『Past and Future』作者:月明 光 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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「……では、依頼内容は以上で宜しいですね?」
「はい。お願いします」
「分かりました。必ず依頼は達成します。
……もう一度だけお聞きしますが、本当に宜しいのですね?」
「はい。何か問題でも?」
「いえ。ただ……誰かに依頼されるのは初めてなので」
「私は、大切な人の足手まといになりたくないんです。
私の所為で彼が苦しむなんて、耐えられません」
「そうですか。分かりました。では……」
「……あ、ちょっと待ってください!」
「どうしましたか?」
「もう一つだけ……お願いしてもいいですか……?」


「じゃ、同窓会行ってくるね」
「本当に一人で大丈夫か? 俺が送ってやるのに……」
「大丈夫よ、心配しないで」
 心配する俺をよそに、妻は余所行きの靴を履く。
 大丈夫と言われても、心配せずにはいられない。
 寒冷前線の影響で激しい暴風雨が一帯を襲う夜に、
妻をたった一人で外出させるなんて。
「積もる話もあるだろうから、朝帰りでも良いけど、
人様に迷惑かけるようなことだけはするなよ」
「分かった分かった。……まったく、子供の遠足じゃないんだからね」
「分かってるけどさ……」
 妻の酒癖を考えると、どうしても不安になる。
 この前も、もう少しで警察沙汰になるところだった。
「……ヒロキ……もしかして……」
「………?」
「一人になるのが寂しいとか?」
 そう言うと、妻は小悪魔のようにニヤリと笑った。
「な……いや、そういうワケじゃなく……」
 俺の主張そっちのけで、妻が不意に唇を重ねた。
「フフフ、これで今夜は寂しくないでしょう?」
「ば……バカ!」
「もう、そんなに照れちゃって……カ・ワ・イ・イ♪」
「いいからさっさと行け!」
 俺は、妻の額を軽く小突いた。


 静かな部屋に、外から聞こえてくる激しい雨音のみが響いている。
 ――やっぱり、寂しくなるもんだな。
 夕食も済ませてしまい、何もすることが無かったので、
 壁にもたれて、ぼんやりと考え事をしていた。
 ――同窓会……か……。
 こうして一人でいると、何故か昔のことを思い出してしまう。
 高校生時代の、無知で世間知らずだった頃の俺を。
 果たして、俺の進んできた道は正しかったのか。
 今までの選択は間違っていなかったのか。
 答えが出るはずのない問いを、自分に投げかけていた。
 別に、今の生活に不満があるわけではない。
 仕事は充実しているし、妻に出逢えて本当に良かったと思っている。
 ただ……時々、脳裏にあの時の言葉が浮かんでくるのだ。

 ――いつか再会できたら……その時は……

 あの言葉を思い出す度に、心の何処かがキリキリと痛む。
 あの時、軽々しく約束してしまった自分が、今となっては恨めしい。
 あの頃の、『理屈<愛情』という公式は、今の自分には理解できない。
 ――十年も経つと、人は変わってしまうんだな……。


「貴方が……ヒロキ様ですね……」
突然、聞き慣れない声が聞こえてきた。
気付くと、全く面識の無い男が、俺の目の前にいた。
「お……お前は誰だ!? 何処から入ってきた!?」
 後退りしようとしたが、当然無理だった。
「そうですね……説明すると長くなるので、その話は保留にしましょう」
「ハァ!? お前、警察呼ぶ……」
 あることに気付き、声を詰まらせてしまった。
 今も、外からは激しい雨音が聞こえてくる。
 例え傘を差したとしても、服が濡れないなんて有り得ない。
 なのに、彼の黒いスーツには、水滴一つ付いていない。
 それに……何となくだが、凡人とは違う『何か』を、彼からは感じるのだ。
 ――どうやら……ただの人ではなさそうだな……
「……これは夢だな。疲れているから変な夢を見ているんだ。
だから、ここでお前が何を言おうが俺には関係ないし、
それを咎めるつもりもない。所詮は夢だからな」
 他にもおかしな点は多々あるのだろうが、とりあえず様子を見ることにした。
 いざという時の為に、体制を整えた。
「分かりました。まず、私の仕事について簡単に説明しましょう。
その方が、本題を円滑に進めることができますので。
私の仕事は、一言で言えば、人の記憶を消去することです」
「き、記憶を消去!?」
 完全に予想外の言葉に、驚きを隠せない。
「もちろん、犯罪に手を貸すつもりは全くありません。
例えば、思い出すだけでも嫌な思い出……貴方にもありますよね?」
「あ…ああ……」
「誰にだって嫌な思い出の一つや二つはあります。
しかし、もしもそれが人生を大きく狂わせてしまうようなものなら……
そんな記憶を、持ち主に害を与えないうちに消去するのが、我々の勤めです」
「は、はあ……?」
 説明自体は分かりやすかったが、明らかにそういう問題ではない。
「そ、それで……俺に何の用なんだ?」
「貴方……アンナという女性を知っていますよね?」
「あ、アンナ!?」
 俺は、ドキリとした。
 ――どうして、俺の高校時代の彼女の名前を知っているんだ!?
「貴方、今でも彼女のことが気掛かりなんでしょう? ……嘘を吐いても無駄ですよ」
「あ……ああ……」
 誤魔化しようがなかった。
 ついさっきだって、アンナのことを考えていたのだから。
「この前も、奥様を『アンナ』と呼んでしまいましたよね?」
「そ、そんなことまで知ってるのか……」
「当方の調査によると、これから更に悪い悪影響が予測されるそうです。
ですので……その前に、その記憶を消してしまってはいかがでしょう?」
「記憶を……消す……」
「ええ。当方の調査によると、この記憶を削除しても、
日常生活には何ら影響を来すことはないそうです」
 ――大切な思い出を、消せるワケないだろう!
 そう言おうとした時に、妻の姿が浮かんで、とっさに言葉を飲み込んだ。
 この前、妻の名前を間違えて呼んだときも……


 その言葉を放った途端、今まで築き上げてきたものに亀裂が生じた。
 ほんの少しの沈黙が、大きな波紋を描き、ゆっくりと広がった。
 刹那にして、辺りの気温が下がった。
 それが収まるのを待たずに、妻の口から言葉が発せられる。
「アンナって……誰……?」
 その一言で、背筋が凍り付いた。
「そ……それ……は……」
 嫌な汗が額を濡らし、頬を伝った。
 妻が、ジリジリと俺に詰め寄る。
 俺は、多少の怪我を覚悟し、反射的に目を瞑った。
「……ちゃんと説明して」
「……………え?」
 予想外の言葉に一瞬戸惑う。
「アンナって誰なの? 説明してくれないと分からないわよ。
痛い目に遭いたくないなら、正直に言って」
 そう言いながら真っ直ぐ俺を見つめる瞳は、
俺の心の内側を照らし出すかのように、俺の目を貫く。 
 俺は観念し、全てを包み隠さず話した。
 アンナとは、高校生の時に付き合っていた彼女の名前であること、
今は何の関係もないこと、高校を卒業してからは一切連絡を取っていないこと。
 妻は、俺の目をジッと見つめながら、黙って話を聞いていた。
「……その目は、嘘をついていないわね。……ゴメンね、疑ったりして」
「謝らなくていいよ……俺が悪いんだし」
 疑いが晴れて、俺は安堵の声を漏らした。
「もう一つだけ訊いていいかな?」
「……………?」
「……ヒロキの目には、今、誰が映っているの……?」
「え……………?」
 予想外の言葉に、言葉を失う。
「私? それとも……」
「……………」
「もしかして、『髪、伸ばした方が可愛いと思うよ』って言ったのも……」
「……………」
 妻の一言が、俺の心に深く突き刺さった。
 問いかける妻の瞳は、一点の汚れもない切なさに満ちていた。
 それに見つめられると、どう答えたらいいのか分からなかった。
 代わりに、キスで答えた。長い、とても永いキスで。
 妻の柔らかい唇に触れると、不思議な感覚が全身を包んだ。
 華奢な体をそっと抱きしめると、長い髪から優しい香りがした。
 全身から伝わってくる感覚の全てが懐かしいような気がして、
それが罪なのだと思うと、胸が締め付けられるように苦しくなった。
 しばらくして、少し顔を離し、妻が寂しい笑みを浮かべた。
「待っててあげるよ……思い出から卒業できるまで」


 あの時の妻は、今まで見たことがないくらい辛そうだった。 
 このまま俺が思い出に縋っていたら、更に大変な事態になることは火を見るよりも明らかだ。
 俺は、今でもアンナを愛しているのかもしれない。
 過去を忘れることは、間違いなのかもしれない。
 でも、今の俺は、間違いなくアンナ以上に妻を愛している。
 夫は、大切な妻のためなら、何でもできなければならないはずだ。
 たとえ己の身を削っても、それが明らかに間違いだとしても。
 これ以上、妻にアンナの面影を押しつけるわけにはいかない。
「じゃあ……お願いします……」
「本当に……よろしいのですね……?」
「ああ……後悔しない……」
 俺が頷いたとき、彼は少し寂しそうな目をしていた気がする。
「……分かりました。では、明日の早朝まで待っていてください。
色々と準備が必要なので。では、失礼します……」
 気付けば、彼の姿は、跡形もなく消えていた。
 雨音に混じり、雷鳴が聞こえた。


「これで……良かったんだ……」
 俺は、小さな声で呟いた。
 もちろん、アンナとの思い出を消してしまうことには抵抗がある。
 しかし、いつまでも思い出によって苦しめられるワケにはいかないのだ。
 俺には、愛すべき人がいる。
 妻と、近い将来生まれるであろう子供が。
 人には必ず、過去と決別する瞬間がやって来るのだ。
 幾千の出会いがあれば、幾千の別れがある。
 それが、人生の条理なのだ。
 そう自分に言い聞かせて、今更になって沸いてくる罪悪感を沈めた。


 ――そうだ、忘れてしまう前に、せめて……。
 俺は、押入の奧から、アルバムを引っ張り出してきた。
 ――どうせ忘れてしまう思い出に、何故浸ろうとする?
 そんな疑問が頭の中をフッと過ぎるが、それとは裏腹に、俺の手はアルバムを開いていた。
 写真には、曖昧な人の記憶とは違って、正確に過去のことが記録されている。
 もしかしたら、いつの間にか掛かってしまったモザイクを取り除くことによって、
 これから忘れてしまうアンナに対する、せめてもの償いをしたいのかもしれない。
 そう信じて、俺はアルバムのページを捲った。
 最初に目に飛び込んできたのは、中学3年の新学期に撮った、クラスの集合写真。
 俺が、初めてアンナに出会った日の写真だった。


 俺は、新学期早々遅刻するまいと、必死に通学路を奔走していた。
 春休み中、殆ど体を使っていなかった所為か、慣れっこなのに息が切れる。
「あの……ちょっといいですか?」
 突然、俺を呼び止める声が聞こえて、俺は足を止めた。
 それと同時に、脱力感と疲労が全身を襲う。
 息が苦しくて、返事の声がなかなか出せない。
「な……な……何………?」
 息絶え絶えの俺に、相手は少し躊躇う。
「あ、あの……私と同じ中学の方ですよね……?」
「え………?」
 てっきり、道でも聞かれるかと思っていたので、少し戸惑ってしまった。
 呼吸を整え、声の主の方を向く。
 目に映ったのは、透き通るような白い肌と、パッチリとしている無垢な瞳。
 制服の上から見える立派なプロポーション。
 舞い散る桜をバックに、ロングヘアを春風に靡かせる様子はまるで……。
「……あの……?」
「……あっ……ああ……そうだけど?」
 目の前に現れた天使に、思わず見とれてしまった。
「良かった! 私、今日から転校してきたんですけど、
まだ道がよく分からなくて……連れて行ってもらえますか?」
「別にいいけど……急がないと遅刻するぞ」
「えぇ!? もうそんな時間!? 急ぎましょう!」


 ――あの時は、遅刻ギリギリだったなぁ……。
 まるでB級の青春漫画のようだが、あれがアンナとの出会いだった。
 そして、あれが……全ての始まりだった。
 どんな事柄も、意外と些細なことがきっかけになる場合が多いのだ。
 ページを捲ると、今度は高校に入学したときに撮った写真が、目に映った。


 あれは、中3の夏休み前日のことだった。
 HRも終わり、俺はさっさと帰る準備を始めていた。
「あの……ヒロキ君……」
「ん……あ、アンナ……何か用……?」
 あれ以来、なかなか話す機会に恵まれなかったアンナから、突然話しかけられた。
「塾の友達から聞いたんだけど、ヒロキ君って、志望高校私と同じなんだよね?」
「へえ……そうなんだ……」
 言い方は素っ気なかったが、内心とても驚いていた。
 アンナが偶然俺と同じ塾に通い始めたのだが、
そこでもなかなか話す機会に恵まれず、彼女に関することは殆ど知らなかったからだ。
「実は私……1学期の成績あんまり良くなかったんだ……。
それで……ヒロキ君って結構頭良いって聞いたから、
ちょっと勉強教えて欲しいんだけど……ダメかな……?」
「……う〜ん……」
 誰かに勉強を教えたことは無いのだが、アンナに頼まれると、断る言葉が出てこない。
「とりあえず……成績表見せてよ」
「うん……」
 アンナは、綺麗な白い手で、通知票を差し出した。
「どれどれ……ふむふむ……」
「ど……どうかな……?」
 ――これほどの成績で、一体何を心配している?
 真っ先に目に飛び込んできた英語の「10」を見て、そう思った。
 しかし、他の教科に目をやると、確かに納得できた。
 でも、まだ成績を伸ばす時間は十分にある。
 アンナの為ならば、競争相手を増やす結果になっても異存はない。
「別にいいけど……」
 そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
 ――クラスの連中に見つかったらどうしよう?
 ほぼ間違いなく、学校中に変な噂を立てられるだろう。
 そうなれば、俺だけでなくアンナまで……。
「悪いけど、俺も暇じゃないんだ……他を当たってくれ」
 俺は、感情を押し殺して、淡々と言った。
「……そうだよね。同じ高校を志望するライバルに、協力なんてできないよね……。
別にいいの。私がワガママなだけだから。……勉強、お互い頑張ろうね」
 そう言うと、アンナは小走りで教室を去っていった。
 ――これで、良かったんだよな……?


 次の日、読書感想文の本を借りに、図書館に出向いた。
 館内は、クーラーが肌寒いくらい効いていた。
 お目当ての本を手にカウンターに向かおうとした俺の足を、
 机に山積みにされた参考書と必死に勉強しているアンナが止めた。
「アンナ……何してんだ?」
「あ……ヒロキ君……」
 気付けば、俺は声をかけていた。
「見た通り……受験勉強。
私、理数が人一倍ダメだから、人一倍勉強しておこうと思って……。」
「それで、これだけの量を1日で終わらせようとしているのか?
……どうして、そんな無理してまで受験勉強するんだよ?
あんなに英語の成績がいいんだから、もう少しランク下げればいいのに……」
「……そういえば、ヒロキ君に、私が英語得意な理由話してなかったね……」
「……………?」
 英語が得意な理由……? それが、志望校と何の関係があるのだろう……?
「私、ここに転校してくる前は、両親の仕事の都合で7年くらいアメリカにいたの」
「つまり……帰国子女ってことか?」
「最初は慣れなかったけど、アメリカの学校に通って、アメリカ人の友達ができて……
いつの間にか、当たり前のように英語が話せるようになってた」
「なるほど。日常生活で使ってたなら、得意になって当然だよな」
「向こうでの生活は……本当に楽しかった。
国籍の壁を越えて、友達がたくさんできた。
アメリカで生活できて、本当に良かったと思ってる。
だから私、将来通訳になって、新しい出会いの手助けをしたいの。
世界の広さと、価値観の違いと、それでも心が通い合えることを、少しでも多くの人に知って欲しいの。
あの高校、英語関係の大学への進学率高いし、
夏休みには、外国にホームステイとかやってるんだって。
それで、『私にはここしかない!』って思って……。
でも……やっぱり、第一志望の高校に合格するのって簡単じゃないよね……。
だけど、絶対に夢は諦めたくないの! 
成功とか失敗とかじゃなくて、もっと大切な何かのために頑張りたいの!」
「……………」
 自分の夢を語るアンナの目は、真剣そのものだった。
 俺も、決して夢が無いわけではない。
 しかし、それは、少し揺さぶるだけでも崩れてしまいそうな、脆いものでしかない。
 アンナの様に、全てを賭けてでも夢を貫く勇気は、俺には無いだろう。
 俺は、アンナの隣の椅子に座り、彼女が使用中の参考書を覗いた。
「2次方程式か……まずは因数分解を完璧に解けるようになってからの方がいいな。
無理に応用問題に挑戦するよりも、基本を先に固める方が効率が良い」
「え……ヒロキ点…君……?」
 アンナが、キョトンとした表情で俺を見つめる。
「英語を教えてくれるなら……な」
「……! ありがとう!」
 アンナの表情が、夏の空の様に晴れ晴れとした笑顔になった。
 放っておけなかったのだ。俺には無いものを持っていたアンナを。
 それに、俺はアンナのことが――


 そして月日は流れ、高校の合格発表の日が訪れた。
 近い将来通学路になる(はず)の道を、アンナと並んで歩いていた。
 一人で見に行くのは怖いからと言って、アンナが望んだのだ。
「昨日は……全然眠れなかった」
「ああ……俺も殆ど寝てない」
「……私達……合格してるかな……?」
 アンナが、震える声で俺に尋ねる。
「さあな。……でも、やれる限りのことをやった。
『成功とか失敗とかじゃない』……だろ?
それに、アンナは苦手教科の数学を一生懸命勉強したんだ。
その上、英語に関しては文句の付け所がない。大丈夫、合格してるって」
 そう答えながら、アンナの頭をクシャクシャと撫で付けた。
「そうだね……。ありがとう、ちょっと安心した」
 そう言うアンナの声は震えたままだったが、
こればっかりはどうしようもないので、放っておくことにした。
「……ねえ、ヒロキ君……」
「どうした? まだ不安なのか?」
「そ、そうじゃなくて……その……」
 アンナは、少しだけ躊躇し、何度か深呼吸してから、
蚊の鳴くような声で、ゆっくりと話し始めた。
「ヒロキ君と一緒に勉強できて……本当に良かった。
ヒロキ君がいなかったら……きっと途中で逃げてた。
ヒロキ君がいたから……私は……。
だから……高校に通うことになっても、一緒にいて欲しいんだ……。
今日みたいに一緒に登校したり、今までみたいに図書館で一緒に勉強したり……。
つ……つまり……そ……その……」
 何度か深呼吸してから、今度は大きな声でハッキリと言った。
「私と、付き合ってください!」

「……………」
「……………」
 少しの間だけ、二人の間に沈黙が走った。
「先に言われたか……俺が先に言いたかったんだけどな……」
「え……それって……」
 アンナが皆まで言う前に、彼女の頭に手をのせ、
クシャクシャになったままの髪を解くように撫でた。
「二人で合格を確かめてから……な」
「う……うん!」
 アンナが、しっかりと頷いた。
 高校の校舎が、少しずつ見えてきた。


 あの日から、俺とアンナは恋人として付き合うことになった。
 クラスメートから羨望の視線を浴びせられたり、
些細なことで喧嘩したり、一時間も満たないうちに仲直りしたりと、
色々なことがあったが、どれも今となっては良い思い出だ。
 一緒に登校したり、テスト勉強したり、デートしたり……。
 アルバムの中には、そんなアンナとの思い出がたくさん眠っていた。
 それらを思い出しながらページを捲っているうちに、ふと、手が止まった。
 次のページが、アルバムの最後のページである。
 高校を卒業したときの、つまり、アンナと一緒に撮った最後の写真が飾られている。
 ――何故、こんなことに躊躇しているのだろう?
 楽しい思い出の終わりを見るのが怖かったからかもしれないし、
これを見たらアンナを忘れられなくなると思ったからかもしれない。
 でも、俺は震える手でページを捲った。
 どんな理由にせよ、今更逃げたくなかったから。


 旅立つ前日、俺は図書館に来ていた。
 アンナと付き合う切っ掛けとなった、思い出の場所に。
 明日は、大学に通う為に故郷を旅立たなければならない。
 そう思うと、ここの何もかもに愛しささえ覚えてしまう。
 俺は、アンナと一緒に勉強した席に座り、思い出に浸っていた。
 窓から差し込む夕日が、館内を紅く染めた。
「あ……ヒロキ……」
「アンナ……来てたのか……」
 一人で来ていたから、アンナがいたことに驚いてしまった。
 アンナが、俺の隣の席に座る。あの時と、同じ席に。
「『もう逢わない』って約束……守れなかったね……」
「別にアンナの所為じゃねえよ……」
 アンナの方を向かないまま答える。
「ここ……思い出の場所だもん……」
「そうだな……」
「ヒロキ……本当に引っ越すんだよね……」
「ああ……」
 俺とアンナの間に、とても重苦しい空気が立ち込める。
 アンナが何かを言う度に、それらが俺にのし掛かり、
言の葉を吐き出す度に、圧迫感に押し潰されそうになる。
「私達……もう逢えないんだね……」
「……………」
 アンナの一言が、とどめをさした。
 どう答えたらいいのか分からず、辺りを沈黙が支配する。
 あまりの静けさに、刹那さえも永遠のような錯覚さえ覚える。
「ここで始まって、ここで終わるなんて……皮肉だよね……。
それとも、ずっと一緒にいられると思ってた私が子供なのかな……?」
「そんなことねえよ! 俺だって、本当は……。
でも、出会いがあれば、嫌でも別れがある。誰もそれを覆すことはできない。
だからこそ新しい出会いは新鮮で、再会を楽しみにできるんだ。
今は、別れに悲観するより、次に逢える時を願っていたいんだ」
「……じゃなかったのに」
「……………?」
「そんなこと聞きたかったんじゃなかったのに!」
 今まで聞いたことないくらい大きな声が、館内に響いた。
 それと同時に、アンナは図書館を飛び出していった。
「お、おい、アンナ……!」
 どうしたらいいかなんて分からなかった。
 追いかけて、捕まえて、その後どうするかなんて考えていなかった。
 それでも、このまま黙って座っていることだけはできなかった。


 俺は、アンナの後ろ姿を全力で追いかけた。
 俺とアンナの距離が少しずつ縮まっていく。
 まるで、二人の間にできた亀裂を埋めるかのように。
 そして、ようやくアンナの腕を掴んだ。
 適わないと思ったのか、アンナは振り解こうとはしなかった。
「ア……アン……ナ……」
 息が切れて、思うように声が出ない。
「どうして……追いかけてきたの?」
「どうしてって……」
 予想外のアンナの言動に、言葉が詰まった。
「どうして……さっきもこんな風に別れを拒んでくれなかったの?
追いかけて腕を掴んででも、別れることを拒んでくれなかったの?」
「そ、それは……」
 アンナの瞳は、一点の汚れもない切なさに満ちていた。
 その瞳に見つめられると、何も言うことができなかった。
「ヒロキが、もっと現実に抗ってくれれば良かった。
泣きながら抱きしめてくれた方が、私も楽だったかもしれない。
たとえ、それが無意味なことだったとしても。なのに……ヒロキは……」
 そう訴えるアンナの声は、小刻みに震えていた。
 春の訪れを告げる風が、アンナの長い髪を切なく揺らし、
純粋無垢な瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
 アンナの頬を涙が伝うたびに、胸の奥に裂かれるような激痛が走った。
「……もう……遅いよ……」
「……………!」
 アンナ以外の何もかもが、もはやどうでも良くなっていた。
 ただ、不器用にアンナを抱きしめ、譫言の様に何かを呟いていた。
 アンナと別れることが寂しくないわけがない。 
 簡単に現実を受け入れられるわけがない。
 それでも、俺はアンナの前では泣き言を言いたくなかった。
 アンナに傷ついて欲しくなかったから。
 俺が前向きな態度でいれば、アンナも応えてくれると信じていたから。
 でも、もうダメだ。
 アンナの暖かくて柔らかい体を抱きしめると同時に、
ずっと塞き止めていた感情が、切なさが、愛しさが、怒号の如く俺に押し寄せてきた。
 最初の一粒が零れ落ちると、もう止めることはできなかった。 
 滝のような涙が、頬を伝って、流れて、落ちた。


「ゴメン、ヒロキ……もう……いいよ……」
 俺の腕の中で、囁くような小さな声が聞こえた。
「私……怖かったんだ。このまま逢えなくなったら、
いつの日か、ヒロキが私のことを忘れるんじゃないかって……。
私ってワガママだよね……。いつか離れることも……
いずれは違う道を歩むことも……ちゃんと分かっていたのに……。
突然勝手なこと言い出して……ヒロキを困らせて……」
「アンナは……悪くないよ……」
 そう、アンナは何も悪くない。誰も悪くない。
 大切な人との別れを前に悲しまずにいられる人など、いるはずがないのだから。
 俺は、アンナの涙を拭い、もう一度だけ強く抱いた。


 いつの間にか日は沈み、漆黒と静寂が支配する住宅地を、
街灯が映し出す二つの影が並んで歩いていた。
「一緒にこの道を歩けるのも……今日で最後なんだね……」
「そうだな……」
 いつものように、二人で話をしながら帰路に着く。
 アンナの歩くペースに合わせて、ゆっくり、ゆっくりと。
 何気なく握ったアンナの手は、綿のように柔らかくて、暖かかった。
 二度と離したくないくらいに、本当に……。
「なんか……思いっきり泣いたらスッキリしちゃった」
「俺も。何て言うか……モヤモヤしていたのが取り除かれたような」
「……私達……また逢えるのかな……?」
 アンナが、遠い目で空を見上げる。
 少し冷たい夜風に、アンナの髪が美しく靡いた。
「ああ、きっと……いや、必ず」
 そう答えながら、アンナの手をギュッと握った。


「ここで……お別れだね……」
「……………」
いつも、俺とアンナが別れる場所。
ここまで来て、急に別れが辛くなってしまった。
離さなければならないと分かっているのに、どうしても手を離すことができない。
「やっぱり……簡単には無理だよね……」
「……………」
 俺の意を察して、アンナが優しく声を掛けてくれた。
「私……信じるよ。また『いつか』逢えるって。
『いつか』ってことは、ものすごく先かもしれないけれど、
もしかしたら、明日くらいに逢えるかもしれないじゃない」
「……………」
「自分でも変なこと言ってるのは分かってるよ。
でも……せめて今だけは、そう信じたいの!」
「……………」
 アンナの声は、今にも泣き出しそうなくらいに、震えていた。
 でも、アンナはそれでも現実を受け入れようとしている。
 なのに、俺だけがいつまでも嘆いているわけにはいかない。
「そうだな……また『いつか』……な」
 そう言いながら、空いている方の手で、アンナの頭を愛撫した。
 アンナの顔に、少しだけ笑みが浮かんだ。
「最後に……一つだけ約束して欲しいんだ……。
もし……また『いつか』逢えたら……その時は……」
 そう言いながら、アンナはそっと俺の手を解いた。
 そして、俺の耳元に小さな声で囁いた。
「……分かった。約束する」
 そう答えてから、そっとアンナを頭を引き寄せ、唇を重ねた。
 それと同時に、アンナ以外の全てが、意識から除外された。
 華奢な体をそっと抱きしめると、長い髪から優しい香りがした。
 腕の中で震えているアンナの全てが、喩えようがないくらい愛おしかった。
 しばらくして、顔を離し、アンナが満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ……また『いつか』逢おうね」
「ああ……『いつか』必ず……な」
 アンナが、何度も後ろを振り返りながら、小走りで帰っていく。
 俺は、アンナが見えなくなるまで、笑顔で手を振り続けた。


 長い、長い追憶が、ようやく終わった。
 理屈よりも愛情の方が大切だった頃の、不器用な恋の思い出が。
 大切な思い出は、何一つ朽ちていなかった。
 全て、俺の心の中に鮮明に残っていた。
 楽しいのも、切ないのも、全て大切で愛おしい。
 そして、その思い出達に、もうじき別れを告げる。
 未来を生きる為に。大切な人の為に。
 日の出の時が、刻一刻と迫っていた。


「本当によろしいのですね?」
「ああ……もう悔いは無い……」
 とうとう、思い出と決別する瞬間が来てしまった。
 悔いなんて残っていない。そう、悔いなんて……。
「では……目を軽く閉じて楽にしてください。
私が十数えた時には、アンナ様との思い出は全て消えています」
「分かった……」
「では……十……」
 これで……良いんだ……。
「九……八……」
 許してくれ、アンナ……。
 俺は、未来を生きなければならないんだ……。
「七……六……」
 いつまでも思い出に縋っているわけにはいかないんだ。
 アンナ以上に大切な人が、守るべき人ができてしまったんだ。
「五……四……」
 ――成功とか失敗とかじゃなくて、もっと大切な何かのために頑張りたいの!
 ――ヒロキが、もっと現実に抗ってくれれば良かった。
 ――いつの日か、ヒロキが私のこと忘れるんじゃないかって……。
 ――私……信じるよ。また『いつか』逢えるって。
「三……」
 ……今更になって、アンナの言葉が浮かんでくるとは……。
「二……」
 これで良いんだ……俺は……未来を……
「一……」
 ――もし、また『いつか』逢えたら……


「た、頼む! 待ってくれ!」
 気付けば、俺は叫んでいた。
「どうかしましたか?」
「……やっぱり……止めてくれないか……?」
「何故です? 過去を忘れれば、奥様のみを愛することができますよ?
また過去に束縛された生活に戻るおつもりですか?」
 彼が、特に驚いた様子もなく、淡々と問う。
「違う! そんなつもりはない!
確かに、俺は妻に寂しい思いをさせたくない。
そんなことは人として許されないし、夫として最低だ。
でも、俺が望んでいるのは、こんなことじゃない!
過去から逃げて、アンナを裏切って得た幸せなんて絶対に間違ってる!」
 彼とは対照的に、熱意を込めて答えた。
「……分かりました。そこまで言うのであれば……」
「すまない……自分勝手で……」
 どうしても、思い出を捨てることはできなかった。
 こんな方法で逃げてしまったら、きっと一生後悔するから。


「……知りたくありませんか?」
「えっ……?」
 彼の口から唐突に言葉が発せられ、少し戸惑う。
「何故、私が貴方のもとへ現れたか、知りたくありませんか?
……いえ、知る必要があります。知らなければなりません」
「何故って……それがお前の勤めだろう?」
「ええ、確かにそれもあります。しかし、貴方のケースの場合、
お二人の仲に決定的な亀裂が発生するまで、もうしばらくは観察する予定でした。
今回は、ある方に頼まれて、特別に予定を早めたのです」
「た、頼まれた!?」
 予想外の言葉に、驚きの言葉を上げた。
「だ……誰なんだよ? 誰がこんな事を!?」
「それは……」
 彼の言葉に、全神経を集中させる。
 心臓の音が高鳴り、手が汗を握った。
「……アンナ様です……」
「……………」
 自分の耳を何度も疑った。
 信じられない事実に、俺は言葉を失った。
「ど……どうして……アンナが……」
「これを読めば、分かると思います」
 彼は、そう言いながら、一通の封筒を差し出した。
「これは……?」
「もし、貴方が記憶を削除することを拒んだなら、これを渡して欲しいと」
 封筒には、筆記体のアルファベットで俺の名前が書かれていた。
 間違いない、アンナの字だ。
 俺は、すぐに封を切り、中身を取り出した。
 白い紙に、黒いペンで、アンナの字が書かれていた。


 世界中の誰よりも大切なヒロキへ

 ゴメンね、こんなことしちゃって。
 突然あんな選択を迫られたら、誰だって戸惑っちゃうよね……。
 でも、これを読んでるって事は、思い出を消さなかったんだね?
 私を、心の隅に置いといてくれるんだね……。
 嬉しいよ。うん、スゴく嬉しい。
 だって、世界で一番大切な人の心の中に残れたんだよ?
 これ以上幸せな事なんて、他に有り得ないもん。

 実は、私はもう、ヒロキと同じ世界にはいないんだ。
 ……って言われても、何のことだか分からないよね。
 順を追って書くから、落ち着いて読んで。

 私、念願の通訳になれたんだ。
 あの時は本当に嬉しかった。ヒロキの恋人になれた時くらい嬉しかった。
 忙しかったけど、充実した毎日だった。

 そして、あの日も、通訳の仕事で海外にいたの。
 大きなビルで、大きな企業同士の大切な話をお手伝いしていたの。
 そしたら、突然どこからか大きな爆音が聞こえて、何かが崩れる音がして……。
 テロに巻き込まれたって分かったのは、魂だけの姿になってからだった……。

 別に、未練はなかった。夢は叶えられたから。
 他にもやりたいことは沢山あったかもしれないけど、私にとっては十分だった。

 でも、たった一つ、どうしても気掛かりなことがあった。
 それが……そう、ヒロキの事。
 隠さなくてもいいよ。全部あの人に教えてもらったから。
 自分を責めなくてもいいよ。ヒロキが自分で決めたことなら、私は構わないから。

 それよりも、私の所為でヒロキと大切な人が傷ついていることが、一番ショックだった。
 ヒロキのやるせない気持ちが、私にも痛いくらい伝わってきた。
 だから、ヒロキの幸せを壊すくらいなら、私なんか忘れられた方が良いと思って……。
 本当に記憶を消してしまっても、ヒロキを恨むつもりはなかった。
 ヒロキが、本気で自分の迷いと対峙して、その結果に導き出した答えだったら。

 寧ろ、未だにヒロキに未練があるのは私かもしれない。
 でも、私は本当にヒロキが大好きだったんだよ。
 ヒロキと一緒に過ごした時間は、今でも鮮明に覚えている。
 告白した時のことも、通学路を一緒に歩いた時のことも、
一緒にてすと勉強をした時のことも、二人で遠くに出かけたことも、
修学旅行を二人でこっそり抜け出したことも、受験勉強中に励まし合ったことも、
別れの時に流した涙も、全部私の心の中に残っている。
 だから、私は強くなれる。
 ヒロキもそうなんでしょう?

 そういえば、別れるときに交わした約束、守れなかったね……。
「もし、また『いつか』逢えたら、『おかえり』って言って欲しい」って約束。
 実際に逢うことができないことだけが、唯一の心残りだよ……。
 だから、この手紙を私だと思って欲しい。
 私は、ヒロキの心の中に帰ってきたと思って欲しい。

 もうそろそろ終わりだね。
 まだ言いたいことは沢山あるような気がするけど、
ヒロキがまた大切な人を傷つけてしまいそうだから、これでお終い。
 大丈夫、ヒロキは一人なんかじゃないよ。
 互いに支え合って、共に生きていくって決めた人がいるじゃない。
 だから、私なんて気にしないで、自分の人生を精一杯楽しんで。
 じゃあ……また『いつか』。大好きな人を大切にしてあげてね。

 ずっとヒロキを見守っているアンナより


 気付けば俺の頬を滝の様な涙が伝っていた。
 それを拭いもせず、何度も手紙を読み返した。
 その度に、胸の奥が痛くなった。
 一体、アンナはどんな気持ちでこれを書いたのだろう?
 そう思うと、涙が止まらなかった。
 あいつが傍にいることなんて関係なかった。
 滝の様な涙が、頬を伝って、流れて、落ちた。


「悪かったな。取り乱しちまって……」
「いえ、お構いなく。ところで、これからどうするおつもりですか?
記憶を消さずに、どのように奥様と接するおつもりですか?」
 彼が、口調を変えず、淡々と問う。
「いつも通り……かな。今までと変わる事なんて無い。
ただ、俺はもう、『アンナの面影』を愛したりはしない。
妻を……あいつ自身を大切にするつもりだ」
 俺は、何かを悟ったかのように、静かな声で話した。
「本当にできるのですか? 奥様自身を愛することが、できるのですか?
口で言うのは簡単です。しかし、それを実行するのは、とても難しいことです。
あの時の私も……そうでしたから……」
 彼が、自嘲を込めて言う。
「ああ、できるさ。難しいことなんかじゃない。
俺が妻を本当に愛しているとしたら、必ずできることだ」
「何故です? 何故、そのようなことが言い切れるのですか?
昔愛していた人が心の中に残っているのに、今の奥様を愛することができるのですか?」
「その逆さ。アンナが心の中に残っているから、妻を大切にすることができる。
アンナがいたから、あの頃の俺が在って、今の俺が在るんだ。それに……」
 俺は、アンナの手紙を、そっと胸に押し当てた。
「アンナは、自分の前に突き出された現実を、ちゃんと受けとめた。
俺だけが逃げるなんて許されない。
いつまでもこんなザマじゃ、アンナにも妻にも顔向けできないしな。
だから、俺は変わる。いや、変わらなければならない」
 俺は、諭すように力強く言った。
 彼は、少しだけ黙って、
「その言葉、決して中途半端な気持ちで言ったのではないと察しました。
ですから、私は、もう何も言いません。言うだけ無駄でしょうから」
と、静かに答えた。
「では、私はこれで……」
 彼が、俺に背を向けた。
「ま……待ってくれ!」
 最後に、もう一言だけ言いたくて、彼を呼び止めた。
「何ですか?」
 彼が振り向く。
「そ、その……お前が来てくれなかったら、俺はずっとアンナや妻の事を有耶無耶にして、
いつまでも過去の幻影を追いかけていたと思う。
アンナの死を受け入れられたのも……。
だから……ありがとう。お前のことは、絶対に忘れない」
「『忘れない』……ですか。そんなことを言われたのは、今日が初めてですよ……。
では、恐らく二度と有り得ないと思いますが、また『いつか』会える日を……」
 彼が、ほんの少しだけ笑みを浮かべた気がする。
 その笑みは、得たモノを喜んでいる様で、失うモノを悲しんでいる様でもあった。


 気付けば、部屋には俺以外誰もいなかった。
 窓からは、始まりを告げる朝日が柔らかく差し込んでいる。
 一瞬、さっきまでの出来事を疑ったが、手に握られていたモノを見て、夢ではないと確信した。
「アンナ……お帰り」
 俺は、小さな声で呟いて、それをアルバムの最後のページに挟み、アルバムを片づけた。
 涙は、もう出なかった。
 代わりに、満面の笑みが浮かんだ。
「ただいま〜! お土産買ってきたよ〜!」
 玄関から、世界で一番愛している人の軽快な声が聞こえてきた。
 ――どうやら、相当楽しんできた様だ。
 俺は、結局一睡もできなかった目を擦り、玄関へ向かった。


「……以上で、報告を終わります」
「そうですか……。ありがとうございます」
「私は、自分の仕事をしただけです。礼には及びません」
「あの……あなたの名前を教えていただけませんか?
恩人の名前も知らずに旅立つなんて、失礼ですから」
「名前……ですか。そういえば、私にもありましたね……もう覚えてませんが」
「そう……ですか……」
「今度は、私が訊いてもいいですか?
もしも、貴女がテロに巻き込まれていなければ、彼が結婚していなければ、
貴女が彼に再び逢えたとしたら、貴女はどうするおつもりですか?」
「そうですね……『ただいま!』と言いながら抱きつくと思います。
子供と思われるかもしれませんが……それが彼との約束ですから」
「……まだ……彼のことが好きなのですか?」
「ええ。彼は本当に優しくて、私よりもずっと強くて……。
私が夢を叶えられたのも、彼が私の心を支えてくれたからです。
……でも、彼が結婚したことを咎めるつもりはありません。
……もちろん、彼と人生を共にできるなら、私はそれ意外何も要りません。
けど、本当に大好きな人が幸せになれたのなら、私はそれだけで十分です」
「……貴女は本当に笑顔が似合いますね。
そんなに幸せそうな笑顔を見せていたのなら、彼が惹かれたのも理解できます」
「あなたは……誰かを好きになったことは無いんですか?」
「……何故、私が今の仕事をしているのか、教えましょうか?
……私にも、大切な人の笑顔が、真夏の太陽よりも眩しく見えた頃がありました。
彼女が愛しくて、彼女の笑顔が永遠に続くのを、心から願っていました。
……しかし、その願いは、無惨にも砕かれてしまいました……。
あの時の彼女の表情は、胸に突き刺さって消えませんでした。
思い出す度に、全身を焼かれるような痛みに苛まれて……。
……私が最初に記憶を消したのは、自分自身でした。
もう、彼女の笑顔も声も思い出すことはできません。
しかし、それ以外に、あの苦痛から解放される術は無かったのです。
……それからです。私が今の職に就いたのは。
……教えて下さい。どうすれば、私は彼女の笑顔を守ることができたのですか?」
「……私には詳しい事情は分かりませんが……
二人の距離が縮まれば縮まるほど、それが当たり前のように感じます。
だからこそ、すれ違ったり離れたりした時の喪失感は大きくて、とてもやりきれない気持ちになります。
……そういう時は、無理に全ての現実を受け止めなくても良いと思います。
ちょっとくらい自分に嘘を吐いても、夢を見ても、許されると思います。
私も……そうでしたから……。
自分に甘えてると思いますか? 逃げてると思いますか?
でも……彼は許してくれました。一緒に自分に嘘を吐いてくれました。
たとえ物理的距離が離れても、心が繋がっていれば、それは立派な恋人なんです」
「……そう……ですか……。……分かりました。では、私はこれで……。
……そういえば、一つだけ思い出しました」
「……………?」
「私が愛した人は……貴女によく似ていました」
2004-08-20 18:31:18公開 / 作者:月明 光
■この作品の著作権は月明 光さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めまして。月明 光と名乗っている不束者です。

この作品は、「思い出は憎む為のモノではなく、縋る為のモノでもない」
というテーマのもと、10ヶ月かけてじっくりと書き上げました。

書き上げてから言うのもなんですが、
自分で100%納得できるかと聞かれたら、正直自身がありません。
まだどこかツメが甘いような、そんな気がします。
この作品と共に成長できれば……などと考えています。

もしよろしければ、批評感想等を書いていただければ幸いです。
この作品に対する感想 - 昇順
初めまして、疾風と名乗っている不束者ですw 読ませていただきました。記憶、とか、思い出とかには、自分は大変惹かれます。とても良い物を読んだ気がします。自分にはこれくらいしか言えません(苦笑) 月明光さんの次回作を書かれるのでしたら、頑張ってくださいw期待しています
2004-08-22 18:54:03【☆☆☆☆☆】疾風
計:0点
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