『雪に咲く華』作者:若葉竜城 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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原稿用紙約22.43枚
 彼女が目を覚ましたとき、目の前にあったのは母親の怒り顔だった。学校に行って最初に見たのは教師の怒り顔だった。昼休み、最初に見たのは彼氏の怒り顔だった。部活で最初に見たのは怒り顔の部長だった。家に帰って、彼女が最期に見たのは警官の怒り顔と管理人の焦り顔だった。
「みんな、なんて不細工なの? 最期くらい……笑わせて、死なせてよ。私は栄えある一人目なんだから……ばいばーい」
 彼女は三十四階建てマンションの屋上から後ろに倒れ込んだ。役立たずの柵と共に、後ろの虚空に向かって頭から真っ逆さまに落ちていった。人々の悲鳴が交錯して、真っ赤に地面が染まった。彼女を説得できなかった警察官は急いで階段を駆け下りて、それまで彼女の顔を見ていなければ識別できなかっただろう死体が死んでいることを確認した。
そして、野次馬、人混み。彼女の死を目前に見た友人は多かった。瞬く間に生徒達の間にメールを介して話は広がっていく。校長はマスコミにたたかれ、全てが混乱の渦。

 その薄暗い、しかし透明感がある部屋にあるのはキッチン、広い片づいたデスク上の書類やパソコン、不気味な光線を放つテレビ。クロウは、冷めたコーヒー、灰皿を左手に、口にくわえた煙草を右手にとった。
「いや、参ったね。これではまた仕事だよ」
 彼のつぶやきの最後はいきなり鳴ったベルにかき消された。やれやれと彼は首をまわし、煙草の先を灰皿でつぶした。玄関近くに設置してあるインターホンの受話器をとって予想通りの相手にため息をつく。
「開いてるよ」
 受話器からの返答を一瞬待ったがその返事は肉声となって真横から聞こえた。
「ハロー、ダーリン」
 彼は少しだけ驚いたように目をぴくりと見開いたがすぐに冷静を保とうとして一呼吸をおいた後、間近に顔を寄せてにやついているエリザに顔を向けて軽く彼女の唇に自分の唇を重ねた。クロウはすぐにエリザと顔を離して同じようににやりと笑った。
「ハロー、ハニー。今日の用件は大体分かっているよ」
「あら、あなたにしては珍しく話が早いじゃない。なら……」
 エリザは何かを期待するようにクロウの目をじっと見つめたがクロウは彼女に背を向けてついてこい、と手招きしただけだった。エリザはむっとして顔を険しくする。スタスタと自分から遠ざかっていく恋人を早足で追いかけながら声をかける。
「ねえ、ちょっと、人の話はちゃんと聞きなさいよ。私だって大変なのよ。あなたとコンタクト取るのだって今日が簡単にいきすぎて拍子抜けしてるぐらいなのよ。電話回線はマスコミ避けに切っちゃうし、携帯も私を馬鹿にするみたいに電源が入っておりません、だなんて繰り返すし、第一あなた、いつも居留守使ってるじゃない!」
 エリザはややヒステリックに甲高い声で叫ぶともう我慢ならない、とクロウの肩をがっとつかみ強引に引き留めた。
「だから言ってるじゃない。いやなら引き受けなくてもいいけど、あなたにとってもいい仕事なんだって!」
 一度もそんなことは言っていなかったじゃないか、とクロウは思ったがさすがにエリザの期限をこれ以上損ねる気にはなれなかった。仕方なしに立ち止まって、エリザの手を肩からゆっくりとどけた。
「いいかい。僕がこの一年間、何のために日本にいたか君だって分かっていないわけじゃないだろう」
「仕事と、それと……私」
 エリザはクロウに申し訳なさそうな顔をした。クロウはそんなエリザを見て苦笑いした、本当は苦笑いすらしたくなさそうな顔で。
「そうだ。なのに、君は自分のためならまだしも君の仕事のために僕の時間を奪っていく。僕が日本に来たのは君のためなんだから、もっと君との時間を過ごしたかったんだよ……。なのにもう十二月、期限まで一ヶ月しかないんじゃないか」
 クロウはうなだれるように語尾をすぼめた。顔をややうつむけたクロウにエリザは笑いもしないで彼の頭を柔らかくなでた。
「大丈夫。ここに来る前に所長と掛け合ってきたの。この事件が終わったら年始までずっと休日にしてくれるって。あなたのためなのよ? ……お願い」
 エリザはクロウの顔を両手で自分に向き直らせるとにっこりと笑った。クロウは無念そうに、おいしそうにはとても見えない濁ったようなコーヒーをすすった。
「……不味そうね」
「そう馬鹿にしたものでもないさ。結局飲んでしまえば一緒なんだから」
 気まずい雰囲気が漂い始めたことを二人は何となく感じていた。その上、クロウがコーヒーをすする音だけが妙によく響くので余計に二人は息がつまっていった。
「……ま、こんなとこでもなんだし事務所で話をしましょうよ」
「そ、そうだな」
 クロウは少しだけこんなとこ、というエリザの言葉に疑問を感じたが、薄暗いし仕方がないか、と結局納得するのであった。エリザに渡された変装道具一式、といってもただのコートとサングラス、帽子だけなのだが、それだけで彼の姿は一変するので文句も言わずに彼はぱっとコートを羽織り、帽子とサングラスをつけた。
「さ、行きましょうか、副社長」
「エスコートは必要ですか、探偵女史?」
「もちろんよ」
 クロウが差し出した腕に自分の腕を通してエリザはにこりと笑った。

 クロウとエリザが普通の恋人のように探偵事務所に入ると何人もの女性が立ち上がって案内します、とクロウに走り寄った。エリザはにこにこしたまま彼女たちを無視して、クロウと共に奥の扉を開いた。エリザが自分を日頃から自慢の種にしていることを知っているクロウも彼女たちを無視して心の中で哀れだな、と思った。
「つれてきたわよ、ジュン」
「ご苦労様。もう話は聞いたかしら?」
 所長である福辻潤はにっこりと真っ赤な口紅で彩った唇の両端を上につり上げた。クロウはすでに既婚者である潤に対して愛情とは違う友人に対するような好意を持っていた。決して美女とはいえないが彼女の人をのむような勢いと自信には惹かれるものがあるのだ。
「ああ、連続自殺少女のことだろう」
「エリザが説明した?」
 エリザは首を横に振って否定した。よくよく考えるとクロウとエリザはお互いの内容の確認をしあってはいないのだ。潤はやっぱりね、と笑うとエリザとクロウを座らせて、二人に薄い書類を渡した。
「まあ、読んだら分かるだろうけど一応説明するわよ。一枚目を見て頂戴」
 てきぱきとした潤の指示にクロウはサングラスをはずして代わりに眼鏡をかける。エリザは視界に入る前髪をピンで留めた。二人が準備を終えたのを確認すると潤は厳しい顔になって説明を始めた。
「先ほど、五人目の自殺少女が発見されたわ。これまでの五人は全員、飛び降り、焼死、青酸カリ、手首切り、首つり、どれも方法が違う。それにとびとびで自殺していったから警察も関連があるとは思っていない。けれど、五人の少女全員の親からこの探偵事務所『めいりょう』に依頼がきた」
 潤はここで少し間をおいて二人をじっと見た。
「マスコミには漏れていないけれど少女五人はいずれも掲示板にどっぷりと深くはまっていたらしい。といっても同じ掲示板というわけではなく、全く種類が違うサイトで、全員同じ相手と話していた。その相手の名前は『自殺志願者』。必ずそいつと少女達は一対一で会おう、という約束を何回もしている。もっとも、その『自殺志願者』が全員同じ人間かどうかは分からないし実際に約束をしても会ったのかどうかは分からない」
 重苦しい気配に二人は思わずぐっと歯をかみしめた。けれど潤は話し続ける。
「そして、友人も少なかった彼女たちをただの自殺者として処理した警察はその『自殺志願者』の存在について訴えても何の働きもしてくれなかった。少女達が自殺した理由だけでも知りたい親たちは『自殺志願者』の連絡先を求めている。けれど、『自殺志願者』は五人目の少女と会話してからもうどこの掲示板にも現れてこない。そこで、あなたなのよ。超一流ハッカーとしてすばらしい人材であるクロウ・ギア、あなたがいなければこの依頼は成功しないわね。うちのハイテク娘も奴を見つけられなかったの」
 潤は豪快に笑ってエリザに目配せした。エリザはわずかにほおを赤くして自分を見るクロウをきっと睨む。
「頼むわよ。ま、大手電力会社の副社長がこんな違法行為を外国でしているってばれてもそっちの処理は責任とれないけどね」
 クロウはため息をつくと髪をかきあげて書類の一枚目を指で忌々しげにはじいた。
「分かった。たった一人の人間の個人情報をハッキングするだけでエリザとのホワイトクリスマスが楽しめるならそれでいいさ」
 やや自虐的なクロウの言葉にエリザはくさいといやそうな顔をして、潤は大げさな言い方だと呆れたように口をへの字に曲げた。
「じゃあ早速とりかかるとするよ。ただし、住所が確認できたらその時点でエリザは休暇扱いにしてくれよ」
「私はそういう約束を破った覚えは一度もないわ。安心しなさい」
 潤は親指をたててやや古い了解の合図をした。
「クロウ、私のデスクを使ってくれていいわ。こっちよ」
 エリザは入ってきた扉とは別の扉に入っていって、クロウが使うための準備を始めた。
「じゃあ、これで……ああ、そうだ。後でジュンと少し二人きりで話をしたいんだ。だめかな?」
「いいわよ。エリザが妬かない程度ならね」
 クロウは潤に微笑んでエリザが待つ隣室へと歩いていった。潤は含みがある笑い方をして立ち上がると窓を開けて既に赤くなっている空をじっと眺めた。やがてデスクの引き出しから雑誌を一冊取り出してぱらぱらとめくる。雑誌をぴしゃんと閉じてその表紙に写る人間の顔を眺めた。
「……ふふ、全く『ギア』の副社長って言ったらイギリスの顔っていってもいいぐらいなのに……。あんな笑顔を簡単に振りまいていいのかい。私もエリザもたいがいあの笑顔拝めて幸せってもんだね」
 その表紙には、足を組んで回転椅子に座っているクロウが移されていた。彼の顔は無愛想でわずかに人を小馬鹿にしたような笑みがはりつけてあった。そしてその見出しには『冷笑の美人、クロウ・ギア緊急来日!』と書いてある。またにやりと笑うと潤は幸せそうに安楽椅子の背もたれに背中を預けた。
「どうせ来日の理由は仕事より何よりエリザなんだろうけどね」

 クロウは最愛の恋人を横に携えて大きなモニターを前にキーボードをガチャガチャと叩いている。さらりと言ってのけたのはいいがこれがなかなかややこしい接続をしていて『自殺志願者』は五時間かかってようやく見つかったのだ。
「ああ、あった。エリザ、何か紙ないか?」
「あるわよ。はい」
 心なしかどうも生気がない二人の声は弱々しい。クロウは渡されたペンと紙でさらさらとモニターに映る『自殺志願者』の住所等を書き写していった。最後まで書き終えるとペンのキャップをはめる。二人はそれまでの疲れを全てはき出すようにため息をついた。
「終わった……」
 うなだれるクロウの頭を優しくなでてエリザは隣室で待つ潤と依頼人の元に行こう、とうながした。クロウは幼い子供のように据わる目を開けて、立ち上がったが、はっと気がつくとエリザの腕を振り切った。不思議そうにするエリザにクロウは焦って説明する。
「僕は今、『ギア』の副社長として日本にきているんだからここの依頼人に見られたらまずいじゃないか。まるでスキャンダルだ」
「……そうね、軽率だったわ。ごめんなさい。ああ、でも見たかったらそこのカメラのマークをクリックしてヘッドホンをしたら部屋の様子が分かるわよ。監視カメラを設置しているの」
 クロウは器用に片眉をあげてエリザに紙を渡すとヘッドホンをした。カメラマークのアイコンをクリックするとそこに動画が流れ始める。
「……流石は日本版CIAだ。あんなところに監視カメラをつけるなんて」
「そうね、でもあれは私がつけたのよ。じゃあ、また後で」
 クロウは恋人の所行に、利口にも沈黙を守るしかない、ということを分かっていた。

 エリザが隣室から出てくると毅然としている潤と背中を丸めてこの探偵事務所という場所に対してびくびくとしている中年男性二人、そして興味深そうにじろじろと下から上まで眺めている中年女性三人がいた。その光景を見て本当にクロウをつれてこなくてよかった、とエリザは安心した。日本人はミーハーすぎると思う。ちょっと顔がよかったり優しかったりするとすぐにそっちになびくのだ。全く黄色い猿時代から変化はないように思う。
「住所、本名、個人情報は全て調べ上げました。こちらの紙に書いておりますので、どうぞ」
 黄色い猿達は一枚しかないその紙を交代交代に回し読んで暗暗とした顔になる。エリザは思わず吹き出しそうになったが潤に一睨みされてしゃんと背筋を伸ばした。ごほんと咳をした中年男性がエリザに紙を戻した。少しだけエリザの手に触って、エリザはそれに顔をしかめて。
「うら若い女性方にこんなことを調べさせるのは何かと思っていましたがどうもご苦労でした」
 エリザはぺこりと頭を下げて、潤はまたのお越しを、と言って黄猿五人を見送った。
「出ておいで、クロウ。そんなところでぼけっとこんなつまらないもん見ていたって退屈だっただろう?」
 潤の呼びかけに答えてクロウはいそいそと出てきた。何のつもりか出てくるなりエリザをぎゅっと抱きしめる。潤は目を丸くしたがすぐに後ろを向いた。
「二人とも、ラブシーンは帰ってからやりなさい」
「エリザ、あんな男……! どう見たってセクハラじゃないか。でれでれ手なんか触って」
「いいのよ、中年の男は大体あんなものなんだから。クロウは男だし、イギリスにずっといたから分からないかもしれないけど」
 クロウの激怒ぶりにエリザは内心喜んでいた。潤は、といえばやっぱりラブシーンなのか、とため息をついていた。
「とりあえず、今夜からエリザは休暇よ。おめでとう」
 クロウとエリザは目を合わせて思い出したように喜色満面になる。
「……ああ、そういえばクロウは私に話しがあるんじゃなかったの?」
「そうだよ。いろいろと話したいことがあるんだ。……その……ジュンと二人きりで」
 同時にクロウと潤がちらりとエリザを見る。エリザは驚いて口を一瞬あんぐりと開けるが監視カメラの存在を思い出すとにやりと笑った。
「……エリザ、君のデスクに行っちゃだめだよ」
 しかし、感づいたクロウにエリザは先手を打たれてしまった。監視カメラの存在を十分に知っていた潤は口の中でククッと笑った。エリザは肩をすくめて他の所員達がいる部屋につながる扉から出て行った。
「ほら、怒ってるんじゃないの?」
「大丈夫だよ。エリザはそんな心の狭い女性じゃないんだから」
 そのとき、エリザは古風にもコップを扉と自分の耳の間に挟んで盗聴しようとしていた。
「心が狭くて悪かったわね……」
 ふと気がついて回りを見ると自分と同じようにコップを扉に当てている所員達がいた。エリザはこの弱肉強食の事務所内では『強』の側である。所員達は『弱』なのだ。よって、所員達がいかに興味を示してもクロウはなびいたりしないのだが、彼女たちが積極的になれない第一の理由はエリザがいつもこういうことをすると威嚇してくるからなのだ。
「あなた達……どういうつもりでそんなまねしているの?」
 口調はまだ優しいが顔がいかめしい。殺気と邪気をふんだんに発しているその怒り顔は所員達におそれられる理由となっている。
 その騒ぎが祟ったのか二人の声はいきなり小さくなり、ついに全く聞こえなくなった。つまらなさそうにコップにアイスティーを注いで一気にごくりと飲み干した。もう三時間も二人は話し合っている。大事な恋人を放ってよくもこんな長時間話せるものだ。
「え、やだ、また殺人事件だし! これ以上依頼きたら私たち過労死しちゃう!」
 エリザは大した興味も抱かなかった。どうせ自分は今夜から休暇なのだから、これから殺人事件がいくら起ころうと自分が関わることはないのだ。どれだけきゃぴきゃぴした阿呆ばかりの事務所でもやるときはやる、警察からも極秘で依頼がくる事務所。すぐに殺人事件ぐらい解決できるに違いない。と、思っていたのだが、エリザは何の気なしにテレビを見たとたん肩をふるわせた。
『近藤隆二さん、四十九歳、秋山千夏さん、四十二歳、藤村明さん、五十二歳、天童美智子さん、四十五歳、西本京子さん、五十五歳、の被害者五人が車に乗っていたところを崖から転落し、病院へ搬送されましたが数分後死亡。警察によるとガードレール、車のタイヤに何らかの細工がしてあったということです』
 五人は例の黄猿五人だった。エリザは間違いなく、自分たちが教えたことのせいだろうと確信していた。
「ああ、やっぱりやられたか」
 不意に背後からクロウの声がした。振り向くとクロウと潤がエリザの後ろに出てきていた。
「や、やっぱりって?」
「あんな危険な男と会って無事に帰れるはずはないだろうから」
 クロウは冷たくそう告げた。エリザはモニターに映し出されていたが紙に写さなかった情報を思い出す。
『東大工学部』『首席』
 その二つしか彼女には思い出せなかったが隣でクロウが一言でその疑問を解消した。
「某危険宗教信者」
 エリザはその某宗教が起こした数々の事件を思い出して顔を青くする。
「で、でも……それなら!」
「深く考えないことよ。私たちは依頼されたことを教える、それだけ。その後で相手がどうなろうと関係ないわ。つまり、私たちがしているのはそういうことなのよ。分かった?」
 潤は優しく、それでいて厳しくエリザをいさめた。エリザはしばらく黙っていたが無理矢理笑顔を作ってクロウに微笑んだ。
「クロウ……」
「何だい?」
「帰りましょう、あなたの家に」
 エリザの言葉にクロウはエリザの肩を自分の方にそっと寄せた。
「じゃあ、ジュン。良いお年を。それと、あの件は忘れないで、一応考えてみてくれ」
 潤は何も言わずにこくりと頷いてエリザとクロウに手を振った。
「あんた達も良いお年を」
 エリザは笑顔で手を振り、クロウと寄り添って事務所を出て行った。

 二人は車に乗り込むとどこにも寄り道せずに一旦クロウの家に帰った。家に入った途端クロウはエリザの両肩をつかんでまじめな顔でこう訊いた。
「君はどう思っているか、分からない。けれど、僕は君を残して一ヶ月後にイギリスに戻るなんてことはできないんだ」
 エリザは戸惑った表情でそれに困ったような顔をするクロウを見ると余計にその顔を曇らせた。
「そんなこと言ったって……仕方がないじゃない。私は、こっちでの暮らしが好きなんだもの……。あなたとは結婚して、いつまでも一緒に暮らしたいと思っているわ。けど、仕事もあるし……」
 クロウは悲しそうに目を伏せるエリザに二枚の封筒を差し出した。どちらもそう分厚いわけではなく、数枚の紙しか入っていないことは伺われた。
「エリザ、探偵事務所『めいりょう』の海外進出の企画書、『ギア』の日本支社への重点移動の企画書、どちらかがどちらかの封筒に入っている。君が選べばいい。選ばないという選択肢もある」
 クロウはエリザに選択を迫りながら潤が言ったことを思い出していた。
『けどね、そんな選択が本当にエリザにとっての幸せになるかな?』
 エリザは既にどちらがどちらに入っているか分かっていた。クロウもエリザが分かっていると知っていながら選ばそうとしているのだ。それが分かっているから悩む。分かっていなければ、選んだりしないというのに。危険な賭はしないのだ、と選ばずにいられるというのに。エリザは本当にクロウを恨めしく思った。
「そんなもの……選べない。私は、今の生活を愛している。クロウと会えて、今の仕事も続けられて、幸せよ。だから……私は、選べない」
「どうして、それなら選べばいいじゃないか。『ギア』が日本支社に重点を移せば僕も副社長としてこっちに来られる」
「だって……副社長の妻が探偵。おかしいじゃない。あなたが笑いものになるわ。あなたのお父様を私知っているのよ。恥だと思えば実の息子だって、どうするか分からない」
 エリザはテーブルを軽く叩いた。クロウは先ほどの焦り顔とはうってかわって、今はおだやかな笑顔を浮かべている。
「いいんだよ。だって、僕はあの人がいなくても生きていける。君がいれば生きていけるし、ある程度のつてはあるから会社だって簡単に設立できるよ。大丈夫だ。何とかなる。君がいれば、の話だけどね」
 エリザは唇を一直線に引き結んで、目頭をあつくさせていた。
「ずるいわね……」
 エリザに拳で叩かれ続けながらクロウはにこにこと笑んでいた。
「窓の外、見てごらん」
 クロウはエリザから離れてワインを取りに行った。エリザは言われるままに窓の外を見つめる。
「今年の初雪ね」
「この間買ったワイン、飲むだろう?」
「ええ」
 暖かい二人にはワインが似合う。甘くて喉に透き通る、ちょっとピリリと辛みがある、高級ワインが、よく似合う。そして、外にはしんしんと純白の雪が降り。やがて全てを美しい白に染め変える。赤も黒も青も、真っ白に染め変えてしまうにちがいない。
「積もるといいわね」
「積もったらドライブしにくいなあ」
「歩けばいいじゃない」
 二人には、情熱の赤、何も知らないでいる人々には分からないような情熱が何よりも二人を際だたせているのだ。秘密を抱えた緋色が雪降る世の新たな華となる時はそう遅くはないだろう。
2005-01-06 10:46:03公開 / 作者:若葉竜城
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■作者からのメッセージ
はい、また短編です。
やや長いですが短編です。
クインとリュウの「幸福の紅茶」に続きまた外国人ものの飲み物系(?)です。
ぜひ、感想等宜しくお願いします
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