作ってあげられなくて……。もう……ここには来られなくて……」
 トモの声が、聞こえているようで聞こえない。音はあると認識しているのに、意味は理解出来ない。理解しようとするけれど、出来ない。拒絶している。現実を否定している。

――これは何だ?
――現実なのか?
――夢ではないのか?
――ここは本当に俺の部屋なのか?
――目の前に居るのは本当にトモなのか?
――ここは何処だ?
――夢か? 現実か? それとも、あの世なのか?
――ああ、ああ……。

「ごめん……! 本当に、ごめん……!!」
 トモは、泣いていた。泣きながら、立って、玄関に走っていった。去っていった。走って、去っていった。泣きながら、去っていった。去っていった。去っていったんだ……。

――なぜ、トモは去っていったんだ?

 ふと浮かぶ疑問。既に答えは言われたハズなのに、そこだけぽっかりと抜け落ちて分からない。

――なぜ、トモは泣いていたんだ?

 またしても浮かぶ疑問。既に答えは分かっているハズなのに、そこだけ黒く塗りつぶされいて分からない。

――なぜ、ここに来られないと言っていたんだ?

 言ったのか? あれ? ここに来られないと本当に言ったのか? あれ? あれれ? 分からない。

――なぜ、■■が出来たんだ?

 ■■? なんだ、■■って? 知らない単語だ。だから、意味なんか知らない。だから、分からない。

――なぜ、俺は泣いているんだ?

 ああ、泣いている。本当だ。知らぬ間に、俺が泣いていた。トモと同じように、ポタポタと雫を落としている。人が涙を流すのは二通りあるらしい。嬉しいときと、悲しいとき。今の俺はどうだろうか。嬉しい? いや、悲しい。悲しい? よく、分からない。

――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。
――分からない。

 ああ、分からない。もう、分からない。全てが、分からない。
 トモがなにを言ったのかも、なぜ泣いていたのかも、なぜ去っていったのかも、分からない。
 俺がなぜ泣いているのかも、なぜこんなにも悲しいのかも、なぜこんなにも分からないのかも、分からない。
 
――いや、たった一つだけ分かることがある。なぜだろうか、それだけが、酷く分かる。これだけは、ハッキリと分かる。



 俺は、独りぼっちになったのだ。


 ※

――暗い。

 なぜだろうか、いつの間にか部屋の電気が消えている。さっきまでは点いていたような気がしていたのに。…俺が消したのだろうか。だとしても、その時の記憶はない。
 俺の目の前には、小さなちゃぶ台があった。その上には、冷えたチーズハンバーグと冷えたコンソメスープがそれぞれ二つずつある。
 俺一人が食べる量ではない。向かい合って、二人で食べる量だ。そう、二人なのだ。

――でも、この部屋に居るのは俺一人。他には誰も居ない。

 現実は、いつだって後からやって来る。
 その瞬間は夢うつつな気分だけれど、時が経てば、それらは波のように襲いかかってくる。抗う事は出来ないのだ。現実という、大きな波からは。
 いつの日か、父さんが言っていた。世の中にはどうにも出来ない大きな波がある、と。
 これが、その大きな波なのだろうか?
 だとしたら、大きすぎる。それはあまりにも巨大過ぎて、立ち向かうどころか尻尾を巻いて逃げる暇さえ貰えずに、俺はそのうねりに巻き込まれてしまった。
 巻き込まれてしまったら、もう無事では済まされない。助かったとしても、大きな波が去った後には傷が残るのだ。絶対に消えない、深くて大きな傷が。
「…ああ…」
 傷が、痛む。えぐられているように、痛む。だからだろうか、俺が、泣いているのは。
「…ああ…」
 痛い痛いと声をあげても、治療してくれる人は誰も居ない。痛い痛いと泣いていても、側に居てくれる人は誰も居ない。誰一人として、居ないのだ。
「あああぁぁー……!」
 吼えるように、俺は泣いた。小さくうずくまり、それでも尚泣き続けた。自分の存在を誇示するように、自分の存在を主張するかのように。まるで、生まれたばかりの赤子のように――。

――暗い。

 暗い部屋に独りぼっち。ついさっきまであったトモの温もりは消え、今では冷たい空気が漂うだけだ。
 
――一人は、怖い。
――孤独は、嫌だ。

 トモは、もうここを訪れないと言っていた。良く分からない事を呟いて――いや、もう分かっている。ただ、そのことを考えるだけで、思い出そうとするだけで、傷が酷く痛むのだ。頭痛がして、吐き気を催すのだ。けれど、俺はそれを受け止めなくてはならない。現実を。トモが言っていた、その言葉を。

――彼氏が出来たと言っていた。

 彼氏、本当の意味は聞き手以外の男性を指すらしいが、一般的に使われているのは……その……恋人として、だ。
 恋人、それは一体誰なのだろうか? 俺じゃないとすれば、どこのどいつなのだろうか? なぜ、俺じゃないのだろうか?
 トモは、俺を好きだと言っていた。俺も、トモを好きだと思っている。相思相愛。だけれど、トモは俺から離れていった。
 あの言葉は嘘だったのか?
 好きだと言っていた言葉は、嘘だったのだろうか?
 嘘じゃないとしたら、どうしてトモは俺から離れていったんだ。好きなら、今まで通りの生活を送れば良いのに。
 どうして、どうして……!
「どうしてなんだ、トモ……!!」
 誰も居ない虚空に向かって、俺は叫んだ。

――ふいに、あの感覚に襲われた。

 八畳あるこの部屋だけが、自分の世界という感覚。この部屋が、世界の全てという錯覚。

――唐突に、部屋の壁が迫ってきた。ゴゴゴ、という腹に響く重低音を鳴らしながら、六方から迫ってくる。

 壁が迫ってくる。別にもう、どうでもいい。俺を潰したいのなら潰せばよい。この暗い部屋で、誰にも看取られることなく、一人で、孤独に、その一生涯を終えるとしても構わない。どうせ、俺は独りだ。独りなんだ。

――背中に、右手に、左手に、つま先に、頭に、壁が接触する。

 これから俺は潰されるのだろう。ミシミシと骨が軋む音を立てながら、激痛と共に潰されていくのだろう。そして、やがては単なる肉片の塊となり、まるでサイコロのように小さな物体と成り果てるのだろう。
 怖くはない。死神が六方から迫ってきていると考えても、恐怖心など微塵も湧いてこなかった。
 寧ろ怖いのは、俺が独りだということ。この部屋には、俺一人しか居ないという事実。その方が、何千倍も怖い。
 俺が潰され、死んでしまったら、トモは悲しんでくれるのだろうか?
 泣きながら、葬式に出席してくれるのだろうか?
 それとも、情けないと嘲笑うのだろうか……?

――気が付けば、俺はまたしても縮んでいた。またしても、俺はゴマ粒になっていた。ちっぽけで、惨めで、矮小な存在になっていた。

 ゴマ粒になったとしても、壁はやがてそれすらも押し潰すだろう。たった少しの時間を手に入れたに過ぎない。寧ろ、人の形を保ったままで死にたかった。

――そこまでして俺は生き延びたいのだろうか?

 もう、死んでも良いと思っているのに。もう、どうでも良いと思っているのに。それでも尚、心の底では死にたくないと思っているのだろうか?

――生き延びて何になろうか?

 トモは俺の部屋を離れ、見ず知らずの男の元へと行ったというのに。トモはもう二度と、俺の部屋に戻ってこないと言っていたというのに。それでも尚、俺は生き延びたいと願っているのだろうか?
  
――もう、自分自身すら分からない……。

 壁は迫り続ける。徐々に徐々に、まるで俺をいたぶっているかのように。

 やがて――。

 俺は、押し潰された。すりゴマならぬ、圧しゴマと成り果てた。押し潰されたとしても、小さな粉みたいなモノが少し溢れ出ただけだ。元よりゴマに臓物などない。ゴマ粒が矮小な存在ならば、その亡骸もまた矮小なモノだった。つむじ風が吹いてしまえば、いとも容易く吹き飛んでしまうだろう。
 後には何一つとして残らない。俺が居た証拠も、俺が居たという跡も、何一つとしてない。
 唯一残っているモノは、俺が居たという記憶のみ。父さんや母さん、それと俺を知っている人達。そして、トモ。
 だが、時が経てばそれすらも薄れ、やがては消え去ってしまうだろう。記憶などという曖昧な存在ならば、それも至極当然なのかも知れない。
 結局、俺は居なくなる。本当の意味で、俺は居なくなっていく。俺が居たという証はなく、俺が居たという記憶は無くなり、そして俺はこの地球から――消え去った。

 ※
 
――トントントン。

 台所から何かを刻む音が聞こえる。

――ジュー。

 続いて聞こえる、何かを焼く音。

――♪タン、タタン、タラララ、ダン……。

 そして聞こえる、ピアノの音。……ピアノ?


 喜介は、酷く重い目蓋を開けた。目の前には小さなちゃぶ台の脚が見える。物思いに耽っている内に、居間で寝てしまったらしい。
 起きあがると、小さなちゃぶ台の上には昨日から放置されたままの夕食が並んでいる。これが、朋美との最後の夕食だった名残。最後の晩餐、という言葉が喜介の頭を過ぎった。
 相変わらずピアノの音は鳴り続けている。最初は何の曲か分からなかった喜介だったが、印象的なフレーズに入り、そこで思い出す。
 ベートーベン作曲の『月光』だ。
 喜介の好きなクラシックの内の一つで、この携帯電話を買ったときから入っていた音楽であり、最初から着信音設定となっていた。今までは別に気にすることなく使っていたのだが、ふとこの曲の謂われを思い出し、憂鬱な気分になる。
 第一楽章では、ベートーベンの恋人であるジュリエッタへの想いが、現実の狭間に追いつめられ、けして成就することのない悲しい結末を暗示する形で曲が始まるのだ。
 第二楽章では、勇気をふるい出して恐る恐る、 想いを恋人に告白する。しかし、第三楽章では、恋の破局を向かえることとなった。
 よく分からない内に破局を迎えた喜介にとっては、今最も聞きたくない音楽だった。憂鬱な気分を増幅させるかのように暗い音が続き、尚かつ、失恋をテーマにした曲なのだから。
 なぜ月光なんか鳴っているのだろうか。一瞬疑問に思った喜介だったが、月光が鳴っているということは誰かが俺に電話を掛けている、という事に気が付き、慌てて携帯電話を探す。
 背広の内ポケットに入っていたのを思い出し、取り出して直ぐに通話ボタンを押す。
「もしもし」
『もしもし、鹿野川君だね?』
 少ししゃがれた男の声。つい先程目覚めたばかりというのもあってか、喜介はそれが部長だと気づくのに少々時間が掛かった。
「お疲れ様です。部長」
『うむ。…しかし、疲れているのは君じゃないのかね?』
 唐突に言われた言葉に喜介は、
「はい?」
と、思わず言葉尻の音が上がる。
『…どうやら、本当に疲れているようだね。時間を見たまえ』
 言われるがままに、喜介はテレビの下にあるデジタル時計を見た。時刻は――12:28となっていた。
「あー……」
 言葉が浮かばず、喘ぐようにして言葉を漏らした。
 どう弁解したら良いんだろうか。と、喜介が悩み倦んでいると、
『風邪……かね?』
 部長は最も無難で、最もそれらしい理由を口にした。良い言い訳が思いつかなかった喜介にとっては、棚からぼた餅な気分だった。
「そう……です」
『調子がどうかね?』
「…あんまり良くはないです」
 嘘も方便。しかし、体調不良という点では強ち嘘ではなかった。
『……ふうむ』
 何かを考え込んでいるように、部長は唸った。疑っているのだろうか。不安な思いが過ぎったが、
『君は有給も余っているようだしな。たまにはゆっくりと休むと良い』
 ホッと胸を撫で下ろす。
「ありがとうございました」
『お大事にな』
 そう言って、部長は通話を切った。
 喜介は、大きなため息をはく。酷い吐き気や、頭痛はするものの、出社できない程の酷い体調不良ではなかった。しかし、働く気力もなければ、動く気力すら湧いてこなかった。目の前に鎮座している、この夕飯を片づける気力すらも。
 喜介は、うつろな目でチーズハンバーグを見つめた。これが、トモが最後に作っていったチーズハンバーグか。せめて最後に、と思い、喜介は箸に手を伸ばす。

――しかし、二つの衝動が湧いて出て来た。

 一つは、食欲。そしてもう一つは、吐き気だった。
 二つの衝動が混ざり合い、奇妙な感覚となっていた。胃にモノを入れようとする反面、胃にあるモノを全て吐き出そうとする衝動。
 食道の真ん中辺りでせめぎ合い、暴れ回る。食べられそうで、食べられそうもない。吐きそうで吐けない。それが、忙しくなく入れ替わっていく。
 しばらくは均衡を保っていたが、一つの衝動が勝った。

――それは、食欲。目の前にある、このチーズハンバーグ食べたいという衝動。

 箸を握り、まるで犬のようにかぶりつく。苦渋の表情を浮かべながら、噛み締めていく。そして、ごくり、と喉仏を鳴らしながら飲む込んだ。

――唐突に襲いかかる吐き気。一度は抑えられていた衝動が反旗を翻し、より一層勢力を増して喜介を攻撃した。

 頬が一気に膨らむ。喜介は両手で口を押さえ、立ち上がった。
 台所の隣にある、洗面所に通じる扉を開けようと、片手を離し、ドアノブを掴んだ。

――ああ、無理だ。

 そう直感的に思った喜介は、ドアノブから手を離し、半身を洗面所の方に向けた。瞬間、口の中にあったモノは食器洗い場に全てぶちまけられる。そして胃にある全てのモノも食道を通り、ぶちまけられた。
「はぁ…はぁ…!」
 喜介は、そのまま食器洗い場にもたれ掛かった。胃が痙攣している。もう何一つとして残っていないのに、まだ何かを吐き出そうと動いている。その動きを抑えられず、喜介はもう一度吐いた。しかし、出てくるのは胃液のみ。
「はぁ…はぁ…!」
 ぐらり、と世界が揺らぎ、喜介は床に崩れた。
「はぁ…はぁ…!」
 肩を強く打った所為か、少し痛む。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
 仰向けになり、喜介は徐々に呼吸を整えていく。胃の痙攣も収まり、少し辛いものの、普通に呼吸できるようになった。
「くそ…くそ…!」
 あれだけ好きだったチーズハンバーグも、もはや胃が受け付けてくれない。味わおうとした瞬間、なぜか拒絶してしまうのだ。
「なんでだよ…!」
 仰向けになったまま、喜介は悔しくなって涙を流した。朋美が喜介を拒絶したように、喜介もまた朋美を拒絶しているような気がしたからだ。
 たった一度――彼氏が出来た、という裏切りの言葉をたった一度だけ聞いただけなのに、喜介はもはや朋美を信じられなくなっていた。
 喜介は朋美を信頼していた。それでこそ依存し、全てを預けるほどに。
 たった一度の裏切り。しかし、そのたった一度で喜介は深く傷つき、心の底では朋美を拒絶するようになってしまっていた。
「なんでだよ……トモ……」 
 喜介は、愛している人の名を呟いた。しかし、その裏切り者の名前を口にしている自分に嫌気が差しているのも、また事実だった。

 ※

 またしても鳴り響く『月光』。重苦しい音と共に、喜介は目覚めた。
 時計を見ると、既に十一時半過ぎ。
 いつの間に寝てしまったのだろうか。部長からの電話を切り、泣き伏せるためにベットに突っ伏してからの記憶はなかった。 
 喜介は、居間にあるであろう携帯電話を取るためにベットから起きあがろうとした。しかし、枕の一部分の色が変わっている事に気が付き、中腰の姿勢で止まる。悲しみのあまりに枕を濡らす、という言葉があるが、それは本当の事だったんだな。湿った枕を見つめながら、そんなことを思った。
 電話を取ると、聞こえてきたのは予想通り部長の声。
 熱が酷く、身体の節々が痛むのでちょっと無理だと思います。そう告げ、喜介は今日も有給休暇を使ってずる休みをした。
 本当は熱などなければ、風邪でもない。ただ単に、会社に行く気力が湧かないだけなのだ。
 電話を切った後、喜介は倒れ込むようにしてベットに突っ伏した。
 お腹がぐう、と空腹のサインを出す。喜介は二日前からろくに食事を摂っていない。だからそれは、空腹のサインと言うよりは警告に近かった。早く何かを食べなければ、いずれ栄養失調で倒れてしまうぞ、と。
 しかし、喜介の部屋には食材は疎か、カップラーメンすらない。冷蔵庫はとうに空っぽで、残っているのはマヨネーズやケチャップなどの調味料ぐらいなものだ。

――いや、食べ物はまだあった。昨日からずっと小さなちゃぶ台の上に鎮座し続けている、朋美特製のチーズハンバーグが。

 ベットに突っ伏したまま、喜介はそれを見つめる。既に一日半以上そこに置かれ続けているそれは、表面は老化したコンクリートのようにひび割れ、光沢を放っていた朋美特製のタレは黒ずみ、サビを連想させるようなモノへと成り果てていた。
 なぜだろうか、それを見つめていると、酷く嫌な気分になる。喜介はそれを凝視したまま、眉をしかめた。
 朋美が作った料理がいつまでもそこにあるからではない。喜介がいつまでも女々しくそこにそれを残しているからではない。見ていると、何となくうら悲しくなってくるのだ。

――ああ、そういうことか。

 このチーズハンバーグは、今の喜介達とそっくりなのだ。
 料理はいつだって出来たてが美味しい。特に、チーズハンバーグとなれば尚更だ。しかし、時間が経てば経つほどチーズは固まり、肉汁は冷えて独特の臭みを放ち、やがて誰も食べなくなってしまう。
 つまりは、喜介と朋美の関係は文字通り『冷めて』しまったのだ。このチーズハンバーグと同じように、冷めてしまって食べられなくなってしまったのだ。
 喜介は、思わず苦笑した。まだ恋人としてのスタートラインも切ってすらいないのに、もう冷めてしまったなんて。
 冷めてしまったら、もうどうにもならない。チーズハンバーグは勝手に温まってくれることなど、ないのだから。時間が経てば経つほど、味は落ち、やがては――腐る。
 そして辿り着く先は、ゴミ箱。『過去』というゴミ箱の中に入れられて、そして消されてしまう。
 そう、喜介と朋美の関係は既に過去の産物。タイムマシンでもなければ、二度と取り戻すことは出来ないのだ。
 そんな考えが、喜介の胸を更に強く締め付けていく。

――もう二度と、元に戻らない。
――もう二度と、トモはここには来ない。
――もう二度と、あのチーズハンバーグは食べられない……。

 喜介は虚ろな眼でチーズハンバーグを見つめたまま、微睡みの中へと堕ちていった。

 ※

 朝、喜介はふと眼が覚めた。時刻は六時半、いつもよりも一時間近く早い。眼が覚めた瞬間なのにも関わらず、頭は冴え、眠気は微塵もなかった。
 丸二日間近く寝ていたからだろうか。喜介はそれ以外に思い当たる節がなかったので、そう思い込むことにした。
 喜介はベットから立ち上がり、洗面所に向かう。
 相変わらず何の気力も湧かないが、それでも会社に行かなくてはならない。何日か残っていた有休はもう使い切り、余程の理由が無い限りは休むことを許されなかった。
 所詮自分達は雇われの身……。喜介は、父の言っていた言葉を思い出していた。会社にとっては、喜介が失恋しようが、孤独感から精神が不安定になっていようが、長期間休む理由としては認められないのだ。
 喜介は、兵隊アリのようだと父を罵った自分を消してしまいたかった。なぜなら、やはり自分も兵隊アリで、こうして自分を殺し、会社に従事しようとしているからだ。
 洗面所に熱めのお湯を溜め、タオルを浸す。そして絞り、喜介はそれで顔を拭いた。
 丸二日間ほったらかしだった髭を剃ろうと、喜介は鏡に映る自分自身を見る。

――まるで怪物だな。それが、自分の顔を二日ぶりに見た感想だった。

 ここ二日間食事を摂っていない所為か、心なしか頬は痩け、泣きすぎた所為で眼は腫れ上がり、瞳は死んだ魚のように生気がない。たった二日間で、見る人見る人がぎょっ、とするような怪物へと変身を遂げていた。
 風邪でこうなりました、とでも言えば誤魔化せるだろうか。顎髭を撫でながら、喜介はそんなことを考えていた。頬が痩けているのはともかく、風邪で眼が腫れ上がるなんて事はなかなかない。少々苦しい言い訳だなと思いつつも、喜介はそれを無理に通すことを決めた。
 ジェルを塗って顎髭を剃り、ワックスで髪の毛を整え、背広に着替える。
 そして、靴を履く――が、途中で止まる。
 就任祝い、つまりは二年前に朋美から貰って以来、喜介は外へ出掛けるときにはこの靴を欠かさずに履き続けてきた。強制されたワケではない。そうしなければ、という強迫観念に囚われていたワケでもない。ただ単に、この靴が好きだったから履き続けてきたのだ。
 普段であれば、何の躊躇いもなくこの靴を履くだろう。しかし、今は『普段』ではない。もはや彼の『普段』は崩壊し、迎え入れたくもない普段を味わっているのだから。
 喜介は横にある靴箱を開け、真新しい革靴を取り出した。結婚式などの特別な日にだけ履く革靴だ。
 それに足を入れ、地面をつま先で蹴って靴擦れを直す。履き慣れていない所為か、多少の違和感は感じられた。
 そして喜介はドアノブを掴み、玄関を開けた。

――ああ、眩しいなぁ……。

 二日振りに外に出た喜介の眼に、朝焼けの光が差し込む。その眩しさに喜介は手で日陰を作り、眼を細めた。
 ここから見える風景は、こんな感じだっただろうか。眼を細めたまま、喜介は辺りを見渡した。
 心持ちながら、街並みは色褪せて見え、辺りから聞こえてくる音がやけに耳障りに感じた。
 不思議な感覚だった。まるで自分だけが置いてきぼりにされ、街だけが何か別なモノにすり替わってしまったような、そんな感覚だった。

――ここは、どこなのだろうか?

 一瞬、そんな疑問が過ぎった。後ろを振り向けば、自分の部屋。ここにはもう四年近く住んでいるというのに、本当に自分が住んでいた場所がここだったのかどうか、分からなくなった。しかし、何とか自分自身にそうなのだと言い聞かせ、喜介は会社に向けて歩を進み始めた。
 
 ※

 歩く歩調は牛歩のように遅く、時折立ち止まっては物思いに耽っている間に時は過ぎ、結局いつもよりも少し遅い時間の出社となった。
 玄関で靴を脱ぎ、タイムカードを差し込む。それから喜介は、気怠そうに階段を昇り始めた。
「おはようございます」
 そう言いながら、喜介は自分のオフィスの扉を開けた。
「おっ、ようやく――」
 須賀原の口は最後まで言い終えることなく止まり、変わりにあんぐりと大きく口を開けていく。続いてざわめいていく社内。忙しくキーボードを叩いていた者も手を止め、物珍しいそうにこちらを見てくる。
 原因は考えるまでもない。この怪物と化した、喜介の顔の所為なのだろう。
 こうなることは予想済みだったので、喜介は眉一つ動かさず、部長の席へと向かって歩き出す。野次馬達は喜介の歩くコースを遮らないように避けていく。さながらそれは、モーゼの十戒のようだった。
 部長の席に着き、喜介は深々と頭を下げる。
「部長。急な有休を二日間もとってしまい、申し訳ありませんでした」
 本当は、申し訳ないという気持ちなど微塵もない。建前上、やむなくそうているだけだ。
 部長から文句の一つも言われるかと喜介は思っていたが、
「あ、ああ…」
と、帰ってきたのは息を漏らしただけのような生返事のみ。須賀原と同じように、あんぐりと大きな口を開けたままだ。
 本当は入ってきた瞬間に怒鳴ろうとしていたのかも知れない。その証拠に、両手だけは未だに強く握られている。しかし、入ってきたのは怪物と化した喜介。予期せぬ自体に驚き、毒気を抜かれてしまったのだろう。
「だ、大丈夫なのかね…?」
 部長は心底心配そうに聞いてくる。
「ええ、大丈夫です」
 そう言った後、喜介は自分自身を笑った。いったい、何が大丈夫なのだろうか、と。
「む、無理をすることはないぞ。風邪というのはだな、直ったと思った後にまた再発することも多いんだ。だからな――」
「部長。私は大丈夫です」
 きっぱりと、部長の言葉を遮って言い放った。
 まだ何か言い足そうな部長だったが、仕事に意欲的になっている事を止めろとは言えず、
「く、くれぐれも無理はするなよ」
と言った後、ばつが悪そうに席を立った。
 喜介はその後ろ姿を横目に見ながら、自分の席へと座る。
「部長から風邪だとは聞いていたが……まさかこんなに酷いとは」
 席について早々、須賀原が眉をひそめて話しかけてきた。 
「咳と鼻水が酷かっただけだよ」
「嘘つけよ。その2セットだけでそんなに酷くなるワケがないだろうが」
 何か思いついたのか、須賀原はわざとらしく手を叩く。
「分かった、アレだろ? 食中毒も併発したんだろ? バカだなー、豚はちゃんと焼かないと食中毒になるんだぞ。風邪で弱った胃になら尚更な」
 いつも通りの軽口。だが、ウザい。その言葉の一つ一つが、癪に触る。
「それともアレか? 喜介の姉ちゃんがついに嫁いだか? まっ、あれだけの美人だもんな。放っておく方がどうにかしているって話だよ」

――黙れ、この糞野郎。喉まで出かかったその言葉を、何とか飲み込む。

「悪いけど、頭痛がするんだ。頭に響くから、話かけないでくれ」
 喜介は押し殺した声で冷たく言った。
「……へ? あ、ああ。悪い悪い、そうならそうと最初っから言ってくれよ」
 はは、と須賀原はやや苦笑気味に笑い、後頭部の辺りを二〜三度掻く。それからお茶を飲み、姿勢を正して書類を書き始めた。
 
――それから昼休みになるまで、須賀原は一度も喜介に話しかけなかった。気をつかってなのか、気まずいからなのかどうかは、喜介は知らない。けれどもそれは、喜介にとってはどうでもよいことだった。

 ※

 午後一時、いつもならお腹は満タンで、眠気と闘う時間の筈なのに、胃の中は空っぽで、睡魔は一切なく、喜助は自分でも驚くほど集中して仕事をしていた。
 眼は画面を見つめ、指はキーボードを叩き続ける。何も考えずに、ただひたすらに文章を打ち続ける。それが、今の喜助にとっては救いだった。
 皮肉だな。家に居るといろいろと考えて駄目になるというのに、会社だと何も考えず、気分的に楽だなんて。喜助は、自分を嘲笑う。
 概要はあらかたまとめ終わり、取り敢えず後は『レトロジスタ』のキャッチコピーだけとなった。最も、旅行会社との話し合いによってはこれが半分以上――いや、白紙になりうる可能性だってある。別に給料が増えるわけでもないから、どうでもいいが。気怠そうにため息をはきながら、喜助はそれらしいキャッチコピーを考え始める。
 適当に浮かんだ言葉をタイピングしてみる。頭の中だけで考えるよりも、イメージが固まるかも知れないからだ。

・自然と触れ合おう。

 直ぐさまDELキーを押して削除する。あまりにも使い古された、安過ぎる言葉だったからだ。

・子供の為には、自然と触れ合わせるのが一番良い。

 これでは回顧を求めるというより、普通のキャンプか何かの誘いのようにしか聞こえない。しかも、ターゲットは子供ではなく、『昔を懐かしむ老人達』なのだ。その辺を念頭に置いて、喜助は考え直す。

・過ぎ去った日々はもう戻らない。けれど、

 そこまで打って、喜助はピタリと手を止めた。頭の中では、この後に続く言葉がすでに出来上がっている。しかし、身体はそれを『文章』にするのを嫌がっているようだった。
 一旦それを消し、新たに考えて打ち直す。だが、二度三度と考え直してみても、先ほど考えたキャッチコピーに勝る言葉は思いつかなかった。
 結局、喜助は先ほど考えたそれを打ち込んだ。

・過ぎ去った日々はもう戻らない。けれど、私たちはそれを胸に留めて進まなければならない。でも、ちょっとぐらい振り返ってみよう。あの時、あの場所、貴方が過ごした懐かしの土地へ――。

 ※

 定時の終了を告げる鐘の音と共に、喜介は仕事を止め、誰に労いの言葉をかけるでもなく一番に外へと出た。急ぎの用事があったわけではない。要らぬ好奇心を抱き、須賀原のように質問してくる人を避ける為だ。
 オフィスを出る直前、須賀原が呼んでいたような気がしたが、喜介は聞こえない振りをし、そのまま外へと出た。須賀原を無視したという罪悪感からか、喜介は何かに追われるように、歩調が自然と速くなっていった。
 いつもの半分の時間で、喜介はアパートに着いた。普段なら使わない階段の手すりに全体重を乗せ、老人のように階段を昇っていく。食事をろくに摂っていない所為なのか、精神的なモノが身体に影響を及ぼしているのか、一段昇るのにも足に力を入れなければならないほど身体は衰えていた。
 いつもの倍の時間を掛け、喜介はようやく自分の部屋の階に辿り着いた。乱れた呼吸を整え、背広の襟を直した後、自分の部屋に向かって歩き出す。
 ふと、喜介は自分の部屋の前に誰かが立っているのに気が付いた。
 誰だろうか? ここからでは輪郭がぼやけ、ハッキリと確認できない為、喜介は歩きながら眼を細め、その正体を見極めようとした。
 肩のなだらかなライン……。それが女性だと判別出来た瞬間、喜介は走り出していた。

――トモ!

 もう二度と自分の部屋を訪れることはないだろうと思っていた人物が、今喜介の部屋の前に立っている。
 
――なぜ、俺の部屋を去っていったんだ?
――なぜ、嘘をついていたんだ?
――なぜ、俺ではなく、違う男なんだ……!?

 朋美に対する様々な疑問が、堰を切ったように溢れ出てくる。
「トモ!」
 走りながら、喜介は愛すべき者の名前を大声で呼んだ。名を呼ばれ、振り返る。

 しかし、

「鹿野川先輩……?」
 そこに居たのは、歌織だった。
 一瞬にして身体の力が抜け、危うく転びそうになる。何とか壁に手をつき、喜介は事なきを得た。
 俯いたまま喜助は自分を嘲笑う。まさか、歌織と朋美を見間違えるなんて。自分は、そこまで追いつめられているということなんだろうか。
 蹌踉めいた喜介を見て、歌織は心配そうな顔で喜介に近づく。
「先輩…?」
 喜介の顔を見て、小さな悲鳴を上げながら口を手で抑える。あまりに変貌した喜介の顔に驚いた為だろう。
「だ、大丈夫ですか!?」
 変貌した喜介の顔に対してなのか、蹌踉めいた事に対してなのかは判断がつかなかったが、
「ああ、大丈夫だ……」
と、喜介は答えた。しかし、その両方に対しては大丈夫でも、朋美ではなかったというショックは大きく、喜介は強い目眩を感じていた。

――トモじゃなかった……。

 もしかしたら、もしかしたら来るかも知れない。そんな喜介の一縷の願いは、『現実』という最も残酷な形で砕かれた。
 朋美は言っていた。
『彼氏が出来たから、もうここには来ないと思う』
 その言葉の意味が、改めて身に染み、より一層心の奥深くに突き刺さる。
「あの……」
 躊躇いがちに、歌織は話しかけてきた。
 思えば、なぜここに歌織が居るのだろうか? 疑問はもう一つある。恐らく、自分が一番速く会社を出て、いつもよりも速く帰ってきたというのに、なぜ自分よりも速くここに居るのだろうか?
 喜介の疑問に答えるように、歌織は買い物袋を少し重そうに胸の辺りまで上げて言った。
「お節介かも知れませんが、お見舞いに来ました。てっきり今日も風邪で休むかと思ったんですけど……私って、バカみたいですね。有休使ってまで来たっていうのに…」
 自嘲気味に笑い、耳の辺りの髪を掻き上げる。
 見れば、歌織は黄色のタンクトップの上に、両肩を出しているタイプのねずみ色のカットソーを着て、下はやや短めのデニムのスカートを履いており、肩にはブランド物と思われる白いバックがぶら下がっていた。どう見ても会社帰りに寄った格好ではない。歌織が言ったように、喜助の為に貴重な有休を使い、私服でお見舞いに来たのだろう。
「あ、えっと…」
 その心遣いに、喜助の心は激しく揺らいだ。
 病気で弱っている自分を気遣い、会社を休んでまでお見舞い――いや、恐らくは看病するつもりだったのだろう。手に持っている買い物袋を見れば、一目瞭然だ。好きだから看病してあげる。なんと単純で、純粋な乙女心なんだろうか――。 
「ごめん」
 喜助はすまなさそうに言った。それを見て歌織は、はにかむようにくすっ、と笑う。
「先輩が謝る必要なんてないですよ。これは、私が勝手にやった事なんですから」
「それはそうかも知れないけど…」
 ばつが悪くなり、喜助は俯くようにして視線を下げる。すると、袋を持っていない右手の掌に赤い線上のようなモノが見えた。反対の手も見てみると、人差し指が鬱血し、真っ赤になっていることに気がついた。
「……もしかして、随分と待ってた?」
 顔を上げ、歌織にそう言った。
「え?」
 どうしてそんなことが分かるの? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔は、そんな風に言っているように見えた。
「そ、そんなことないですよ。ついさっき来たばっかりです。はい」
「手、鬱血しているよ」
 喜助は歌織の手を指さす。それにつられるように、歌織は視線を下げ、自分の手を見た。それで観念したのか、
「少し…。少しだけ待ちました」
 歌織は少しと言ったが、本当は違うだろう。今の時刻は六時過ぎ。夕飯を作りに五時ぐらいに来たのだろうか。それとも、お昼を作りに来たのだろうか。どちらにせよ、一時間以上待たせた事になる。
 待っているのを知らなかったとはいえ、一時間以上女性を待たせたのは喜助にとって今回が初めてだった。朋美は買い物時でも直接喜助の家を訪ねるので、待たせたことはないというか、朋美が待ったことはなかった。
 その所為だろうか、喜助は酷く申し訳ない気分になった。その所為だろうか、
「……あがっていく?」
 そんな、言葉を掛けたのは。
「……はい!」
 満面の笑みを浮かべ、歌織は大きく頷いた。
 胸ポケットから鍵を取り出しながら、扉に向かって歩き出す。途中、ウキウキしている歌織が目に入り、喜助は思わず笑みを零す。
 よくよく思い出してみれば、喜助は自分の部屋に朋美以外の女性を入れたことがなかった。

――そういえば、なぜ歌織はここを知っていたのだろうか?
 
 更に思い出してみても、歌織を自分の家に招待した覚えもなければ、住所を教えた覚えもなかった。
「なぁ、伊藤」
 そう言った途端、歌織は不機嫌そうな顔になる。
「何度も言ってるじゃないですか。名前で呼んでくださいって」
 嫌っていた所為か、喜助は歌織の名前を呼ぶことに抵抗感があった。だが、今なら抵抗感なく言えそうな気がし、やや照れながら、
「…歌織。これでいいか?」
「はい!」
 一転し、再び満面の笑みへと変わる。コロコロと表情を変えるその様は、見ていて飽きなかった。
「で、だ。どうして俺の住所を知ってるんだ?」
 そう質問された途端、歌織はばつが悪そうに俯いた。
「えっとですね、悪いとは思っていたんですが、どうしても先輩の住所が知りたくて……その……」
 そこで喜助はふと気が付いた。もしかしたら、三日前――ちょうど朋美と別れた日に、まるで自分の後を付いてくるようにして、歌織のモノと思われる視線があったのは、自分の住所を知るためではないだろうか。
「もしかして、三日前ぐらいに――」
 言い終わる前に、歌織はこくりと頷いた。
「すみません。どうしても、先輩の家が知りたくて…」
「まぁ、別に構わないけど…」
 建前ではなく、喜助は本当にそう思っていた。少しストーカーじみた行為ではあるが、こうしてお見舞いに来てくれているのだから、むしろ感謝すべきなのだろう。
 扉の前に立ち、鍵を差し込んだ。
 今この部屋には、鍵が掛かっている。なぜなら、この中には朋美が居ないからだ。最愛の人であり、同棲のような暮らしをしてきたその相手はもう二度と、この部屋を訪れない。朋美が居るから、喜助は他の女性を部屋に入れなかったのかも知れない。だが、その相手はもう、居ないのだ。
 喜助は、自分の涙腺が潤むのを感じた。それを振り払うように、鍵を回してロックを外した。
「汚い部屋だけど、どうぞ」
 扉を開け、喜助は部屋の中に入る。それに続くように、
「お、お邪魔しまーす」
 やや緊張した表情で歌織も中に入っていった。
 茶の間にぶら下がっている紐を引っ張り、電灯を点ける。これも年季が入っている所為か多少点きにくく、二〜三回フラッシュのように点灯した後、落ち着いた。

――相変わらず部屋の中央には、トモ特製のチーズハンバーグが鎮座していた。

一見すると今朝と何ら変わらないように見えるが、よく見ると、小さな緑色の点が見える。
 ついにカビまで生えたのか…。喜助にとってそれは、例え朋美に会えたとしても、もう修復不可能の状態に陥っているのを象徴しているように見えた。
「先輩って意外に面倒くさがり屋なんですね。ダメですよ、カビが生えるまで放置しちゃ」
 ここに放置してあると勘違いし、歌織は喜助の意外な一面を見たというようにくすっ、と笑う。
「須賀原さんでもここに呼んだんですか? 男二人集まっても、食器は片づけないもんなんですね」
 それから歌織はその皿を持ち、台所へ持って行こうとした。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
 思わず、喜助は大きな声で歌織を止めていた。何故止められたのか分からない歌織は、首を傾げながら振り返る。
「えっと…そのチーズハンバーグは片づけなくていいよ」
 そう、それを片づけてはいけない。朋美の化粧品や着替えは幾つか残っているが、その中でもそれは、『トモ特製』という名が付くように特別な存在なのだ。それすら捨ててしまったら、朋美との関係が本当に全て断ち切られてしまうようで、怖かった。
 歌織は喜助の意図が分からず、眉を寄せる。それもそうだろう。カビが生えたチーズハンバーグを好んで残そうとしているのだから。
「……これ、もう腐ってますよ? 何で捨てないんですか?」
 当然の疑問。喜助は答えようとしたが、何故か声が詰まり、ため息に似た息が漏れるだけだった。
「……どうして、ですか?」
 問い詰めるように、歌織はもう一度言った。喜助はその追求から逃れるように少し俯き、
「ラップして、冷蔵庫の中に入れて置いてくれ…」
 そう言うだけで、喜助は理由を話さなかった。
 本当は話すべきなのかも知れない。変に勘ぐられるよりは、そうした方がよっぽどマシな筈だ。喜助と歌織の関係は先輩と後輩で、朋美の話をしたとしても何もない筈だ。けれど喜助は、話さなかった。いや、話せなかった。

――長い沈黙が、この場に訪れた。

「……分かりました」
 妥協したのか、歌織はため息混じりに言った。喜助から指示された通り、二人分のトモ特製チーズハンバーグとコンソメスープをラップで包み、冷蔵庫に入れた。
「満足しましたか?」
 その言い方には、やけにトゲが混じっていた。明らかに、何かを感じ取っている様子だった。
 シックスセンスよりも、熟練の刑事よりも勝る、女性しか持ちうることが出来ない『女のカン』というヤツが働いたのだろうか。
「私はお見舞いに来た。ただ、それだけです……」
 意味深長な物言いをして、歌織は哀しい瞳で喜助を見る。少し経った後、歌織は身を翻し、台所へ消えていった。 
 その後聞こえてきたのは、ビニール袋が擦れ合う音。多分、歌織が持ってきた食材を袋から出しているのだろう。続いて蛇口を捻る音。水が流れる音。まな板と、包丁がぶつかり合う音。米が擦れ合う音。水が流れる音。何かが開かれ、何かが押された電子音。まな板と、包丁がぶつかり合う音。そして、何かが焼かれる香ばしい音……。
 それら全てが懐かしかった。何となくだが、この部屋の『日常』が戻ってきたような気がした。朋美が居た、あの、『日常』が。
 食欲を誘う香りがこの部屋に充満していく。
 喜助の腹の虫が、ぐぅ、と鳴いた。

 ※

 約二十分後、料理が出来たのか音は鳴りやみ、代わりに歌織の鼻歌が微かに聞こえてくる。
「おまちどおさま」
 そう言って、歌織は両手に持っていたドンブリを小さなちゃぶ台の上に乗せた。まだ料理があるのか、歌織は台所へ戻り、今度は小さなドンブリを両手に持ち、それも小さなちゃぶ台の上に置いた。
 ドンブリには卵と鶏肉を入れた雑炊入っており、小さなドンブリには肉じゃがが入っていた。少しアンバランスな組み合わせだが、喜助はそんなことなど気にせず、生唾を飲み込んだ。
「お口に合えば良いですけど…」
 歌織は心配そうな顔で言った。
「百見は一口に如かず、ってね」
 喜助は箸を持ち、合掌するように両手を合わせ、
「いただきます」
 雑炊から食べようか、それとも肉じゃがから食べようか、喜助は悩んだ。少し悩んだ後、喜助は肉じゃがから食べることに決めた。料理にもよるが、喜助はおかずから食べることが多い。しかし、そういった習慣からというよりは、『肉じゃが』という料理だからこそこちらから、と決めたのだった。
 誰が言ったのかは覚えていない。しかし、『肉じゃがが美味しく作れる女性は、良い妻になれる』という言葉があるように、肉じゃがを一口食べれば、歌織の料理の腕前が分かるかも知れない。
 小さなドンブリからジャガイモを摘みとる。薄い醤油色に染まったそれを見て、喜助はもう一度生唾を飲み込んだ。
 そして、それを口の中に入れた。
「ど、どうですか…?」
 歌織は結果が気になるのか、身を乗り出して聞いてきた。
「まだ美味いか不味いかも分からないよ」
 煮物であるジャガイモの味は、口に入れただけでは分からない。噛み砕く事によって、初めてそれ本来の味が分かるのだ。
 喜助は噛み砕き、そしてそれを飲み込んだ。
「あ、美味しいじゃ――」

――言い終わる前に、喜助は自分の口を押さえた。

 ダメだ。それはやっちゃダメだ。飲み込め。飲み込むんだ。これは『肉じゃが』であって、『チーズハンバーグ』ではない。だから、だから拒絶するな!
 喜助は、押し寄せてくる吐き気を黙らせようと自分に言い聞かせ続けた。

――飲み込め!
――飲み込め!
――二度と戻ってこないように飲み込め!

 ごくり、と喉を鳴らし、喜助はそれを飲み込んだ。
「先輩…?」
 歌織は心配そうに見つめていた。喜助は口から手を離し、潤んだ目を擦りながら、
「うん、美味しい――」
 またしても押し寄せる吐き気。一度は胃の奥底まで押さえつけたものの、あの時と同じように、勢力を増して反旗を翻してくる。こうなっては、もうどうにもならない。防波堤は容易く破られ、濁流の如くただ流れ落ちるだけだ。
 口を押さえながら、喜助は立ち上がる。途中、小さなちゃぶ台に足が引っかかり肉じゃがが宙を舞ったが、それに構っている余裕などなかった。蹌踉めき、居間と台所の間にあるドアに寄りかかると、押さえている指の間から数滴こぼれ落ちる。
 トイレのドアノブに手を掛けたが、ついに臨界点を迎え、喜助は半身を翻し、食器洗い場に崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。

――全てを拒絶するかのように、喜助は胃の中のモノを出した。空っぽになるまで、胃液しか出なくなるまで、喜助は出し続けた。

 しばし呆然としてた歌織だったが、
「だ、大丈夫ですか!?」
 弾かれたように立ち上がり、喜助の背中をさすり始める。
 ありがとう。そう言いたかった喜助だが、言おうとした瞬間に吐き気が込み上げてくるため、言葉の代わりに嗚咽が漏れるだけだった。
 しばらくの間さすってもらったお陰か、吐き気は収まり、喜助は息を深く吸い込んで呼吸を整える。
「先輩、どうですか…? もう、大丈夫ですか…?」
 歌織は、心配そうに喜助の顔を覗き込む。
「ああ…。何とか…大丈夫だ…」
 喜助は肩で息をしながら、切れ切れに答えた。
「もしかして、何かアレルギーがあったんですか?」
「いや、それじゃない…」
「それとも、不味かったんですか?」
「いや、そうでもないんだ…」
「傷んでいた…のかな? でも、ちゃんとスーパーで買ってきたモノだし…。雑炊と肉じゃがっていう組み合わせが悪かったの…? それとも、それとも…」
 おろおろしながら、歌織は原因を必死に考える。
「そうじゃない。そうじゃないんだ…」
 喜助は食器洗い場から離れ、後ろの壁に背を付ける。吐いた所為なのか、足に力が入らず、背を擦りながらずるずると下がっていき、結局地面に床に座り込む形となった。
「受け付けないんだ…。食べろって命令してるのに、俺の体が拒絶しているんだ…」
 喜助は両手で頭を抱え込み、震え始める。
「くっそ…! なんで、なんで俺の体なのに拒絶するんだよ…!」

――拒絶している。朋美も、自分の体も、あの日から『俺』を拒絶し続けている…。

「先輩…」
 歌織は、潤んだ瞳で喜助を見つめる。労ってあげようと、歌織は喜助の手に触れた。
「歌織…?」
 肌の温かみが、喜助に伝わる。
 人肌というのは、どうしてこうも温かいのだろうか。喜助は、凍り付いていた心が、溶けていくような錯覚を覚えた。
 ドアノブが見えた。それは喜助の、心の壁のドアノブ。歌織はそれに触れ、開け放とうと握りしめる。

 そして、

 喜助は、歌織の手を払いのけていた。
「先、輩…?」
 ただ呆然と、歌織は喜助を見つめる。喜助も、払いのけた手を呆然と見つめていた。
 拒絶した。歌織に、自分の扉を開けて欲しくないと、喜助の体が無意識の内に拒絶したのだ。
 歌織は蹌踉めき、二歩三歩と後ずさっていく。
「私じゃ、駄目なんですか…? やっぱり、『トモミ』じゃなければ駄目なんですか…?」  
 そうなんだろうか。やっぱり俺は、トモでなければ駄目なんだろうか。何の隔たりもなく、互いを分かり合える存在は、トモだけなんだろうか――。
 喜助は、ふと疑問に思った。
「……どうして、トモを知っているんだ…?」
 そう質問され、歌織はしまった、というように口を押さえた。本当に、分かり易いリアクションだった。
「……須賀原さんから聞きました。先輩がお姉さんと同居している、って。でも、直ぐにそれは違うと思いました。間違いなく、それは――」
 その単語を言いたくないのか、歌織は口ごもる。
「彼女、なんですよね…?」
 喜助は、その質問に答えることは出来なかった。仮に姉さんかと質問されても、頷くことは出来なかっただろう。二度とこの部屋に訪れないということは、縁を切ったと同じ事なのだから……。
「それが、どうかしたのか…?」
 まるで自分を落ち着けるように、歌織は大きな深呼吸をする。
「…確認するようで悪いんですけど、トモミさんって髪の毛が少し青みがかっていませんか?」
 瞬時にして朋美の顔が思い出され、喜助は微かに頷く。
「チクるようで気が進まないんですけど、私は見ました」
 得も言われぬ吐き気と共に、嫌な予感が襲いかかってくる。
「……何を?」
「そのトモミさんが、男の人と歩いている所を、です」

――今、何を見たと言った?

「一週間ぐらい前の事です。前々から須賀原さんに聞いていたんです。名前とか、外見的特徴とか。だから、高級レストランで見たときに直ぐに分かりました。これが、あのトモミさんなのだと…」
 歌織は、最後の部分を強く言った。
「ちょっ、ちょっと待て。何で、トモはそいつと食事していたんだ?」
「分かりません…。けど、雰囲気からしてそれは――」
「違う!」
 最後の言葉をかき消すように、喜助は叫んだ。
「違う! それは、それは…!!」
 そんな筈はない。それはあり得ない。違う。それはきっと見間違えだ。それはきっとトモじゃない。それはきっと――。
 拒絶したかった。こんな時こそ、喜助は心の底から拒絶したかった。けれど、それは無駄だった。どんな否定の言葉を並べてみても、どんなに拒絶してみても、
「彼氏。多分…いえ、絶対にそうだと思います」
 『現実』には、絶対に勝てない。
「……畜生」
 誰に言うでもなく、喜助は呟いた。
「先輩は、そんな人をまだ信じ続けるんですか? 裏切られてもまだ、信じ続けるんですか?」
 まるで諭すように、歌織は続ける。
「先輩の彼女は、先輩の元を去って違う彼氏の元へ行ったんです。先輩を拒絶したから、居なくなったんです。それが、現実です。だから、だから――」
 徐々に涙声になっていき、やがて大きな粒となって床に落ちる。そして、歌織の膝も床に落ちた。
「目の前に居る私を、拒絶しないでください……」
 歌織は…今ここに居る歌織は、俺を受け入れようとしている。俺が拒絶したのにも関わらず、それでも尚、俺という存在を受け入れてくれると言っている。俺は、俺は――。
 だが、ふと浮かぶ疑問。
 どうして、俺はこんな事を疑問に持つのだろうか。自己嫌悪してしまうほどの邪推だ。何も考えずに、この場の雰囲気に流されてしまえばいいのに。何も考えずに、疲れたこの心を癒してもらえばいいのに。けれど、俺はそれに疑問を持ち、尚かつその答えを見つけてしまったのだ。自分でも馬鹿だと思う。知らなくても良い事を疑問に持ち、分からなくても良い事を分かってしまったのだから。そうなると、俺自身でもどうにでもならない。
「……歌織、俺がトモと同棲していたのは、知っていたんだよな?」
 頬に残っている涙の筋を拭きもせず、歌織は静かに頷いた。
「ならどうして、俺のお見舞いに来たんだ?」
「それは…先輩が…風邪で二日間も休んだから…」
 短い嗚咽を漏らしながら、歌織はたどたどしく答えた。
「同棲している相手がそこに居たとしても、か?」
 断続的に続いていた、ひゃっくりのような嗚咽が止んだ。
「同棲している相手がいるのなら、その人に看病してもらっていると考えるのが普通だ。須賀原だったら、それを理由にトモに会いに来るかも知れない。けれど、歌織の場合はどうだ? トモと知り合いでもなければ、なるべくなら会いたくないと思っている存在…違うか?」
 歌織は、何の事を言っているのか分からない、と言った様子でただ呆然とそれを聞いていた。
「にも関わらず、歌織は家に来た。それは、トモが居ないという確証があったからだ」
 喜助は、自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。お見舞いに来てくれた相手に、難癖付けて罵詈雑言を吐いている。なんて、最低な行為。けれど、止まらない嘔吐のように、一度堰を切ったモノは終えるまでどうすることも出来なかった。
「高級レストランでトモを見かけ、二股か何かをしていると思ったあんたは、後を追った。俺の住所を調べる時と同じように…な。そこで何を見たかは知らない。けれど、それを見たあんたは、俺とトモの関係が…終わっていることに気が付いた。そして、こう思った筈だ。今がチャンス――ってな」
 失意のどん底に堕ちている時に慰められれば、誰だってその人を優しい人だと思うだろう。なんて素晴らしい人だと思うだろう。だからこそ、歌織は待った。何らかの口実が出来るまで。そして、喜助が最も弱っているその時期を狙って――。
「計算高い女だな…」
 呟くように、喜助は今思っている歌織のイメージを口にした。
「違うの…! 私はただ、先輩が心配で…!」
 そう思わせるための演技なのかも知れない。俺が出社していることを知っていて、何時間も待っている振りをしていたのかも知れない。健気な女と思わせるための、芝居だったのかも知れない。
 全ては、『かも知れない』の領域を抜けなかった。しかし、そう考えれば全てのつじつまが合う。
「……出て行け」
「え?」
「出て行けよ。この部屋から」
 その言葉を聞いた後でも、歌織はただ呆然とするだけだった。
「出て行けよ! 俺と…トモとの部屋から!!」
 虎視眈々と俺を狙い続けるこの女を、一刻も早くこの部屋から出したかった。ここは、俺とトモが一緒に過ごしてきた思い出の部屋。それを、どす黒い女の執念で犯されているようで、酷く嫌な気分になったからだ。
「……分かりました。出て行きます」
 歌織は涙を袖で拭い、立ち上がる。それからしっかりとした足取りで、居間に向かって歩き出した。
 そらみたことか。ショックを受けた振りをしていただけじゃないか。
 白い鞄を拾い上げ、歌織は一瞥することもなく、そのまま玄関へと向かう。ハイヒールを履き、ドアノブを掴む。
「勿体ないから、ご飯ぐらいは食べてくださいね…」
 歌織は、ドアノブを見つめたままそう言った後、外へと出て行った。
 静かになった部屋の中に、歌織が階段を下っていく渇いた音が鳴り響く。やがてそれすらも聞こえなくなり、完全な静寂がこの部屋に訪れた。
 喜助は立ち上がり、食器洗い場に残っている嘔吐物を流すために蛇口を開けた。コップを手に取り、うがいをするために水を汲む。
 ゴボゴボと口の中で泡を作り、そしてそれを吐き出した。
 雑巾を乱暴に持ち、居間に向かう。あちこちに散乱している肉じゃがの中身を拾い集め、器に戻す。きっと、シミになるだろうな。そんなことを思いながら、カーペットに染みた汁を力を込めて拭き取っていく。
 小さなちゃぶ台の上にあるドンブリを見て、喜助は雑炊に手を付けていない事を思い出した。それと同時に、歌織が去り際に残していった言葉を思い出した。
『勿体ないから、ご飯ぐらいは食べてくださいね』
 どんな気分であの言葉を言ったのだろうか? 受け入れようとして、拒絶されて、それでも尚、俺を心配して掛けた言葉なのだろうか?
 スプーンを手に取り、雑炊をすくい取る。
 これを口に入れれば、何が起こるかは容易に想像が付く。だがそれでも、それでも――。
 喜助は、雑炊を口に入れ、そして飲み込んだ。
 だが、それすらも駄目だった。口を押さえて立ち上がり、喜助は食器洗い場に急いだ。どうせトイレに間に合わないのなら、端からこちらを目指した方が確実だ。そう思いながら、倒れ込むようにして食器洗い場に寄りかかり、先ほど洗ったばかりの場所を再び汚した。
「う…う……」
 出てくるのは胃液ばかり。それもそうだ。もう何日もろくに食事を取っていないのだから。なのに、俺の身体は食事を受け付けてくれない。けれど、吐き気だけはしっかりと襲いかかってくる。酷くあべこべだ。
「うぅ……」
 さっきは直ぐに良くなったというのに、今度はなかなか良くならず、吐きそうで吐けない状態が続いた。
「う……」
 結局何も出ず、喜助は食器洗い場から離れようとする。しかし、足下が覚束ず、蹌踉めき、さっきと同じように壁に背を付け、力無くずるずると下がっていく。

――俺は、何をしたいんだろうか?

 きっと、孤独なのが嫌で、俺は歌織を部屋に入れたのだろう。なのに、俺自身が追い払ってしまった。差し伸べられた救いの手も、振り払ってしまった。

――俺は、孤独を願っているのか?
――心の奥底では、独りであることを願っているのか?

 いや、違う。孤独になるのは、嫌だ。ならなぜ、俺は歌織の手を振り払ってしまったのだろうか? あの手を取れば、きっと俺は二人になれた筈なのに。

――そうじゃない。そうか、それじゃあ意味がないんだ。

 誰かと一緒に二人で居たいんじゃない。俺は、トモと一緒に二人で居たいんだ。誰にも邪魔されない、この部屋の中で。そして、二人きりで。
「トモ……」
 この部屋に居て欲しい存在の名前を呼ぶ。呼ぶ度に、心が締め付けられるような気持ちになる。
 今トモは、何をしているのだろうか……。
 ふとそう思ったが、頭を振るってその考えを捨てる。トモが今どこで何をしているのかなんて、考えたくもなかった。だが、想像は勝手に働いていく。歌織が言っていたように、今日も『彼氏』とディナーを楽しんでいるのかも知れない。『彼氏』の部屋で、俺にだけ奮ってくれたその料理を作っているのかも知れない。
 狂いそうだ。お願いだから、そんなことを考えないでくれ。
 お願いだから、トモ。ここに、帰ってきてくれ――。

 結局、俺は独り。この部屋の中は、俺独りっきりだ。



 朝起きて、喜助はうがいをする。鏡を見ると、顔は昨日より幾分マシになっていた。髭を剃り、髪を整える。水色のYシャツを着て、ネクタイを締め、真っ黒い背広を着る。この一連の動作は、ほぼ無意識的で行われていた。ほぼ毎日やっていれば、それも至極当然なのかも知れない。
 そして、いつも通り靴に――そこで喜助はハッとなり、無意識的な動作は途切れた。
 昨日履いた真新しい革靴は、その履き慣れた靴の隣にある。にも係わらず、喜助はいつも通りに履き慣れた靴を履こうとしていた。
 感慨深い目でそれを見つめた後、喜助は履き慣れた靴を手に持ち、下駄箱の中にしまった。そして、真新しい革靴を履き、玄関を開け放った。



 出社して、まず確認したのは歌織が居るかどうかだった。見渡しても見つからず、部長に聞いたところ、風邪が酷くて休むという連絡を受けたらしい。本当に風邪が酷いのは、そのガラガラ声からも分かったそうだ。
 部長は、何でもかんでも『風邪』の一言で済ましてしまうんだな。髪の薄くなった頭を見ながら、喜助はそう思った。

 ※

 喜助は、我が目を疑った。
 妖精だ。妖精が、今手の甲の上に乗って踊っている。目を擦ってみても、それは消えなかった。
 喜助は今、昨日終わった『レトロジスタ』の概要を見直しながら、誤字脱字、それと足りない部分をキーボードで打ちながら補っていた。しかしその最中、手の甲から白い煙が出たかと思ったら、次の瞬間にはその中から羽の生えた、小さな小人のようなモノが見えたのだ。
 それは、ピーターパンに出てくる妖精、ティンカーベルとそっくりだった。
「なぁ……須賀原」
 戸惑いを隠しながら、喜助は隣に座っている須賀原に尋ねた。まさか喜助から話しかけられるとは思っていなかったらしく、須賀原は少し驚いた顔をしていた。
「なんだ?」
「俺の手の甲に、何か乗っているか?」
 喜助は、妖精が乗っていない方の手を使い、人差し指でそれを指した。
「……いいや」
 じっと眉を寄せて見た後、須賀原は首を振った。
「それが、どうかしたのか?」
「いや、別に何も見えないんだったらいいんだ」
 喜助の言葉に引っかかるところがあったのか、須賀原は首を傾げる。
「何も見えない? つまり、お前には何かが見えているっていうのか?」 
 鋭い。揚げ足を取るようなやり方ではあるが、須賀原は時として異常なまでに鋭くなることがある。
「分かった。あれだろ? お前の手の甲の上で妖精が『白鳥の湖』でも踊っているんだろ?」

――ビンゴ。

 そうなのだ。須賀原が言ったように、この妖精は何故か『白鳥の湖』を踊っているのだ。つま先立ちをしたり、軽やかに飛んで魅せたりと、思いの外上手かった。
 しばらくの間、喜助がそれに魅入っていると、
「……あ〜、その、なんだ。悪かった。これはな、癖なんだ。大阪人としてボケの血が……って、ああもう……」
 須賀原は、苛ついた様子で頭を掻く。
 どうやら、喜助が黙っているのは自分の軽口で怒った為だと思っているらしい。違う、そう言おうかとも思ったが、喜助は妖精のダンスから目が離せなくなっていた。
 煌びやかな光を纏い、妖精は踊り続ける。背に付けた羽は、まるでシャボン玉のように玉虫色に輝き、より一層喜助を惹き付けていく。
 妖精の大きさはそのままだ。なのに、喜助の中でそれは、自分と同じ大きさの存在のように見えてきたのだ。
 唇が見えた。今までは何故か顔が白く――まるで修正液で消したかのように真っ白で――見えなかったのに、今は少しふっくらとした、その魅力的な唇が見える。
 鼻が見えた。特別に整った鼻ではないが、唇とのバランスが良く、より一層魅力を高めていた。
 そして、眼が見えた。パッチリとした、その眼が――。
「トモ……?」

――妖精の正体は、朋美だった。

 間違いなく、これは幻覚だ。しかし、しかしトモが、トモが今目の前に居る。それは、紛れもない事実だった。
 喜助は、妖精の姿をした朋美に触れようとした。しかし、朋美は喜助に向けてニッコリと笑いかけると、まるで霧のように消え去ってしまった。
「え……?」
 意識が遠のいていったのは、それとほぼ同時だった。視界がぐらりと傾いたかと思うと、地面が顔の横にあった。
「お、おい? 喜助?」
 須賀原が、遙か遠くから呼びかけている。まるでそれは、三途の川の向こうから呼んでいるような気がして、酷く気が滅入った。最も、三途の川を見たこともなければ味わったこともないから、本当にこれがそうなのかどうかは疑わしいが。
「ちょ、ちょっと救急車を呼べ! やべぇぞ!」
 救急車? そんなに大事なのだろうか? ただ俺が倒れただけだというのに。
 徐々に目の前が暗くなっていく。ほんの少しだけ怖かったが、喜助がそれよりも気に掛かったのは、妖精の姿をした朋美が何故現れ、何故消えていったのかという事だった。

――なんでだろうか?

 しかし、誰かが頬を叩いた衝撃で思考は中断され、喜助は気を失った。

 ※

――ヘックション!

 その音で、喜助は目が覚めた。
「お、ようやく起きたか」
 鼻水をすする音と、須賀原の声が聞こえる。なぜ、自分の部屋に須賀原が居るのだろう。そう疑問に思ったが、見慣れない白い天井と、倒れる直前の記憶が蘇り、ここが病院だということに気がつく。
「馬鹿だな、お前は。男がダイエットする必要なんかあるのか?」
 うるさい。そう言おうかとも思ったが、そんな気力すら湧かず、喜助はため息をはいた。
 見れば、腕には点滴の針が刺されている。須賀原から言われなくとも、喜助は自分が栄養失調で倒れたのは容易に想像がついていた。
「感謝しろよ。本当は男の看病なんかしねぇんだからな」
 漫画本を読みながら、須賀原はそう言った。
「わる――」
 悪かった。そう言おうとした途端、頬に鈍い痛みが走る。空いている手で触ってみると、ガーゼのようなモノが貼られていた。
「ああ、それな。それはな、お前がぶっ倒れた時に…そう、椅子だ。椅子に思いっきりぶつけたんだ」
「そうだっけ…? なんか、殴られたような衝撃が――」
 須賀原は喜助の言葉を遮る。
「だから、それが椅子にぶつかったときの衝撃なんだって」
 そうなのだろうか。腑に落ちない部分はあったが、倒れる瞬間を見ていたのは須賀原だったのは覚えている。だから、そう言われればそんな気がしてくる。
「……なぁ、誰かお見舞いに来なかったか?」
 社内で突然倒れたとなれば、当然親しい人達にも何らかの形で連絡がいくかも知れない。もしかしたら、もしかしたら――。
「誰かって、誰だ?」
「それは――」
 言葉に詰まった。自分でも、どちらに淡い期待を抱いたのかが分からなかったからだ。
「……まぁいいさ。誰も来なかった、これで満足か?」
 黙っている喜助に変わって、須賀原は答えた。
「誰も…か。そうだな、それが普通か……」
 朋美を想うがあまりに拒食症になった喜助は、栄養失調で倒れてしまう。連絡を受けた朋美は、泣きながら喜助の病室を訪ね、仲直りのハッピーエンド――。
 喜助は、そんな劇的な展開を願った自分を嘲笑う。『現実』はいつだって希望を裏切ってくれるというのを散々味わったというのに、まだ心の何処かではそれを信じている自分が居る。それが、あまりにも馬鹿らしかった。
「点滴というのは、要はブドウ糖を血液に直接流し込んでいるに過ぎない……か。なるほど、つまりは直接バナナを胃に入れられているようなものか」
 須賀原は妙な解釈をして頷く。読んでいたのは、医者の実態を暴露するノンフィクション漫画だった。
「良かったな。拒食症のお前でも、ブドウ糖なら食えるんじゃないか?」
「……食える食えないの問題じゃないだろ。それよりも、なんで俺が拒食症だって分かったんだよ?」
 確かにハッキリと、須賀原は喜助が拒食症だと言った。医者からでも聞いたのだろうか? いや、それはない筈だ。拒食症とは、心の病気であって、気絶している自分を調べたとしても分かるわけがないのだ。
「やつれきった顔を見れば、誰だって分かるだろ。何かでかいショックがあって、食えなくなったって」
 須賀原は漫画を閉じ、近くの棚に戻す。 
「大方、お前の姉ちゃんに関する事だろうとは思うけどな」
 知り合ってからまだ二年も経っていないというのに、長年喜助を見てきたような言い方だった。
「……だから?」
「別に。それはお前の問題であって、オレの問題じゃない。その問題をどう扱うのかも、お前次第だしな」
 つまり須賀原は、『相談したいなら相談しろ。したくないのなら、しなくていい』と言いたいのだろう。喜助にとっては、嬉しい心遣いだった。
「漫画も読み飽きた。点滴終わるまで美人看護婦さんに見張ってろって言われたから、オレはまだ帰れないんだ。無駄話でも良い。なんか話せ」
 背もたれに寄りかかり、須賀原は前後に揺れる。その度にギシギシと軋む音が部屋に響く。
「……うるせぇよ」
「暇なんだよ。なんか話せ」
 遠回しに、須賀原はその問題を話せと催促してくる。なにが『お前次第』だ。何となくむかっ腹にきた喜助は、徹底的に無視することを決め込んだ。
「はーなーせーよー」
 前後に揺れながら、今度は足をばたつかせる。
 しばらくの間それを続けたが、喜助は無視し続けた。
 これでは効果が無いと分かったのか、須賀原は立ち上がる。そして、喜助のすぐ側まで歩いていく。
「はーなーせーよー」
 両手を挙げ、今度は腰を前後に揺らし始める。音が駄目なら視覚で、という考えなのだろう。確かに男がすぐ側で、しかもベットに寝ているから最も嫌な部分が近く、本当に不快な気分になる。
 残念だな。喜助は内心ほくそ笑む。眼を閉じれば、何の問題もない。
「……ちっ」
 須賀原はこれも効果が無くなったと分かり、舌打ちをした。
「しょうがない。これだけはしたくないんだが…」
 不吉な台詞。須賀原は、いったい何をする気なのだろうか。不安な思いに駆られたが、これはもしかしたら作戦なのかも知れないと思い、眼は閉じたままにする。
「お前も頑固だな。でも、このままだと死ぬかもな」
 またしても不吉な台詞。気になって薄目にすると、須賀原が何かを摘んでいるのが見えた。細くて透明なチューブ。嫌な予感がして、チューブを辿るようにして見上げてみると、今喜助に流し込んでいる点滴パックに辿り着いた。
「なっ…!? 止めろ、この馬鹿!!」
 腕に針が刺さっているにも関わらず、喜助は起きあがって須賀原を殴ろうとする。しかし、須賀原は難なくそれをかわした。
「話す気になったか?」
 にやにやと笑いながら、嫌な顔で喜助を見下ろす。
「そんなに人の不幸話を聞きたいのかよ…!」
 もう我慢の限界だ。この無神経な糞野郎を殴らないと気が済まない。喜助は、拳に力を込める。
「不幸話だとしたら、余計に話した方が良いぞ。自分の中だけで解決出来なかったから、お前は拒食症になったんだろうが」
 須賀原はおちゃらけた様子から一変し、真剣な口調で話す。
「何でも一人で解決しようとするから、潰れちまうんだ。他人に迷惑を振りかける羽目になったとしても、それを話せ」
 摘んでいたチューブを離し、須賀原は元居た椅子に座った。調子の狂った喜助は毒気が抜け、ため息をはきながらベットにゆっくりと倒れる。
「……じゃ、話してやるよ。一番信頼していた人が、俺を裏切って何処かへと消えてしまったら、須賀原はどう思う?」
 なるほど、と須賀原は呟くように言う。膝に手をあて、少しだけ前傾姿勢となる。
「そりゃ死ぬほど辛いだろうな。拒食症にもなるだろうな。加えて自分が自分で無くなったような喪失感も出てくるし、世の中の全てが信じられなくなってくるよな」
 分かったような物言い。味わったことがないお前に、何が分かるというのだ。
「……しばらく悩めば、答えは出るさ。時間がそれを解決してくれる。悩むだけ悩んでおけ」
 まるでどこかの参考書を読んだような答え。やはり、こんなちゃらんぽらんな奴に相談しても意味はなかったのか。
「点滴が終わりそうだな」
 須賀原の言葉に、喜助もそれとなく視線を向ける。言葉通り、あと数十秒足らずで終わりそうな量だった。
「帰りがてら、ここ担当の美人看護婦さんを呼んできてやるよ」
 そう言って須賀原は立ち上がる。
「……看病、どうもな」
「なあに。こっちも仕事をサボれて万々歳さ」
 変わらない軽口をたたいて、須賀原は去っていく。扉から半身ほど出た後、
「お前は一人じゃない。相談出来る相手だって居るんだ。それを、忘れんな」
 心を見透かしたような物言い。どうしてそんなことが分かるんだ、そう質問しようにも、既に須賀原の姿はなかった。
 喜助は白い天井を見上げながら、ため息をはいた。
 二年間須賀原と付き合ってきたが、未だに分からない部分がある。単におちゃらけた馬鹿かと思えば、時々あんな風に核心をつくような事を言ってくる時もあった。悩みのない脳天気野郎に見えるときもあれば、人生の端っこを見てきたような悟った顔になる時もあった。

――いったい、どちらが『本当の須賀原』なのだろうか?
 
 そう疑問に思っていると、看護婦が入ってきた。恰幅の豊かな、良くも悪くも熟練されたナースだった。
 まさか、あれが美人看護婦なワケがないよな。そうではないことを願いつつ、喜助はそう思った。
「はい、鹿野川さん。あとちょっとで点滴終了ね。大丈夫?」
「……はい」
 これは、須賀原なりのギャグなのか、それとも本気で言っていたのか、喜助は白い天井を見上げたまま少し悩んだ。

【続】
2005-08-17 01:00:02公開 / 作者:rathi
■この作品の著作権はrathiさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ども、どうにかこうにか頑張って書いているrathiです。
これを終わらせるまでは新しい連載はやらない、って決めているんですが…。
新しいネタが浮かぶこと浮かぶこと。
まだ半分ぐらいしか終わってないってのに…。
追伸、海へ行きました。私、カナヅチなのに行きました。
二十歳過ぎているのに浮き輪を借りて大海原を漂っていると、自分は何しているんだろうなぁー…とふと疑問が過ぎる今日この頃。

ではでは〜
この作品に対する感想 - 昇順
[簡易感想]おもしろかったです。完結したら細かい感想を書きたいです。
2013-08-28 13:38:18【☆☆☆☆☆】Eva
計:0点
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