『という名前』作者:もろQ / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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原稿用紙約4.43枚
 「吾輩は猫である。名前はまだ無い」と答えられて、森川新一はひどく驚嘆した。まさか、本物の猫からそんな台詞が飛び出すなんて。
 
 新一が彼を見つけたのは、近くのスーパーで買い物をした帰りだった。その猫は茂みの陰で眠っていたが、新一に声をかけられたとたんパッと起き、暗がりから目をギラギラさせた。
 「……どうした?」いきなり絶句してそこにたたずむ人間に、猫は尋ねた。新一は少し間をあけて、興奮気味に話した。
「お前、なんでそれを知ってるんだ?」
「何をだ?」
「その言葉だよ。『吾輩は〜』って」
「それがなんだ?」
あれ、と新一は不思議に思った。猫も不思議そうにこっちを見ている。新一はハッと思い立ち、突然ポケットに手を突っ込む。取り出した財布の中から千円札を一枚引き出し、猫の目の前でひらひらさせてみる。
「この人がお前の飼い主……じゃなくて、その言葉を書いた人だよ。知らないのか?」
「ああ、顔のみなら知っている」目の前のひらひらを目で追いながら猫が言った。新一は再び驚嘆した。握った手に熱がこもるのが分かった。
 
 父親がファンだったこともあり、新一は昔から夏目漱石の物語が好きだった。漱石の書籍はもちろん全巻そろえている。「夏目漱石の会」なる個人団体に首をつっこんだり、父親と酒を片手に一晩中討論したりもした。そんな彼にとって、ここでの彼との出会いはとてつもなく貴重に思えた。もちろん小説の登場人物が実在するわけはないと思ったが、ファンとしての情熱が一旦燃え上がると、自分でも止められない事はよく知っていた。

 「本当に? でも、ちょっとまって。じゃあなんで君は今生きてるの? 確か君は、水に落っこちて死んでいくんだよね?」すると猫はびっくりして、
「な、何を言っている! 吾輩は確かに水に落ちたことはある。しかしその時はちゃんと飼い主が引き上げてくれたわ! 全く、わけの分からないことを言うな!」と怒鳴った。新一もびっくりして、慌てて謝った。
「ごめんごめん。ふうん、そうなんだ。あ、その飼い主の事だけど、もしかして、教師……だったりしない?」
「なぜそれを知っている?」猫は目を開いた。その言葉を聴いて新一は、さらに嬉々として小さく叫びをあげた。
「そ、それじゃあ」新一は呼吸も乱れたまま言葉を続けた。
「その飼い主は、胃弱な割に大食いだったり、実は怠け者だったり……」
「そうだ。その通りだ」猫はフン、と鼻で笑った。新一がなんでもピタリと当てるので、猫の方も面白くなってきたらしい。新一はもはや興奮のあまり、頬を染め、脂汗をにじませて震えている。新一は妄想の中に入っていった。

 まさかこんな出会いがあるなんて、本当に夢のようだ。こんな体験をした人間なんて、世界中のどこにもいないだろう。まさか、本の中の、しかも漱石の物語の猫と話ができるなんて、すごい。すごいぞ!

「うちに来てくれ!」新一は、轟くような大声で叫んだ。猫はびっくりして「なんだと?」と言った。
「僕と一緒に住んでくれ!部屋はなかなか広いし、掃除もまめにしてる。そうだ、毎日おまえの好きなものをやるよ。何がいい?」
怒濤のように言葉を浴びせられ、じっと黙っていた猫は、少し間をおいて口を開いた。
「お前の気持ちはとても嬉しい。吾輩も一度くらい、お前のような男に飼われてみたい。しかし私は飼い猫だ。私には別の飼い主がいる。彼女をおいて他へ行く事など、吾輩にはできん」
 その途端、新一の情熱は一気に冷めきった。そりゃそうだ。この猫には苦沙弥という飼い主がいるんだ。僕のくだらない頼みなど聞けるわけがない。
「……そう、だな。馬鹿な事言ってごめん」



 あれ? さっき猫はなんと言った? 「彼女」だと?
 「おい、ひとつ聞くけど、お前の飼い主の名前は苦沙………」
「由紀だ。山本由紀。小学校の教師をしているぞ」猫は満足げに答えた。
「ナツメソウセキが大のお気に入りでな。吾輩もちらと写真を見た事がある」

 「いや、ちょっと待て。そんな事はないだろう。そうだ、さっきだって『名前はまだ無い』と言っただろう。それが何よりの証拠」
「………言っておくが、吾輩の名前は『マダナイ』だ」
2004-11-05 23:10:19公開 / 作者:もろQ
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■作者からのメッセージ
2回目の投稿になります。
「吾輩は猫である」を存分に活用した作品で、読んだ事の無い人には分かりづらい部分もあるかと思いますが、僕も読んだ事が無いので人の事は言えません。

よって、この作品を選んだ理由は全て冒頭部分にしかありませんので、オチは皆さんにも分かっていただけると思います。
どうぞよろしくお願いします。
この作品に対する感想 - 昇順
読ませていただきました。面白かったです。漱石好きには堪らない内容ですね。オチには全く気付かず、最後の一文を読んでなるほどと思いました。それほどの驚きは正直無かったのですが、主人公と猫とのやり取りが可愛らしく、良い雰囲気を感じさせました。次回作にも期待しておりますので。
2004-11-06 20:07:06【☆☆☆☆☆】卍丸
拝読させていただきました。『我輩は猫である』は私も読んだことがあります。とはいっても、国語の図書館授業の中でですが。とは言っても、内容は全く覚えておらず、何とか、あああそういえばそうだったな、と頷く程度でした。(苦笑)それでも、文章は非常に楽しめましたし、オチも、ああ、なるほど、と唸らせるものがありました。次回作も楽しみにしております。それでは。
2004-11-07 00:39:14【★★★★☆】ささら
まず最初に、私も人様の創作物をどうこう言えるレベルにはないことを述べておきます。まぁそれを踏まえた上で軽く聞き流してクダサイ。まず最初に、良いですね、トントンと進んでオチを踏まえてストンと落とす。ショートショートの良さが十分に生きていると思います。別段読みにくい所もなく、上手くまとまっていると思います。次回作にはぜひ一つ捻りを加えた読み手を「ううーむ、上手い」と言わせるようなショートショートを!(ただの個人的な希望なんで、スルーして頂いても一向に構いませんw) では頑張って今後もクダサイ。
2004-11-10 03:11:28【★★★★☆】K伸
笑えました(って、笑って良いんですかね?)。巧いですねー。オチに最高のフォークが決まって完璧に討ち取られた気分です。僕はこういったカンジの作品を書くのが苦手なので、凄く憧れます。次回もこんなコミカルでトリッキーな作品をお願いします! 頑張って下さい。
2004-11-14 01:36:47【★★★★☆】覆面レスラー
計:12点
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