『春風に遊ばれて (完結)』作者:名も無き詩人 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角38782文字
容量77564 bytes
原稿用紙約96.96枚
※注意事項※
 ?この物語は『春風に遊ばれて』を再編集したもので、
 【出会い編】【デート編】【雨のち涙編】の全三章で構成されております。

 ?この物語は『表月 〜偽りの仮面〜』とは違い、グロイ表現等は含まれておりませんので安心してお読みください。

 ?彼らは小学五年生です(笑。



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【出会い編】

 退屈の日常。変わり映えのない世界。一日一日が何の代わり映えもなく流れていく。
 世の中の人はそんな毎日をくり返し歳をとっていく。だから僕もそうやって歳を取っていくと思っていた。
 だけども、僕は思い違いをしていたんだ。その事を後になって思い知る事になる。


 あれはまだ春のサクラのにおいが感じられる季節だったと思う。
 僕は新学期を迎えるにあたって、文房具を買いに、友だちとよく行く文房具屋に向かった。

 財布には五百円玉と百円玉が三枚、それに十円玉が数枚入っている。
 それをお気に入りの財布に入れて、肌身離さず手で握っていた。

 このお気に入りの財布は叔母に買ってもらったもので、黄色い縁の青い財布であり、
 買ってもらった当時からずっと使っている一番の宝物である。

 文房具屋に着くと、まずはノートを探し始めた。
 最近ではキャラクタもののノートが流行っているらしく。
 友だちの何人かも自慢そうに見せびらかしていた。
 だから、僕も好きなキャラが描かれているノートを探していた。

 一段目は淡いブルーのノートで何か文字が書かれている大人風のノートだ。
 二段目も同じ風のノートだがリング付きであった。
 そして、三段目にやっとお気に入りのキャラの絵が見えた。

 それは、子供から見たらまるでヒーローの様な格好をしたキャラが剣を掲げている絵だ。
 僕はそのノートを手に取ろうとしたとき、横から乱暴にそのノートを取ったヤツがいた。

「あった。あった。探してたんだよな」

 僕よりも背が高く体がでかい少年が僕の見ている目の前でそのノートを手に取った。
 僕は恨めしそうに少年を見上げた。

「何だよ。お前もこれ欲しかったのか? でも残念だったな。早いものがちだからな」

 少年はいやらしい笑みを浮かべてノートをレジに持っていった。
 僕は再び三段目を見るが。あれが最後の一冊だったのか。あのキャラの顔はどこにもない。

 がっくりと肩を落とし、仕方なくその隣にあったブルーの花の絵が描いてあるノートを買った。
 百円玉を二枚だして、おつりが十円玉二枚帰ってきた。

 おつりを財布に入れてノートを抱え文房具屋を後にする。
 先ほどの嫌な出来事を振り払うために、僕は帰りがけに公園によることにした。

 僕の家の近くには森に覆われた大きな公園がある。
 公園の中には、林に囲まれてジョギングできる所や夏になると開かれるプールなどがあった。
 今は四月なのでもうすでに何本かの桜の木が花を咲かせていた。

 僕はサクラ道を通り抜け、脇道に入る。
 その脇道は人が一人通れる位の幅でとても狭い。
 けれども、そこを抜けると壮大な景色が目の前に現れた。

 そう、ここは僕の秘密の場所。丘の上にあるこの公園のとっておきの場所なんだ。
 たぶん、知っているのは僕だけしかいないと思う。友だちにも教えたことはない。そんな場所だ。

 僕は近くの木にもたれかかり、先ほどの嫌なことを忘れるため一万円の景色を楽しんだ。
 ちなみに、一万円の景色と命名したのは僕だ。

 なぜ一万円かって、それは僕が貰った小遣いの中で一番高い金額だからだ。

 そして、小一時間経った頃、嫌なことも綺麗さっぱりしたので家に帰ることにした。
 そんな時、ふと気づいた事があった。僕のズボンのポケットに財布が入っていないのだ。

 もう一度確認したがポケットから出てくるのはゴミだけで、いくら探しても財布は出てこない。
 僕の顔がサッと真っ青になる。僕はすぐさまここから文房具屋までの道のりを戻り始めた。

 まずは、細い脇道から探し始める。脇道の地面をくまなく探したが財布は見つからなかった。 
 次にサクラ道に出てもう一度地面を探したがやっぱり財布の姿はなかった。

 そんな時、いきなり風がビューッと吹き、地面に落ちていた花びらが再び息を吹き返し、空に舞った。
 そして、そのサクラが舞い落ちる中に一人の女の子が立っていることに気が付いた。
 女の子は大きめの真っ白い帽子を被り。その帽子を風で落ちないように必死で押さえていた。

 それと同時に女の子が着ているワンピースの中を春風が通り抜け、まるで花びらの様にスカートが膨らんだ。
 まるでおとぎ話でも迷い込んでしまったと思い、僕は一瞬呆けてしまった。

 春風の悪戯も収まり、女の子は服に付いたサクラの花びらをはらう。
 そして、僕の存在に気が付いた。女の子は少しぎこちなく笑い、サクラ道の奥へと消えていった。

 僕は息を飲み女の子の姿を追いかけていた。何だか初めて感じた気持ちだった。
 何故か心臓が痛いほどドクドクと脈動していた。
 けれども、その痛みは辛いと言うよりも心地よい感じがした。
 この時の僕は、今日あった嫌な事や財布を無くしてしまった事さえも忘れていた。
 季節は春。まだまだ、サクラが咲き始めた頃。僕はその少女と出会った。


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 このお話しは男の子と女の子の出会いの物語である。
 先に断っておくが剣や魔法が飛び交うお話しでもなく、奇妙な殺人事件に巻き込まれるお話しでもない。
 ただただ、日常の中で描かれていく二人の物語である。

 ほかの人に取っては何の変哲もない退屈な出来事だけど。
 僕らに取って、それはかけがえのない出来事だったんだ。


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『キ〜ンコ〜カ〜ンコ〜キ〜ンコ〜ンカ〜ンコ〜』

 放課後を告げる鐘の音がし、皆一斉に挨拶をする。

「先生さようなら」

 教壇に立つ先生はそれを聞いて教室を出た。

 僕以外の奴らは皆一様に放課後の予定を話し始めた。
 まあ、僕にはあまり関係のない話だ。僕は教科書をランドセルに入れて背中に背負った。
 その後教室を出ようとしたとき、突然後ろから声をかけられた。

 僕はまさか声をかけられるとは思っていなかったので、一瞬何を言われているのか分からなかった。

「おい! 大喜。お前も俺たちとサッカーしないか? 人数が足りなくてさ」

 さわやかな笑みを浮かべ彼は僕に言った。

「いや、僕はいいよ」

 僕は素っ気ない態度を取ってそのまま教室を出た。後に残された少年達はヒソヒソと話し始める。

「あいつさ。いつも一人でいるよな。友だちいないじゃない?」

「案外そうかもよ。それにあいつ、母子家庭なんだって」

「母子家庭?」

 ちょっと小柄の少年が聞く。

「ああ、あいつ父ちゃんいないんだとよ」

「かわいそう」

「ああ、確かにかわいそうだな」

 その中一人だけ話しに加わっていない少年がいた。

「俺はそうは思わないな。『かわいそう』っていうのは自分より弱い立場のものにいう言葉だ。
 少なくともあいつはお前らより弱くない」

 少年はそう言うと腰掛けていた机から降りる。

「まあ、いいや。それよりも、数は足りないけどサッカーやるか」

 そう言って少年達は教室を後にした。

 その頃、僕は教室を出て図書室へと向かっていた。
 この学校の図書館は結構広い作りになっており。
 それに、小さな子供や老人までもが利用できる用になっている。僕はカウンターの人に声をかけた。

「あら、大喜君」

「こんにちは野々村さん」

 僕は軽く会釈をする。野々村さんはここの図書館を管理している司書さんで、
 いつもみんなが楽しく図書館を利用できるように管理している人なんだ。
 学校の生徒にも人気があって。特に男子に人気がある。

「そうそう、大喜君が予約してたアレ届いてるわよ」

 野々村さんはにこりと笑って後ろの棚から一冊の本を取り出す。

「それにしても小学生五年生にはちょっと難しい本よ」

「いいんですよ。その本で」

 僕は図書カードを入れる袋を取り出す。野々村さんから本を受け取り、図書カードに名前を書く。
『鳴海大喜』っと。しっかりとした字で。僕は図書カードを袋に入れて野々村さんに渡した。

「分かったわ。本当は小学生に、貸しちゃいけないんだけど。内緒よ」

 野々村さんは片目をつぶってウインクした。僕はこくりと頷くと。
 ランドセルに借りた本を入れ、図書室を後にした。校舎の中はすでに人の姿はなく。
 下駄箱も人の姿はなかった。

 僕は靴箱から靴を取り、上履きを靴箱に放り込んだ。
 外は夕暮れに染まり、昼の景色とは別の顔を覗かせる。
 それもほんの一瞬の間だけの景色。

 僕は学校を出ると急ぎ足で公園へと向かった。あそこからの景色は今の時間が一番綺麗なのだ。
 これを逃すとまた明日までお預けになってしまう。これが僕の学校帰りの日課なんだ。

 商店街を抜け、団地を通り抜ける。日は少しずつ傾きかけてきた。
 僕はとっておきの近道を抜けることにした。

 そこは、少々入り組んでおり小さい家が建ち並んでいるところなので、迷いやすい。
 しかし、僕はその道を完璧に把握し、公園への近道を発見したのである。
 名前をスターロードと名付け。僕だけの近道として使っている。
 また、公園への近道の他に商店街への近道もあり、何かと便利に使っていた。

 僕は空を見て走るペースをあげる。二つに分かれた道を左に曲がり、突き当たりを右に。
 そして、見えてきた長い階段を一気に駆け上がった。

 僕は息を切らせながら全力で登った。
 やっと階段のてっぺんまで来るとさわやかな風が吹き、身体の熱を冷ます。

 僕は額の汗を拭い去り、再び走り出そうとした。

 その時、突然強い風が吹いた。
 そして、女性の叫び声が聞こえ。
 何か丸くて白いものが僕の頭に降り立った。
 よく見るとそれは白い帽子だった。

「それ、私の帽子‥返して」

 僕の目の前に白ワンピースの女の子が顔を赤らめて言う。
 僕の心臓は飛び上がる。目の前に立っていたのは昨日見たサクラ道の少女なのだ。
 いつまで経っても僕が帽子を返さないので少女は僕を睨み付ける。

「あ、ゴメン。えっと‥‥」

 僕はうまく回らない口で帽子を少女に返した。
 少女は帽子を受け取るとすぐに頭にかぶせる。
 僕は周りがすでに紅く染まっていることに気づいた。
 まずい、そろそろ時間だ。僕はとっさに彼女の手を取り駆けだした。

「ちょっと、何するのよ!」

 少女は僕に向かって怒鳴り散らす。僕はそれを無視してサクラ道を通り抜け、脇道に入った。
 そして、目の前に広がる壮大な景色を見て、少女の怒鳴り声は収まった。

 その景色とは真っ赤に染まる町の景色。
 ビルや家全てが紅い絨毯に敷き詰められ、何もかもが別の景色として目に映っていた。
 その後、日はだんだんと傾き、紅い色は元の町の色へと戻っていき、
 全ては幻だったとさえ錯覚させるほどの短い景色を見せてくれた。

「ねえ、そろそろ手を放してくれない?」

 少女がそう言って初めて気が付いた。僕はずっと彼女の手を握りしめていたのだ。
 僕はすぐに手を放した。少女は両手で帽子のつばに触れ、僕に背を向ける。

 数秒が経った後、ふりかえり僕の顔をのぞき込む。僕はドキドキしながら少女の瞳をのぞき込む。
 少女の瞳は帽子のせいでよく見えなかった。彼女は僕に向かっていった。

「あなた名前は?」

 少女の良く通る声が僕の耳をくすぶる。

「えっと、僕は鳴海大喜」

 僕は大声で自分の名前を言う。

「大喜君か‥‥あたしは優花‥‥風見優花よ」

 そう言うと少女は僕の後ろを通り抜けて脇道へと消えていった。
 僕は慌てて彼女の後を追おうとした。

 すると、いきなり強い風にあおられて目をつぶってしまう。
 次に目を開けたときにはすでに脇道には彼女の姿はなく。
 急いでサクラ道に戻っても彼女の姿はなかった。

「‥‥‥風見優花か」

 僕は彼女の名前を何度も何度も繰り返し口にし、帰路につくのであった。


 これが僕と彼女、風見優花との二回目の出会いであった。
 そして、この後彼女はとんでもない形で僕の前に現れるのであった。


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 人によっては一日は短いと感じるかも知れない。
 それに、一年間で考えたら365日もあるし、人間の一生で考えたら約29200日ある。
 だから一日は短いと言えるかも知れない。でも、この日はそんな短いと思える一日とは違ったんだ。

 僕に取っては本当に長い長い一日になった。その日は何の変哲もない良く晴れた日の出来事であった。


 僕の学校では月曜日の朝には必ず朝会が開かれていた。
 その日は四月だというのに太陽がぎらぎらしていて、汗が噴き出るくらい暑く、
 みな、校長先生のだるい話しにうんざり顔だった。
 ちなみに僕もけだるさを隠せなかった。

 そもそも、何で毎週毎週校庭に列んで校長先生の話を聞かなきゃならんのか不思議でしょうがなかった。
 別に校内放送でやってもいいし、それがダメならプリント等でありがたい話し
(僕はそうは思わない)を載せればいいのだ。

 今はまだ四月だからいいけど。これが七月になると最悪。熱射病で倒れるヤツが続出する始末。
 去年は八人くらいは倒れたと思う。

 それでも、学校と言うのは不思議なものでこういった規律は変えないのである。
 僕にはそれが不思議でならなかった。もっとも、小学生である僕が先生達に意見を言える訳もなく。
 そんな度胸もなかった。校長先生の挨拶が終わり、皆の顔はパッと明るくなった。

 僕らは一年生から順に校舎に入り、僕たち五年生も教室へと向かった。
 教室に入ると机に横になる連中が続出。そして、すぐに担任の先生が入ってきた。

「おっし! みんな揃ってるな」

 上はTシャツ、下はジャージの体育会系の担任が入ってきた。

「今日はみんなに良い知らせがある。なんと、うちのクラスに転校生がきたぞ」

 先生が合図をすると教室の扉が開いて一人の女の子が入ってきた。
 彼女は白いワンピースを着ており、肌も白く透けていた。
 それに腰まで長い髪が歩くたびに揺れていた。

 彼女は教壇の上に立ち、黒板に自分の名前を書いた。
 『風見優花』と書かれた黒板の字に僕は仰天して立ち上がってしまう。

「お! 鳴海、どうした?」

 先生が僕に尋ねる。

「いえ‥何でもありません」

 僕はそう言って席に座った。

「それじゃあ、自己紹介を」

 先生がそう言うと優花は凛とした顔をする。

「えっと、両親の都合で最近この町に引っ越して来ました風見優花といいます。
 みなさんよろしくお願いします」

 そう言って彼女の白い笑みが光った。

「うおおおお!!!」

 みな一斉に声を上げる。僕はあっけにとられていた。
 まさか彼女が転校してくるとは思っても見なかったからである。

 そんな、僕の心を見透かしてか、優花は僕の視線を見て再び笑みを浮かべた。
 僕の顔が一気に熱くなる。ちなみに、僕の事はお構いなしに、クラスから優花への質問タイムに映っていた。

「一つ目の質問。風見さんはどこに引っ越してきたの?」

 学級委員がまず最初の質問を投げかけた。

「えっと、丘の上にある大きなお屋敷よ」

 その答えに皆大声を上げる。

「俺知ってる! 確かあの屋敷すっげ〜でかいんだぞ」

 一人の少年がそう言って声を荒げた。

「じゃさあ、お父さんとかって何してるの?」

「うん。パパは飛行機のパイロット」

「すっげ〜」

 優花がそう言うと男子は一斉に声を上げた。

「おい! そろそろ授業を始めるから質問タイムはそれまで」

 先生の言葉に男子は文句を言うが先生のにらみで押し黙る。

「それじゃあ、風見さんの席は………」

「あ、先生。私は彼の隣でいいです」

 そう言うと彼女は僕の隣を指さして言った。

「鳴海の隣か…まあいいだろう」

 優花は僕ににっこりと微笑み小さな声でいった。

「来ちゃった♪」

 彼女はそれだけを言うと席に座る。そうして、一時間目の授業が始まった。


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 一時間目の授業は算数で、小数のかけ算とわり算の勉強だった。
 先生は黒板にいくつもの数字を書き、説明する。

 僕はとりあえず、授業内容をノートに書き出そうとしたところでふと手を止めた。
 何故か隣の彼女が僕の事をじっと見つめているのだ。僕は少し考えてポンと手を打った。
 僕が先生にその事を伝えようとすると、彼女の右隣の人が先生にいった。

「先生! 風見さんが教科書が無いようなので見せてあげたいんですが」

「あ、すまんすまん。風見さんはまだ教科書が無かったんだな。それじゃあ、学級委員たのむよ」

 学級委員は『ハイ』っと返事をして机をつなげようとした。
 しかし、優花はにっこりと立ち上がり、やんわりとした笑みで言う。

「すみません。私、彼に教科書を見せて貰いますから」

 それを聞いて学級委員はむっとした表情になるがすぐに席に座った。

「それじゃあ、鳴海頼むよ」

「はっ、ハイ」

 僕はとっさに答えた。僕は渋々彼女の机に自分の机をくっつけた。みんなの視線が少し痛かった。

「あなたがさっさと私に教科書を見せないからこうなるのよ」

 彼女は怒った風に言う。僕はちょっとむっとするが、彼女の顔が目の前にあるのですぐに顔を背けた。

「まあ、いいわ。次からはちゃんとエスコートしてよね」

 そう言って彼女は僕の教科書を机と机の間に乗せた。
 授業は淡々と進み、先生が教科書の問題を書き写した。

「え〜と。誰かこの問題解けるか」

 先生がそう言うと皆一斉に先生の視線から目をそらす。
 僕はというと一瞬目をそらすのが遅れた。

「おっ、鳴海。目があったな。それじゃあ、答えてみろ」

 僕は顔をしかめた。はっきりと言って僕は算数はあまり得意な方ではなく。
 特に小数は苦手な部類に入る。小数点の位置が嫌いでよくその場所を間違ってしまう。
 僕がじっとたたずんでいると隣の彼女が僕にそっとノートを見せた。

『0.87×0.48=0.4176』
 と書かれていた。

「0.4176です」

「おお。良くわかったな」

 皆の顔が一斉に僕の顔に注目する。先生はその問題の説明を始めた。

「ありがとう」

 僕は小さな声で言ったが、彼女はそれには気づいていないのか黒板の字をノートに書き写していた。
 僕もとりあえず授業に集中することにした。

 そんな二人をじっと見ている者がいた先ほど優花に拒絶された学級委員だ。
 彼女はずり落ちたメガネを元の位置に戻す。

 その顔からは不満全開であり、怒りにも似た形相である。
 もっとも、彼女の顔はいつもむすっとしているので、
 はたから見たらたいして変わっていないようにも見えた。

 授業も後半になると集中力は途切れ、だらけ始める。
 そして、一時間目の終了を告げるチャイムが鳴る。

「んじゃ、一時間目の授業は終わる。次は理科室で実験だからな。遅れるなよ」

 先生はそう言うと教室を後にした。優花は席から立ち上がり言った。

「次の時間は理科みたいね。じゃあ、理科室まで私を案内してよ」

 彼女はそう言うと、僕の手を取りすたすたと歩き始める。

「ちょっと、待ってよぉ〜! 僕まだ準備してないんだよ」

 僕は悲しい叫びをあげたが、彼女はそんなことお構いなしにぐいぐいと僕を引っ張る。
 僕は抵抗するすべもなく彼女を理科室まで案内するはめになる。
 そんな二人が出て行くのを一人の少年と先ほどの学級委員が見ていた。

「あいつも、なかなかやるな〜」

 にやにや顔の少年は机に乗っかり学級委員に向けていった。

「何にやにやしてるのよ!」

 学級委員の少女は少年を睨み付ける。
 その睨みに怖じけることもなく少年は更に口を開いた。

「やれやれ、こっちは機嫌が悪いときたか。まあ、俺には関係ないことだけどね」

「ええ、関係ないわよ。守には関係ないんだから」

「まあ、お節介ついでに言っておいてやるよ。
 理津子、ぐずぐずしていると転校生に先を越されるぞ」

 守と呼ばれた少年はそれだけを言うと教室を出て行った。

「そんなこと分かっているわよ」

 理津子と呼ばれた少女は誰に言う出もなく小さく呟いた。


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 うちの学校の校舎は最近建たれたばかりのコンクリート製だ。
 昔は木造建てだったそうだが時代の流れと共に立て直されたのだと言う。

 コンクリートの壁に覆われた廊下はひんやりとしており、僕の熱を冷ます。
 僕は前を歩く少女に顔を向ける。彼女の整った顔立ちが周りの冷たさを和らげている。
 僕がそんな事を思っていると気づいたのか。彼女は立ち止まり僕の方に振り向いた。

「理科室はどっちよ?」

「えっと‥‥‥こっちだと逆方向だよ」

 それを聞いて彼女は僕の頭をこづいた。

「そう言うことは早く言いなさいよ」

 僕は頭を押さえる。彼女は口をとがらせたまま、僕の手を強引に引く。
 彼女の細い腕のどこにそんな力があるのか不思議だった。何故か僕は抵抗しようとは思わなかった。

 むしろ幸せを感じ、顔が自然とゆるむ。
 他の人から見たら気持ちが悪いと言われるかも知れないが、
 僕にとってはそれは久しぶりに感じた幸せだった。

「ところで、風見さん。どうしてこの学校に?」

「言い忘れていたけど、私のことは優花でいいよ。
 その代わり、あなたの事も大喜君って呼ばせて貰うから」

「分かったよ。えっと、優花はどうしてこの学校に? 
 確かあの屋敷からだとこの学校の学区外だったと思ったけど」

 僕は疑問に思ったことを優花に尋ねた。

「それは‥‥秘密です」

「え〜。それはないよ」

「ところで大喜君。あの部屋は何?」

 彼女は大きめの扉を指して言う。

「ああ、あそこね。確か今は使われてない教室だったと思うよ」

「ふ〜ん。ちょっと覗いて見ない」

「えっ、でも、もうそろそろ授業始まるよ」

「あ、恐いの?」

彼女はジーと僕の顔を覗く。

「べ、別に恐くないよ」

「じゃあ、行きましょうか」

 優花はそう言うと教室の中へと入っていった。その教室の中は薄暗く少し埃くさかった。
 中を見渡すと去年運動会で使われたくす玉や獅子舞などが置かれていた。
 どうやらこの教室は物置に使われているみたいだ。よく見ればどれも見たことがあるものばかりであった。

「どうやらこの教室は物置として使われているみたいだね。さてと、そろそろ授業に戻らないと」

 僕は教室を出ようとすると何故か扉が開かなかった。

「ねえ」

 彼女は小さな声を言う。

「あなたはどうしてあの時、私をあの場所に連れてきてくれたの」

 そう質問されて僕は一瞬固まるが、思いきって答えた。

「いや、別に深い意味はないよ。ただ、僕の好きな景色を君に見せたかっただけだよ」

「ふ〜ん。そうなの‥‥ならさっきの質問にも答えてあげる」

 彼女は近くのマットの上に座る。僕も助けが来るまで待つことにした。

「本当を言うと。私、この学校に入るはずじゃなかったの」

「じゃあ、何でこの学校に」

「ふぅ〜。君はちょっと鈍感なのかな」

「どういう意味?」

「私はね。あなたがこの学校を通っているからこの学校に来たのよ」

 僕は唖然とする。

「まあ、男の子はちょっと鈍感なぐらいが、ちょうどいいのかもね。
 だから許してあげる。その代わり‥‥」

「‥‥その代わり?」

「私をどこかに連れて行って。どこでもいいから」

 彼女はにっこりと微笑む。僕はそんな彼女の微笑みに顔を赤らめる。

「‥‥無理かな?」

「いや、無理じゃないさ。そうだな今度の休みにもっと凄い景色を見せてあげるよ」

 僕は彼女の笑顔をもっと見たくそう言った。

「うん、期待している」

 僕と彼女の会話が終わった頃、いきなり教室の扉が開いた。

「こんなところにいたのか。大喜。探したぞ」

「守か。助かったよ」

「ここの教室の扉、立て付けが悪くさ。開けるのにコツがいるんだよ。
 お前も災難だったな。まあいいや、風見さんも一緒みたいだし。理科室に戻るよ」

 そう言って守は教室を出て行った。その後僕らは先生に事情を話し、授業を受けることにした。
 その後の授業は何のトラブルもなく、給食の時間となった。

 この学校の給食はよく考えられて作られており、生徒達にも評判である。
 今日の献立はクリームシチューとパンそれにコンソメスープという洋風となっていた。
 僕のクラスでは。給食の時間、いわば戦場と同じ場所になる。

 先生と早食い競争を挑むヤツや、昼休みをできるだけ長く取りたいため、速攻で食べるヤツもいる。
 あまり良い食べ方ではないのだが、このクラスではそれが当たり前だった。

 ただし、それにもルールがあり、先生の合図と共に食べること、
 他の人の迷惑になることはやらないこと、食べ物をこぼさないことなどのいくつかの制約があった。

 皆それを守り毎日激しいバトルが繰り広げられていた。
 ちなみに、僕はそんな下品な食べ方はしない。

 もちろん、休み時間は多く取りたいが、そのために早食いをするつもりはない。
 それに早食いをすると満腹中枢が満足されず、すぐにお腹が空くのである。
 それは非常に効率の良くないことである。

 美味しいものを良く噛んで食べることは、満腹中枢を満足させると同時に顎を発達させるので肥満になりにくい。
 もっともこういう事を知っている人はいないだろう。

 僕だって母さんが看護婦で、そう言った知識を聞かされていたから実行しているに過ぎない。
 だけども、僕はそれが正しい食べ方であると確信していた。母が言うことは間違いないのである。

 さてと、どのクラスも同じなのだが給食時は机をくっつけて、いくつかの班に分かれて食べる。
 ちなみに僕の班は僕を入れて四人いる。いや、前は三人だったのが優花が入ったことで四人となった。


 まずは、僕の左前で黙々とスプーンを動かすメガネの少女。
 彼女がこのクラスの学級委員、岡崎理津子。このクラスを仕切っている女子である。
 いつもいつもムスッとしているので給食中も話しをしたことはないし、
 僕の事を睨み付けてくる女の子である。


 お次は僕の隣でパンをちぎってそれをスープにつけて食べている。
 変わった食べ方をしている少年、琢馬守。このクラスで一番の実力者。
 成績もトップクラスでスポーツも万能。顔も格好良くクラスの女子にも人気がある。
 ただし、性格が非常に特殊で一癖もふた癖もあり、世間で言うところの変わり者である。
 何故か僕の事をかっており、僕に何かと話しかけてくる。
 岡崎理津子とは幼なじみらしく何度か二人でいるところを見たことがある。


 まあ、ちょっとした問題児が集まった班である。
 先生も初めはこの班に優花を入れるか迷っていたみたいだが、
 優花が僕と一緒が良いと言ったので先生も無理に変えようとはしなかった。

 もっとも、そのせいでクラスの男子の目が僕を睨んでいるような気がしたが、とりあえずそれは無視した。


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 給食を食べ終わった頃、僕は優花にせかされてながらも、校舎の案内をすることになった。
 そこで、僕が最もお世話になっている場所に連れてくることにした。その場所とは‥‥。

「うっわ〜。凄い数の本っ!」

 優花は目を輝かせている。どうやらこの場所が気に入ったみたいだ。

「あら、大喜君。その子は?」

「あっ、野々村さん。えっと彼女は今日転校してきた風見優花さん」

 そう言われて優花はぺこりとお辞儀した。

「あら〜かわいいこね。大喜君のこれ?」

 野々村さんは歯を浮かせて笑い、小指を立てる。

「ちっ、ちが‥‥」「はい、私たちラブラブです」

 優花は僕の腕にからみつく。僕が否定する前に優花は先手をうったのだ。

「あらあら、見ていて微笑ましいわね。どうやらお邪魔みたいだから、私はこれで」

 そう言うと野々村さんは図書館の奥へと消えていった。
 そんな三人のやりとりを見ている者がいた。それも二人もだ。

「‥‥‥まるで恋人みたいだな」

「何で私に向かって言うの」

「いや、特に意味はない」

「だったら言わないでよ」

「いや、恋人になるのも時間の問題だな」

「‥‥‥‥」

「積極的な転校生と引っ込み思案なお前じゃな。勝負は見えているよ」

「‥‥‥‥」

「じゃあ、俺行くわ」

 そう言うと少年は図書館を出ようとする。
 だが一歩前に出ようとすると服を誰かに引っ張られた。

「何だよ。言いたいことがあるならいえよ」

「私だって‥‥好きだもん」

 少年は頭をかく。そして、ひらめいた。

「しかたねえな。俺が人肌脱いでやるよ」

 そう言って少年はにっこりと微笑んだ。少女の顔からは笑みがあふれた。

「じゃあ、計画を話すからな‥‥」

 そう言って少年は彼女の耳に口を当てた。

「というわけだ。やれるな」

 少女はこくりと頷き、少年の顔をのぞき言った。

「‥‥ありがとう。守」

「お礼なんていい。俺はお前の幼なじみだからな」

 少年は照れながら図書室を後にした。そんな彼を見て少女も笑った。


 そんな計画が進行しているとは思わずに僕はのんきに優花の案内を続けていた。
 そして、そろそろ昼休みが終わろうとしていた。

「次の授業は体育か」

 僕は憂鬱な顔になる。

「‥‥大喜は体育嫌いなの?」

「う〜ん。嫌いっていうかさ。ちょっとね」

「?」

 そんな僕の顔を見て優花はハテナマークを浮かべていた。
 さて、僕が何故体育が苦手かというと、別に運動が嫌いという訳ではない。

 走ったりすることは結構好きな方である。球技も上手ではないが好きである。
 だが、そんな授業だからこそ意識してしまうことがあった。

 それは、女子の姿である。この頃になると女子の体型が著しく変化を来す。
 それも、体操服という薄い生地ではっきりといって身体の体型が丸見えなのである。

 小学五年生になると身体の変化が早いヤツは胸が大きくなり、お尻も出っ張ってくる。
 それに、気持ちがわるくて体育を休むヤツも出てくる。
 まあ、そんなヤツはごく稀だが、こういった期間は男子にとって興味の対象になるのである。

 女子にとっては嫌な気持ちになるだろうが男子にとってはドキドキの対象なのであった。

 僕は何が言いたいかというと体育の授業は男女同じ教室で着替えをする。
 以前だったら意識しなかったのにこの時期になると胸だとか気になり出す。

 別におかしいことでも何でもないのだが、
 男という生き物はそう言う風にできているんだと母はよく言っていた。

 そう言われているからと言って納得できる訳もなく。
 僕は早く着替えて教室を出ることにしている。
 しかし、今回はそうもいかなかった。
 何故ならば彼女が優花がいたからである。

 優花は何かと僕に自分の身体を見せようとする。
 特に胸を見せてくるのだ。彼女の胸はうちのクラスのどの女子よりも大きく形が良かった。
 それは、本来の男だったら嬉しい光景なのだが、僕はまだ小学五年生。

 顔を真っ赤にして黙々と着替えて教室を後にした。
 そして、下駄箱で靴を履き替えているとき、後ろからポンと肩を叩かれた。

「よう!」

「何だ‥守か」

「つれない顔するなよ。ところでさ、先生がお前に体育倉庫にあるボールを運んでおけって言ってたぞ」

「ふ〜ん。分かった」

 僕はそう言うと靴を履き替えて体育倉庫へと向かった。
 うちの学校の体育倉庫は校舎裏にあるプールのすぐ横にある。
 ちょっと古ぼけているがしっかりとした作りになっているところだ。
 僕は倉庫の中に入るとそこには先客がいた。

「何だ。岡崎さんか」

 僕は彼女の脇を通りボールの入ったかごを取り出した。

「岡崎さん。授業始まっちゃうよ」

 僕はそう岡崎さんに言ったが彼女の反応は無かった。
 少し不気味に思ったので倉庫を出ようとした。
 その時、急に手を引っ張られた。

「待って」

 僕の手を汗ばんだ彼女の手が掴んだ。

「えっと‥‥」

 僕は何とも言えない顔になる。

「わ、私‥‥鳴海君のこと‥‥」

 僕はごくりとつばを飲む。倉庫の中が何故か暑苦しい空気に変わる。

「えっと、その‥」

 いつも僕が知っている岡崎さんの態度がどこか変だった。
 ムスッと僕の事を見ているのに、今日はどこか違っていた。

「‥‥‥‥」

 授業が始まるチャイムが鳴った。そして、辺りが急にシーンと静まり変える。
 僕はこの張りつめた空気を和らげるために声を出そうとした。
 けど、それよりも前に彼女の口が動いた。

「好きです‥‥‥私、鳴海君が好き。それだけ言いたかったの」

 そう言うと彼女は真っ赤な顔をして僕の脇をすり抜ける。
 僕はポカンとバカみたいに口を開き、彼女を追うでもなく
 ただただ、呆然としていた。

 いきなりの告白に戸惑っているだけなのかもしれない。
 僕は思い出したようにボールのかごを取り出し運動場へと走り出した。

「どうだうまくいったか」

 守はにやりと笑い言う。理津子は顔を真っ赤にしてこくりと頷く。
 そして、守の脇を通り抜けた。

「そうか‥‥」

 守はすぐに真顔に戻り、理津子の背を見つめていた。

 その後の授業はどこか上の空だった。
 自分の取り巻く世界がいきなり変わり、どこへ行ったらいいのかさえも分からない状態。
 物語風で言えば、旅人といった感じだろう。

 いや、旅人はどこかの目的地を持っているだけましかも知れない。
 僕の歩く道は未だ霧に包まれている状態で迷い道。
 僕はもう一度ため息をついた。僕が元気がないせいで優花も僕を心配していた。

「大喜君。元気ないね」

「はあ〜」

 僕はもう一度ため息をついた。

「ねえねえ、大喜君。ため息を一つ吐くと幸せが一つ逃げちゃうんだよ」

 優花はにこり顔で僕の顔を覗く。そして、僕は初めて気が付いた。
 いつの間にか先生の挨拶も終わり、周りには人の姿がなかった。

 どうやら、ずっと考え事をしていたので周りのことに気が付かなかったみたいだ。
 僕はカバンに教科書を詰め込み。帰る準備をする。

 その横で優花はにこにこしていた。
 そして、教科書をしまった後、彼女は僕の腕を掴み走り出した。

「ねえねえ、早くあの場所に行こう」

「あの場所?」

「ぶうぶう、もう忘れちゃったの? 私に昨日見せてくれた場所だよ」

「ああ、一万円の景色ね」

「一万円の景色?」

「うん。僕がつけた景色の名前。僕が貰った小遣いで一番高い金額なんだ」

「何か変な名前!」

「変かな?」

「変だよ。私だったらもうちょっと格好いい名前にするな」

「例えばどんな?」

「そうね。夕陽丘なんてどう?」

「何か安直じゃない」

「それじゃあ、カユナダってのはどう?」

「カユナダ? それの方が変な名前じゃん」

「も〜。文句ばかり言っているからカユナダに決定」

「そんなめちゃくちゃな」

「めちゃくちゃでも何でもカユナダなの」

 僕は苦笑するがこの時だけは、今まで考えてきたことを忘れていた。
 いや、どうでも良いことになっていたのかも知れない。

 別に岡崎さんの事をどうでもいいと思っているわけじゃない。
 ただ、それをあれこれ考えるのがばかばかしく思えたからだ。

 僕にはもっと見るべきことがあるし、見せたい景色がある。
 たまには立ち止まるのもいいけど、僕は立ち止まらずに歩き続けたい。
 それが例えどんなに遅かろうと、そして僕の隣にいる彼女が入れさえすれば僕はいつまでも歩き続けると思った。

「あっ、今笑った」

「えっ、そうかな」

「そうだよ!」

 彼女は僕の顔をじっと見る。その顔がおかしくて僕は笑った。続いて彼女も笑った。
 僕は彼女の手を取り、駆けだした。僕は僕の道を見つけた。



 この物語は何の変哲もないただの日常の描いた二人だけの物語である。
 人にこんな話しをしてもたぶんつまらないかも知れないが。
 だけども、そんな日常こそ、かけがえのないものであることを。
 僕たちは知らない。そう、僕たちはまだ知らない。知らないからこそ笑っていられたんだ。


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【デート編】

 僕には好きな女の子がいる。
 その子はいつも笑顔を振りまいていて、みんなから好かれているけど、僕の前では良く怒った顔になる。
 けれども、怒った後の悪戯な笑みはどこか僕を安心させた。彼女は僕とは対称的な子だった。

 彼女は僕の前に急に現れ。そして、僕の学校に転校してきた。

 彼女の髪は深い黒で、見ているだけで吸いよされるくらい深い色をしていた。
 その髪が風でなびくと彼女は髪の毛を掻き上げる。その仕草がどこか大人っぽく。
 クラスの男子は多々その光景に目を奪われた。ちなみに僕もその一人である。

 彼女のあの仕草はドキッとさせられて、僕はいつも顔を紅くしていた。
 そんな時は必ず彼女が僕を見て小さく笑うんだ。

 結局、彼女は僕の世界の住人となり、僕の心に住み着いた。
 そう、彼女、風見優花は僕に取って無くてはならない存在になりつつあった。


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 あれは、優花が転校してきて初めての休日。僕に取っては人生初めてのデート。
 緊張しない方がおかしい。僕はとりあえず、青いシャツとジーパンを履いて誰もいない家を飛び出した。
 さて、何故僕が休日からこんなに慌てているのかというと前日の話しに戻る。



 僕は授業が終わった後、優花に声をかけて、いつものあの場所へと向かうつもりであった。
 しかし、今日の優花はどこか違った雰囲気があった。

「ねえ、大喜君」

 優花はポツリと言った。

「どうしたの? 優花」

「明日、休日だよね」

「そうだけど」

「‥‥えっと」

 彼女は口が少しどもる。僕はその仕草で優花が言いたい事が分かった。

「そうだ。優花、明日僕とどこか行かない?」

 僕の提案に優花は目を輝かせた。

「前に約束したよね。もっと凄い景色を見せてあげるよって。だからさ‥‥」

 僕の耳が一気に紅くなる。

「うん! 行こう!」

 彼女はそう言って僕の首に飛びついた。
 僕は更に紅くなるが彼女はお構いなしに笑う。
 そして、僕も続いて笑った。


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 さて、話しをデートの日に戻そう。
 小学生ではそんなに遠くへはいけないと思うかも知れないが、そんなことはない。

 一握りの勇気とお金があれば、例え小学生だって遠くへ行ける。
 僕が今回彼女を連れて行こうと思った場所は、電車で約二時間の所にある。

 子どもの国と呼ばれる自然に囲まれた場所だ。
 彼女に見せたい景色はそこにある。その為の準備は万端で、場所も把握済みだし。
 どの駅で乗り換えるかも確認した。あとは、間違えずに行くだけだ。

 僕は気合いを入れて駅前のゾウの像へと向かった。
 空は晴れており、雲一つなく絶好のデート日和である。

 どうやら、僕は天気にも見舞われたみたいだ。
 ゾウの前にはすでに彼女の姿があった。

「ごめん。待った」

「うんん。私もいま来たばかりだから」

 彼女は帽子のつばを触って言う。彼女の格好は真っ白いワンピース。
 たぶん、初めて出会った時の格好だったと思う。それにあの帽子も見覚えがあった。

「それじゃあ、行こうか」

 彼女の手を取り、駅のホームへと向かった。


 その二人の影を見ている二人組がいた。

「どうやら、電車を使ってどこか行くみたいだな」

「そのようね」

「しかし、あの二人を尾行するハメになるとは思わなかったぜ」

「‥‥だって守があの二人がデートするって言うから、私気になっちゃって」

「そう言えば、告白のあと、あいつから何か言われたか?」

「‥‥‥うんん」

「そうか、なら俺たちであいつらのデートを妨害するか」

「えっ、でも、それじゃあ、鳴海君に迷惑かも」

「それなら大丈夫だろ。俺たち二人でさり気なくあいつらに接近して
 ダブルデートと言うことにして。近づこう」

「ダブルデート?」

「ああ、大喜と風見。俺と理津子でのダブルデート。ただし、隙をみて、
 俺が風見を押さえるからお前は大喜を連れ出して、後は自分でやれ」

「‥‥‥うまくいくかな」

「そりゃ、お前のがんばり次第さ」

「うん‥分かった。私頑張る」

「ああ、がんばれよ」

 理津子は小さくガッツポーズした。

「おっ、どうやらあいつら動き出したみたいだな。俺たちも合流しよう」

 そう言って守と理津子は二人の後を追った。


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 電車というのは、男の子に取ってあこがれの一つである。
 僕も例外ではなく電車は好きだ。

 電車の揺れる感覚は心をドキドキさせたり、窓から見える景色は未知の世界を映し出していたり。
 そう言った違った景色を見るのが楽しかった。

 だから、どこか遠くに行くときは電車を使う。
 ゴトゴト、規則正しいレールの音が耳を掠めながら、景色を楽しむのはすごく楽しかった。

 初めて父に乗せて貰った電車。今はその電車の名前も思い出せないが、
 不意にその思い出がよみがえってくる。あのころの父は優しかった。

 よく大きな手で僕の頭をなでてくれた事を覚えている。
 その手はごつごつしていたが、僕に取ってはとてつもなく大きな手に見えた。
 電車の中は父と僕以外誰もいなく。貸し切り状態であった。

 父はにやりと笑い。電車の窓を開けてくれた。
 このころの電車は窓が開けられて、外の風を車内に入れる事ができた。

 父が窓を開けると、一瞬僕の髪の毛がフワッと浮かび上がる。
 父はそれを見て笑う。つられて僕も笑ったと思う。

 窓の外の景色はめまぐるしく変わる。
 それも、一つとして同じ景色はないのだ。
 一つの景色が終わるとまた次の景色。
 次の景色が終わるとまた次という風に、僕を飽きさせなかった。

 僕は窓に釘付けになり、夢中で外の景色を眺めていた。
 最初は町の景色だったが、だんだんと家の数が減り、気が付くと畑ばかりが目に入った。
 誰もいない畑にかかしがポツンと立っているだけだった。

 そして、ふっと気が付くとすでにそのかかしの姿も見えないほど小さくなっていた。

 電車は加速を始め、遂に目の前には大きな森の姿が見え始めた。
 僕の目の前には巨大な山の姿が見え、大きな谷が僕の目の前を通過した。
 僕はあることに気が付いた。僕の隣にいたはずの父の姿がないことに。

 僕は急に怖くなった。窓の外は何故か夜に変わっていた。
 闇は僕の顔を映しだし、いたずらな笑みを浮かべる。

 僕は走り出そうとした。その時、遠い所から誰かが僕を呼んでいた。
 その声に導かれて光の中へと消えていった。


「大喜君……着いたよ!」

 優花の顔がドアップで映し出され、僕のほっぺをつまむ。
 その顔はどこかいたずら的だった。

「大喜、お前顔色悪いぞ。平気か」

 守は心配そうな顔をする。

「鳴海君、大丈夫?」

 岡崎が僕の顔をのぞき込む。

「らいじょうぶだお〜」

 優花にほっぺを摘まれているので口が思うように動かなかった。

「どうやら、平気そうだな。んじゃ、降りるか」

 そう言って守達は電車を降り、僕もそれに続いて降りた。
 ホームに降りると、ここはすでに都会ではなく。木々の香りや花の香りが漂ってきた。

 子どもの国は駅から10分程度の所にある。
 子どもの国という名前が付けられている通り、この場所は子どもたちに取っての遊び場となっている。
 アスレチックや巨大ブランコ、植物園やハイキングコース、それに世界一長い滑り台なんてものある。
 言うならば自然を満喫するための遊び場となっているのだ。

「んじゃ、まずはどうするよ」

 珍しくやる気満々で守が仕切っていた。いつもならば、岡崎さんが真っ先に仕切りたがるのだが、
 今日はいつもより大人しい。もしかしたら、まだあのことを気にしているのだろうか。
 それは、僕たちが電車に乗ろうとしたときの事だった。



「乗ります!乗りまぁ〜す!」

 僕たちが電車に乗った後、突然二人組の男女が駆け込んできた。
 そして、女の子の方がドアに足を取られ、床に倒れてしまったのだ。

 それも、勢いよくだ。端から見たらすごく痛そうに見えた。
 それと同時に、目の前にすさまじい光景が。

 女の子のスカートが全開にまくり上がって、しかもパンツに可愛らしいクマの絵が描かれていた。
 何故かそのクマは眼鏡をかけていて。本当に悲惨な光景だった。

 男の子の方は深いため息を吐き、やれやれといった風に首を振った。
 その顔にどこか見覚えがあった。

「守じゃないか?」

「おお! 大喜じゃないか。それに風見さんも。二人とも奇遇だね」

 守は驚いた顔で言った。

「ひょっとして、そこで倒れているのは岡崎さん?」

「ふえ〜ん」

 いきなり岡崎は泣き出した。

「よしよし、いい子だから泣きやみな」

 そう言って守は岡崎を立ち上がらせる。

「どうやら、怪我はないみたいだ。飴やるから泣くな」

「私、子どもじゃないよ」

 そう言って岡崎はさらに泣き出した。守も少し困った顔をした。
 そんな時、僕の隣にいた優花が岡崎をぎゅっと抱きしめ、よしよしっといった感じで岡崎の頭をなでた。
 岡崎も最初は驚いたがすぐに泣きやみ、涙を拭いて立ち上がった。

「‥‥ありがとう」

 ちょっと頬をせめて岡崎はいった。優花は満面の笑みを浮かべた。

「ところで、二人ともどこかにお出かけのようだが?」

 守はいきなり僕の顔を見ていった。

「えっと、僕たちこれから子どもの国に行こうと思うんだ」

「子どもの国か‥‥俺らも言ってもいいか?」

 僕は少し戸惑うが。僕が答える前に優花が口を開いた。

「みんなでいった方が楽しいかもね」

 それを聞いて守は僕の顔を見てにこりと笑った。

 そんなわけで、僕たちのデートに何故か守と岡崎さんが一緒にいくことになった。
 なんか前途多難の始まりだと僕は痛感していた。


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 子どもの国の入口では着ぐるみを着てフーセンを配っている人がいた。
 僕らよりも小さな女の子がお父さんの手を握りしめ、にこにこしながらフーセンを受け取っていた。
 女の子の小さな手にフーセンの糸を巻き付けて、はしゃいだ。僕はそれをジーッと見つめていた。

「ねえ、大喜君。何ボーっとしてるのよ。早く行きましょう!」

 優花は僕の腕を引っ張って入口へと向かった。

「ところで、最初どこから行くんだ?」

「うん。まずは植物園に行ってみようと思うんだけど」

「植物園か……いいんじゃない。理津子もいいよな?」

「私はどこでもいいよ」

「優花はどう?」

「あたしもそこでいいよ」

 とりあえず、みんなの意見は一致したので最初に植物園に行くことになった。


 子どもの国の植物園は日本でも最大級のテーマパークであり、日本の様々な植物が見られる。
 また、今は世界の花の展覧会をしており、お花屋さんでしか見かけることのできない花が見られた。

「うわ〜、キレイな花!」

 優花は目を輝かせた。

「オオムラサキ、カリン、フモトスミレ、ヤマザクラ、ニホンタンポポ。
 へえ〜、結構な種類があるもんだね」

 守も感心した様に花を見つめる。

「琢馬君ってあんがい物知りね」

「ああ、俺こういうミニ知識は結構ある方でね。その中でもタンポポには詳しいんだぜ」

「へえ〜、じゃあ詳細を聞かせてよ」

「ああ、いいぜ! タンポポ。日本には約10種類あるが、
 関東地域ではカントウタンポポが主であり、俺たちがよく見るのはこのタンポポだろう。
 頭花は小さく、キク科の花なんだ‥‥」

 守は楽しそうに優花と話し始める。

「ねえ、鳴海君、このお花、ピンク色でかわいいね」

 僕の隣を歩いていた岡崎さんが低い木を指して言った。

「ああ、僕も花のことは詳しくないけど、たぶんツツジの一種じゃないかな」

「そうなんだ。何か髪留めにしたくなっちゃう」

「うん。岡崎さんなら似合うかも」

 僕の言葉に岡崎さんは顔を紅く染めた。いつの間にか優花と守の姿がない。
 たぶん、先に行ってしまったんだろう。僕は二人を追いかけようとする。
 しかし、その前に岡崎さんの手が僕の腕を掴んだ。

「えっ」

 僕は急な事で気が動転する。そして、彼女は顔を伏せて言った。

「鳴海君は……、鳴海君は私の事どう思ってるのかな? あの時の告白の返事が聞きたいの。
 本当は返事なんか聞きたくないけど。そうしないと、私不安に押しつぶされちゃうから。だから!」

 彼女は伏せていた顔を上げ、真っ正面から僕の顔を見た。
 僕は彼女が真剣に僕の事を想っているのが分かった。

 そして、僕の答え方一つで彼女を傷つけてしまうことも分かっていた。
 あれは父がまだいた頃、父の言葉一つで母が泣いていた事があった。
 あの時の僕は何故父が母を泣かすのか分からなかった。
 けども、それが悪い事だということだけはすぐに理解できた。

 だから、僕は岡崎さんを傷つけてはいけないよう、本当の想いを隠して言う。

「別に僕は岡崎さんの事嫌いじゃないよ………」

 僕の言葉と共に彼女の瞳から涙があふれ、地面にへたり込んだ。
 僕は狼狽する。彼女の涙が母の涙とダブって見えた。

「……岡崎さん」

「大丈夫、ほっとしたら涙が出てきちゃって。えっへへ、格好悪いね」

 彼女は泣き顔で力無く笑った。僕は胸をなで下ろし、彼女を立たせる。

「先に行った二人の後を追おう」


「……はい」

 一瞬彼女の顔がかげるがすぐに元に顔に戻った。
 こうして、僕は心におもりを抱えて優花達の後を追った。


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 優花達は次の部屋のベンチに座っていた。守は僕たちが来たことに気が付き、近づいてきた。
 この時、何故か守の顔が険しい表情で、僕を睨み付けている感じだった。
 僕は何故彼が怒っているのか分からなかった。
 いや、もしかしたら、守は僕が岡崎さんを泣かした事に気づいていたのかも知れない。

「大喜、俺達ノドがかわいたから、優花ちゃんと一緒に何か飲み物でも買ってきてくれないか? 
 この部屋の先に自販機があったからさ。頼むよ」

 守は怒るわけもなく。僕にそう頼んで肩を叩いた。
 その行動にあっけにとられた。正直言って殴られると思ったからだ。
 僕はとりあえず、頷き優花と一緒に先の自動販売機へと向かった。

 残された岡崎はじっと守を見つめる。

「その顔はあいつに泣かされたな。まさか、あいつがお前を泣かせるとはな。
 どうせ、泣き虫のお前の事だから、原因はお前にあるんだと思うが…」

「私、別に泣き虫じゃないよ」

「はいはい、そうですか。ああ、それと俺あの二人の応援をすることに決めたから」

「はあ?」

「だから、大喜と優花ちゃんをくっつける事に決めたからさ。
 お前は一人でがんばれ。俺の力を頼らずにしっかりやれよ」

「それってどういう事よ!」

「どういう事もそう言うことだ。あっ、大喜達が戻ってきたからこの話しは終わり」

 守はそう言うと、大喜からジュースを受け取り、プルタブを開けた。
 缶ジュースの圧力により、音が鳴った。守はそれをぐいっと飲み干し、一息ついた。


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 植物園を一通り見終わった僕らは、次の目的地へを決めることにした。

「次はさ。それぞれ別行動しないか?」

 いきなり守がそう提案してきた。

「うん。そうだね。僕も優花と一緒に行きたい場所があるし」

「そうそう、今度はお互いに楽しみましょう」

 岡崎は少々複雑そうな顔をする。

「理津子もそれでいいだろ?」

 守の言葉に岡崎はぎこちなく頷く。

「じゃあ、そう言うことで俺たちは動物園の方へ行くわ。
 あと、帰りは一緒に帰ろうぜ。そうだな、五時に子どもの国の入り口でどうだ」

 守の言葉に僕は頷く。

「んじゃ、五時に子どもの国入り口でな」

 そう言うと守は岡崎の手を強引に引っ張り、動物園の方へと消えていった。

「じゃあ、僕らも行こうか」

 僕は緊張したおもむきで、優花の手を取り歩き出した。
 優花の手は少し汗ばんでおり、僕の体温より熱かった。
 何だかだんだん優花の事を意識しはじめて、呼吸が荒くなってきた。

 それに、頬もなぜか熱い。地面に敷き詰められた煉瓦が、僕たちの道を示してくれた。
 周りはすでに林に囲まれて、涼しい風が僕の頬を掠める。

「う〜ん。何だか気持ちいい風ね」

 彼女は頭の上の帽子を押さえて言う。

「そうだね。この辺は大きな建物もないし、車もあまり通らないから空気が澄んでいるから」

「そうね」

 そう言うと彼女は僕の手を放し、手を大きく広げた。
 それはまるで飛行機の翼のようで。僕の目にはそう見えた。

 彼女は風を感じ、目を閉じた。僕も同じように目を閉じる。
 真っ暗な闇の中に僕はいた。風が僕の頬をくすぐったのを感じた。

 それだけでなく、僕にはハッキリと風の息遣いを聞いた。そうして、僕は目を開いた。

「風を感じられた?」

「うん。感じた、感じたよ」

「‥‥風はね。遙か昔からずっと吹いているの。それはね、これからも変わることはないんだ」

 彼女は近くの木陰に座る。僕もとりあえずその隣に座った。
 その後彼女は何を思ったのか、僕のまたの間に座り直した。

「‥‥‥」

「大喜君は大人になったら何になりたいの?」

 彼女は突然そう聞く。

「笑わないで聞いてくれるかな?」

「あら、私が大喜君の事で笑ったことあったかしら?」

「いや、ないけど」

「だったら問題ないよね」

「うん。実は僕、大人になったら医者になりたいんだ」

「‥‥‥どうして医者になりたいの?」

「一つは母さんに楽をさせたいこと。それと、もう一つは死に直面している人を助けたいんだ」

「‥‥‥うん。大喜君ならきっと良いお医者さんになれるよ」

「‥‥ありがとう」

 僕は頬をぽりぽりと掻いた。

「優花は大人になったら何になりたいの? やっぱりお嫁さん?」

「…そうね。昔はお嫁さんになることだったかな。でも、今は違うな」

「じゃあ、今は何になりたいの?」

「うん、立派なお婆ちゃんになりたいかな」

「…お婆ちゃん? そんなの時が経てば嫌でもなるでしょ」

「うん。そうだね」

 彼女は頭の帽子を取り去り、僕の胸に背中を押して付ける。
 そして、僕の手を取り、自分の胸に押しつけた。

「えっ、優花」

 僕はいきなりな事で動揺する。

「大喜君。私の胸どう?」

 そんなことを言われても、僕はどういって良いやら分からず。
 とりあえず、率直な言葉を述べた。

「やわらかい」

 僕の言葉とともに顎に衝撃が走る。どうやら優花の頭突きが顎に命中したらしい。
 僕は急なことでびっくりした。

「大喜君のえっち」

 彼女はそう言ってさらに僕の手を胸に押しつけた。
 彼女の胸はうちのクラスで一番大きく、そしてすごく柔らかかった。
 さわっていて、とても心地よい感じがした。

 それと同時に、『ドックン、ドックン』と言う規則正しい振動が手のひらを伝わった。
 それは彼女の心臓の鼓動だ。

「伝わった?」

「うん。ドックン、ドックンって脈打ってる。優花の心臓の鼓動」

「私も大喜君の心臓の鼓動聞こえるよ。すごい早さで脈打ってる」

「そりゃあ、そうさ。何せこの体勢だもん」

「あ、大喜君、またえっちなこと考えてるな」

「男はそういう生き物さ」

「まあ、それもそうね。それじゃあ、そろそろ大喜君が見せてくれる景色の場所に行こっか」

「そうだね」

 僕たちは立ち上がり、林の奥へと向かった。


 林の奥には大きな公園があり、その向こうには大きな湖が広がっていた。
 湖では、親子ずれの人達のボートでいっぱいだった。

「見せたかった場所ってここ?」

「うんうん、違うよ。もうちょっと先の丘にある場所」

 僕はそう言うと彼女の腕を取り、湖の隣にある坂道を上り始めた。
 坂道は急ではないが、整備はされておらず。

 地面には石や木の枝で散乱していた。
 そして、視界が急に開けると、一本の杉の木が立っていた。

「ここが、僕が見せたかった所だよ」

「うっわ〜。空が開けて見える!」

「そうなんだ。この辺まで来ると周りに大きな建物もないからね。
 空がハッキリ見えるんだ」

 僕らは原っぱに寝そべる。白い雲がぷかぷかと漂っている。

「雲ってどこまでも飛んでいけるから良いね」

「確かにね。僕も空の景色を見るときはよく考えるよ」

「私もよく窓の外の空を眺めて、自由な雲が羨ましかった」

「‥‥‥」

「だから、私は雲と一緒に大空を駆ける風になりたかった」

「‥‥‥」

「ねえ、ちゃんと聞いてる?」

「聞いてるよ。だったらその願いはもう叶ったよね」

 僕の言葉に彼女の目が大きく開く。

「優花は僕の風さ。そう、僕に春を運んできた。春風」

「‥‥‥」

「君は知っていたかどうか分からないけど。僕は君に出会って本当に良かったと思っている。
 今までは退屈だった毎日が、君のおかげで変われた。だから‥‥」

「だから?」

「えっと、うん。僕は君の事が好きなんだと思う。あの場所で出会ったときからずっと…」

 僕の顔はたぶん真っ赤になっていると思った。その証拠に頬が嫌に熱い。
 僕のその言葉に彼女は何故か複雑そうな顔になる。

「……あたしも大喜君のこと好きだよ」

 彼女はそう言って僕をきゅっと抱きしめた。そして、何故か彼女は声を押し殺して泣いた。

「優花…何で泣いてるの?」

 僕の問いに答えず。彼女は数分間、僕の腕の中で泣き続けた。

「もう大丈夫?」

「……うん、大丈夫」

「じゃあ、そろそろ五時になりそうだから、待ち合わせ場所に戻ろうか」

 彼女はこくりと頷き、僕らは元来た道を戻り始めた。帰りの道は行きと違い。
 淋しい感じがした。それは、終わりへと向かう道。彼女があの時何故泣いたのか分からない。

 それはたぶん彼女自身にしか分からないことなのだろう。
 僕が何を言っても、それは彼女を慰めたことにはならないんだ。

 僕がそんなことをあれこれと考えていると、突然彼女が僕の手を放し地面に倒れた。
 それも突然の出来事だったので僕は動転する。
 すぐに彼女に駆けより状態を確認した。

 彼女は死んだように目を閉じていて、呼吸も微弱だった。
 脈も間隔が一定でなく、不正に振動していた。僕の頭に嫌な考えが浮かぶ。

「優花! ゆうか! しっかり!」

 僕は大声で彼女に叫んだ。けれども彼女の反応はなく目を閉じたままであった。
 僕はとっさに辺りを見回したが、人の気配はない。僕は彼女を背負い、人がいるところまで行こうとした。
 そんな時、いきなり後ろに人の気配がした。

 僕は後ろを振り向くと、そこにはボロボロのマントと布で顔を隠した男が立っていた。
 男はじっと二人を見ていた。

「あの! すみません。彼女いきなり倒れちゃって。入口まで運ぶのを手伝ってくれませんか?」

 僕がそう頼むが、男はぴくりとも動かない。
 僕はこの男が手伝う気がないと判断して、再び彼女を背負おうとした。
 その時、いきなり彼女の体が浮き上がった。いや、男が彼女を抱きかかえたのだ。

「手伝って貰えるんですか?」

 僕の問いに男は首を振る。

「お前はもう彼女に近づかない方が良い」

「な、何でですか!」

 僕の怒鳴り声と共に、あんなに晴れていた空が曇りだし、雨がぽつぽつと降ってきた。

「…お前は何も知らない」

「僕が何を知らないと言うんですか!」

 男は雨から優花を守るため、マントで彼女を包む。
 そして、僕の耳元でささやいた。

「いいか、良く聞けよ。彼女はもうすぐ−−−−−−−」

 そう言った途端、いきなりの土砂降りになる。男は優花を抱えて、林の中へと消えていった。
 僕は何がなんだか分からなかった。雨の音のせいで良く聞こえなかったが、男は確かにこういった。

『−−−−−−死ぬ』と。

 僕はただただ、わけの分からぬまま。雨が降る空を眺めていた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


【雨のち涙編】

 あの日は確か雨が降っていたと思う。
 サクラの花はすでに雨により散り、地面には花びらで埋め尽くされていた。
 そんな雨の日。僕の父は死んだ。理由はよく分からない。
 いきなり僕の前から父が消えたのにただ呆然としていたことを記憶していた。
 幼いということもあったが、父という存在が僕にとってあやふやなものであったというのも理由の一つだと思う。
 ただ、ときに見せる父のやさしい笑みを見ると無性に腹がたった時もあった。
 母に暴力を振るう父が憎かった。だから、僕にとっては父親とはどうでもよい存在だった。
 けども、人の死を初めて感じたあの雨の夜。僕は大切な人をなくした。
 それでも春の雨はしとしとと降り続いていた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 雨の降る中、僕は学校へと登校した。何故か体の節々が痛く。体がだるかった。
 けれども、母を心配させないよう。元気なふりをして僕は家を出た。
 足下には大きな水たまりがいくつもできており、僕の靴をぬらす。

 目の前の信号が赤に変わったので僕は、足を止めた。
 周りには僕と同じように学校へと向かう生徒達でいっぱいだった。
 けども、僕の右隣の人だけ、何故か傘を差していなかった。

 そればかりか、ボロボロのマントの様なものが見える。
 僕はそのマントに見覚えがあった。あのデートの時にであった男のものとそっくりなのである。
 信号が青に変わりマントの男は動き出した。僕は慌ててその男の後を追う。
 男は僕に気づいていないのか。そのまま歩き始める。

 男は町をぐるぐると歩き、時たま辺りをキョロキョロ見ては、再び歩き始めた。
 男は坂道を上り始め、丘の上の大きな屋敷の前で立ち止まる。男はその屋敷の中へと入っていった。
 僕はその屋敷に見覚えがあった。そう、ここは優花が住んでいる屋敷だった。
 僕は意を決し中に入る。入口には鍵はかかっておらず、あっさりと中に入ることができた。
 中は埃くさく。掃除がされていないのかホコリだらけであった。

「これはいったい?」

 僕はその光景に圧倒された。

『バタン』

 扉の閉める音が二階から聞こえてきた。僕の背に冷や汗が浮かぶ。
 ホコリのせいか、ノドがからからに乾いた。

 二階も一階同様、辺りはボロボロでとても人が住める状態ではなかった。
 二階の奥の扉だけが何故か開いている。僕はそれに誘われるままその部屋に入った。
 部屋の中には大きなベッドが一つと、ホコリを被ったぬいぐるみが転がっている。

 どうやら、この部屋は子ども部屋らしい。僕が呆然としていると、いきなり後ろから声がした。

「やれやれ、あとをつけてくるとはあまり感心しないな」

 マントの男が後ろに立っていた。

「まあ、君の場合は仕方がないか……」

「あなたはいったい何なんですか。それにこの家、何でこんなに」

「ふむ、名前か。名前などない。適当に呼んでくれ。
 さてと、君の知りたがっている事を教えてあげよう」

 そう言うと、男はマントを脱ぎ去り、顔をあらわにした。
 僕は驚く。男は十八くらいの青年であり、金髪で青い瞳をしていた。

「埃くさいが、我慢して座ってくれ」

 そう言うと、青年はソファに座り、昔話を語り出した。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 そうだな、あれは私が雨宿りのため、この屋敷に来たときのことだ。
 私が雨の当たらないところにいると、屋敷の窓に小さな人影が見えた。
 そして、その人影はじっと私を見ていた。それが、私と彼女、風見優花との出会いだ。

 私は屋敷の中に通され、彼女の寝室に通された。
 彼女への第一印象はほっそりとして儚げにおもった点だ。
 でも、話してみるとそれは間違いだと感じた。彼女には強い意志を持っている。
 けれども、身体を病魔に侵されており、走ったり飛んだりという生活ができないんだと、本人はいっていた。
 でも、彼女はそれに負けたくないという強い意志を持っていて。私にはそれがとてもまばゆく見えた。

 だから、私は彼女に時間を与えた。走ったり飛んだりできる時間を。
 だけど、その時間も永久とはいえない。私の与えた時間は後少しで終わる。
 いや、終わりを求めたのは彼女なのかも知れない。

 まあ、どちらでもいいがとにかく、次に彼女が倒れたときが最後だ。
 その時が彼女の最後の時間だ。肝に銘じておけ。しかし、人間とはかくも不思議な生き物だな。
 死ぬと分かっていても、求めてしまう。私には分からないことなのだろう。

 そう言うと、男は部屋を出て行く。僕は慌てて後を追うが、
 ドアの外にはその人の姿はなく。雨はまだまだ降り続いていた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


『キ〜ンコ〜ンカ〜コン』

 学校の予鈴の時間を知らせるチャイムの音が響く。
 雨の中でもその音は変わらず鳴り続け、生徒達を走らせる。
 下駄箱の傘入れには赤、青、黄色といった色とりどりの傘が、窮屈な檻に拘束される。

 傘からしたたる雨水が、冷たい鉄格子をぬらしていた。
 生徒達はそんな傘達に気を取られずに、教室へと向う。
 その中には岡崎の姿があった。

「あ〜あ〜、私って雨嫌いなのよね」

 岡崎は肩にかかる雫を払い教室に入った。
 教室に入るといきなり、後ろから声をかけられた。

「よっす! 理津子」

 ふりかえると守の姿があった。

「守は元気ね。何かいいことでもあったの?」

「いや、別にそうじゃないけど。雨って何か好きなんだよね」

「え〜! 守ってちょっと変。普通雨って嫌なものよ。何か心が暗くなっちゃいそうで」

「それは、人によってとらえ方が違うからさ。考えても見てよ。
 雨の日は雨の日にしかできないことってない?」

「う〜ん。例えば?」

「そうだな。雨の日は傘が差せる」

「それが…あっそうか。お気に入りの傘が差せるね」

「そうだろ。それに、雨の日は水たまりが見られるし、雨が晴れると虹も見られる。
 だから、俺は雨の日が好きなんだ」

「そうね。何だか私も雨が好きになれそう」

「それは良かった。そろそろ、本鈴だな」

 守は自分の席に座る。

「そう言えば、鳴海君は?」

「あいつが遅刻とは珍しいな。それに、優花ちゃんもいない。これはひょっとすると」

 守はにやにやした顔をする。心配になった岡崎だが、先生が教室に入ってきたので席に座った。
 先生が入ってきたと同時に、優花も教室に入ってきた。けれども、その顔色は悪そうに見える。
 彼女はとぼとぼと自分の席に向かい座る。

「今日の欠席者は……鳴海大喜だけか。う〜ん、欠席の知らせは来てないな。
 遅刻か? では、一時間目の授業を始める」

 先生がそう言うと、いつも通りの授業が始まった。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 僕はぎしぎしときしむ床を慎重に進み。ベッドの隣に立てかけてある。写真を見た。
 そこには優花と両親の姿が映っている。優花は今まで見たこともない笑顔をしていた。
 僕はホコリを被った写真立てをそっと元の場所に戻した。

 あの人のいっていること、何となくだが理解できた。
 たぶん、優花はもうすぐ死ぬんだろう。

 それならば、デートの時のあの涙や奇妙な会話も理解できる。
 でも、何で彼女は僕を選んだんだろう。僕に何かを期待していたのだろう。
 その答えはきっと彼女に聞けば分かるだろう。
 僕の考えは決まり、雨の降る中急ぎ足で学校へと向かった。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 一時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
 先生が教室を出て行った後に、岡崎は素早く、優花の所へと向かった。

「おはよう。風見さん」

 岡崎はとりあえず、朝の挨拶を交わす。

「………」

 優花は一瞬こちらの方を向くが、無言のまま席を立つ。

「ちょっと、待って。話しはまだ終わってないの」

 岡崎は優花の肩を掴む。優花の動きが止まった。

「こういう事は早めにいった方が良いと思って。私も鳴海君のこと好きなの、
 だからあなたには負けないから」

「……いいわよ。大喜君はあなたにあげる。私にはもう必要ないし。
 だから、もう私に構わないで……」

 優花は岡崎の手を振り払い、よろよろと教室を出ようとした。
 その瞬間、岡崎は優花の前に立ち、平手をおみまいした。
 優花のほっぺは少し紅くなる。教室中の誰もが二人に注目した。
 優花はそれでも無表情のままだったが、岡崎の一言で顔を崩した。

「……最低。それじゃあ、鳴海君がかわいそうだよ。鳴海君はね。
 あなたの事が好きなんだよ。それは、端から見ていた私がよくわかる。
 鳴海君はやさしいから、だから私は鳴海君を好きになったんだ。
 それをあんた見たいな人が……うっ‥ひっく…うう…」

 岡崎は泣き崩れ、教室中がシーンと静まりかえった。
 その静寂を破ったのは優花の一言だった。

「わ‥わたしは……」

 優花は何かを言おうとするが、その前に体が崩れ地面に倒れた。
 クラスのみんなは我に返ったようにすぐさま先生達を呼び。
 優花は救急車に運ばれて近くの病院へと運ばれて行った。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 僕は教室に入ると異様な雰囲気に息をのんだ。
 クラスの誰もが沈黙しながら、席に座っている。

 それに、数名の女子が声を押し殺しながら泣いていた。
 その中には岡崎の姿もあった。

「よう。遅かったな」

 守が疲れ切った顔で言う。そして、次の言葉で僕の心臓は凍り付いた。

「いいか。冷静に聞けよ。風見優花が今倒れて、近くの病院に運ばれた」

 その言葉で、僕はあの名前のない青年の言葉を思い出した。

『次の彼女が倒れたときが最後だ』

 彼の言葉が蘇る。僕は振るえる。そして、目の前が真っ白になった。
 そんな時、いきなり岡崎が僕の存在に気づき、涙でぐしょぐしょの顔が更に歪んだ。

「な・る・み・くん。ごめんなさい。わたし、わたし‥‥」

 岡崎は何を言おうとしているのか分からないほど取り乱していた。
 周りの女子が岡崎をそっと抱きしめる。そして、岡崎は声を押し殺して泣き始めた。

 守は僕の手を引き、廊下へと出て。何があったのかを説明してくれた。
 僕は自分の優柔不断が招いたことで岡崎さんを傷つけたことを知った。

「俺はお前の顔に一発入れたいけど。それで、あいつの傷が治るわけでもない。
 それにお前にはやらなくちゃいけないこともあるしな。これ持ってけ。
 学校の裏に置いてある自転車のキーだ」

 僕は何も言わずに、それを受け取る。
 そして、僕はもう一度彼女に会うために走り出した。

 外の雨はさっきよりも激しく地面に突き刺さっていた。
 僕は守の自転車にまたがり、雨の中を力の限りこいだ。
 足がジーンとする。けど、いま彼女が感じている辛さを思えば。

 こんな痛みなど平気だった。僕の横を車が通りすぎる。
 いくつもの横断歩道を渡り、途中紅い信号をも無視して突っ込んだ。
 この時の僕は彼女に会うことだけしか頭になかった。

 目の前に大きな病院が見えてきた。
 病院の玄関に自転車を捨て去り、僕は病院に飛び込んだ。
 近くにいた看護婦を捕まえて風見優花の居場所を聞き、彼女が運ばれた部屋へと向かった。

 彼女は小さな個室に寝かされていた。その周りにはおびただしい数の機会が列んでいる。
 そして、白衣の男性と女性がひとりずつ立っていた。機械が無機質な音をたてる。
 それが耳障りで僕はゆっくりと彼女のそばに近寄った。
 規則正しいアラーム音はゆっくりとゆっくりと鳴り。僕が彼女のそばに立つ。

『ビ−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−』

 機械の無機質な音が鳴り響く。
 白衣の男性は彼女の目にライトを当て、首元に指を当てた。
 そして、腕時計を見て重い口を開いた。

「午前10時28分。ご臨終です」

 男は僕を見ていった。

「ご家族の方かね?」

 男の言葉に僕は首を振る。

「家族じゃないのかね。ふむ、君に言っても仕方ないが、彼女が運ばれてきたときは、
 もう手遅れな状態でね。レントゲンを見て驚いたよ。よくこの状態で学校など通えたと、
 普通の人だったら歩けないはずなのに。不思議なもんだ」

 僕はそんな男の話など聞かず。じっと優花の顔を見ていた。
 男は頭をかき看護婦と共に部屋を出て行った。

 ひとり取り残された僕は、彼女の顔を撫でた。彼女の身体は微かに暖かく。まだ生きているみたいで。
 今にも起きあがり、『実はこれはドッキリなの』って言って笑い声をあげそうな。
 僕にはそう思えた。

 でも、実際の彼女はもう起き上がらないし、動かない、笑わない。
 あの時もそうだった。父が死んだ時の様に、彼女も僕を置いていってしまう。
 僕は無力な自分が悔しかった。最後に僕は彼女の冷たい手を握り病室を出る。
 雨はまだ降り続いていた。僕は雨の中、あてのない道を歩き始めた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 雨が降る中、僕はひたすら歩く。一体僕はどこへ行こうというのだろうか。
 僕自身も分からない。妙に頭がスッキリして、心臓の音が痛いほど鼓動する。
 雨はいっそう激しくなり、靴には雨水が浸入してきた。
 それに、服もすでにビショビショで体に張り付いている。
 そんな僕の姿を周りの人は不審そうに見ていた。そんな中、僕に声をかけてきた人がいた。

「あら、大喜君じゃない?」

 黄色い傘を差した女の人が近づいてきた。僕は虚ろな目を向ける。
 目の前に立っていたのは野々村さんだった。野々村さんは僕の姿を見て驚く。

「あらあら、こんなずぶぬれでどうしたのよ。家この近くだから来なさい」

 そう言うと野々村さんは僕の手を強引に取り、近くのマンションへと入った。

「そうね。まずは、そのずぶぬれた服を脱いで」

 野々村さんは僕の服をサッと脱がし、あっという間に裸にされた。

「はい、バスタオル。濡れた体を拭いて。ちょっとしたらお風呂が入るから」

 野々村さんは僕にバスタオルを渡し、奥へと引っ込んだ。
 渡されたバスタオルはふっくらとしており、僕を優しく包んでくれる。

 身体を拭き、適当ないすに座った僕の目の前に、湯気が立つカップが差し出された。

「今朝作ったココアの余りだけど、遠慮しないで飲んで。暖かくなったからって身体が冷たいと風引くから」

 野々村さんはにっこりと微笑む。その笑みが彼女に似ていて、
 僕は顔を歪ませて思わず、声を押し殺して泣いてしまった。

 野々村さんはそんな僕の態度を見て少し驚いた。
 そして、何も言わずに僕の頭を抱きしめた。

 僕は声を押し殺して泣いた。優花の前で泣かなかった僕がこの時は泣いてしまったんだ。
 その状態が三十分程度続いたと思う。野々村さんは僕の顔をのぞき込み言った。

「そろそろお風呂が沸いたみたい。お風呂に入って悲しいことをサッパリさせましょう」

 そう言うと、野々村さんはお風呂場に僕を連れて行き、僕は強引にお風呂に入れさせられた。
 そして、野々村さんも身体にバスタオルを巻いて入ってきた。

 母親以外で一緒に風呂に入ると言うもは初めてだったもので、顔が紅くなる。

「あっ、そうそうお風呂と言ったらこれよね」

 野々村さんの手には別府温泉の素と書かれた袋を持っていた。

「これね。うちにホームステイしている。えっと名前はケイトって言うんだけど。
 彼女ね、大のお風呂好きでね。何でも日本の温泉を制覇するために、はるばる日本に来たという人で。
 ちょっと変わってる人なんだ。あっ、大喜君はこういうの嫌な方?」

 野々村さんの問に僕は首を振る。

「じゃあ、入れるね」

 袋から流れる白い粉が、あっという間にお湯と同化し、お湯が白く濁った。
 僕は白いお湯に浸かり、野々村さんも入ってきた。

 お風呂のお湯が一気に流れ落ちる。ちょうど向かい合わせの状態になった。

「心と体ってね。繋がっているってケイトが言ってたけどホントね。
 こうやってお風呂に入っていると、身体の芯から暖まって心が癒されるものね」

 野々村さんは手に持っていたタオルをお湯につけて、お湯とタオルの間に空気の部屋を作った。
 そして、それをタオルで閉じこめて、一気にお湯のそこへと沈める。
 その瞬間、タオルの隙間から空気のあぶくがボコボコと浮き上がってきた。

「面白いでしょ。これもケイトに教えて貰ったお風呂場での遊び。それから、こんなのもあるよ」

 そう言うと野々村さんは手のひらを合わせて、手のひらの隙間にお湯を入れて一気に握りつぶした。
 そうすると、まるで水鉄砲の様に手の隙間から水の柱が吹き出し、その柱は僕の顔に命中した。

「…少しは元気でたかな?」

「……うん」

「それならよかった。あんまり長い間浸かっていると、ゆでだこになっちゃうから出ましょうか」

 野々村さんは先に上がり、僕もそれに続いてお風呂場を出た。

「う〜ん。私の服じゃ、大喜君には無理そうね。ケイトの服を借りましょう」

 野々村さんに渡されたのは変ながらのTシャツで、
 僕が着ると少しだぼだぼだったが、何とか着ることが出来た。

「服は今乾かしているから。それと、大喜君お腹空かない?」

 そう聞かれて僕のお腹がきゅーっとなり出す。野々村さんは小さな笑みを浮かべる。

「簡単なものしか出来ないけど、何か作るわね」

 野々村さんはダイニングに消える。窓の外ではまだ雨足が強く。窓ガラスをぬらしていた。

 ダイニングからいいにおいが流れて来る。
 そして十分後、僕の目の前には大きな目玉焼き、それも二つ目の目玉焼きが置かれた。

「なんか今日は黄身が二つ入っていたみたい」

 野々村さんはにこりと笑う。何だか野々村さんが優花に見えて、目頭が急に熱くなった。
 そんな僕を見透かしてか、野々村さんは言う。

「ほらほら、早くしないとさめちゃうよ。目玉焼きはできたてが一番なんだから」

 僕はこくりと頷き、目玉焼きに箸を通す。
 目玉焼きの黄身は少し半熟でとろみがついているが形は崩れなかった。

 黄身をすくい取って口に運ぶ。黄身の半熟感が口いっぱいに広がり、
 黄身の甘みというか、そう言った感じがした。

「そうそう、これもケイトの受け売りなんだけど。食べ物も心と密接な関係があるって言ってた。
 それに、美味しいものを食べれば自然と心も癒されるんだって。でも、私の簡単な料理で元気でたかな?」

「でました! 美味しいです。この目玉焼き」

 僕の言葉に野々村さんは喜んだ。

「ところで、野々村さんって…その、ケイトさんって人と仲がいいんですね」

「うん。まあ、ホームステイで居候だからね。一緒に住んでいると自然にお互いを理解し合えるのかも」

「じゃあ、もしその……ケイトさんって人がいなくなっちゃったら野々村さんはどうする?」

 僕の真剣な問に、野々村さんはゆっくりと口を開いた。

「う〜ん。よく分からない。そんなこと考えたこともなかったから。
 でもそうね。ケイトがいなくなったら、私は寂しいかな」

「………」

「でも、出会いがあるからこそ、別れはきっとあるもの。
 だから、私はケイトがいなくなっても、前へ進めると思う。
 ちょっとは…うんん…いっぱい寂しいキモチになるけど。
 私は多分そうやって前に進むと思う」

 野々村さんの真剣なまなざしに、僕の心がジーンと熱くなる。

「……僕、行きます!」

 そう言って僕は席を立つ。野々村さんは乾いた僕の服を僕に渡した。

 僕は服をさっと服を着替え、玄関へと向かう。
 そして、扉を開ける前に野々村さんの方を振り返り言った。

「野々村さん……ありがとう」

 僕はそれだけを言い玄関を出た。外はすでに雨は降っておらず。
 雲の隙間から太陽の光が差していた。道ばたのあちこちには大きな水たまりが出来ていた。
 それを軽く踏みしめ、僕はあの場所へと向かった。

 そう、初めて彼女と同じ景色を見たあの場所へと僕は走った。

 息も上がり、辛いはずなのに何故か疲れは感じなかった。
 目の前に巨大な階段が現れても、僕は二段とばしで駆け上がった。
 今の僕だったらフルマラソンのチャンピオンにさえなれる気がした。

 僕の道は一本道で、どこにも迷うことなく続いている。
 すでにサクラの木は緑の葉を付けており、花の姿はない。
 けれども、僕の目にはサクラの花で満開だった。

 サクラ道を抜け脇の細道を抜けると壮大な景色が見えてきた。
 雨に濡れた町が雲の隙間から射す光できらきらと輝いていた。

 綺麗だった。とても綺麗で涙が出てきた。

 僕が涙を流していると、突然後ろから青年の声がした。

「やはり、来たか」

 僕はゆっくりと振り返るとそこには、あの名前の無い青年がたたずんでいた。

「お前がもしこの場所に来たら渡してくれと、あいつに言われてな」

 そう言うと青年は僕の手に一通の手紙を渡した。
 それは小さな文字で『鳴海 大喜くんへ』と書かれている。

 僕はふるえる手で、手紙の封を切り手紙を読んだ。
 それはこういう書き出しで始まっていた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 あなたがこの手紙を読んでいる頃、多分私はもう生きてないでしょう。
 私は今、デート後倒れた後にこの手紙を書いています。

 たぶん、私に残された時間はあと少ししかないので、大喜君に会えなかった時のため書きました。
 本当は自分の口であなたに話さなければいけないのに、思ったほど私には時間がないらしいです。
 大喜君も気付いていると思いますが、私の身体には病魔が巣くっています。

 それも、現代の医学では解明できないほどの奇妙な病気です。
 私はその病気に六年前にかかりました。

 そして、その一年後父は飛行機事故で亡くなり、母はそのショックでノイローゼになり、
 家を出ていってしまいました。そして、病魔に侵された自分だけが残ったのです。

 私はあの屋敷で二年間病魔と闘いました。けれども、いっこうに良くなる気配はなく。
 お医者様からは持って半年と宣告されました。

 そんなある日、私の家に一人の青年が来ました。
 そして、彼はこういいました。私に時間を与えると。

 彼は私に永遠と呼べる時間をくれました。

 その後、私は三年間青年と一緒にあの屋敷で暮らしていました。
 けれども、私は何故かその暮らしがひどく寂しいものに思えたのです。
 確かに死に怯える事はなくなりました。

 けれども、私は死なない代わりに、生きている喜びを無くしたのです。
 だから、私は死を青年に望んだ。

 そして、青年は言った
『あたなに与えた永遠は恋をすると消える。けれどもそれは、死ぬことより辛い目にあう』と。

 青年は言っていた。初めは私は死ぬことより辛いことが分からなかった。
 だから、私は平気であなたを選んだ。恋がこんなに辛いものだとも分からずに。
 でも、それは私に与えられた罰なのかも知れない。人は永遠の望んじゃいけなかった。
 たぶん、そう言うことなんだと思う。

 だけども、私はあなたと一緒の時間を過ごしたかった。
 自分勝手だと思うけど、今はそう思っている。
 でも、私の時間はもうすぐ終わる。だから、私からの最後のお願い。

 本当は私自身の口で言わなくちゃいけいないんだけど、多分無理だから。
 手紙には本当の気持ちが書けるから。

 いっぱい嘘をついちゃったけど、私、風見優花は鳴海大喜君のことが好きです。
 口で言うのはちょっと照れちゃうので言えなかったけど、私の想いは多分、
 うんん絶対あなたに届いたと思っています。

 だから、お別れしましょう。

 そして、私と会う前のあなたに戻ってください。
 私なんかのことは思い出さないでください。それじゃあ、さよなら。

                      親愛なる鳴海大喜君へ 風見優花より


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 最後の行を読み終えて、僕は顔を上げる。雨も降っていないのに僕の頬がぬれた。
 僕は空を見上げる。空には雲一つ無く、大きな虹が架かっていた。

「さて、私はあいつからお前の記憶を消すように頼まれている」

 僕ははっとして青年の方を振り向く。青年はじっと僕の瞳をのぞき込んだ。

「お前はどうしたい。私に記憶を消されたいか? それとも‥‥」

 青年は差すようになまなざしを向ける。僕はつばを飲み込む。そして、決心した顔立ちで言った。

「僕は−−−−−−−」


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



 季節は春を過ぎ、夏に向かっていた。熱い日差しが、僕の背を差す。
 いつもと変わらない授業がとても懐かしく感じた。

 僕の右隣の岡崎さんが小さく微笑んだ気がする。
 だから、僕もぎこちなく笑った。

 放課後、図書館ではいつものように野々村さんがせっせと図書整理していた。
 僕はじゃまにならないように、そっと図書館を後にする。

 誰もいない下駄箱に僕はぽつりと立っていた。
 僕は靴を掃き終わり、外に出るとそこにはクラスメートの男子がいた。

「おい、大喜! 俺たちと一緒にサッカーしないか」

 クラスメートの思いも寄らぬ一言に、僕は少し考え込むが、答えはすでに決まっていた。

「うん! やろう」

 僕はそう言ってグランドへと走り出した。僕は未来への一歩を踏み出した。


 彼女がくれた最後の手紙には続きがあった。

『たとえ、大喜君が私の事を忘れちゃっても、私は大喜君のこと忘れないよ。
 絶対に。だから、私の分も精一杯生きて!』

2004-06-29 20:46:12公開 / 作者:名も無き詩人
■この作品の著作権は名も無き詩人さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
第三回あとがき
最終局面に来て、前編後編になってしまい申し訳ない。
私も悲痛な思いで書いているのでヘタな描き方ができない。
いや、相変わらずへぼいのは仕方がないが、
その中でも想いは込めています。
さて、後編からはラストに向かって走り出します。
大喜はどこへ向かって歩き出すのか。優花の想いわ?
守と岡崎はどう動くのか。どうか皆様最後は泣いて下さい。

第四回あとがき
終わりました。遂に終わってしまいました。
初のオリジナル恋愛もの、皆様いかがでしたでしょうか。
初めての挑戦でまとまりがなく。
話しがシリアス方向へと進んでしまいました。
初めはこんな展開になるはずじゃなかったんですけど。
う〜ん、恋愛とは奥が深い。
まあ、ちょっとでもおもしろく感じたら幸いです。
さてと、恋愛ものはしばし休憩と言うことで。

次回辺りはホラーものなんかに挑戦したり。
いやいや、あくまで予定です。
たぶん、表月の外伝的な話しになる予定。
なら早く第四章を書け!という方もいるかもしれませんね。
しかし、安心を。
この外伝の話しは四章の話しと少しだけ関係があります。
そう言うこと何で表月を読んでいる方はもう少しお待ちください。
それでは、次回作でまた会いましょう。
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