『「歌う!スポーク」後編』作者:カオポン / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
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【前編】

(1)
いつもこの道を走っていた。
何処までも広がる水田が、僕の家の二階からずっとずっと向こうまで繋がっている。
定規で計った様な長方形の形をした田んぼが、霞んで見える山に向って広がっている。
一時間に2本しか止まらない町営のバス停のまわりに、小さな八百屋と農協、衣料品店が並び、後は古い家が何軒か固まっていた。
消防団の詰め所を抜けると、またそこから田んぼが広がる。
田んぼの中に所々ポツンと小さな祠を祭った雑木林が残っている。
昔からその祠はあったみたいで、その雑木林をつぶして田んぼにする事は出来なかったらしい。
代掻きが終わって、近くの農業用水から田んぼに水が引かれると、雑木林が浮島の様に見える。
「キリキリキリ」って甲高い声で鳴く「田ケリ」と呼ばれるシギの様な鳥が、田んぼのあぜに巣を作りはじめる。
そしてその声に張り合うかの様に、空高くひばりが鳴いている。
夏の始まりって、結構ウルサイんだ。

この時期の田んぼのあぜ道を自転車で走るのが、僕は好きだ。
茎が紅く染まりかけた「スカンポ」の草が、あぜ道の脇に高く生い茂る。
代掻きを終えて清んだ水田に自分の紅い自転車が映る。
口笛を吹きながらペダルを漕ぐと、銀色のスポークが初夏の光に反射されて、きらきら光って見える。
半袖のシャツに6月の風を思いっきりはためかせながら自転車を漕いでいると、苦手な英語のヒヤリングの事や、
部活の嫌味な先輩の事等、一日の鬱憤が何処かに飛んでいってしまいそうな気持ちになるんだ!

「自転車漕いで楽になるなんて、オマエって単純な奴だなぁ」って、同じクラスの木村はそう言うんだ。
僕も単純だなぁって思うけど、これでも結構いろいろ思う事が多いんだよ。
学校ではあんまり勉強は出来ないし、この前の身体検査で思った以上に背が伸びていなかった事も、
給食が苦手でしょっちゅう残す事も、その度に僕は真剣に悩んでいるんだ。
ただ、顔に出さないだけさ。顔に出したとしても、皆には分らないだけ。



「うんだあ!オマエ、なーにやってんだよ!オマエがバトンをもらう時にもたついてなかったら、1位だったのによぉ。
ったく、すっげえこいつムカツクって!」
今年の体育祭のメインイベント、クラス対抗リレーが終わった時、アンカーを走っていた奴は僕の頭をポカンと叩いた。
その時も、僕はヘラヘラと笑ってた。笑うしかなかったんだ。
バトンをもらう時、ちょっとした事件があった事なんて、あの時同じスタートラインにいた奴しかわからない事だった。
砂埃が舞うトラックの中、バトンをもらおうと前傾姿勢をとって待ち構えていると、僕のクラスの女子の姿が見えてきた。
トラック半周を全速力で走り抜けるのなら、普通は赤鬼の様に顔を紅くさせてくるものなのに、彼女はその逆だった。
一位走者からわずかに距離を離されつつも必死に走りこんできた彼女は、無我夢中で僕にバトンを渡すと、
そのまま地面に突っ伏してしまった。きっと貧血を起こしたのだと思う。
咄嗟に僕の取った行動は、崩れた彼女の体を抱き起こそうとした事だった。
でも僕より先に誰かの手が彼女を抱き抱えていた。
そして物凄く恐ろしげな形相で「走れー!走らんかー」と僕の背中を押した。
あれはきっと、担任だったのかもしれない。
でも、あの時は分らなかった。はっと我に返って、自分が走るべき方を見た瞬間、僕は石で頭を殴られたような気分になった。
共に争うはずの走者は何処にも見当たらなく、赤茶けたグランドがぽっかりと眼の前に広がっていた。
彼女に気を取られている間に、順位は大きく変わってしまったのだ。

叩かれても笑ったのは、倒れてしまった女子に気を使わせたくなかったからだ。その時は、とにかくめいいっぱいギャグを言って、クラスの奴等を笑わせていた。でも、心の中は泣きたくなるくらい悔しかった。
走る事だけは自信があったから、自分のせいで最下位になった事は正直辛かった。
でも、皆の前では辛い顔を見せなかった。あの時も溜め込んだ気持ちをぶちまけたのは自転車に乗ってからの事だった。
僕は自転車がぶっ壊れるのではないかと思える程暴走した。
走って走って、とにかく走った。「ばっかやろー」と心の中でわめき散らし、
地平線に沈み行く太陽を睨みつけた。
そして気持ちが治まると、僕は何もなかった様な顔をしてペダルを漕いだ。

自転車を漕いでいると、その時だけは嫌なことを忘れた。
自転車で走る畦道は、走るたびにその日の天気によってさりげなく表情を変えた。
雨が降った翌日は、大きな水溜りがキャンバスとなり、真っ青な空を映した。風の強い日は道端に生え揃った雑草が大きく揺れた。
僕のちっぽけな心の叫びは、いつもこの道が受け止めてくれていた。
でも10日前の帰りから、自転車を漕いだぐらいでは治まらないような痛みが僕の心を襲うようになった。
そうだ、太陽がオレンジ色に染まって、日に焼けた僕の顔もオレンジみたいな色になって帰った、あの時からだ。
その時の事を思い出すと、胸の奥が炭酸系の飲み物を一気に3本くらい一気飲みした時ぐらいに苦しくなる。
げっぷしたいのに、出ないんだ。痛くて、切なくて、苦しいんだ。
この苦しさが何なのか分からないまま、僕は今日も自転車を漕いでいる……。



(2)
「うす」
後ろからブレーキの音が小さく聞こえる。左斜めに、僕より大柄の男の影が近付いて来る。
その影は、タラタラ走る僕の隣までくると更にブレーキをかけて僕にぴったりと寄り添ってきた。
野球部の金子だ。グローブが入ったスポーツバッグを前のかごに入れて、
ミネラルウォーターが入ったペットボトルをがぶ飲みしながら自転車を漕いでいる。
「おお」
短く挨拶を交わすと、金子から水をわけてもらう。
空気を含みながら思いっきり水を飲む。ただのげっぷなら、治まるのかもしれない。でも、やっぱり僕の苦しさは治まらない様だ。
「金子ぉ、オマエ今日、塾?」
ペットボトルを返すと、金子は残りを一気に飲み干して、空になったボトルをハンドルにパンパンと打ち付ける。
「ああ」
まだ少し残った水滴を見つめながら、僕は少しだけムッとした空気を嗅ぐ。何か、生臭い匂いがする。
すぐに地面を見ると、何に押しつぶされたのか分からないけど、牛ガエルが白い腹を仰向けにして死んでいるのを見つけた。
一匹だけじゃない、見るとあちこちで死んでいるのが見える。中には干からびているのもある。
おそらく、この道を使って田んぼに向う軽トラックに引かれたのだろう。

「うーわっ、くせー」
金子はげえーっという顔をした。
「ここのカエル、へぼくない?車も殆ど通らんのに何でこんなに引かれるんだろう?」
金子は道のあちこちに散らばっている生臭い屍を上手い事避けながら、僕の疑問にニヤリと笑った。
「知らん。オマエと一緒で馬鹿なんじゃない?」
「そうかもな」
他愛も無い会話を続けているうちに、すぐに田んぼ沿いの一本道は途切れ、僕達は町の中へ入って行く。
「じゃあな」
「おう……」
僕達は角の薬局の前で別れた。金子の背中を見送ると、僕は暫く薬局の向こうに広がる住宅街を見つめた。
ここから自転車を漕げば、3分もしないうちに僕の家は見えて来る。犬の「しろ」が玄関の前で待っている。
でも、さっきから抱えている胸の苦しさは田んぼの道から外れた途端にもっときつくなった。
「いてえなぁ……」
独り言を呟いてみる。胸にはりついたシャツをくしゃっと握り締める。
怪我をしたわけじゃないのに其処だけがドクドクと音を立てて、存在を強く感じるんだ。

どうしたんだろう、僕。本当にどうしちゃったんだろう。
何か変な病気にでもかかったんだろうか。
病気では無いと思う。寝つきが悪い以外はどこも悪くないし、風邪をひいた感じもしない。飯だって食える。
このまま、何か分からない痛みを抱えながら家に帰るのか、それともこの痛みの原因を探った方がいいんだろうか。
ハンドルの横についたミラーに西日があたり、射すように僕の視界の中に入ってくる。
一瞬、今何処にいるのか分からないほど、目の前はオレンジ色に包まれて見える。
「うわっ、まぶし……」
思わず眼をそらし、効かなくなった眼で周りを見つめる。
その時、十日前の出来事の一場面が頭ん中でパンッと音を立てて浮かび上がる。
金子と走っていた一本の細い道が、砂漠の中の蜃気楼の様に僕の心の中に浮かび上がって見えた。
白い腕。
どきっとする程、冷たい手。
倒れて歪んだ自転車のかご。
思い出す度に、苦しみが増して来る。

「やっぱり、行ってみるか」
口に出してみると、少しは楽になったような気がする。もう一度、会いたい。
何でもう一度会いたいのか分からないけれど、もういちど「アイツ」に会いたい。
そして、僕のこの苦しい気持ちが何なのかを「アイツ」にあって確かめたい。
僕はオレンジ色の太陽に向かって自転車をゆっくり漕いで行った。



(3)
僕がいつも走っているこの道は、車が殆ど通り抜ける事が出来ないくらい、細い。
舗装されていないあぜ道はあちこちに窪みがあり、雨が降ればそこには大きな水溜まりが出来る。
中には道幅いっぱいになるぐらいの大きな水溜まりも存在する。雨の日に走るのは結構大変なんだ。
晴れている時だって、走り難いのは変わらない。ガタガタした道の表面が自転車のタイヤをひょいとすくおうとする。
始めのうちはしっかりハンドルを握って、轍や水溜まりに足を取られないように地面ばっかり見て走っていたような気がする。
まあ、半年もこの道を走れば大体慣れてきて、かえってこれぐらいひどい道の方が面白くなってくる。
さっき別れた金子と、時々ここで競輪する時があるんだ。
距離にして200メーターぐらいを、始めはゆっくりと止まっちゃいそうなくらいのスピードで相手の出方を牽制する。
それでお互いの眼が合った途端、どちらからともなくスパートをかけてくる。

そこからは一気に勝負さ!
腰や膝に伝わって来る乱暴なバウンドをものともしないで、月のクレーターみたいに大きな穴を飛び越える。
マウンテンバイクでもないただの自転車。これは結構テクニックがいるんだ。
目の前に荒れた地面がどんどん迫って来る。田んぼの緑が僕の視界の両端で引っ張られて見える。
水分をたっぷり含んだ空気を鼻の穴いっぱいに吸い込みながら、
僕のすぐ後ろに迫って来るでかい存在を突き放そうと必死にペダルを漕ぐ。
何か、凄く爽快な気分になる。
まっすぐの道は、突然無くなる。農協の建物の壁が終点だ。
隠れる所の無い一本道から建物の裏にまわると、コンクリートの外壁が僕に迫ってきている様な気持ちになる。
僕達はそこで止まって、暫く話をしてそれぞれの家に帰っていくのだ。
そういえば、僕はこの「競技」に負けた事が無い。
自転車を乗り回す事だけが、今の僕の自信でもあり、心の中でくすぶっている感情を思いっきり発散できる手段なのだと思う。


でも、時々この田んぼの地主がトラックに農作業用の道具を積んで走って来る事がある。
これが結構やっかいなんだ。
広い道を走っている時は、後ろに付いた車が苛々するくらいオジサンの車はノロイのだが、こういう細い道になると人が変わったかの様に暴走する。
この道は「僕様の道なんだ!」って言わんばかりに、すげえ勢いで走って来るんだ。
日焼け対策の「ほっかむり」みたいな布を顔いっぱいに覆ったおばさんと、思いっきり赤黒く焼けたオジサンが笑っているのがフロントガラスから見える。
後ろからクラクションを鳴らされる事無く気楽に走ってるから楽しいのかな。
水溜まりの泥水を勢いよく跳ね上げ、振り子のように車体を揺らしてトラックは僕を抜いていく。
道の途中でほんの少しだけ巾がある所まで逃げるように走って、僕はそこでトラックが通り過ぎるのを待つ事にしている。
気持ち良く走りたい気持ちに思いっきりブレーキをかけられた気分になるんだ。
農家の車、最優先。この道のルールなのかもしれない。

あの時も、そうだ、10日前のあの時もそうだった。
夕日を背にして走っていたら、前から農家のオジサンが運転する軽トラックが道いっぱいにタイヤをきしませて、後ろから走って来るのが見えたのだ。
それも、前日の豪雨で出来た水溜まりの泥水を思いっきり跳ね上げて猛烈な勢いで走ってきた。

「うわっ、やっべえ!」
トラックが僕の横を通り過ぎる前に、僕は思いっきりペダルを踏んだ。
少し走ると小さな待避所を見つけ、僕はそこでブレーキをかけた。
キイッとブレーキが軋み、右足だけをぬかるんだあぜにつけて肩で息を吐きながらトラックが通り過ぎるのを待つ。
何気なく足元の草むらに視線を移すと紫色の野アザミの花が風に揺れていた。
その大ぶりな赤紫色の花びらの上に黒地に赤の紋が二つ、対になって見えるテントウムシが花粉をいっぱいつけながら何か模索しているのを見つける。
しばらくして水をかき回すような音と共に、軽トラックがすぐ僕の後ろまで迫って来る。
(もう、早く行ってくれないかな)
いつものようにそう考えていた時だった。

「ガチャン!!」
(なんだぁ?)
何かが倒れる音と、聞き慣れない悲鳴が聞こえた。
咄嗟に後ろを振り向いたけど、その時には道いっぱいに薄汚れたトラックが僕の真横を通り過ぎようとしていた。
視界いっぱいにトラックが迫ってきて、その後ろに何があるのか分からない。
すれ違いさまに、助手席に座ったおばさんと一瞬眼があう。
すぐに視線が離れ、運転席のオジサンの方を見て笑いながら喋っている。
トラックは思いっきり深くなった水溜まりを一気に通過しようと僕のそばでおもいっきりエンジンをふかした。
エンジンのウルサイ音と共にパシャンと泥水が高く飛び散り、僕の足を濡らす。
「だあ、もっと気を付けて走れよなぁ」
通り越したトラックの黄色いナンバープレートに向かって、小さくぼやいた。
トラックが通過した後の水溜まりは大きく揺れ、次第に小さな輪を描きながら夕焼けの空を映し出した。
そして、小さくなっていくトラックの後ろ姿を見つめながら、さっき聞こえた音が気になった。
悲鳴の後に聞こえた「ばっしゃーん」っていう音は何だったんだろう。
池でデカイ魚が跳ねる時の音より大きかったぞ。跳ねるより……そうだ!プールに飛び込んだ時の音に近い。
これはひょっとして、ひょっとすると……。
僕はゆっくりと後ろを振り向いた。

(4)

「うわっ、まぶし……」
夏至が近い初夏の夕日は、僕の眼をつぶさんとばかりに鋭く射して来た。
ぎゅっと眼を瞑ると、太陽の残光が緑色の丸になって僕の瞼の中に映し出される。
暫くしてゆっくりと眼を開けると、緑色の田んぼの真ん中に緑色の残光がクラゲの様に漂って見える。

ぴちゃり。

その時、何か水の中を動く音がした。
じっと眼をこらして見てみると、少し離れた所で自転車が倒れているのが分かった。そして、田んぼの中に誰かがうずくまっているのも。
(うーわっ、誰か知らんけど田んぼに落ちた奴がいるじゃん。)
さっき聞こえた悲鳴ってそれだったのかもしれない。
ひょっとして、学校で知っている奴かもと思い、僕はゆっくりとその人影に近付いた。
倒れていた自転車を見て、それが女子の物だとすぐに分かった。
ちょっとばかり、僕はがっかりした。
藤製の少し洒落たデザインの篭が前についていた。
きちんと蓋までついているんだけど、どうも倒れた勢いで蓋がもろに開いたらしい。
自転車の前篭は、その時のショックで思いっきり変形していた。

(女子かぁ……って、コイツすっげえドジな奴。自分だって、ここまで派手に跳びこまないよな。)
男だったら笑って話し掛けてやろうと思ったのに、女子にかける言葉は見つからない。
頭の中ではいろいろと思うけど、あんまり女子と話すのも好きじゃないし。
相手だってこんなドジ踏んだ所、人に見られたくないよな。僕だったら「頼むから見ないでくれ」って思う。
ほっとくのも相手のためだと思い、引き返そうと水溜まりに視線を移した時、僕の体はピクリと止まった。
(僕んとこの中学じゃ、ない?)
水溜まりの中に、通学鞄が少しだけ顔を覗かせてつかっていた。少しこげ茶色の皮の鞄は見た事の無い校章が入っていた。
(こいつ、どこの学校なんだろう)
そう考えたとき、田んぼの中にうずくまっていた何かが動きはじめた。

「あの」
「わっ!」
眼があった。女だって分かっていたけど、眼があった瞬間、一気に心拍数が上がったと思った。
体の半分は思いっきり田の泥水の中に埋まり、顔にはたくさんの泥が張りついていた。
光合成で繁殖した藻が、白い制服に海苔のようにべったりと付いていた。
「何やって」
何やっているのかなんて今更聞く事じゃないな。僕は言い出した言葉を引っ込めると、自転車から降りた。
「自分で……自分れ、じゃない、自分で立てるか?」
舌がもつれそうになる。おかしいんだ、クラスの女子と話すのとは何か違うんだ。
それより、何で話し掛けているんだ、僕。
「ううん。それより、悪いけど鞄を」
「は?鞄?」
「うん、あの水溜まりの中にある」
「あっ、ああ。わ、わかった」
可愛いらしい声だと思った。いつも男とばかり話をしてるからなのかもしれないけれど、柔らかな声が僕の胸にしみこんでくる。

水溜まりの中につかっていた鞄を引き上げると乾いた地面に置いた。
引き上げられた沈没船の様に、鞄のいたるところから泥水が流れ出てきた。
少しだけ伸びた苗は、彼女の細いからだをすっぽりと包んでいる様に見えた。
彼女事体が田んぼから生まれてきたみたいでおかしかった。
一人で起き上がろうと、泥の中についた手を踏ん張って、腰を浮かした。
でも、足が深みに嵌まったらしく、身動きが全く取れない様子だ。
僕もあったんだ、こういう事。
子供の頃に田んぼの中に入って、足取られてさ。
何とか自力で脱出したけど、靴が埋まって取れなくなったもんな。
目の前でもがいている彼女も、たぶん同じ状況だったんだろう。
始めは恥かしそうに笑っていたけど、だんだん顔がマジになってきた。

「あー、ひょっとして足が埋まったとか?」
「うん、うん。く、靴が脱げそうなの」
僕の問いに、彼女は情けなさそうな顔で必死に作り笑いを浮かべていた。
やっぱそうか、そうだよな。僕は彼女の言葉に納得しつつも、このままではいけないことも分っていた。
ここで彼女を田んぼの中に放っておくのか。それはまずいだろ。
こんな時、自分が取るべき行動は…助けてやるしか、ない!
「ほらっ!」
そう思った瞬間、僕は彼女の前に手を差し伸べていた。僕は自分のとった行動に思いっきり驚いていた。

「あっ、でも」
驚いたのは僕だけでは無かった。水面から手を出したものの、彼女は恥かしそうにまた泥水の中に手を引っ込めた。
「いいから、手ぇ出して」
引っ込められたら、困るじゃん。僕は少し苛ついた声で彼女にそう言った。
「あー、いいよ。だって」
「じゃあ、ずっとそこに浸かってる気か?」
僕の言葉に彼女の顔がキッときつくなった。大きくかぶりをふると「やだ」と泣きそうな声で呟いた。
「大丈夫だって、ちゃんと引っ張ってやるから」
そう言いながら、僕は今まで女子にこんな言葉をかけてやった事があったかなと思った。
こんな場面に遭遇した事が無かったからかもしれないけど、とにかく人の為に何かをしてやろうなんて考えた事もなかった。
けれど、今は彼女を助けたい気持ちで一心だった。

ほんの少しの間、彼女は何かためらうような顔をした。僕の腕が更に目の前に伸びていくと、彼女は初めて僕の顔をじっと見た。
少し短めに切り揃えた前髪から、大きな瞳が僕を捕らえる。
斜めに射し込んだ夕日が、彼女の瞳に映り込んでいる。きれいだなって、心からそう思った。
「ごめんね」
「あっ、ああ」
覚悟を決めたような言葉に、僕は緊張した。





【後編】

(5)
「汚れるよ」
「いいから、早く」
緊張で声がかすれてきた。音楽の歌のテスト以来だ、こんなに緊張するのは。いや、今のほうがもっとかもしれない。
僕は思わず生つばをごくっと飲みこむ。差し出した手は次第に痺れ、そこだけが異様に汗ばんでくる。
(頼む、頼むから早くこの手に捕まってくれ!)
念じるように心の中で叫んだ時、泥水が動いた。
(来た!)
指先から泥水を滴らせたまま、彼女の手がまっすぐ僕の手を目指して伸びてくる。
一瞬、にゅるっとした冷たい感触が手のひらをなでた。
(うわっ)
正直気持ち悪いと思った。でも手の中に彼女の指が絡まった瞬間、胸の鼓動が一気に激しくなったのを感じた。
(なっ、なんだ……)
一瞬、その手を振り払いたい衝動にかられた。
でもここで手を放したりしたら、今度は彼女を、田んぼの中に突き飛ばして逃げ出すかもしれない。
(しっかりしろよ。女子の手ぇ握ったくらいでビビルなって)
心の中で渇を入れると、もう一度強く握り締めた。
「行くぞ」
「うん」
「せえのー!」
掛け声をかける。
ここでしっかり足を踏ん張っていないと、自分も田んぼの中に落ちるかもしれない。
ぐっと足に力を入れて思いっきり引き上げてみる。泥土の中に埋まっている下半身は、僕の勢いで一気に上がった。
しかし、彼女の体はぐらりと大きく体がよろける。ふらふらともう一度泥の中に腰をつけそうになった。
「やべっ!」
両足を大きく開いて、前より力を入れて引っ張った。
「大丈夫か」
「うん!」
滑りそうになる彼女の指を繋ぎとめようとぐっと力をいれて握ると、彼女も必死に握り返してきた。
互いの眼を見つめあい、もう一度「せえの」と掛け声をかけると、今度は膝まで埋まっていた足がぐぐっと持ち上がってきた。
よし、ここからだ。あいている手で彼女の腕をつかまえた。
細い腕だった。オンナの腕ってこんなに細いものなんだとちょっと感動した。僕に腕をつかまれた瞬間、彼女はびくりと体を震わせた。
そんな彼女の反応に、僕も体が震えた。掴んだ腕をぐいっと自分の方へ引き寄せると、彼女の体は一気に僕に向って動き出した。
「ほら、もうちょっとだ」
「う、うん」
絶壁の崖の頂上に這い上がるように、とうとう彼女は足をガクガクさせながらゆっくりと地面に立ち上がった。
ああ、何とか引っ張り上げれた。そう思った瞬間、体中からどっと汗が噴出した。

「やったな」
気がつくと僕は彼女の肩を叩いていた。緊張がゆるんだのか、彼女は大きく息を吐いた。
制服のスカートのひだから泥水が筋をひいて滴り落ちる。
泥につかっちゃって本来の色は良く分からないけれど、やはり僕達の学校の制服では無い事は確かだ。
じゃぼじゃぼと靴から音を立てながら、彼女は僕の目線の高さまで立ち上がった。
「あのー…すっごく助かった。ありがとう、ほんとにありがとう!」
「あっ、ああ。べ、別に礼を言わなくても」
握り締めていた手が離れる。
(うわあ!自分って何かすげえ事したような感じがする)
この「現場」を学校の奴等に見られてないか気になって、僕はサッと辺りを見渡す。
隠れる所のないだだっ広い田園の中に、僕と名前も知らない彼女がいる。
ザザッと風が田んぼを通り抜ける。少し向こうの麦畑が金色の絨毯みたいに広がっていて、波のようにうねっている。
僕達以外は誰もいない。
(はあ……誰もいなくてマジで良かった……)
田んぼに飛び込んだ事も、僕が手を貸した事も、今二人っきりになっている事も、全て秘密にしたいと思った。

(それにしてもこいつ、このまま帰れるのかな?)
少し冷静になった頭の中で、僕はこれからどうしようか考える。
とにかく、そのままの姿で帰るのは可哀相だと思った。男だったら、放っておくこともできるのだが。
どっちの方向に向ったとしても、誰にも逢わずに進む事は出来ないだろう。
今頃になって名前も知らない女子に手を貸した事が、物凄く恥ずかしくなった。
自転車のサドルに腰掛けると、彼女の顔を見ないようにする。
でも、自転車のミラーに映るオレンジ色の夕日を浴びた彼女の顔を見ていると、このまま放っておけなくなってしまう。
ペダルに足を何回かけても思いっきり空回りするだけなんだ。

顔にはねた泥をあまり汚れてない手の甲でぬぐうと、彼女は横倒しになった自転車を起こす。
そして、別のところに置いておいた鞄を持って来ると、鞄を蓋を開けた。そしてすぐに「あーあ」とため息を漏らした。
中に教科書とか入ってるかもしれない。きっと、全部びしょ濡れなんだろう。
僕は自分の鞄の中を開けてみた。初めから分かっていたけど、びしょ濡れの者に貸してやるような物は何も無かった。
ノートと教科書と返された答案用紙が無造作に突っ込まれたぐっちゃぐちゃの鞄。当然、ハンカチやタオルは持っていなかった。
手を洗えば、拭かずに振り払うぐらいでたまにハンカチを持っている奴に借りるぐらいだ。
「ねえ、何か、拭く物とかある?ハンカチじゃなくてもいいの。ティッシュでもあると助かるんだけど」
予想していた通り、彼女はそう聞いてきた。
「あっ、すまん。無いけど」
僕は少し情けない気持ちになる。
こんな時、金子だったらどうするだろう。何でも格好よく決めちゃう金子の事だ。
きっとあの黒いスポーツバッグからハンドタオルなんかを出して「これ、やる」とか言うのかもしれない。
ほんと、僕って駄目な奴って言うか。肝心な時に何も出来ないと言うか……。

「ああ……いいのいいの。ごめん、気にしないで。ただ聞いてみただけだから」
僕の気持ちを察したのか、彼女はそう言って微笑んだ。
色白の頬っぺたには乾いた泥がまだ沢山こびりついていた。大きな眼の下に付いた小さな泥の塊が、ほくろのように見えた。
「もーう嫌んなっちゃう。ほんっと、私って馬鹿だなー」
彼女は自分の運の悪さを笑うしかないと言った感じだった。
「さっきのトラック?」
「うん。それもあるけど。」
「あるけどって、何?」
彼女は、僕の問いに対し地面に指を刺した。
僕達二人の影の中に、腹を出してひっくりかえっているカエルの死体が其処にあった。
「トラックが来たから避けようと思って、ここまで寄ったんだけど」
彼女が立った所に、崖っぷちぎりぎりの所で踏ん張ったような、自転車のブレーキの跡が、湿った地面に残されていた。
「爪先で踏ん張ってたんだけど、カエルがいきなり飛び出してきてあたしの靴の上に乗ったから」
「それでドボン!」
「うん。ほんっと馬鹿だよねぇ」
「いや、ば、馬鹿じゃないけど。ただ運が悪いって言うのか」
「あ、そう思ってくれるとちょっと嬉しい」
彼女の顔が明るくなる。道端に咲いていたアザミの花を一輪摘むと、彼女は自分の髪にさした。
「そうだよね、運が悪かったんだよね……」
思いっきり泥姿なのに、アザミの花と彼女はとても似合っていた。
普通、田んぼにダイブする奴っていないもんな。それも思いっきり飛び込むなんてさ。
始めはちょっとからかってやりたい気持ちで近付いて行ったのに、実際手を貸してやり彼女の言葉を聞くと何故か同情したくなる。
彼女を引っ張りあげた時に付いた泥が乾いていて、僕は軽くはらった。細かい砂の粒子が風に乗って飛ばされて行った。

(6)
暫くすると、ごおおおおっ!と、風が強く吹きぬけた。水田に小さな波が立った。
強い風だ。西の空から発達した積乱雲が勢いをつけてこっちまで近付いて来るのが見える。
この夏最初の夕立が来そうな気配だ。泥水で湿った上着が彼女の体にぴたりと張り付いている。
いくら暑くなってきたとは言え、まだ田んぼの水は冷たかった。案の定、急速に体が冷えてきたのか、彼女はぶるっと身震いをした。
僕と目が合うと、彼女は寒さに唇を青くしながら力無く笑った。
「さ、“さぶく”なってきた」
「そ、そうだよな」
腕を心臓の方向にむかって擦りあげる姿を見て、何とかならないかと思う。
やっぱここでも、金子だったらタオルなんか出してきちゃったりして、さりげなく彼女の肩にかけちゃったりするんだよ。
でも自分にはそんな気の利いた物なんか全然持っていないし……。
(いや、待てよ?!)
そう思った瞬間、僕の手は衝動的に自分のシャツのボタンに手をかけていた。
(こんなの自分じゃない!)
心の中で僕はそう叫んでいた。普通だったらこんな事はしない。
「あ、そ」と言って突き放してしまうはずなのに、今の僕は彼女の為にシャツを貸そうとしている。
震える手で一つ小さなボタンを外すと、僕は一気にすべてのボタンを外した。
そしてさっと脱ぐと、襟の所を持って、僕は彼女の目の前に突き出した。
胸ポケットについた自分の学校の校章バッチと、名札がついていたのも知っていたけど取り外している間がもたなくて、
僕はついたまま渡した。
「これ着ろよ」
「な、何?着るって」
「いいから」
「寒いんだろ」
「そうだけど、でも……」
僕の行動が何を意味しているのか、大体は分かるのだろう。でも、驚きの方が強いのかすぐに受け取ろうとはしない。
「いいから」
「だって、汚れちゃう」
「いいから、早く着ろって!」
躊躇する彼女の言葉を僕は撥ね付けるように塞いだ。
彼女はじっと僕の目を見つめた。喉から心臓が飛び出してくるのではないかと思えるほどドキドキした。
これ以上見つめられたら、今度は何をするかわからないと心の中で叫んだ時、彼女は僕のシャツに手を伸ばしていた。
「ありがとう」
彼女は僕の前に一歩近づくと、僕の眼を見つめた。彼女の瞳の中に、僕が映っていた。
口をぽかんとあけている間抜けな表情の僕が…。

彼女は僕の前でシャツに袖を通した。女子が服を着る動作なんて、今まで一度も意識して見た事がなかった。
それだけに、彼女が僕の服に袖を通す行為が、たまらなく新鮮に感じた。
「これって南中の制服?」
「あ?ああ……そうだけど」
代わりに「君はどこの学校なんだ」と聞いてみたかった。でも、言葉に出せないまま、僕は彼女を見つめていた。
僕が震える手で外していたボタンを、彼女がゆっくりとかけていく。
(すげえ、細い指してるなぁ)
僕の視線に気付いた彼女は少し恥かしそうに微笑んだ。くりっとした大きな眼が、三日月の様に細くなる。
「ぶかぶか」
「あ、あたりまえじゃん」
改めて彼女の体が華奢な事に気付く。
「あったかーい」
「良かったじゃん」
温かいのは僕の体温がまだシャツに残っていたからだ。彼女をすっぽりと包んでいるような気持ちになる。
「おかしくない?」
「いいんじゃない」
「良かった……」
覗き込むようにして見る彼女の表情が可愛らしくて、僕はふいと眼を逸らした。
「は、早く帰れよ。雨、近付いてるから……」
彼女が飛び込んだ田んぼのほうを向いたまま、僕は素っ気無い調子で言う。
勝手に一人でドキドキしているのが相手に伝わってしまうんじゃないかと怖くなったのだ。
走らせてもいないのにぎゅっとブレーキをかける。ペダルに足をかけると僕は叫んだ。
「じゃ、じゃ、帰るから!」
僕の言葉に彼女は「あっ」と驚いたような顔をした。
「あっ、待って」
僕の前に彼女は立ちはだかると、もう一度「待って!」とはっきりした口調で僕を止めた。
「ね、まだいかないで」
「いかないでって言われても、用事あるし」
用事があるなんていうのは嘘だった。彼女と二人きりでいるのがたまらなく恥ずかしかったのだ。
「名前教えて」
「えっ?!」
言われた瞬間、耳の奥が「ぐわーん」と篭った。今まで女子から「名前教えて」なんて、改まって聞かれたことがなかった。
それも切羽詰ったような潤んだ眼で見られることも。
彼女の髪が風にゆらめき、青ざめていた唇に赤みが戻ってくる。
綺麗だ。その唇に指でそっと触れてみたい。そう思った瞬間、「ねえ」と彼女は僕に話しかけてきた。
「あのね、ちゃんと洗って返したいの。凄く親切にしてくれたからお礼もしたいし」
「お礼なんて」
「ううん、ちゃんとしたいの。だから、で、出来れば電話番号とかも」

電話?電話だって?僕は頭を抱えたいような気持ちになった。
駄目だ。ぜっーたいに、駄目だ。かかってきたら、何喋ったらいいか分かんないし。
それにお礼がしたいっていう事は、どこかで二人っきりで逢う事になるし。そんな事、自分には絶対できるわけが無い!
「いい」
「えっ?」
「いいから、それあげるから」
早口でそう言うと、僕はさよならも言わないでトラックが去っていった方向に向ってペダルを漕いだ。
彼女が僕に向かって何か呼びかけているような声が聞こえた。
だけど、一度押し出したペダルはぐんぐんと加速を増す。僕は自転車が壊れそうな勢いでペダルを踏んだ。
Tシャツが風にはためく。髪が逆立った。耳がかぁーっと熱くなる。
心臓の音がドクドクと音を立てて僕の胸を思いっきり締め付けてきた。
「いてえなぁ……」
学校で起きた事を一生懸命に思いだそうと記憶を降り返ってみた。
でも、彼女に制服のシャツを渡した瞬間から、僕の頭の中はその時の事しか思い出せない。
(何なんだよ、これ!)
今まで感じた事の無い苦しさに顔を歪ませながら、僕はひたすらに自転車を漕いだ。
息が切れそうになるくらい走ってから、僕はブレーキを思いっきりかけて振り返った。彼女の姿が細い棒みたいに見えた。
その小さな姿を呑み込もうとするかのように、黒い雨雲がゆっくりと近付いて見えた……。


(7)

彼女の手を握ったときから、こんなに苦しい気持ちに攻められるとは、これっぽっちも予想していなかった。
気持ち良いような、悪いようなこの不思議な感覚は、次第にじわじわと僕の心の中を締め付けていった。
彼女と別れた時から、僕の町は毎日の様に雨が降り続いた。
僕と彼女の姿を映し出した水面は鉛色に澱み、遠くに広がる山は雨で霞んだ。

雨の日の学校は、校舎自体が濡れていた。下駄箱も、廊下も、窓も、全てが雨に濡れていた。
僕は学校に来ると、肘をつけば吸い付かれそうな程に湿った机の天板に頬を当てた。
机の上に彫られた誰かの落書きを視野にいれたまま、僕はあの時の事を何度も思い浮かべた。
今まで僕の身の回りに起きた出来事は、どんなに面白い事であっても、全てを記憶しているのは難しい。
大抵は一番面白い所か嫌な場面だけで、思い出す度に記憶は曖昧になってくる。
でもあの時の事は、何度ふり返ってみてもしっかり思い出す事が出来るんだ。
蒸しっとする空気の中、教室の窓についた水滴を見つめていると、彼女の白い頬に飛び散った泥を思い出す。
そして引っ張りあげた時のやわらかい手の感触は、僕にとって今までにはない感動だった。
こんな変な事に感じてしまう自分が恥かしく、必死になって忘れようとしたけどかえってそれが逆効果だった。
忘れようとあがこうとすればするほど、あの時の想い出が苦しい程に蘇った。


君は何ていう名前なんだろう。学校は?家は?

本当は彼女に聞きたい事が山ほどあったのだと、今更ながら気付いた。
渡したシャツは戻ってこなくてもいいから、もう一度彼女に逢いたいと思った。
ぱっとしない天気が続く中、僕は学校からの帰り道に彼女を待つようになった。
彼女の手をとったあの場所まで来ると、自然に僕は自転車のブレーキをかけていた。
そして自転車にまたがったまま、僕はじっと田んぼの水面を見つめていた。
顔見知りの奴等が、そんな僕を面白そうに見ながら追い越して行っても、僕は暫くそこにいた。
しかし、あの日以来彼女の姿は一度も見ることができなかった。
あんな恥かしい目にあったんだから、もうこの道を通る事は無いのかもしれない。
それともこの道を通ったのも、たまたまの偶然なのかもしれない。
見た事のない校章と制服のデザインが、何となく一度っきりの出会いの様な気がした。
わけもなく感傷的な気持ちに浸りながら、僕は家へ向った。

今回のことは、僕は誰にも話さなかった。いつも教室でばか騒ぎを一緒に興じてくれる奴等には、特に話すまいと決めていた。
案の定、いきなりTシャツ1枚で帰ってきた僕に対し、母親は「何があった」と聞いてきたけれど僕は沈黙を通した。
誰にも言えない秘密なんて、そう今までには無かったから、僕の心はとても不安定だった。
田んぼに落ちた運の悪い女子に、何でこんなに気になるんだろう。
この胸につかえるもやもやとした想いをぶちまける事ができたら、どんなにスッキリとするか。
そして僕のこの想いは、いったい何なのか。
暗闇の中から手探りで光を探すように、自分の内面を探る日々が続いた。



そして彼女に出会ってから10日目。もう一度この場所に僕はいる。
自転車を止めて、いつもの様に後ろの荷台に腰かけた。膝丈程の伸びたねこじゃらしの草を抜いてもてあそんだ。
「名前教えて」
あの時の彼女の言葉を思い出す。
えーと、僕の名前は…。彼女がもう一度同じ事を言ってくれたら、僕は自分の事をどう紹介するのだろう。
「えっと、“そっち”の名前は」
きっと僕は、彼女の名前をそう尋ねるのだろう。心の中では何度も「君は」と呼びかけているのに、僕は無愛想な声でそう言うのだ。
そしてもしも、「あのね、今度服を返したいんだけど」みたいな事を言われたら、きっとこう言うに決まってる。
「じゃ、いつか逢える?」って。
クラスの奴等には絶対に聞かれたくないような会話を、彼女と交わしてみせるのだ。
しかし今、僕の目の前には彼女の姿は無い。久しぶりに見る夕焼け空の下、僕は彼女の幻影に話しかけているのだ。
遠く離れた水田で、シラサギが餌を探している。ごみぐらいの小さな羽虫が大軍になって、僕の目線低く飛んでいた。
羽虫が低く飛ぶ翌日は、雨が降る。あとどれぐらい雨は続くのだろう。そして雨が振るたびに、また水溜まりが出来るんだ。

いつまでも日は落ちないと思えるくらい、太陽は長く地平線の上で止まっていた。
それでも東の空から金星が輝き出すと、空は一気に夜の顔になった。
オレンジ色の空は何時の間にか紫色に染まり、太陽が沈んだ西の空に少しだけ明るい光が残っていた。
そしてとうとう、夜になってしまった……。

辺りはすっかり暗くなっていた。見渡すと遠く向こうに街の灯りが見えた。
山の方角に電車が通過する音が聞こえる。田んぼからはカエルの鳴き声が聞えてきた。
「来るわけないよな」
そう呟いて空を見ると、飛行機が高度高く飛んでいた。
不思議と昨日までのような辛い気持ちにはならなかった。たいした事もしてないけど、やるだけやった様な気がしたからだ。
今まで僕は、こんなに人に対して興味を持つ事はなかった。胸が苦しくなるほどの切なさなんて感じたことがなかった。
この苦しい気持ちが何なのか、答えを求めようとずっと自分に問いただしてみたけれど、やっと僕は答えが見つかった。

これは恋なんだ。


凄い感情だな。苦しいのに、暖かくて気持ちがいい。いつかは苦しい気持なんて感じ無い、恋ができるのかもしれない。
求めていた答えが見つかって、少し気持ちがすっきりした。しかし、僕が抱くこの感情は、きっと彼女に伝わることはないと思った。
サドルにまたがると僕は自転車を漕いだ。

走りながら、学校で起きた出来事が久しぶりに思い出された。黒板に書いた日直の名前。あれは僕の名前だった。
でも、日直がやるべき日誌なんか全く書いた覚えが無いのも思い出した。
給食の時間、後ろの席の木村が僕の椅子をドンと蹴った事も思い出した。
そうだった、あんまり僕がおとなしかったから、アイツ心配してたんだな……きっと。
自転車の車輪のまわる音と一緒に、僕のまわりでおきた出来事が次から次へと心の中に浮かんで来る。
「もう逢えないんだよな、きっと」
口に出してみると、逢えない事の切なさが「しゅう」と僕の心を焼いた。
彼女に恋しているけれど、彼女を待つ事は今日でやめようと決心した。
きっとこの道を通るたびに、僕は彼女のことをこれからも思い出すのだろう。
「名前教えて」
あの時の彼女の顔を思い出した。




(8)

彼女の姿を探すのを諦めてから半月がたった日曜日の朝。僕は学校へ向かっていた。
まだ一学期が終わらないうちから、学校はもう進路対策が始まっていて、今日は二回目の模擬試験だった。
前回は英語と歴史が最悪な点数だったから、今回は何とか良い結果を出したい。
今まで赤点をとってもへらへらしていた僕も、だんだん笑えなくなってきていた。このままじゃ、志望校は一つも受からない。
徹夜して覚えた歴史の年号をお経を読み上げるように呟きながら、僕はペダルを漕いだ。
からからに乾いた道を、僕は今日も自転車で走っていた。

季節は本格的な夏を迎えていた。
走っていると、背後から聞きなれた車の排気音が聞こえた。振り向くと、いつもの軽トラックがこっちに向っていた。
いつもの様に自転車を止め、軽トラックに道を譲る。助手席に乗ったおばさんが「ありがとねー」と軽く手を振る。
荷台に積んだ籠からは、収穫したばかりのジャガイモの匂いが僕の鼻孔をくすぐる。
トラックが走り去っていった後の畦道には陽炎が立ち、紫色のセセリ蝶が低く飛んでいた。
そして、以前彼女を助けた場所にさしかかった。
ここ数日、眼を瞑るようにして通り過ぎていったその場所で、僕は久しぶりにブレーキをかけた。

風が吹きぬけるたびに、伸びた苗は緑の波の様にうねる。
あの頃、彼女を呑み込もうとしていた泥水は、よく育った苗床に少し浸るぐらいしか殆ど干上り、水が引いた土には、
彼女の白い頬っぺたを彩っていた藻が少しだけ浮いていた。
彼女を脅かしたカエルは、この暑さでぐったりしているのか、道に迷い出て来る奴は一匹もいない。
ただ、小さな蛇が車に引かれてぺっちゃんこになっていた。

ねえ、君は今頃何をしているんだろう。
僕と同じ様に、進学の事や将来の事について何か考えているだろうか。
そして君も、誰かに恋をしているのだろうか。
彼女の手を掴んだ時のまっすぐな瞳を思い出して、僕は心の中で彼女に呼びかけてみる。
来年の今頃は、きっとこの道を走る事は無いだろう。
何処の高校に行けるのか分からないけれど、僕はまた新しい道を自転車で走る事になるだろう。
そして彼女の事も、きっと忘れてしまうのかもしれない。
彼女のことを想うと、まだ胸の奥が苦しくなる。これ以上感傷に浸ってはいられないと、ペダルに足をかけたその時だった。

「ちりちりちりん」

背後から聞こえる自転車のベルに、僕は聞き耳を立てた。
ちりちりちりん。
ちりちりちりん。
まるで、僕に呼びかけるようなベルの音だ。誰が呼んでいるんだろうと振り向いた瞬間、僕はぐっと胸が熱くなった。

彼女だ!

まさかと思ったものの、その姿は絶対だった。
遥か向こうに小さな自転車が、ゆらゆらと揺らめきながら僕を目指して走ってくる。
小さな自転車は真夏の日を反射してキラキラ光っていた。
時々、大きな穴にハンドルを取られながら、一生懸命に僕を目指して近付いて来る。
そして何度も何度も「ちりちりちりん」とベルを鳴らしてくる。
逢いたい逢いたいと焦がれた想いが、もう一度僕の心を震わせている。
彼女のベルに応答するかのように、僕もベルを鳴らしてみる。すると彼女が僕に向って大きく手を振った!
(あっ……)
彼女の手のひらに触れたときと同じように、ベルに触れていた手がぶるぶると震えてきた。
僕はゆっくりと深呼吸をした。自転車の音はどんどん近づいてくる。彼女の笑顔が僕に向けられているのをはっきりと感じる。
(まいったな)
始めに何を話せばいいのか考えてちょっと困った。
でも、今度は逃げ出したりはしない。
とにかく名前だけでも聞いてみよう。
それだけでいい。もう一度、あの笑顔を見れるだけでいい。

夏色の空が僕達の向こうに広がっている。
空の青と緑の苗がとてもきれいだと思った。
そして青空に向かってガッツポーズを決めると、僕も彼女に向かって自転車を漕いだ!



End


2004-06-20 12:26:06公開 / 作者:カオポン
■この作品の著作権はカオポンさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
「はじめまして、皆さん。
こちらの掲示板に初めて投稿させて頂きます。内心、ちょっと緊張しています。
もし宜しければ、この話の感想や御意見を聞かせて下さると嬉しいです。
どうぞ宜しくお願い致します」
……と、初投稿の時にこんなコメントを伝えさせて頂きましたが、実際に読んでくださった方もいらして、とても嬉しく思います。
感想やご意見も頂きまして、ホントお茶でも出せるようならとっておきの新茶でも淹れて
「ささ、どうぞ」と一服さし上げたい様な気持ちです。
本当にどうもありがとうございました。さて、このお話の後編を今回投稿させて頂きます。
また宜しかったら、御意見、御感想を頂けると嬉しいです。どうぞ宜しくお願い致します。

では簡単ではありますが、ありがたき言葉を下さった方々にお返事であります。


(霜様へ)
初投稿でがちがちに緊張していた私に、一番初めに感想を下さった霜さん。本当にどうもありがとうございます。
タイトルって、難しいですね。自分は、どうもタイトルネーミングのセンスが悪いなあと思うことがあります。
霜さんが仰るように、タイトルと本文の関係性があまり無い様な気が私もしております。
ちなみにこの話、「自転車少年」とか「オレンジ色の恋」とかそんな題名も候補に挙がっておりました。
タイトルについては、これからの課題ですねー。貴重なご意見、大変参考になりました。

(律様へ)
お話を読んでくださいましてありがとうございました。私の住んでいる所……と、言うより、住んでいた所がこんな所でした。
ただ、田んぼしかない。とても静かな田舎町に住んでいたのです。最近、想い出の場所めぐりという事で、この話の舞台になった
田園地帯に行ってきました。丁度地元の学生達の下校時間でしたよ。

(卍丸様へ)
こちらの投稿作品で一番初めに読ませて頂いた作品は、卍丸さんがお書きになった「ダイナマイトとクールガイ 」と、「河童」でした。
私の大好きなバンド「ムーンライダーズ」の曲にもこのタイトルがあって何ともいえないシンパシーを感じました。
(ムーンライダーズ?そんなの知らないよ、でしたらすみません)
勿論、作品の内容もとても良かったのです。その作者の方に眼を通してもらえたのはとても光栄な事です。ありがとうございました。

(春一様へ)
「指摘してみました。申し訳ないです」
とんでもない!貴重なご意見ありがとうございました。自分でも書いていて読み返すと「うわっ、くど!」と思う事があるんですよ。
このお話は丁度一年前に書いたものを、最近改稿した(殆ど書き直しました)のですが、
今でも削るところとか、逆に描写が書ききれていないところがあるなあと感じるところがあります。
今回、後編まで書き直してみましたが、もう少しこの話を“寝かせて”みて、また書き直して行きたいと思います。
その時、春一さんに気付かせて下さった部分も参考にさせて下さい。ありがとうございました。
この作品に対する感想 - 昇順
田園の風景が目に浮かぶようですね。
情景描写がとても丁寧でよかったです。
初めは誰でも緊張するものですよね(笑
自分も、ここに来たとき似たようなことを書きました。
前編は題名とあんまり関連していないようで(すでにしてるのかな? してたらごめんなさい(汗 )。
後半が関係しているみたいですね。どんな話になるか楽しみです。
続き頑張ってください。
2004-06-16 20:13:35【★★★★☆】霜
霜さんと同じような感想になってしまうのですが、冒頭の夏の田園風景の描写がとても好きです♪カオポンさんの住んでるところはこうゆう所なのでしょうか?いいなぁ〜♪こうゆうところって大好きです!文章のテンポも良かったです!次回を楽しみにしています☆
2004-06-16 23:01:49【☆☆☆☆☆】律
はじめまして。読ませていただきました。文章がとても読み易く、初投稿とは思えないほど、小説を書きなれていると感じました。描写もしっかりしていて、情景がよく頭に浮かびます。特に、序盤のほのぼのとした雰囲気がとても気持ちよかったです。後編も期待しておりますので、頑張ってください!
2004-06-17 08:58:23【★★★★☆】卍丸
おんなじような感想を書くことを、どうかお許しください。ですが本当に、描写がかなりの力量だと思います。ですが(またか)、その描写をつけすぎた感もちょっと伺えたかな、と。自転車で競争するシーンなどは、心理描写による回想ではなく実際にやってみた方が、主人公の自転車好き度がわかる気がしました。完成度が高い、と自分は判断したので少し突っ込んだ所まで指摘してみました。申し訳ないです。後半、楽しみにしております。
2004-06-18 18:17:04【☆☆☆☆☆】春一
いや、タイトルは目を引く形でとてもよいと思われますよ(笑
恋愛話でちょっとありがちな話ででしたね。でも、途中で終わる形になっていたのがとてもよかったと思います。ほほ〜う、そう来たかと(変な)感心してしまいました。
これからも頑張ってくださいね。
2004-06-19 10:27:21【★★★★☆】霜
計:12点
お手数ですが、作品の感想は旧版でお願いします。