『霊療師キリ』作者:平乃 飛羅 / - 創作小説 投稿掲示板『登竜門』
全角13527文字
容量27054 bytes
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   壱.彼に思う



 予備校からの帰り、麻衣子がそれを目にしたのはいつもの事であった。
 ふわふわと空間を漂う人型の何か。うろんげな白い双眸が何もない空間を静かに見つめている。そう、全体的に白くぼやっとしている。昔は白一色ではなかっただろうに、今はもう白しかない。それが何を意味しているのか、麻衣子には理解できてしまう。通常──いや、生前、人がその目にすることなど叶わない死者の姿。麻衣子が目にしているのは、すでにこの世を去ったはずの人間の姿だった。
 彼らはテレビや小説、あるいはゲームやアニメなどといった『危険思想』の持ち主ではない。麻衣子が知る限り彼らは一様にしてそこに漂うだけであり、今の世を生きる生物、ましてや人に被害を加えるものばかりではなく、むしろそのような固定概念が定着した今の世の中を思うと、憂鬱な気持ちにさせられる。麻衣子は目を細めてその白い影を見遣った。全ての死者が現世を漂うわけでもないらしい。どういうわけか、死者になった者は、しばらくはこの世に留まり、そしていつの間にやら姿を消してしまうのだ。しばらくこの世に留まるならば、何かしら理由があるのだろう。だが、彼らは喋ることは出来ないし、ましてや向こうから語りかけてくることもない。だからこそ麻衣子も今まで彼らのことを街路樹と同じものだと割り切って考えていた。
 今日の予備校は終了時間が少々遅かった。講師が遅刻した挙げ句にきっちりと今日分の内容を教えたので、どうしても時間が延びてしまったのだ。大学受験を控えた今、確かにそれは有り難いのだが、帰り時間が延びるのは嬉しくない。しかも予備校から自宅の間には細長い公園があり、そこを通れば帰る時間も短縮できるのだが、麻衣子はいつも夜の公園を避け、ぐるりと商店街を通り抜ける道を選んでいた。
 だが、時間が遅くなれば、公園を通ろうかどうか悩んでしまう。
 麻衣子が公園を避ける理由として、この公園が余りも暗いというのがあった。電灯が公園の広さの割には少なく、やたら暗い部分がちょくちょくとあるのだ。その闇に潜む『何か』の存在は怖くない、が、その公園に遊びに来る人間達の方が正体不明の彼らより、はるかに脅威に感じられたのだ。
「……大丈夫、大丈夫よ麻衣子。何もない、何もないから。ほら、急がないとご飯冷めちゃうし」
 呼吸を落ち着かせる。そうだ、まさか何かが起こるわけないではないか。
 意を決して足早に公園を往く。
 その途中だった、その白い人影を見たのは。
 別に公園だから彼らがいるわけではない。道ばたの、それこそ大通りの中央にぼぅと立つ人影もあるし、電柱の影に隠れるようにして座る霊もいる。大概、彼らは夜中にしか現れない。もしかしたら昼間は太陽の光のせいで、その希薄な姿がかき消されてしまっているのかもしれない。
「またかぁ。さっさと成仏しなさいよ」
 そう言い残して行こうとした麻衣子だったが、突然その足を止めた。
 ──闇の向こうから、誰かが来る。
 そう思った途端、冷や汗が流れてきた。
 公園の中は桜が開花し、そうしてそろそろ散ろうとした時分のせいか、地面も風の中を舞う花びらにすら美しい桜色を目にすることができる。その中から、一人の男がすぅと現れた。
 彼には色がある。
 色がないのは向こう側の証左であるから──
 ──やばいかも……。
 麻衣子は咄嗟にそう思った。こんな夜中に女子が一人、しかも誰も来なさそうな公園で男と出会すなんて、良い方向に想像が働かない。
 悲鳴を上げたら誰か気付くだろうか。いやそれとも大声を出した時に向こうが驚いて手に持っていたナイフが私の腹を、いやいやその前に口を紐で鬱がれて──
 最後は東京湾?
「ちょいと、お嬢ちゃん」
 男が声を掛けてきた。
 悲鳴を上げよう。そして全力で今来た道を走って逃げよう。
 そう決意し、思いっきり息を吸い込んだところで、男は今まで引き締めていた顔をほころばせた。
「そこの霊が見えるみたいだねぇ」
「……へ?」
 肺から、パンクしたタイヤよろしく空気が抜けていく。
「大したもんだ。そこにある霊は普通、見えないんだけどね」
 男は胸ポケットから何かを取り出して口に銜えた。煙草かと思ったら、それはただのパイポである。
「煙草、実は嫌いなんだ。ああ、こうすると精神集中が容易く行えるから。まぁ、商売上の大切な道具ってやつさ。ちょっとでも何かをしてないと、頭が余計なことを考えちまう」
 ぼさぼさの髪を無造作に掻いて、男はそう言った。
「んで、お嬢ちゃんは何しにここへ?」
「あ、えーっと……」
「ああ、予備校の帰りだったり?」
 男は彼女の鞄に目を遣って、そう言う。高校の帰りに予備校へ寄ったので、格好も制服姿だった。そう思いつくのは普通だろう。
「まぁ、こんなところ通らないで遠回りしたほうがいい。人こそいないけど、こいつらがいるからな」男は公園の奥で呆然としている霊を指さした。「病んでいる霊ほど、怖いもんはない」
「……病んでいる?」
「ここで会ったのも偶然だ。ちと見ていくかい?」
 何を見ていくというのだろう。不可解な発言とは裏腹に、麻衣子の中で先ほどまで渦巻いていた恐怖はすっかり薄れていた。霊が見えるのは自分だけだと思っていたのに、同じく見える人がいるなんて。
 麻衣子は頷いた。彼がやることに興味を持ったのだ。
「そうかい。まぁ、少し離れてな。別に危険があるわけじゃないけど、万が一ってこともある」
 言われたとおりに数歩離れる。男は笑って「そのぐらいでいい」と言った。
「そうだ、俺はキリ。ああ、お嬢ちゃんの名前は仕事が終了してから聞くことにするよ。こいつらの前で名前を名乗るのは禁物だ。取り憑かれるぞ」
 パイポが上下に動く。ミントの匂いが薄く漂ってきた。
「さて、と。俺の名前は聞いたな? んじゃ、取り憑いてくれ」
 キリがそう呟くと、今までただ虚空を見つめていた霊が、いきなり顔を向けた。白い瞳が何かしらの輝きを放ったかのように、鮮明と映る。
「そうそう、何に未練があるか、教えてはくれんかね?」
 キリは地面に座ると、霊は細長く縦に伸び、そしてその上の尖端がキリ目掛けて凄まじい速度で突っ込んでいった。麻衣子は悲鳴を上げかけたが、それをキリが右手を挙げて制止する。これから霊がすることはもちろん、まるで麻衣子の動きすらわかっている様子だった。
 キリの胸から、霊はするりと彼の体の中に侵入する。一瞬、ビクリと痙攣した様子のキリは、拳を握り、何かに耐えている様子だった。
 キリが口を開く。
 すると、そこから白い霧状の何かが空中に吐き出されて球となり、それから人の姿を作り始めた。キリの体内に入り込んだ霊である。
「……ふぅ」
 息を吐いて、キリは額の汗を拭った。
「体内に入れるのは、相変わらずしんどいな……」
「え、な、なにが……」
「ああ、今の?」
 全く持って今の奇怪な状況は理解できない。麻衣子は混乱するばかりだった。
「霊ってのは大体この世に未練を持っている。だから、向こうに行けないんだなぁ。──俺は、霊の医者なんだよ」
「……医者?」
「この世に残っている死者は全て病んでいる。自力でなんとかしてしまうのもいるが、大概はこうして残っている。だから、俺は治してやるんだ。今のはな、わざと取り憑かれることによって、霊の想いを感じ取ったんだよ」
 霊は静かにたゆたっている。取り憑いた相手に取り憑けなかったのは、果たしてどういう気持ちなのだろうかと麻衣子は思う。死者にしかわからないその感覚。
 キリは夜空を見上げる。
「──死んでから思い悩むなんて、どうしてなかなか、辛いじゃないか」
 霊療師はそう呟いた。
「さて、届けてやるか」
「届ける?」
「ああ、この世に心残りがあるから、こいつはここにいるんだ。手紙を書き、送れば、こいつは成仏するんだよ」
「……」
 ふと、虚空を見上げていたキリの視線が麻衣子に向けられた。
「ああ、そうだ。ちっと頼んでいいかい?」
「……?」
「俺さ、手紙書くの……苦手なんだ」
 困ったような笑顔が意外に似合っていた。それがおかしくて小さく笑い、麻衣子はキリの申し出を了承した。

 一日が経過した。
 久しぶりだった。受験以外のことで頭を悩ませたのは。
 あの霊はこの世に未練を残している。
 だから成仏できない。心残りがあると、霊はどうしてもそれが気掛かりとなる。気掛かりは鎖となって彼らに絡みつき、そして解き放つことはない。
「……これでいいのかな」
 昨晩、懸命に書いた手紙を手にしつつ、麻衣子は呟いた。
 そこここに広がる闇の世界はとてつもなく深い。公園は刹那の静けさを生み出しつつ、しかし刹那というだけあって決して無音の場所とはいかなかった。
「キリは、いるのかな」
 霊療師キリが手紙を書いてきてくれと頼んだのだ。当の本人がいないわけはない。案の定、昨日とまったく同じ場所であの霊と向かい合う男を見つけ、麻衣子はため息を漏らした。霊は怖くなかったが、昨晩の、体内に入る霊を見てしまえば、霊に対する印象は多少なりとも変わる。
「や」
 麻衣子の姿を見るなり、キリは片手を上げて挨拶をしてきた。
「書いてきてくれたかい?」
「はい、これで……いいのかな」
「ちょっと読ませてくれるかい?」
 麻衣子から手紙を受け取ったキリは、その文面をざっと読む。それから深く息を吐いた。
「さすが受験生。しっかりしてるね」
「そんなこと」
「さてと、恥ずかしかっただろうけど、これを霊にプレゼントしてもいいよな」
「その為に書いてきたから。でも、奇妙だった。女性に向けてそんなの書くなんて」
「……まぁ、だから俺には無理だったんだけど。あとは俺の演技次第。男の名前がわからないのは痛いが、まぁ、なんとかなるだろ」
 霊療師は、やはり昨晩と同じくそこにたゆたう霊へ静かに近寄っていった。霊の真正面に立ち、麻衣子には聞こえない程度の音で何かを呟く。
 霊に、反応があった。
 その右手が伸びる。白く、どこまでも白色の手が伸ばされ、キリの手紙へ触れようとする。だが、霊である『彼女』がその手紙に触れることは叶わない。キリは手紙を己の真正面で水平に持ち、そしてさらに口元を動かした。
 手紙がぼんやりと発光する。
 それはまるで、その手紙自体が『向こうの物』になったようだった──事実、今まで虚空を彷徨っていた霊が、その手紙を掴んだのだ。
 震えているように見えた。
 霊は静かに手紙の文面を読み──理解しているのかどうか、それは麻衣子にはわからない──そして、何度か頷いた後、キリに抱きつき、すぅとその姿を消失させた。発光していた手紙はただの紙に戻り地面へと落ちる。
 キリは、やはり夜空を見上げていた。
「これで、完了だ」
 その不可思議な空間を破ったのは、他ならぬキリである。糸が切れたように麻衣子も身体を動かした。少しだけキリに近寄って、そこで足を止める。
「男を想って成仏できないなんざ、悲しいよな」
 キリは独り言のように呟く。
「ましてや、その男がとっくにこの世にいないとあっちゃ、皮肉としか思えない」
「……死んで、いたんだ」
「一応下調べはしたからな。そこにいた霊は四十年前に死んだ女性だ。とある男と恋に落ち、ある日、男がここで待っていてくれと言伝ったのが災いした。ここへ来る途中、男は事件に巻き込まれて命を落としてしまったんだ」
 パイポを取り出して、口に銜える。
「──春夏秋冬」
「え?」
「待っていた時間さ。つまり、一年間ここで待ち続けて、女は死んだ。まったく……死んだことは知っていただろうに」
「……難しいね」
「ああ、難しい」
 キリが同意してきた。
「そういや、まだお嬢ちゃんの名前を聞いてなかったな。ま、無理に名乗る必要はないぞ。次会ったときに名乗ればいいんだから」
「──あ」
「改めて名乗ろう。俺はキリ。幽霊相手の専門職をしてる。霊関係なら、俺によろしく」
「そうですね、こちらこそよろしくお願いします」
 なんとなくそう言ってから頭を下げた麻衣子だったが、何かが違う気がして疑問符を浮かべる。
「……あれ?」
 キリはくつくつと笑い、パイポを銜えたまま、
「じゃあな、名前は次の機会にでも」
 と、言い残し、闇の中へ消えていった。
 麻衣子はぼぅとしてそれを見送った後、はっとして今いる場所を思いだし、そしてそそくさと帰路についたのだった。


「……彼女は」
 その女性の独白にも似た呟きを、キリは静かに聴いていた。彼の仕事はとうに終わっている。これ以上目の前の女性に付き合うことは何もない。終了としての報酬はすでに頂いているので、今すぐにでもこの場を去りたいところではあった。
 だが、女性は簡単に離してくれそうにもない。その瞳は何かに救われたがっている子羊そのものだ。
「あんたが四十年前に殺した人は、さっき成仏したよ」
「殺したなんて、そんな──」
「別に、直接的なことを言ってるんじゃないんだがね」
 口からパイポを放す。
「精神面で追いつめて殺したんだろ。それに、依頼は受けたが、別にあんたを救おうという気はまったくない。俺に同情を求めるなら無駄だよ。何しろ、俺は霊専門だからな」
「……それでも、私は」
「四十年前、あんたと彼女は一人の男を取り合った」
 肩を回して、自らのほぐれを取ったキリは、言葉を続ける。
「──だから、殺したんだろう、彼女を。そして今、あんたはその男と暮らしている。それでよく彼女を救ってくれだなんて依頼してきたもんだ。まぁ、こちとら別に関係ないからどうでもいいんだけどね」
「……あなたは」
 キリが放している最中、唇を強く噛んでいたらしい。うっすらと浮かぶ血を拭おうともせず女性は口を開いた。
「あなたは、人を愛したことがありますか」
「……」
 キリはパイポを再び銜えた。
「人としての道理を忘れたことはないよ、俺は」
 ミント味のパイプが鼻孔に広がるのを感じ取りながら、キリはそれだけを呟き、闇に融けていった。


「弐.まことの名前」


 幽霊が見える。
 とてもとても、白い人達の姿。
 それは霧のようでいて、しかし霧よりももっとはっきりとして曖昧。とても悲しい存在。
 どうしてここにいるのだろう。
 彼は、この家にいる。
 顔が白くて見えない男の人。
 わたしを見るたび、微笑んでくれる。
 ──どうして、そこにいるんだろう。
 毎日毎日、そこからわたしを見ててくれる。
 わたしを暖かく見ててくれる。
 だからわたしは。
「ねぇ、わたしの名前は──」


「奥様、お連れしました」
 執事が恭しく頭を下げる。
「あなたが霊療師さん、ですわね」
 やたら広い屋敷の中を、執事を思われる男性の手引きによって奥まで案内されると、妙齢の女性が真正面からそう言ってきた。キリは一つ頷くと、パイポを口から離し、しまう。
 それから今日の客人相手に、小さく頭を下げて挨拶した。
「……少しは礼儀をわきまえているようですわね」
 ぶっきらぼうに言い放たれ、キリは眉を寄せる。
「まぁ、元々根無し草生活ですんで」
 答えになってない答えを口にしてから、キリはその女性から目を離した。
「まぁいいわ。手段なんて選んでられないですし」
「手段?」
 聞き返すと、女性は目を細めて答える。
「どの医者も、あの子を治すことができなかったのよ」
 樫本家の現当主である樫本倉子が、その財産を使って治せない病気の噂はしたたかに広がっていった。倉子は隠そうとしたらしいが、噂の流れは優に人の力が及ばぬ程に速い。
 その速い噂を聞きつけたのだろう、キリからこの屋敷へ連絡が入ったのだ。普段なら霊療師などという怪しい職業の人間など招くはずもないが、樫本家の長女が原因不明の病気で倒れている。そんな状態をいつまでも続かせるわけにはいかない。普通の医者で治せないのなら、聞いたこともない「普通ではない医者」ならどうだろうか、という藁をも掴む気持ちで治療を了承したのだった。
 ──とはいえ、来た男がこんな水簿らしい男だったなんて……。
 これではいくらふっかけられるか、わかったものではない。もしかしたら詐欺を企んでいる可能性もある。倉子は事前に使用人達へこの男を強く注意するよう伝えていたことが正しい行為だと、改めて確信した。
「んでは早速、その患者さんを見せていただけないですかね?」
「ええ、いいわ。橋田」
「わかりました、奥様。私目がもう一度ご案内させて頂きます。お嬢様はこちらにおられます」
 その少女が寝ている部屋に連れられ、中へと入る。
 部屋の中はおよそ人が住んでいるとは思えぬほどに質素で、誰かが住んでいれば多少はあるだろう部屋の飾り付けなどの遊びがどこにも見あたらない。
(独房だな)
 口にこそ出さなかったが、キリの第一印象はそれだった。
 窓側に寝ている少女は、すぅと穏やかな寝息をたてていた。
「眠り姫か」
「お嬢様は、もう一ヶ月ほどあの状態でございます」
 こんな見も知らぬ男相手でさえ、執事の態度は慇懃であった。
「医者からは原因不明と言われ、とうとう見放されました」
「……そうですか」
 もう一度部屋の中を見回す。飾り付けも何もない、白い壁だけの部屋。趣味品の一つも転がっていない。ベットだけが唯一、別の色だといわんが如く。
 見た目、少女はまだ十代前半だろう。
「彼女はずっと、この部屋で?」
「樫本家を継ぐ者は一切の欲から遠くなければならない。それが教えなのです。遊技、遊戯の一切は認められません」
「……なるほどね」
 絶対にこの家には住みたくないなと心の中で呟いてから、少女に近寄る。穏やかな寝息を立てて寝ている少女。本当にどこにも異常が無いように思える。
(衰弱すらしていない)
「ちっと、失礼するよ」
 少女の顎を軽く摘む。それから瞼を開き持ってきたライトで光を当てて瞳孔を調べ、脈を取る。
「……なんだかなぁ」
 光を当てると瞳孔に変化が起こる。脈は異常とも思えるほど速い。
「あれだ、まぁ、普通の医者がなんともないし、そんでこの反応は、おそらく俺の専門分野だな」
「と、言いますと」
「あんたらには信じられないことかもしれないが、このお嬢さん、取り憑かれてるよ」
「取り憑かれている?」
「先ずは、原因究明からだ。取り憑かれた原因は、おそらく霊の前で名前を名乗ってしまったんだろう」
 現代医学で原因不明なのは仕方がない。人の生死というモノにおいて、通常の医者と共通点があるのかもしれないが、しかし実際は異なる職だった。
 そもそもこの現代社会は幽霊の存在を認めていない。
「キリ様の申します『取り憑かれ』というのは、やはり……」
「ああ、この屋敷にも幽霊はいるもんだな。──というか、これだけの屋敷だ。さぞかし恨む霊は多いだろう」
「……それは」
「答えなくてもいいさ。別に、教えて欲しいわけじゃない。だが、少々調べなければならないので、この部屋から出てくれないか?」
「……畏まりました。では、戸の前におります」
「仕事熱心だねぇ」
 思わず苦笑しながら執事が部屋を出て行くのを見送り、そして改めて少女へと向き直る。今の会話など無かったかのように眠る少女の顔は平穏そのものだった。
(だが、中に巣くうモノは平穏そのものじゃないな)
 キリはポケットからパイポを取り出し口に銜える。
 目を閉じ、手と手を合わせて軽い音を生み、それから目を開く。
「問う」
 揺れのない湖畔のような音程で、キリは口から音を出す。
「お前が取り憑いているその娘の名は、なんだ?」
 少女の口から白い霧が吐き出され、それは一度空中で球体となり、それから徐々に人を形作る。
「……ま、ユ……」
「それが、少女の名前か。なら、あんたの名前も問おう」
「……」
 幽霊の口が動こうとするが、音が出ない。
 キリは眉をひそめた。基本的に霊というのは生きている者の質問には素直に答える。それは自身の意思が限りなく希薄だからだ。元々一つの想いだけに縛られて、それ故に現世へ居残る彼らにとって、その想い以外はどうでもよいことである。
「……答えられない名前か」
 静かに呟く。それが霊に届いたか、届いたとしても理解したかどうかはキリにもわからなかったが、霊はもう一度球体へとなり少女の身体の中へと潜り込んでいく。
「──しまった!」
 思わず手を伸ばしたが、もう遅い。
 霊は再び少女の身体の中へと潜り込んでしまったのだ。
「……あちゃ〜」
 霊を追い払うには、その霊を識ることが重要である。霊を識り、支配することで安易に霊を操ることが可能なのだ。取り憑かれた者の名を霊自身に語ってもらい、そしてその霊の生前の名を自らが語る。名は、霊の弱点だと言っても良い。
「とはいえ、まさか名乗らないなんてなぁ」
 呻いてしまう。想像以上に厄介な相手かもしれない。
「……う、ん」
 少女から声が漏れた。キリが驚いて振り返る。
「──あなたは?」
「まさか……」
 信じられないことが起こった。今までずっと眠っていた少女が、身体を起こす。霊に取り憑かれて昏睡状態に陥り、そして今だ憑かれているにも関わらず、これは一体どういうことなのだろうか。
「目を覚ましたのか?」
「……目を?」
 きょとんと周囲を見回す。しばらくはぼぅとしていたが、突然何かを思い出したのだろう、あー、という呟きを漏らす。
「やっぱり、捨てられてる……」
「あん?」
「お母様に捨てられちゃったなぁ、やっぱり」
「何を?」
「お父様からの誕生日プレゼント」
「……捨てられるようなものだったのか」
「違う違う。……っていうか、どなたですか?」
「今頃尋ねるかね、それを」
 呆れながらそう言うと、少女は少しだけ困った顔をした。
「まさかわたし……ずっと寝ていたの?」
「ああ、話によれば一ヶ月ほどだ。隠してもしょうがないから喋るが、俺はあんたの母親に頼まれて、あんたを治療──正確にはあんたに取り憑いている霊の診療に来た。といっても、当然信じてはもらえないだろうが」
「……」
 ふいに、少女は顔を伏せた。
「やっぱり、あれはお父様だったんですね……」
「……なに?」
「わたし、霊が見えるんです」
「……」
「庭にお父様がいたんです。でも、それがお父様だってわからなくて、けど幽霊だってわかって──友達が欲しかったんです。話し相手が欲しかったんです。こんな──」
 少女の顔は翳っていた。キリはそんな少女を無表情に見つめている。
「こんな牢獄に、光が欲しかったんです」
「──そうか」
 どこまでも白い部屋。白い存在に取り憑かれ、純粋なる純白の者として育てられた少女の呟きは、白い壁にすぐ吸収される。
 キリは立ち上がった。
「そのお父さんについて色々と訊かなければならないみたいだな。ところで、ええっと、マユちゃんだっけ」
「え?」
 少女がきょとんとして、両目をしばたたかせる。
「わたしは、百合です」
「……へ?」
 一瞬わけがわからず、つい間抜けな声を出してしまう。
「名前が、違う?」
 幽霊が取り憑いた相手の名前を間違えた?
 そんなことはあり得ない。だが──
 ──名前が違う相手に、取り憑いた。
 そんなことが、あり得るのだろうか。

 確執。
 樫本家の親娘に似合う言葉があるとするならば当にそれだった。
 自らの意見を一切曲げることなく、真っ向から母親に挑み掛かることは、彼女にとって自身が自身であるための必要最低限の行為である。
 とかく母親と娘は気が合わない。
 母親は樫本家の教えを説くが、そんな娘は『樫本家』自体がおかしいとしてよく家を抜け出した。使用人が連れ戻してくるのだが、百合の脱走劇は何も一度だけに収まることもなかった。母親はその度に娘を叱り付け、そして娘は叱り付けられることにより益々樫本家を恨むようになっていく。使用人達はそうした互いの確執を止めようと思わないでもなかったが、しかし迂闊に何か口にしようものなら解雇されてしまう恐れがあった。だからこそ我関せずとして、誰も意見をしない。そして親子の関係は陰湿さを増す。
 川が流れるのを塞き止めることは可能かもしれないが、洪水を防ぐ手段はどこにもない。
「……」
 キリは樫本家を調べていく内に、なんとなくそんな思考に耽っていた。とりあえず今は百合も起きている。樫本家はそれで成功として報酬を渡そうとしたが、キリは断った。
 まだ、何も片付いていない。
「……あの霊」
 自分の取り憑いた娘のことをマユと呼んだ、あの霊。
 心の底で引っかかった。そんな事例は合っただろうかと過去の霊療師が保存していた文献を開いてみたが、やはりそんなことはない。そもそも霊の前で本当の名前を口にしなければ取り憑かれることもないのだ。どうしてそこで間違えるだろうか。
(そして)
 一度取り憑かれた人間は、何かしらの不調を訴える。それは霊によって違うもので、軽い症状として見られるのは肩こりや薬で簡単に抑えられる程度の頭痛等、重い症状としては昏睡状態から死に至るまで、様々である。今度の場合は昏睡状態の部類に入るので、取り憑かれた症状としては重い方だろう。治療方法は霊を追い出すこと。それで大概は解決するのだが、今回は取り憑かれたまま症状がなくなるという特異性を見せていた。
「まぁ、だとしたら霊に訊くのが一番早いか」
 霊が生前誰だったのか、それさえわかれば霊を操るのは容易い。霊の正体はわかっている。ならばもう一度少女から名前を聞き出せば良いだけだ。
「で、キリさんは何をしているんですか?」
 その少女を捜すまでもない。先ほどから文献を調べたり色々と考え事をしている最中に何かしらのちょっかいを出してくる。どうせ後で質問するから一緒にいるが、それでも調べ事をしている時に話しかけてくるのは勘弁して欲しかった。
「あ〜、今から相手してやっから、人の髪の毛引っ張るのはやめろ」
「だぁって、こんなボサボサしてるんですもの。洗ってるの、髪の毛?」
「失礼だな、これでも身だしなみはきちんとしているつもりだ。そもそも上流家庭の娘さんってのは、ぼさぼさだから人の髪の毛を引っ張るっていう、意味不明な癖でもあるのかい?」
「ん〜。無いんじゃないかな。そもそも私、お嬢様っていう自覚無いし」
「言い切ったなぁ。……って、それはいいんだよ。百合ちゃんだっけ。君がその霊を見かけた時のことを、教えてくれないか。そして取り憑かれるまでのことを」
「お父様のことですか?」
「そう、そのお父様」
 ふいに百合の顔が暗くなる。
「お父様は、数年前に亡くなりました」
「それは調べた。しかも──」
「ええ、私、今のお母様の娘ではありません。その前に本当のお母様がいたのですが、私が生まれた直後に。……お父様も二年前……それからでした。霊が見えるようになったのも。ある日、庭先に霊がいたんです。それが父だって気付くのに、さほど時間はいりませんでした。だから私は、ずっと話しかけてたんです」
「その霊の前で、名前を言ったのは?」
「最初の頃です。──でも」
「でも?」
「いえ、なんでもありません」
「……なるほど」
 相づちを打って、少女の背後を一瞥する。時たま取り憑いた霊が背中の辺りからその姿を見せることがある。
 百合は父親の事を思い出したのだろうか、少しだけ方を震わせていた。
「お父様は、とても素晴らしい人でした」
「みたいだな。元々名家であった樫本家をこの若さでさらに発展させた人物だ。大物であったことは間違いない」
「そういう意味じゃありません。人として素晴らしかったんです。私はそんな父が大好きでした」
「……」
 すっくと立ち上がる。
「もしかしたら、わかったかもしれん」
「え、何がです?」
「その霊の正体、これはもう俺の力で解決できる問題じゃないな。あんたが再び眠りにつかないようにするには、あんた自身が変わらなければならない」
「……どういうことですか?」
「とっくにわかってんだろ。その霊、取り憑いているわけじゃないんだ。正確に言えば、霊が霊に取り込まれた」
「……?」
「名前っていうのは、奇妙な力があってね」
 パイポをポケットから取り出した。
「あんたが本当の母親から貰った名前は『繭』だった。そう、一番最初に名付けられた、あるいは生まれる直前まで決めていた名前だ。それがどういう事か、わかるかね?」
「──まさか」
「ああ、人はたまにな、守護霊ってのを背負う。あんたにも守護霊がいるんだが、それはあんたの母親だったんだよ。百合ちゃんが生まれた直後に母親が亡くなったっていったな。その後に付けられた名前を、母親は知らなかった」
「……母は、私をずっと『繭』だと」
「そうだ。あんた、父親に取り憑かれた日、その名前を口にしたな。そして守護霊に取り込まれた。だったら今からでもいい、本当の名前を教えてやればいいんだ。──たったそれだけだ。それで守護霊がいなくなる訳じゃないが、少なくとも父親の霊は解放される。あんたの父は娘を想うあまりにこの世に留まったみたいだからな」
「なら、何故私が変わらなければならないの?」
「父親を心配させないためだ。父親はこの家に尽くしたんだろ? だったら、あんたも同じことすりゃいい」
「……」
 完全に顔を伏せた少女を、キリはじっと眺めていた。どちらにしろ全ての決断を下すのは彼女自身である。いわば他人のキリが口を出すことではない。
「決めるのはあんただ」
 キリが差し出した一つの選択肢は、百合にとって苦渋の道だろう。今まで否定してきた全てを今からやれというのだ。素直に首を振れるわけがない。
 だが、そうでもしなければ父親の霊は解放されない。
「……キリさん、私からも一つ、依頼して良いですか」
「なんだ?」
「あの、私の──」

 樫本家から一人娘が失踪した。
 そのニュースは瞬く間に広がったように見えたが、すぐに収まった。大手会社の一人娘がいなくなるという事件に記者達が鼻をひくつかせたが、それでも大事となる前に波を抑えたのは見事な手腕だろう。
 少女が望んだ選択肢は、キリが用意した二つの選択肢を抜けた。別を選んだのだ。少女の望みを聞いたキリは、別段驚いた顔をせず、ただ「それで良いのか?」と念を押しただけに過ぎない。少女は「お願いします」と小さくも強く返事をして、真正面からキリの瞳を見た。
 だからこそキリは叶えてやった。その全ての望みを叶えることは霊療師に出来る技ではない。が、出来うる限りはしてやった。
 その少女は今、電車を降りて山の中を歩いている。時折強烈なハイビームで少女を照らす自動車が駆け抜けたが、それにも気にせず少女は歩いた。
 少女の背中には、うすらぼんやりと二体の霊が浮かんでいる。
 少女はその霊を背中越しに感じたのだろうか。
 無表情の霊を背負いながら、少女はそれでも嬉しそうに山道を歩いていった。

 空を見上げる。
 何もなかった。当然だった。嫌になるほど透き通った晴れの日だったからだ。
 ふと、一ヶ月ほど前に「霊に言葉を伝えてくれ」と頼んだ少女を思い出した。生前が人ならばそれも不可能ではない。しかし、滅多にやらないことをしたから、かなり草臥れた記憶もある。
 そして少女は、その一生を大好きな両親に見守られながら生きていくことになった。
 元にあった家を捨ててまで、その道を選んだのだ。
「さぁて、次はどこに行くかね」
 空はどこまでも透き通っていた。持ち上げていた顔を落とせば、眼前に二つに分かれた道が現れる。一体どのぐらい歩いたのだろう。都会とは程遠いところに来てしまったので、とりあえず近場に食料を購入できる店どころか、休める場所もなさそうだった。
 どちらの道も、先には地平線が広がっている。
「……うっわ、まじかよ。しゃーないな」
 拾った小枝を立てて、倒す。左側に倒れたので、キリは「よし」と一言、左の道へ一歩踏み出した。

2004-03-23 11:39:34公開 / 作者:平乃 飛羅
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■作者からのメッセージ
第2話です。そのつもりです(爆)

夜中、ふと外から正体不明の声が聞こえて「は、まさか幽霊か、とうとう自分にも霊感が!」とちょっぴしドキドキしていたら「裏のマンションには多国な方が大量に住んでいる」だけでした。とても残念な気がしますけど、よくよく考えたら取り憑かれたくないので、別に見えなくてもいいかなぁと。
そして更によく考えてみると、幽霊の資料が手元に全くないや、あはははは(汗)
……図書館にでも行こうかな。
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