『ファウストの末裔 序章』作者:TURB / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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少女は、神の存在を信じてはいなかった。そもそも定義が曖昧だし、もともと信心深い家庭に育ったわけでもなく、その上不熱心ながらも仏教徒だった。

 だが、悪魔の存在は、信じてる。

 会った事があるから。



 

 これがリノリウムの床と言うのだな。

 拝島皐月は、ローファーの踵がたてる足音が白く清潔な廊下に染みこんでいくのを感じながら、ぼんやりと考えた。リノリウム。リノリウムってなんだろう。でも、小説とかで病院の床の事を、リノリウムの床って書いてあるから、きっとこれはリノリウムの床だ。床の事なんて他の場所では全然描写しないのに、病院が舞台になると必ず出てくるリノリウムの床。そこまで思考して、皐月は少し笑った。

 床の事なんて、どうでもいいのに。本当に、芯からどうでもいい。

 こんなどうでもいい事を考えてしまうのは、目を逸らしたい事実があるからだ。

 途中、空のストレッチャーを押した看護婦とすれ違った。

 彼も、手術の時は、あれに乗るんだ。

 そして、手術室の赤いランプが点灯する。私にできる事は、なにもない。

 だから今、彼の為に何かできる事はないだろうか。こんな花束や、クラスメート皆で作った千羽鶴じゃなくて。私だけが、彼にしてあげられる事。

 病室の前で、足を止めた。開け放たれた扉についている名札を見る。桐生秀雄。ここだ。

 皐月はこっそりと病室を覗き込んだ。家族の人と鉢合わせになるのは避けたい。いや、気まずいわけではないが、できれば彼とは二人きりで会いたかった。千羽鶴を届ける役を、わざわざクラス委員である事を盾にとってまで勝ち取ってきたのだから。

 病室に伸びる皐月の視界にうつった人影は、一人分だった。皐月の頬が僅かに緩む。

 桐生秀雄は、闘病の傷跡ともいうべき肉の削げた痩身をベッドに横たえて、文庫本を読んでいた。読書に熱中するあまりか、それとも体の何処かが痛むのか定かではないが、彼は端正な眉を幾分顰めて、眉間に皺を作っていた。文庫本にはカバーがかけられており、タイトルはわからない。

「桐生君」

 花束を抱えなおし、できるだけ自然な調子を演出できるように心がけつつ、皐月は声をかけた。

 秀雄は最初視線だけ動かして皐月の姿を確認し、継いで首を廻らして唇に微笑を刻んだ。

「……拝島さん。来てくれたんだ」

「あ、いいのいいの、寝てて」

 身を起こそうとした秀雄を、皐月は慌てて止めた。彼の動きは見ている側が気を揉むほど緩慢で、病状が芳しくない事は素人の皐月にもすぐに分かった。もともと色白だった秀雄の顔は、今や幽鬼のように青白く透き通っている。

「あ、あのねっ、これ、千羽鶴。クラスの皆で作ったの。あと、これっ、あたしから、お花」

 勢いのあまり、文節ごとにスタッカートが入ってしまった。最悪だ。何をガチガチになっているんだ私は。皐月は内心で地団太を踏んだ。

 そんな皐月の葛藤を知る由もない秀雄は、屈託のない笑顔のまま花束を受け取った。

「ありがとう。うわー、凄いな、千羽鶴」

 紙袋から取り出された千羽鶴は、一つ一つの鶴に作り手の性格が滲み出ていた。不器用ながらも丁寧に作ってある鶴。神経質に何度も折り直してある鶴。大雑把なのか形が崩れた鶴。全ての鶴は合計20本のタコ糸に通して下げられており、上部に近づくにつれて作り手の錬度が上がっているのが見て取れる。その歪さこそが、クラスメートの誠意。

 秀雄はそれぞれの鶴を慈しむように摘み上げた。

 多様な色紙で彩られた、宿願の千羽鶴。

「明日の手術、これで成功間違いないな」

 自分に向けられた秀雄の微笑。いつもならそれは皐月の心を夢心地にさせるのだが、今回だけは痛ましさしか感じられなかった。でも、皐月もそんな気持ちはおくびにも出さない。悲観的になっても、意味はない。欺瞞でも、逃避でも、すがるものが在った方がいいに決まってる。そのための千羽鶴だ。だから、皐月も笑顔を返す。全身全霊を注ぎこみ、死力を尽くして非の打ち所のない笑顔を作り上げる。

「そうだよ。絶対成功するって」

「……そうだよな。病気治して、学校行って皆にお礼言わなくちゃな」

「お礼とかは気にしなくて良いけど、早く学校に来てくれると嬉しいな」

 それは皐月の偽らざる本心だった。

 だが、彼女は知っている。

 秀雄の病気がそんな軽いものではない事を。

 手術をしなければ彼の命は半年を待たずに燃え尽き、手術をしたとしても成功率は3割を切っている事を。

 彼の為にしてあげられる事はないのか?

 本当に、ないのか?


 

「それで?」悪魔は冷淡な程そっけない声で言った。「俺にどうしろって?」

「彼を助けて」

 少女は相手の乾いた態度に出鼻を挫かれながらも、己の胸から搾り出す様に言った。そう、それこそ彼女の望み。

「わかんねーなぁ」悪魔は薄ら笑いを口元に貼りつけ、首を傾げた。それは少女の不快感を煽ろうとしているのがありありとした仕草だった。「正式な契約なら、俺はどんな希望でも叶えるさ。だが、それは決して小さくない代償と引き換えに、だ。お前にとっちゃその男、赤の他人じゃねーか。そんな価値が、その男にあるのかねぇ?」

「アンタには解らないよ。人間の愛情なんて、アンタに理解できるわけがない」

 少女の言葉に、悪魔は僅かに俯いた。少女の視点からは死角になって見えないが、悪魔の顔には、嘲るような冷笑が浮かんでいた。

「はいはい、おっしゃる通り。俺なんぞにはとても理解が及ばねぇさ。しっかし、そいつのどこに惚れたんだ?」

 少女は悪魔の問いにすぐには答えず、ゆっくりと瞳を閉じた。過ぎた日々を想い起こすように。流れた時間を巻き戻す為に。

 中学1年で転校して来て、教師に促されるままに上った教壇。緊張して殆ど喋れなかった自己紹介。関西のアクセントをからかわれて、仲間はずれにされた。孤独な日々。集団心理。エスカレートする苛め。掃除の時間、床を拭いている所に塵取りに溜まったゴミを頭にかけられた。「汚い関西弁にはお似合いだ!」泣いちゃだめだ、泣いたら負けだ。余計に苛めっ子達を喜ばせるだけだ。でも、目に溜まった涙を隠す為、俯いているのが精一杯。「やめろよ」その時、頭上から降ってきた彼の声。

「拝島さんの綺麗な髪には、ゴミなんて似合わないよ」

 顔を上げると、そこに天使がいた。




 少女は、己の胸の内にしまわれていた宝石のような思い出を、目の前の悪魔に語った。

 悪魔は肩を揺らす。

「なるほどなるほど。そういう素敵な思い出があるわけか。んー、感動的だねぇ。くくく、いや、ホントに。それで、その素晴らしい天使のような少年を、この悪魔の手でもって救って欲しいと、そういうわけか? くく、そんな顔するなって、大丈夫。まかせなさい。契約する以上、お前の望みは十全に叶えられるよ。3割しかない成功率の手術だろうが、あと半年の命だろうが、俺の手にかかれば関係ない。すっきりばっちり、その愛しい天使の健康を取り戻してやろうじゃないか。一般人より丈夫な体にしてやるぜ。大サービスだ。俺とした事が、感動しちまったよ、お前の愛情って奴にさ」

「おためごかしは結構よ」

「つれないねぇ。さて、当然今回も代償を頂くが、宜しいかな?」

 少女は無言で頷く。

「くくく、いいだろう。それでは契約に入ろう」


 

 

 桐生秀雄の心臓手術は大成功だった。執刀医が頭を捻るくらいの、あまりに都合が良すぎる展開で、術後の回復も常識はずれな早さだった。

 面会謝絶が解かれた時、病室には大勢の人が詰めかけていた。普段の仏頂面が嘘のような笑顔の父親。嬉しさのあまり感極まって泣き出す母親。留学先から飛んできた姉。病気と戦う事の意義を教えてくれたカウンセラー。人の良い禿頭の担当医。人々の喜びと祝福は、秀雄の切開部の痛みを吹き飛ばしてしまう。

 そして、彼女。

 いつも秀雄を支えてくれた、愛しい少女。

 次から次へと来客があったが、彼女は辛抱強く待ち続け、今、付き添いの母親も食事に出ていった。秀雄と少女の視線が交差する。

「……桐生君。良かった……本当に……良かった」

 少女はベッドに横たわる秀雄の顔に、桜色の唇を寄せて囁いた。

「皆のおかげだよ」

「ううん、桐生君が頑張ったからだよ。神様だって、しっかり見てたんだわ」

 少女はそう言って、ふと顔を背けると、高校の制服であるブレザーのポケットからハンカチを出して目頭を押さえた。

「何泣いてんだよ、馬鹿だな」

「だって、嬉しくて……」

「それより、さ。二人きりだね」

 秀雄は少し悪戯っぽく笑った。

「……今、エッチな事考えたでしょう?」

 少女も、泣き笑いの顔になった。

「キスしてくれよ。俺からしたいものだけど、手術の傷跡が痛くて、体が起こせないんだ」

「……馬鹿」

 少女は秀雄に被さる様にして、キスをした。瞳を閉じて、互いの舌を絡める二人。お互いの存在を確かめ合う、お互いの肉体を接続する為の、濃厚な口付け。

 ほんの数秒か、それとも何分もそうしていたのか。

 目を開けた時、少女の頭越しに、病室の扉の前に女が立っているのが見えた。

 異様な姿だった。肩まである髪の毛は、白髪混じりの鉄灰色で、そのパサパサと艶のない事といったら年を経た老婆の様だったが、その髪に隠された顔はまだ少女のものだった。しかしその表情は憤怒と憎悪に染め抜かれており、禍禍しい気を放っている。着ている服は近所の公立高校の指定のセーラー服だったが、それさえも彼女の異様さを際立たせていた。

「は、……拝島さん」

 やっとのことで、秀雄はそれだけ搾り出した。どうしたというのだろうか、その髪は。秀雄は変わり果てたクラスメートの姿に戦慄した。

「お祝いに来たんだけど……お邪魔だったかしらね」拝島皐月は、異様な空気に怯えて秀雄にすがり付いている少女に対し、視線の毒針を向けた。「お楽しみだったみたいだし。その女とは、どういったご関係?」

「あ、ああ、川上麻衣子っていって、その……つきあってるんだ」

 夜叉のような皐月の姿に気圧された秀雄は、彼女の失礼な物言いにも怒りを感じる事ができず、ただ木偶の坊のように答えるだけだった。

「……か、川上です、よろしく」

 怯えを隠しきれないまま、川上麻衣子は皐月ぎこちない会釈をした。

「拝島さん……その、髪、どうしたの?」

 皐月はしかし、その問いに答える事はなかった。何か言葉にできないものを噛み殺し、子供が号泣する一歩前のような表情を見せた後、灰色と白の斑に見える髪を振り乱して、病室を飛び出していった。すれ違った人々が皆好奇の目で振りかえるが、構っていられない。早く。1秒でも早く、人のいないところへ。泣いている姿を他人に見られたら、彼女の中に残った最後の矜持まで、崩れてしまう。

 皐月は病院を飛び出し、駐車場の隅に在る藪の中へ頭から飛びこんだ。そのまま枯草や泥で汚れるのも構わず地べたに寝転び、顔を覆って泣いた。


 

「可哀相になあ、皐月。せっかく愛しい男の為に、あんなに綺麗だった髪と引き換えにしてまで俺と契約したのになぁ」悪魔は言葉とは裏腹に、実に楽しそうに言った。「でも、俺が約束したのは、『桐生秀雄の健康を取り戻す』だけだったからな。お前の恋路までは責任とれないな、くくく」

 皐月の返事はない。彼女はただ、廃人のように虚ろな瞳で空を眺めているだけだ。

「すっかりピエロだな、皐月よ? お前が自分の身を切り売りまでしたのに、桐生やその女は、その事実を露知らず、末永くお幸せにってわけだ。くく、はは、はーはっは。いや、笑える話だ」

 悪魔は身を捩じらせて笑う。皐月は何も答えない。

「皐月」

 不意に、悪魔は笑いをおさめ、甘い声をだした。皐月はそのとき始めて、悪魔の方へ顔を向けた。

「そう嘆くなよ。こういう時の為に俺がいるんだろ。俺にまかせろって。川上麻衣子だっけか、その女。俺が消してやろうか? 桐生秀雄とも、付き合える様にしてやるよ。お前には、当然その権利がある」

 次第に、皐月の瞳に光りが戻ってくる。それは今まで彼女の目の中にあった物とは別な、狂気の輝き。悪魔はそれを見て、満面の笑みを浮かべる。

「その気になったようだな。では契約に入ろう、ファウストの末裔よ」
2003-07-23 08:50:26公開 / 作者:TURB
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