『君の声が聞きたい…。第1話』作者:セツ / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角18252文字
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原稿用紙約45.63枚
 ある日、荻島七海は夜明け前にふと目覚めた。こんなことは滅多にない。
十月の肌寒い中、暖かくなっているベッドで気持ち良くなり、また目を閉じる。
その時、裏庭の網戸が開く音が聞こえ、ゆっくりと起き上がった。
 「…潤?」
二段ベッドの梯子を登り、弟の名を呼ぶ。
見ると、そこの主は不在だった。毛布に触れてみる。
まだ微かに温もりがあった。たった今出たばかりだ。
タオルケットを羽織り、足音をたてないように歩く。
床はヒンヤリとして、せっかくの暖かさが一気に吹き飛んでしまう。
 網戸が少しだけ開いていて、弟は床に座って外を眺めていた。
その背中をポンと叩く。
驚いて振り向いた弟は、姉だと分かると微かに笑った。
 「まだ五時過ぎじゃない。母さんもまだ起きてないのに…。どうしたの?」
 弟は目を伏せて、『何でもない』と言う様に首を振った。
そして網戸をさらに開けると、彼女が座れるスペースを作った。
隣りに腰掛けた姉を一瞥して、まだ暗い空を見上げる。
 寒いよと言って、弟の肩にもタオルケットを掛けてやった。
しばらくの間、座って外を眺めていた。しだいに空が明るくなっていく。
その経過を見るのがおもしろい。
 弟の横顔を見つめた。今年で高校生になった潤とは一つしか違わない。
七海が明るく陽気でおしゃべりな性格なのに対して、彼は大人しく真面目で
無口だった。そんな正反対な二人だが、一番仲が良く気が合っていた。
 
 無口というのは、『口が無い』と書く。
弟は、その言葉通りだった。度が過ぎて、二年もの間誰ともしゃべっていない。家族とさえも。
彼は“ある日”を境に話すことを止めてしまった。
もちろん家族は全員驚き、あらゆる説得を投げ掛けたが無駄に終わった。
 “ある事件が、潤の声を奪ってしまった……” 
七海は、弟の声をほとんど忘れ掛けていた。
 冷たい風が体の横を通り過ぎていく。
弟は遠くの空を見つめたまま、心地良さそうに微笑した。
彼の黒髪が、風に軽やかに揺れていた。


 「あら、七海。今日は早いのね」
 母は、七時以降にしか起きてこない娘が六時過ぎに下りてきたので、驚きの表情をした。
 「うん。たまには潤と一緒に行きたいなと思って」
 「それはいいわね。潤は六時半には出ちゃうから」
そして、男の子にしては小柄な我が子に視線を移した。
息子は、ゆっくりと朝食を食べている。
その向かいに娘が座り、弟の肩をポンポンと叩いた。そして、顔を上げた潤
の鼻を摘んでからかう。呆気に取られている表情が面白くて、七海は彼を指差して笑った。
それでも、潤は姉の行動を無視して食べ続ける。
 「これでもかぁ――――っ?!」
 動じない弟に、七海はさらに悪戯を仕掛けた。
彼の頭を両手で力強く擦り、髪をグシャグシャにしてしまったのだ。
潤は持っていたお椀とお箸を置いて、七海を呆れ顔で見やった。
 「あっはっはっは!変な頭――!」
 その笑いに我慢出来なくなった潤は、突然姉の両頬を掴むと、横に伸ばした。七海も相手の両頬を掴み返す。
 真剣な顔でやりあっている二人に、母は笑みを見せながら言った。
 「七海、そのくらいにして。今ご飯入れるから。潤、さっさと食べて。
もうそろそろ行く時間でしょう?」
 おふざけを先に中断したのは、やはり潤だった。両手を放すと、まだ彼の頬を掴んでいる七海を見て、彼女の手を指差した。
ジェスチャーだけでもその意味を充分に理解できた。
だが、七海はまだふざけ心が抜けずにいた。
 「それじゃあ、『放して』って口で言ってよ。そうしたら―――」
 「七海!いい加減にしなさい!」
七海は、母の怒鳴り声にハッとした。いつの間にか、家の中では禁句になっていることだった。
皆、弟の“声”のことを口に出してはいなかった。
 行き過ぎてしまったという後悔が渦巻いて、七海は気まずくなった。
弟の頬からゆっくりと手を放す。
潤はというと、先ほどの言葉をさほど気にする様子は見せていない。
何でもなかったように朝食を食べ始めた。
 七海は振り返り、朝食を作っている母の後ろ姿を見つめた。ふざけた事を
怒っているのではなく、言ってはいけないことを言ってしまったからだ。
母が一番弟のことで悩み、口には出さずとも毎日なぜ話さなくなったのかを
考えている。そして、潤をこんなにまで追い詰めた“事件”に対して憤りを
感じているのだ。
 
 ふと、話さなくなる数日前に、潤が呟いた一言が思い出された。
 『僕の存在に、意味なんてあるのかな…』
 その言葉を聞いた時、七海は何も訊ねなかった。
 『どうして?』とか、『なぜそう思うの』などという問いを投げ掛ける事が出来なかった。彼の横顔には悲しみと怒りが窺えた。
その雰囲気に心が締め付けられたからだ。
弟の発言に驚き、しばらく何も言えずに彼を見つめていた。
数ある慰めの言葉を探したが、その中のどれも、今の彼を立ち直らせるほどの効果は持ち得てなさそうだった。
 七海が彼の横に座った途端、潤は突然立ち上がった。そのいきおいのある
動作には、苛立ちが表れていた。
“いくら考えていても、どうにもなりはしない。解決策が分からない”
言葉ではなく、態度で示していた。早足で立ち去ろうとした潤を、七海は
切羽詰った様に呼び止めた。
 姉の声を聞いた潤は、彼女の声の様子を内心気に掛けたが、そのまま歩を進めて部屋を出た。
 後に残された七海は半ば呆然としていた。自分がなぜ悲鳴に近い大げさな
呼び方をしたのか。その“直感”とも言える理由を考えた時、さらに不安が広がった。
 “消えてしまう”そう思えたからだ。家出という意味ではなく、弟の心が変わってしまい、自分の知っている弟がいなくなるのでは…。という、恐怖に捕らわれたからだった。なぜそのように感じられたのかは分からないが、
“直感”は確信に近いものだった。
 潤は、決して悩み事を打ち明けることはなかった。そんな彼が、あんな辛そうな表情で予想もしないことを言ったのだ。
“初めて、SOSを出したのに……。私は何も言えなかった。慰めてやることも”
後悔を感じ始めていたが、弟から悩みを聞き出すのは無理だろうと思った。
“事件”の事については、潤は話したがらない。
そして、その予想を潤は裏切らなかった。何度聞いても何も言ってはくれなかった。
 “あの時、慰めの一言さえ言っていたら、打ち明けてくれたかもしれないのに!”
雰囲気にすっかり飲み込まれ、何も出来なかった自分に苛立った。

 その夜、“弟が弟でなくなる”のが怖くて、ベッドの梯子を登り、潤に言った。
 「ねえ、一緒に眠らない?」
 「何?突然」
弟は眉を顰めて訊ねた。
 「たまにはいいじゃない?」
 「でもさ…」
 「照れない、照れない。私は何とも思ってないから。さ、早く!」
 「僕が思うんだよ!もう僕は中二!そろそろ止めよう。一緒に寝るのは」
ベッドの中では狭いので、床に布団を敷いていた。一緒に寝ようと手を引っ張るが、払い除けられる。
 毎日一緒というワケではない。時々だ。二人とも夜更かしをして、色々な事を話し合ったりした時や、一人では不安な時。
側に弟がいてくれると落ち着いた。その、二つの場合だけだった。
そしてその一つに、私の心情は当てはまっていた。
 「お願い。側にいてよ。私、何だか不安なの」
それを聞いて、弟はやっと私の話に耳を傾けた。
 「不安?何かあったの?」
 少しの間話そうか迷ったが、肯定と否定の答えを行ったり来たりした末、
言うことにした。
 私が神妙な顔をして下に下りたからなのか、嫌がっていた彼も心配になったらしい。自分のベッドから下りてきてくれた。
そして、布団の上で膝を抱いて座っている私の隣りに来ると、ゆっくりと腰掛けた。
 「話したいのなら話して」
 彼が持っている独特な話し方に、私は安堵感を覚えて弟を見つめた。
優しい響き。ソフトで、聞いているだけで心がホンワカと温かくなる。
安心できる声。他の人のように鼓膜にギンギンと響くような声は出さない。
声を荒げることはあっても、その中にさえ穏やかさが残った。
 弟の声に不安が薄れていくのを感じながら言った。
 「潤が、どこか遠くに言ってしまう気がする。潤の心が変わってしまうんじゃないかって。それを思うと不安で…」
何を言ってるの?そう言いたげな弟の両腕を掴んで、強い口調で懇願した。
 「お願いだから、このまま変わらないで。これからもずっと私の知ってる
弟でいてよ。“私の弟”がいなくなって、別人になんかならないで」
 潤は、驚いた表情で聞き入っていた。が、私が話し終えると同時に頭をポンポンと軽く叩いた。
その行動は、私に対する慰めだった。
 「何の事を言ってるのかハッキリ分からないけれど…。僕は僕だよ。
別人にはならない。第一、なれるワケないだろ?そう思わない?」
潤は、例の穏やかでソフトな話し方で私に言い聞かせた。
 「うん……」
頷く私に優しく微笑み掛ける。この時、弟の笑顔にしばし見惚れていた。
 自分の家族のことをやたらに褒める人は少ない。けれど、私は潤のことを
自慢できる。彼は、私の知っている人達の中で一番綺麗だった。弟は時々、
ハッとするほどの綺麗な表情をする時がある。容姿がどうのという事じゃなくて、ちょっとした時にふと、
弟が持っている魅力に気付かされるのだ。
人の心を癒してくれる力。ギスギスした気持ちを、その優しい声と存在で
消し去ってくれる。その力に触れた人は、途端に彼の美しさに気付く。
きっと、ハッと息を飲むことだろう。
 私は、そんな彼の優しい声が大好きだった。だが、もうその声は聞こえてこない。
あの時の直感通り、弟は行ってしまったのだ。


 玄関にある鏡を見つめていると、潤が“行こう”と指で示した。
 「うん。ご免ね、私の準備が遅くて…」
潤は、私の言葉を最後まで聞かずに表へ出た。
出る際に、私の肩にぶつかったが、謝りの言葉はなかった。
ただ、“あっ”という顔をして私を見た。そして、悪かったと片手を挙げる。喜怒哀楽を表情で表していた。
自分の思っていることを出来るだけ顔に出し、
気持ちを相手に伝えようとする。
難しい事を話す時は紙を使っていた。だが、それさえも潤は嫌がった。
 前までは暗くもなく、かといって明る過ぎという印象もなかった。
普通の、どこにでも居そうな少年だった。
それが今では内向的になり、まったく笑わなくなった。
一日に一度か二度、微かに笑みを見せるぐらいだろうか。
本当に、対照的な人物になってしまっていた。“あの”事件以来…。
 昔の弟を幾度となく懐かしむ。
隣りに並んでいる潤の顔を盗み見て、あの頃の面影がないか探す。
 
 唯一の救いは、優しさまでが消えなかったことだ。
もちろん、彼の綺麗な表情も時々見ることができた。
 こんなに変わってしまった後でさえも、本当に彼は優しくて思いやりがあった。それだけは、心の底から良かったと思っていた。
もし、優しさも全て失って冷たい人になっていたら、私は弟を好きではいられなかったはずだから。
 
 ふと、後悔の波が襲ってきた。あの日、あの時、何か一言でも言葉を掛けてやれてたら。
たぶん、弟は今でも変わらないでいたかもしれない。皆と一緒に話して笑い、冗談を言い合えたかもしれない。
 突然、ポンポンと頭を軽く叩かれた。
弟を見る。彼の手が私の頭に置かれていた。
目が合った弟の表情は、私を心配している。
今にも「大丈夫?」という声が、彼の口から聞こえてきそうだ。
優しい、穏やかな口調の。
もう二年もその声を耳にしていない。聞きたい……。
急に切なくなった。胸が締め付けられそうになる。
パッと視線を逸らして、正面を見た。学校の門が見える。
まだ、登校中の生徒は一人もいない。
 
 “これから、また同じ一日の始まりだ”
二人共、同じ事を思った。姉の方は、そう。大した変わりもなく一日が過ぎるだろう。だが、弟の荻島潤はというと――――…。
もちろん、彼は知る由もない。


 階段を上り自分の教室へと入った途端、潤は立ち止まった。
いつもは彼が最初の登校者なのだが、今日は違ったらしい。
中にいたのは、クラスメイトの中山と一学年で目立っている四人組。
彼らの横暴さは時々目にしていた。だが、クラスメイトまでが標的にされているとは知らなかった。
幸いなことに、四人組とはクラスが違っていたのだ。
 中山少年は自分の財布から万札を出して、彼らに渡している。
 「よ―し。ちゃんと持ってきたな。何だよ、言う通りにしてりゃ、
何もしね―って」
中山少年のおどおどした態度を面白がっているかのようだ。
 「また明日も来るからな」
 「今日はこのまま遊びに行こうぜ」
教室から出ようとした一人が潤に気付いた。
目が合った途端、潤は奴を睨んだ。その男は、彼より随分背が高かった。
挑戦的な態度をした潤を、余裕そうに鼻で笑う。
 「何かな?おチビちゃん。俺達のやってることに文句でも?」
四人共、潤を気にも掛けずに彼の横を通り過ぎていく。
その後ろ姿を敵意の眼光で見送って、教室の中へと入った。
中山少年も顔を伏せたまま、何も言わず逃げるように教室を出て行った。


 いつもより早く登校した小林広次(ひろつぐ)は、クラスメイトの
無口少年を見ると、教室の中に入るのをためらった。
二学期の転入初日から、『あいつは変な奴なんだ』と聞かされていた。
実際、荻島という男は一言もしゃべらない。話すのを見たことがなかった。誰かが話し掛けても、口では言わずに素振りや紙に書いたりする。
それでクラスの皆からは、『暗い』だの『何を考えてるか分からない』だのと囁かれていた。
そういう場面を何度も見たり聞いたりしていたが、『変な奴だな』と
思っただけで、“話し掛けないでおこう”という気持ちにはならなかった。後のクラス全員が、その少年と距離を置いて、背を向けていた。
中に入るのをためらわれたのは、予想もしない事だったからだ。
まさか彼が、こんな早い時間にいるとは思わなかった。
それに、これまで二人きりになるという場面は一度もなかったし、
“話す”ということもなかった。
 “驚き”が足の運びを止まらせたが、それはほんの一瞬だった。
自分の席へ向かいながら、「お早う」と声を掛ける。
荻島は俺を見ると、「やあ」とでも言う様に片手を頭の位置まで挙げた。
 「いつも早いのか?」
続いて訊ねた質問に、彼は口の“動き”で「ああ」と言った。
 「へえ、早起きなんだな。俺は今日は特別なんだよ。朝は苦手だ」
そこで一端話を中断して、カバンを机の上に下ろした。
そしてカバンを開けると、映画のチケットを二枚取り出してポケットに入れた。ある女の子の顔が浮かぶ。彼女のためにチケットを購入したのだ。
 カバンを棚の中に入れながら、荻島を見やった。
机の上に頬杖を付いて、窓の外を眺めている。
彼と会話したのは、今日が初めてだった。正直言って、面食らっていた。
前から思ってはいたが、荻島は人が話し掛けても、
ちゃんと相手の顔を真っ直ぐに見つめる。クラスの皆は『暗い』と言うが、
彼の毅然とした態度を目にする度に、そうではないと思っていた。
 話し掛けた時、無視されるんじゃないかとも思ったが、それもなかった。
きちんと相手の呼び掛けに答えてくれる。荻島はそういう男だ。
 彼の瞳はじっと俺を見据えていた。瞳の中に“力”があって、
態度もさっぱりとしている。『暗い』というイメージとは合わない、
精神的な力強さを感じさせた。
そして、無口だからといって、人との接触を避けるという事もなかった。
ただ、自分からクラスメイトに近付くというのはないようだが。
 この日、改めて荻島潤という男を考えてみると、“話してみたい”という
思いがみなぎった。興味に近かった。
 皆の言っているような暗い奴なんかじゃない。
話さないことで、大分コミュニケーションはしにくいだろう。
だが、それが何だ?
絶対に、彼の“話す声”を聞き出してみせる!
 考えにふけっている間に、ほかのクラスメイトも登校してきていた。
その中で一人、心の中で決意の喝を入れ、そして荻島を見た。
彼と目が合った。俺も今気付いたことだが、しばらくその場に突っ立って
いたらしい。
荻島も、不思議に思ったようだった。
 「あれ、俺ずっとここにいたのか。席に戻って考え事をすればいいのにさ。何で気付かなかったんだろう」
そう言って苦笑いをして見せると、彼もフッと微笑した。
それを見た途端、驚いて口が開いてしまった。
今までに彼の笑みを見たことがなかったからだ。
“荻島が笑った?!”
俺の言ったことが可笑しかったんだろうか…。
だが、荻島はすぐに前を向いてしまった。
 珍しいものを見たなと思いながら、ゆっくりと歩いて席に戻った。
そして気付いた。教室に来ていたクラスメイトの殆どが、“珍しい笑み”を
目撃して目を丸くしていることに。
その日、彼らは現場にいなかった友人達にその事を話し、俺は「いつの間に
友達になったのか」と質問攻めに遭ったのだった。
また、事実が一つ浮かび上がった。
 『笑った顔がとても良かった。案外優しい人かも』
これは女子群の意見。
彼女達の間で好感を持たれたのは、言うまでもないことだ。


 藤井一臣は、突然笑みを見せ、鼻で笑った。
それを聞いて、前を歩いていた三人が立ち止まった。
 「どうした?」 
肩まで髪を伸ばし、茶色に染めている涼が訊ねる。
 「ある奴のことを考えてたんだよ」
 「中山のことだろ?あいつ笑えるよな。いつもビクビクしてやんの」
髪を五分ぐらいまでカットし、片耳にピアスをしている正樹が言う。
すると、一見秀才に見えるメガネを掛けた浩也も吹き出した。
彼はヘビースモーカーで、今もタバコをくわえている。
 リーダー格の一臣は、外見での特徴が何もない。
髪は普通の長さで、染めてはいない。メガネやピアスもしてはいなかった。
タバコも吸わないし、勧められても酒は飲まない。
他の三人と違うのは、“冷酷さ”だろう。
それは自他ともに認めていた。
彼は、他の人がやりそうもないことを涼しい顔でしてしまう。
残酷な事を平然と。時には、笑みが浮かんでいる。
“ターゲット”に対して、どこまでも非道になった。
 「決めた。そろそろ次のターゲットにしよう」
一臣は三人を交互に見た。
 「はあ?!何でだよ。あいつもっと金持ってそうだぜ」
涼の言葉に、笑みを見せていた彼の表情が一変した。
 「俺の目的は金じゃない。思い切り懲らしめる事だけだ」
今にも何かをやらかしそうな危ない目付きで、涼を睨んだ。
 その凄味のある態度に、涼は恐れを感じて押し黙った。
一臣は、次なるターゲットを既に決めていた。
さっきまでそいつの事を考えていた。
俺を睨んできた奴。あの瞳が嫌いだ。絶対に弱い所を見せなさそうな…。
飲みかけのビンを、力の限り壁に投げ付けた。
ビンは粉々に割れ、中に入っていたジュースが壁を濡らした。
一筋の線となり、下へと伝っていく。
据わった目をして、それを見つめた。“あいつを傷付けてやる”
仲間を一瞥して、やっぱり学校へ戻ると告げた。


 七海は潤と一緒に帰ろうと思い、その約束をしに彼の教室へ来ていた。
窓から教室の中を覗いて弟を探すが、どこにもいない。
三時限目の休み時間のことだ。
 “いつもはいるのに…”
戻って来ないかと廊下の遠くを見つめる。
その時、教室の出入り口で何やらもめている男女に気付いた。
 「それじゃあ、映画はどうするんだ?」
 「行けないの。今日は家にいないと…。母さんに急に用事ができて。
弟の面倒を看なきゃ…。本当にゴメン。久しぶりの映画だったのに」
 「……そうか。なら仕方ないな。いいよ、大丈夫。気にするなよ」
 そのやり取りを見ていた七海は、こんな時自分の彼氏ならどんな反応を
するだろうと考えていた。
まだ付き合い始めて、一ヶ月も経ってなかった。実は、その彼氏とは
喧嘩中だった。彼が言うには…。
『弟の話ばかりするのは止めてくれよな!口を開けば弟が何をしたとかの話
ばっかりだ!』ということらしい。
七海は言われるまで気付かなかった。ただ、頭に浮かんでいることを話題に
しただけだ。――――ということは、弟の事ばかり考えていたことになる。
それだけじゃない。彼氏が何か答えたり、何かをするのを見ていると、
“弟ならこうするだろうな”と思っている時があった。時々だが。
七海は、これはまずいかなと悩んでいた。
 ふと、男女と目が合い、七海は慌ててしまった。
ずっと見ていたとは思われたくなかった。
 「荻島潤がどこに行ったのか知らないかなと思って…。ここのクラスの人
よね」
 突然話し掛けられたので、広次は驚いた。だが、相手が誰なのかすぐに
思い出した。笑みを見せる。
 「そうです。荻島とはクラスメイトだけど、あまり話さないんでどこに
行ったかは……」
彼が答えたので、香奈も続けて言った。
 「分からないですね」
 「そう…。じゃあ、潤が戻ったら姉が来てたって伝えてくれる?」
 「はい。伝えます」
 広次の心に不安が過ぎったが、笑みを崩さなかった。
去っていく後ろ姿を見つめながら、広次はぼやいた。
 「あいつ、二時限目からいないんだぜ。どうしたのかな」
 幼なじみの香奈は、彼を見上げた。
 「あの人、荻島君の彼女だと思ってた。何回か一緒にいるの見かけるから」
 「そう思ってたのか?俺はすぐに分かったぜ。やり取りを見てて」
広次は一端黙り、思い付いた疑問を香奈に聞いた。
 「荻島の奴、家族とはよく話すと思うか?」
その質問に彼女は眉を顰めた。そして首を振る。
 「ううん。そうじゃないみたい。前ね、学校の帰りに私の前を二人が歩いてたの。その時も一言も話さなかったし、答えるのもジェスチャーだった。
姉の方は“慣れてる”って感じ。もしかしたら、家でもほとんど話さない
のかもね…。本当に不思議な人」
 しばらくの間を置いて、香奈は真剣な顔で何やら考えている広次の腕を
軽く叩いた。
彼がこちらを向いたのを見て、今度は香奈が訊ねた。
 「映画はどうするの?上映は今日までよね。勿体ないな」
 「…代わりに誰か誘ってもいいか?」
 「え?!誰?!好きな子??」
香奈は面白そうにからかった。
 「違うよ」
真顔で彼女を見て言った。
 笑って答えるものと思っていた香奈は、彼の思い詰めた表情に驚いた。
 広次と香奈は付き合ってないし、お互い男女として意識もしなかった。
ただの幼なじみだった。だが、ほかの友達よりも仲が良く、信頼し合っていた。 
 広次は、荻島のことを考えていた。
 “あいつ、どこに行ったんだ?”


 激しい雨に打たれながら気付く。
仰向けに倒れている潤の体は、全身びしょ濡れだった。
少しでも動くと、体中に痛みが走る。
あの四人組の一人が、突然彼を呼び出したのだ。
そして、長い間殴られた。『泣いてみろ!』と怒鳴られながら…。
 彼は泣かなかった。怒りの瞳で相手を睨み付け、最後まで反撃した。
力の差は歴然だった。だが、力が抜けて立てなくなるまで立ち向かったのだ。その姿勢が、さらに暴行を加えられる結果となってしまったが。
 しばらく、ぼうっとしていた。薄目を開けて、上から降ってくる大量の雨に打たれていた。ため息を吐き、目を閉じる。
こうしている事が、なぜか心地良く感じられた。
そのまま、体に感じる全ての感覚が遠退いていった。
雨の音も聞こえなくなった。
意識の扉が、ゆっくりと閉じられていくのを感じた。


 広次は、四時限目の授業に集中できずにいた。
 “やっぱりおかしい。あいつは、無断で欠席する奴じゃないのに…”
 主のいない席を見つめる。
荻島の事が心配でならなかった。先生の言葉も耳に入ってこない。
なぜ急に、彼を気に掛けるようになったのか。きっと、香奈から聞いた話のせいだ。
 『荻島君は、家族とも話をしてないみたい』
一体、彼の心の中で何が起こっているのだろう。自分に出来ることはないだろうか。それらの思いが、胸中を駆け巡り不安感を倍増させていた。
 “何かあったのかもしれない…。よし、探し出そう”
そんな考えにまで及び、頭を抱えて策を練った。
 「どうやって抜け出すかだな…」独り言を呟く。
 相手(先生)は、最も恐れられている数学の森山だ。“仮病”を見破るのも上手い。
 「おい、どうした!小林!さっきから下を向いてないで、授業に集中しろ!」                      
突然の声に驚いたが、すぐには顔を上げなかった。
 なぜなら、これはチャンスだと思った。「さっきから」と森山は言った。
…という事は、ずっと頭を抱え込んでいる姿を見ていた…。これは騙されて
くれるかもだ!
笑いが出そうなのを堪えて前を向き、眉を顰めてみせた。
 「頭が痛いんです…。保健室で休みたいんですけど……」
 すると、森山は不審の瞳で彼を睨み、広次の席へやって来た。
そして無言で彼の額に手を宛がう。その間も演技を続けていた。
さも辛そうに目を瞑り、こめかみを押さえる動作をする。
 数秒で体温を確かめた後、ふむ。と唸り、森山は頷いた。
 「確かに、少し熱っぽいな。行きなさい」
 あっけなくOKが出たので、拍子抜けした。
 “え?!本当に?!俺は全然熱く感じてないんだけど。でも、やった!”
その声を聞いて、広次は内心ガッツポーズを決めた。

 出て行く瞬間に、呼び止める声がした。振り返ると、背を向けたままの森山が言った。
 「外は雨だ。風邪を引くなよ」
 その発言の意味が掴めずにドアの前で立ち止まる。
すると、森山は彼を見やって笑みを見せた。
 「何度も余所見をしてるのに、気が付かないとでも思ったか?」
 続いて発せられた言葉で、許可が下りた本当の理由が読めた。
…ああ、そうか。だからわざと…。
広次も微笑むと、急ぎ足で廊下を走り階段を下りた。
 「何だ。優しいとこもあるじゃん」
新鮮な驚きと嬉しさで、最後の三段を一気に飛び降り、大きな音と共に着地した。
 “さて、どうやって探し出す?あいつが行きそうな所なんて、想像も…”
校内にあるテラスや屋上などを思い浮かべ、しばらく歩いていた広次の視野の隅に、誰かの影が映った。
ハッとして左廊下に視線を投げやる。ちょうどその時、保健室の中に入って
いく横顔を見た。まぎれもなく、荻島潤の姿だった。

 そこに保健医の姿はなかった。
 潤はびしょ濡れの髪をかき上げて、周囲に視線を走らせる。
ガーゼや包帯はあるが、やはり濡れた体を拭くためのタオルは置いていない。
痛みで震えている体を感じながら、設置してある洗面台に向かう。
血の味がする口に水を含み、すぐに吐き出した。己れの血と混じった水が排水溝へと流れていく。
 鏡を見ると、左頬が腫れ、唇の端は紫色に…。だが、目立つ傷はこれだけだ。腕や足、胴体に痣があるけれど、服で隠せる。
 脳裏に姉の顔が浮かんでいた。
もうこれ以上、心配させたくはなかった。七海も両親も、“あの日”以来僕の事をいつも不安に思うようになっていた。
本当はそんな思い、させたくはないのに……。
 辛辣な顔になり、自身の喉を手で覆った。両目を強く閉じて俯く。
話したくない。話せない。声が出て来ないんだ。
もう、どんな風に話していたのかを忘れてしまいそうなほど、長い間“声”
を発していない。
僕の声はどこへ行ってしまった?最後に自分は何を言ったの?
 閉じ込められている禁断の思い出を、今ほんの一瞬だけ引き出す。
――――いやだ!お願いだから誰か助けて――――!!……。
悲痛な叫び声が過去の記憶から聞こえてくる。それは電流の様に潤の心を襲った。全身の毛が逆立ち、言いようのない恐怖感に飲み込まれそうになる。
それを感じ取った瞬間、すぐに現実へと意識を戻した。
 気が付くと、額と両手には汗が滲み出ていた。
自分の状態を改めて実感し、呆然とする。
 “…あの時、僕はそう言った。誰か助けて…と”
それが最後だった。二年前に発せられた叫び。
 椅子が置かれている場所へ移動しようとした際、入り口に立っている人物に気付いた。
 「あまりに苦しそうな顔をしてたから、声を掛けづらくて。…ほら」
 今朝少しだけ会話をした小林が近付いてきて、タオルを渡した。
 「教室から取ってきたんだ。部活で使うんだけど、どうせ雨で中止だし。
遠慮なく使えよ。そのままだと風邪引くぞ」
 知らない間に涙目になっていた顔を腕で拭って、彼からタオルを受け取った。
 有難う。動揺しながらも言葉のない感謝をして、雨に濡れた髪を拭く。
 「荻島。誰にやられたんだ?」
 タオルで隠れていた顔を上げ、小林を見つめる。
彼は真剣な表情で僕を見つめ、腫れている頬を指差していた。
その話題には触れて欲しくない。束の間見つめ合ってから、首を振った。
 再び俯いて髪を拭き始める潤に、広次はそれ以上追求しなかった。
泣いていた事も、誰かに殴られた痕がある事も、今聞き出すのは無理そうだ。
 「お前の制服、完全に濡れてるぞ。気持ち悪くないか?もし俺ので良ければ、着替えを取ってくるよ」
 話題を変え、明るい調子で言った広次を潤は仰ぎ見た。
標準よりも低い身長の彼は、同性と話をする場合、顔を上に向けなければならない。
 “一体どこから?”疑問符を浮かべて眉を顰めた潤に、広次は説明した。
 「俺の家は学校の近くにあるんだ。制服ではなくて洋服だけど…。すぐに来る。ちょっと待ってて」
 ここにいるようにと手で制してから、広次は脱兎のごとく保健室を出て行った。
 “えっ?!嘘!そんな事までしなくても!それに洋服じゃ…!”
呆気に取られたが、引き止めようと彼の後を追い掛ける。が、すでに追い付けない距離まで離されていた。
……さすが、スポーツマン。足が速いよ。僕とは大違いだ。
保健室に戻り、椅子に座った。小林が出て行った時の姿を思い出して、笑みが出る。あの慌て様が可笑しかったのだ。
実を言うと、何だか嬉しかった。高校に入ってから初めて、一人の同級生と会話をしたのだ。しかも、小林は僕の行動を変な風には見ない。
普通に接してくれている。
それが何よりも心に響いた。

 約十分が経った頃、ドタドタと足音が近付いてきて、彼が現われた。
 「はい、これ。最初は俺のと思ったんだけど、身長差があるから弟のを持ってきた」
 差し出された服とジーパン、そしてフカフカとした手触りのいいタオルの入ったバッグを受け取る。
再三の感謝を感じながらバッグを見つめている潤に、広次は思い出した様に付け足した。
 「あ、あと替えの下着も」
 “弟の?!”
その発言に驚いて、瞬時に顔を上げる。
 「冗談」
目が合った途端に、広次はそう言ってからかいの笑みを見せる。
 彼の言動に潤は困惑し、続いて自然と微笑を浮かべた。 


 授業が終わった頃を見計らって、二人は教室に戻ってきた。
二人がドアの前に立った時、ちょうど数学担当の森山が教壇を下りるところ
だった。
クラス全員が二人の出現(特に潤の殴られた痣と洋服姿)に注目し、一気に
興味と驚愕の視線を送られてしまう。
クラス中がざわめき、隣りにいる者同士が話し出した。
 森山はクラスの反応に呆れの表情をして首を振った。
 「荻島、大丈夫か?ちょっと来なさい。小林、お前もだ」

 森山は二人を職員室に連れて行き、事情を聞き出した。
荻島潤が誰かに殴られ、小林広次が濡れた制服の代わりに服を貸した事は分かったが、肝心の“誰が殴ったのか”は知らなかった。
当の本人が名前を言うことを拒んでいたからだ。
どんなに助けてやると説得しても、ただ首を振るだけだった。

 
 昼食時間、食堂で潤と向かい合って座った際に、広次は訊ねた。
 「やっぱり、どうしても気になる。誰に殴られたんだ?放っておくと、
エスカレートしかねない。別に、そいつの名前を知らないわけじゃないんだろ?」
 潤は、あえて視線を合わさないように下を向いたまま、ご飯を口へと運んでいた。
奴の名前は知っているが、話せない事情があった。仕返しが怖いからではなく、もっと別の理由があるのだ。
 広次が質問攻めを止めたので、やっと顔を上げることが出来た。その時、
食堂の隅に中山が立っているのが見えた。彼は、自分がそこにいるだけで申し訳ないと思っているかの様に、身を縮込ませている。俯き加減で、
不安の瞳で行き交う人々を見つめていた。
その姿は、“自信のなさ”と“周りに不審感を抱いている”ことを容易に連想させるものだった。
 潤の脳裏に、自分を殴ってきた“藤井”の顔が浮かぶ。
 『俺の名前を出すなよ。もし出したら…お前のクラスメイトの中山が痛い
目に遭うぜ』
それに驚いて相手を睨み付けた潤に、藤井は冷淡に話を続けた。
 『あいつはお前と違って臆病だからな。今まで俺らの事を誰にも言ってないんだよ。お前が大人しくしてれば、中山はこれ以上怯えなくて済む。
だがもし、一言でも俺の事を話したら……。あいつはどうなるかな?」
 “…………!!”
卑怯な手口に憤怒し、潤は最後の力を入れて立ち上がった。そんな彼を可笑しそうに見下ろし、藤井は言った。
 『まあ、中山の状態が良くなるのも悪くなるのも、お前次第って事だよ。
おチビちゃん』
 “なんて酷い手を使うんだ。これじゃあ、中山が……”
思い詰めた表情で考え込んでいた潤の耳に、広次の声が聞こえた。
 「あのさ、荻島。今日は何か予定あるのか?」
 彼の問いを聞いた瞬間、今まで潤の心にあった悩みは、少しだけ隅の方に
追いやられる。だが、話を聞いてる間も、“藤井”の事は頭にあった。
 “いや、特に予定はないけど…”
何を言い出すんだろうと感じながらも、首を振って答える。
 その否定の動きに、広次は喜びの感情を表した。
 「実は、今日までの映画のチケットがあるんだよ。それで、一緒にどうかなと思って」
 唐突の誘いに、潤の頭の中に疑問が渦巻いた。
 どうして僕を誘うんだろ?小林には“香奈”っていう子がいるんじゃなかったかな。
今日、初めて彼と話したばかりなのに、急にそんな事を言われるなんて不思議だった。
何もしゃべらない自分と映画に行きたがるなんて、それでもいいのだろうか。
そう感じていると、照れた様子で頭を掻いていた広次は、気を取り直した様に真面目な顔付きになった。
 「何で荻島と行きたがるかって言うと…。ずっと前から、お前が好きだったんだ」
 荻島潤の全ての思考が一時的に止まる。藤井と中山の事も考えから消えた。
唖然とした中で見る広次の顔は真剣そのもので、答えを待っている。
 “…ち、ちょっと待って。僕の事が好きだった…?!え〜〜と、これは
告白だよね?どうしよう!小林の事は“良い人”だと思ってるけど、でもそれ以上は考えられない。
傷付けないように断るにはどうすればいいんだろう?こういう時は…”
 焦って困っている潤だったが、ふと、俯いている小林の肩が震えているのに気付いた。
 “あ、あれ?一体どうし…”
 「も、もうダメ!限界!可笑しい―――!!アハハハハ!」
 途端に広次の大きな笑い声が食堂内に響く。
 予想もしない言動の連続に、潤はただただ圧倒されていた。
彼の間の抜けた表情に、広次の笑いは高くなる。
少しずつだけれど、潤にもやっと状況が飲み込めた。また“からかわれた”
のだ。
 「まさか、こんなに真剣に受け取るなんて思ってなかったから。ご免。
でも…笑える――!」
 お腹を抱えて笑い続ける広次の様子に、潤はムッとして視線を逸らした。
だが、次の瞬間に彼は恥ずかしげに微笑んだ。騙された自分に対して、可笑しいとでも言うように…。
困惑の笑みでも、微笑でもない。純粋な笑顔があった。
 初めて見た素直な感情に、広次は笑いを止めて彼を見つめた。
嬉しそうに。そして、温かみのある微笑になる。
 「そうそう。荻島、いつもその笑顔でな」
 そう言って立ち上がると、元気付けるようにパチパチと潤の頬を軽く叩いた。
 「俺は食べ終わったから。先に行くよ」
 まだ笑みは消えないまま、広次の背中を見送る。
 “もしかして、たぶん……。少しでも元気になれる様に、冗談を言ってくれたのかな…”
そうかもしれないと思うと、感謝と感動が心に広がっていった。
少しだけ、悩みが小さくなったように感じられた。
 突然、肩を叩かれる。
振り返ると、姉である七海が立っていた。
 「ずっと見てたの。とても楽しそうだった。良かったね、潤」
 七海は微笑んで言った。彼女にとっても喜ばしい事だった。新しい友人や
出会いがあれば、弟の心が快方に向かっていくのではと感じていたからだ。
 もちろん、七海も気付いていた。弟の顔が腫れ、唇が紫色に変色している
ことに…。
心がズキンと痛んだ。ふいに感傷的な気分になる。この事態は彼女にとって
――もちろん両親にとっても――重大だった。
過去が思い起こされ、不安感に駆られるままに潤の手を取った。
そして両目を閉じて静かに言い聞かせる。
 「ねえ、潤。お願いだから、一人で抱え込まないでね。私達家族はその為
にいるの。もう、同じ様に後悔はしたくない。私も、母さんも―――…」
 瞼を開けて、霞んだ視界から弟を見つめる。そして安心させる為に微笑んでみせた。
 姉の笑顔と思いやりは、痛いほどに伝わっていた。潤も微かに微笑み、
立ち上がった。ポンポンと姉の頭を撫で、大丈夫。心配しないで、何でも
ないんだ――…。音のない言葉で、そう伝える。
 続いて、「どうして洋服を着けてるの?」と訊ねられた。
その問いに対しても説明は出来ない。ただ、首を振って苦笑するしかなかった。


 その日の放課後、小林は僕に映画を観に行こうと、再び言ってきた。
どうやら、映画の件だけは本当だったらしい。
 七海が来るのを小林と一緒に待っていると、一人の女の子が走り寄ってきた。顔と名前は知っていた。小林とよく話をしている、“香奈”というクラスメイトだ。
 「こんにちは、荻島君」
 香奈は隣りにいる潤に軽く会釈してから、幼なじみの方を向いた。
 「広ちゃん、今日は一緒に帰らない?」
 「え?…もちろんいいけど、荻島と姉も一緒になるよ」
 「大丈夫!私はそんな事気にしないもの」
 香奈は笑みを強めた。この状況を楽しんでいるらしい。
 その時、七海は階段を下りてくるところだった。
二人の後輩に気付いて思わず立ち止まる。今日、会話をした二人だ。
弟が来て、二人も一緒になるんだとジェスチャーで伝えられた。
 思わぬ展開に戸惑ったが、それも初めのうちだけで、すぐに二人と打ち解けた。弟の周りで、少しずつ良い変化も起きているのだと思うと、嬉しくて
仕方なかった。
 
 帰り道、香奈に盛んに話し掛けられ、慣れないながらも懸命に相手をしている潤の姿があった。
香奈も、広次の様に潤と向き合っていた。
声こそ出ないが、しぐさやジェスチャー、顔の表情などで“優しい人”
なのだと分かる。だんだん、香奈自身も荻島潤という人物に惹かれていった。そして広次と同じく声を聞いてみたいと感じた。
クラス中で噂されている“暗さ”がどこにあるのかと思うほど、実際に話してみると好印象だったのだ。
 広次と話し込んでいた七海は、ふと後ろを向いて立ち止まった。
数メートル離れて歩いてくる弟は、真剣にクラスメイトの話を聞いている。
初めての体験で、当惑している様子だったが、彼女が豪快に笑ったのを見て、潤も可笑しそうに微笑した。
 その日の下校は、特別楽しく、賑やかな会話が弾み、姉と弟は新鮮な気持ちになっていた。
 七海は、二年間で初めて、潤が何度も笑っていることに気付いた。
 「どうしたんですか?」
 広次の声に再び歩き出した七海は、笑みを含んだまま首を振った。
 「何だかお似合いだな、と思って」
 広次も彼らのやり取りを見やってから、小さく笑った。
 「そうですね」
 「……ねえ、小林君。潤の事お願いね。これからも、友達として見守って欲しいの」
 少しばかり声のトーンを下げて言う七海。表情も暗くなっている。
 「もちろん、そう思ってます。出来るだけ、力になってやりたいから…」
 広次は、自身の思いを改めて強くしていた。
過去に何かあったのか疑問を感じていたが、“その事”に関しては、本人達が話すまで待とうと決めていた。
 七海は何とも言えず、感動している心を抑え切れずに、広次を見つめて
思いの丈を伝えた。この人なら。と感じた。小林君なら、きっと弟の支えに
なってくれる。
 「あなたになら、いつか――…。きっと近いうち。潤の身に起こった事を
話したい」
 「…待ってます。心の準備をして。いつでも良いですから、無理はしないで」
 それから、重くなった雰囲気を蹴散らす様に笑みを見せた。
 「そういえば、今日、荻島と映画を観に行くんです。最初は嫌がってたけど、やっと説得しました」
 得意気に胸を張る動作をした彼に、七海は吹き出した。
 「あなたが相手なら弟は負けるね。私も嬉しい!潤を誘ってくれて有難う。小林君」
 「いえいえ、どういたしまして。友達なんだから」

 それらの様子を、反対側の歩道から憎らしげに見つめている人物がいた。 潤に暴力を加えた、藤井一臣。
藤井の視線は、楽しそうに微笑している潤の姿を追っていた。
彼にとって、“ターゲット”が笑っている事は一番気分を害する原因だった。ターゲットのあるべき姿は、彼の暴力で傷付いて涙を流し、悩んでいなければならない。それを見るのが快感だった。
だからこそ何年もの間、他人に暴力を振るい続けている。力でねじ伏せ、
相手が自分を恐怖と混乱の瞳で見上げるからこそ、満足感があった。
 だが、こいつはどうだ?まるで何事もなかったかの様に笑っている…。
俺の存在をすっかり忘れてるか……。
今度は、あれだけじゃ済まさないからな。
 
 ふと、笑い声が響いて、藤井は視線を移した。彼の視野に入ったのは、
潤に話し掛けている七海だった。
 「ダメよ、潤!せっかく誘われたんだから行きなさい!お姉さんの命令には従うこと!」
 発せられた大声に、広次と香奈は一斉に笑った。
潤はというと、この場を何とか切り抜けるために焦っている。
 “…あいつの姉貴かよ”
肩まで伸びた黒髪を跳ねらせて、満面の笑顔で何やら話している七海を見ていた。
―――彼は、ターゲットを傷付けるためなら、どんな事も出来た。どんな非道なことも、平気で遣って退ける。
 しばらく観察していた藤井の口元に、不快な笑みが浮かんだ。 
2004-04-05 19:48:32公開 / 作者:セツ
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■作者からのメッセージ
私がこの作品で書きたいのは、暴力ではなく、苦しい過去を抱えながら、また、辛い現状にありながらも懸命に生きる一人の少年の姿です。
 ちゃんと描いていけるか不安と緊張で一杯ですが、頑張ります!
 
この作品に対する感想 - 昇順
私が好きな系統のお話でとっても読みやすいです。
2004-03-29 19:03:31【☆☆☆☆☆】まみ
わーすごい展開です!!!!一気に読んでしまいました!続きも期待しています♪
2004-03-30 18:55:25【☆☆☆☆☆】まみ
おもしろーい
2004-03-30 20:13:58【☆☆☆☆☆】あやか
潤が余り痛い目見ないように願いつつも、応援しております。話の系統としては私の好きな部類に入りますので、続きを予想しながら楽しく読ませていただきます。
2004-03-30 20:26:14【★★★★☆】蘇芳
こんにちわ。とてもおもしろかったです。これってやっぱ弟がしゃべれるようになって結末なのかなぁ・・・なんて勝手な予想をしたり。
2004-04-03 00:01:02【★★★★☆】笑子
まみさん、あやかさん、蘇芳さん、笑子さん、感想、得点を有難うございます!皆さんの感想が、とても励みになっています。どうも有難うございます!!
2004-04-03 11:56:07【☆☆☆☆☆】セツ
すらすらと読めるテンポが良かったです。ただ文章の途中で改行されていたり、文のはじめにすぺーすがあったり、なかったり・・・というのが目立つ気がします。せっかく描写は上手ですから直してみると、もっと読みやすくなるのでは?
2004-04-05 20:02:57【★★★★☆】白雪苺
計:12点
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