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タイトル上野文さまへ:「キャラクター小説」について
記事No: 470 [関連記事]
投稿日: 2008/08/22(Fri) 18:16
投稿者中村ケイタロウ

 上野文さま

 こんにちは。
 僕がしゃべり始めると夢劇場さんがスレッドを立てられた趣旨から離れていきそうなので、新しく立スレさせていただきました。こういうことに慣れていないので、それが正しい判断かどうか分からないのですが。

 まず最初に申し上げておきますと、キャラクターや世界観の魅力を強調して書かれた小説を全て否定するつもりはありません。優れたものが数多あることは十分理解しております。ただ、安易に取るべき方法ではないとも考えています。

『いわゆる「世界観」や登場人物への愛着から増やされる必然性の無いエピソード』とはいかなるものか、というご質問にお答えするのは僕の知識と頭ではなかなか難しいのですが、「愛着によって生み出される」という部分より以前にまず、「必然性の無い」という部分に重きを置いて理解していただければ助かります。上野さんはかなり多くの物語をお読みだとお見受けしますが、どこかでそのような作品をご覧になったことはないでしょうか?
 結局のところその「必然性」は書き手にしか判断しようのないことではありますが。

 それから、「愛着」を感じているのが誰か、というのも重要な点だと思います。読者なのか。作者なのか。その両方なのか。
 読者なら、よし。両方なら、なおよし。しかし作者だけなら、どうでしょう?
 
 読者と作者の両方がキャラクターを愛する。その愛だけで作品を楽しめるほど、愛する。そのような幸福な状況は、キャラクターの魅力だけで容易に生み出せるものではないと僕は考えます。そこには、なんというか、ある意味で、「共有された歴史」のようなものが必要なのではないかと。

 うまく言えませんが、上野さんが列挙された作品がいずれも近代以前の古典文学であることが、何事かを示唆しているのではないかと思います。それらの作品を否定するつもりは全くありませんし、それらが作者の自己愛に「淫する」ことによって書かれたとは僕は全く思いません。
 しかし、思うに、前近代と現代では人間のアイデンティティのありようも違います。前近代の物語文学と、近現代の小説とは、全く同列には論じられないのではないでしょうか。(この項に関しては、源氏だけはちょっと除外させてください。あれは近代小説に近い気がする。読んでないから分かんないですけど)
 考えるに、おっしゃった作品のうちの幾つかは、口承文学や講談のような語りをベースにしたものであり、一人の人間が書いた作品と言うよりも、多くの人々が集合的に作り上げたものだと思います。たとえ定本として後世に残されている文章の執筆者が一人であったとしても、テーマや人物については、歴史の中で多くの人が生み出し民族的に共有してきたエピソードの集合体なのではありませんか。当時はオリジナリティが求められる時代ではありませんでした。(だから、ある意味では「二次」なのだと思いますが、それはともかく)
 それらの物語が、書き手の自己表現として書かれたとは、僕には考えにくい。おそらく、当時の書き手たちは、自分たちをある種の「記録者」か「語り部」か「歌い手(謳い手)」のように考えていたのだと思います。そうだとすれば、それらの主人公たちに「愛着」を感じていたのは、作者以上に、読者や聴衆たちであったでしょう。当時の読者や聴衆たちは(たぶん作者たちも)、梁山泊の豪傑たちやアーサー王やランスロット卿を(ひょっとしたら孫悟空ですら)半ば以上実在の人物だと信じていたのだと思います。一昔前の日本人にとって中将姫や鞍馬天狗がそうであったように。
 それが、彼らがあのような作品を書いた「必然性」であったでしょう。そして今われわれがそれを読んで楽しむことができるとしたら、それらの古典が我々の文化の血となり骨となっているからではないでしょうか。それらの古典の価値は、現在私たちが書いている小説の価値とは、また別のところにあるのだと僕は思います。

 不幸にして、現在はそのような神話的時代ではありません。

 では、そのような古典の物語が持っていたエネルギーを現代に蘇らせることはできないのか? というと、「不可能ではないが、容易ではないだろう」と僕は思っています。近現代は個人の時代であり、物語は個人の「作品」としての「小説」となって、作者の名を付されてパッケージされます。そして近代社会においては(原理的には)作者も読者も対等な個人です。そのような状況下では、物語の主人公たちはアーサー王のような「半実在人物」にはなり得ず、作者の無意識と自我が生み出した産物としか、読者はみなしてくれないでしょう。また同時に、書き手自身も、登場人物を自己の分身や自己の産物として捉えることになるのではないでしょうか。自己の分身に対する愛着。僕が「自己愛」という言葉を使ったのは、そのような意味です。

 その意味では、2次創作やリレー小説といった自我の壁を取っ払ったスタイルに、古の物語が有していたエネルギーを復権させる契機が含まれているかもしれません。これらが異端視されるのは、まさにその近代的な「自己」を度外視したあり方に原因があるのでしょう。あるいはアニメのルパン三世や、栗本薫氏の長い長い「グイン・サーガ」のように、何十年も書き続けることも、キャラクターを「歴史的人物」にする道であるかもしれません。しかし、前者は近代的人間観や知的所有権の概念になじみませんし、後者は非常に実行が困難な上に、初期の作品の面白さで読者を魅了しておく必要があります。

 ならば、少なくとも現代においては、「キャラクター小説」もまた、たとえキャラクターの魅力を除いても十分な面白さや意義のあるものでなければならないのではないでしょうか。自らが生み出した世界やキャラクターに作者が「淫して」いれば、それは達成できないはずです。愛が無いのは困りますが、同時に作品を客観的に突き放して見直す契機も、絶対に必要だと思うのです。

 論点がまとまらなくて申し訳ありませんが、僕が批判したいのは、古典的物語のキャラクターのエネルギーを復権させるという本来「容易ではないこと」を、それに取り組むための自己分析もせずに自己満足で書いている人たちのことです。あるいは、狭いサークルの中でキャラクターを神話化して閉じている人たちのことです。キャラクターに重きを置いた小説をすべて切って捨てるつもりは毛頭ありません。
 夢劇場さんのスレッドでわざわざあのようなことを書いたのは、「長くなる」ことが話題になっていたのと、上記のような弊害を抱えた小説(漫画やアニメではもっと激しいのではないでしょうか)が近年あまりにも多すぎるように思ったからです。もちろん、他方では、過度にスタイリッシュで空疎な小説や、文学志向が強すぎてひとりよがりな小説などもたくさんあって、それはそれでもちろん困りものなのですが。

 さて、ここからは私信のようになってしまいますが、

 率直に申しますと、上野さんご自身が、一つの世界観をベースにシリーズものを書いていらっしゃる方なので、上記のような僕の私見をご理解いただけるか不安です。また、その点でご気分を害されたのではないかとも懸念しております。
 しかし、上野さんの御作に関して申し上げれば、キャラクターや世界観への愛着「だけ」であの七鍵シリーズを書いていらっしゃるとは、僕には思えません。思うに上野さんは、さっき僕が言ったのとはまた別の意味での「歴史性」をあのシリーズに持ち込もうとなさってきたのではありませんか? そこに、書き、読むための動機と楽しみを――すなわち、必然性を、見出そうとしていらっしゃるのではありませんか? これは何も「時事ネタ」だけのことを表面的に見て言っているのではありません。人間、社会、国家、歴史、世界の似姿を物語として一つの架空世界の中に作り出そうとなさっている(のだと僕なりに理解しています)試みそれ自体のことを申しております。
 だとすれば、上野さんは上記の僕の批判の対象ではありません。その点はご承知おきください。

 しかしそれでも、あつかましい言い方で恐縮ですが、上野さんがあのシリーズ以外に新しくお書きになるものも、もっと読んでみたいと僕は思っています。そこには必ず新しい切り口があるはずですから。

 筆が至らないために疑問をお持ちになった点があれば、ご面倒でなければまたご質問ください。
 失礼いたします。

  中村ケイタロウ


タイトル中村ケイタロウ様へ:「キャラクター小説」について
記事No: 471 [関連記事]
投稿日: 2008/08/23(Sat) 00:36
投稿者上野文
URLhttp://www.k3.dion.ne.jp/~tomarigi/

 こんばんは。上野文です。
 新スレを立てていただき、ありがとうございます。
 確かにこの話題の中枢は、”長さ”にのみくくられるものではありません。
 スレ違いになるところを、正道へ戻していただき、ありがとうございました。
 御文、拝見いたしました。
 中村様のご意見を伺い、得心いたしました。
 初めに申しあげますと、もうご存知だと思いますが、私は二次創作も嗜み、ライトノベルも読んで育った人間です。
 そのため、たぶん中村様より「キャラクターや世界観の魅力を強調して書かれた小説」に重きを置く側に立っていると思います。
 私は中村様の文筆力を尊敬していますし、読書量や見識、人柄にも敬意を払っております。
 だからこそ、夢劇場様のスレッドに書かれたいくつかの文章を読んで誤解し、火の感情を抱きました。
 その非礼をお詫びいたします。

 中村様はご存知かわかりませんが…。
 現存する最古の小説である源氏物語(当時は別名?だったそうですが)は紫式部が藤原道長(もしくはその娘、彰子)のためだけに書かれたもの、という説があります。
 児童文学の先駆的存在である「不思議の国のアリス」よりはじまる一連の作品群もまた、元はルイス・キャロルが近所の子供の為だけに語って聞かせた物語です。
 最近では、ハリー・ポッターのシリーズが有名ですね。HITしたあと、作者さんが言うことコロコロ変わってるんですが、元々はお子さんに語って聞かせるためだけに作った物語だそうです。
 近代ファンタジーを切り開いたと呼ばれる「指輪物語」はトールキンが「ホビットの冒険」を作った後、その世界に可能性を感じ、創作されました。
 双璧と呼ばれる「ゲド戦記」も、元々は一巻のみのはずが、作者が気に入ったというか、はまったというか、ウン十年もかけて五巻まで書いて完成させました。
 シェアワールド、と呼ばれる創作方法があります。
 アメさんが本場なのですが、別々の作者のドラマやコミックを、ひとつの世界として共有する、という書き方です。
 日本じゃ有名なのはクトルー神話かな。

 夢劇場様のスレッドにおいて、中村様の書かれた文章は、ややもすれば、こういった「世界観や登場人物に重きを置く小説群」を全否定し、「公共性と自己愛」の名の下に誰かの為に書かれた小説を嘲笑する。
 そういう風に受け止められる余地があったのです。「貴方が、貴方がそう言うのか!」と。むろん、中村様の真意を聞いた以上、私の身勝手な思い込みだとわかり、本当に恥ずかしいことなのですが。

 中村様の仰る、「前近代の物語文学と、近現代の小説とは、同列に論じるものでなく、古典の価値は、現在私たちが書いている小説の価値とは、また別のところにある」というご意見には頷けます。
 彼らの歩いてきた道の果てに私たちは存在し、彼らという源流に戻ることは、不可能なのですから。
 そして、自己の分身に対する愛着のみをヨリシロとして、作者自身が溺れるなら……それは、確かに、小説とは、呼べない。
 「少なくとも現代においては、「キャラクター小説」もまた、たとえキャラクターの魅力を除いても十分な面白さや意義のあるものでなければならない」というご意見は、私も常々思っていることで、反論しようがない…。
 確かに、弊害は存在します。ライトノベルという形で小説が触れやすいものになった反面、キャラクター性のみに依存した小説は増えています。
 それはどうよ? と問われると、うーん。
 私はケータイ小説と呼ばれる小説のジャンルも肯定する側の人間ですが、「全プロットが同じ、あの類は小説とは呼ばない」と力説されますと、「でも、そういうのもありだと思うんだよ」と声が小さく。
 どちらの言い分も、根拠と感情の源が、理解できますから……。

 中村様の御意志は、承りました。
 私は「キャラクターや世界観の魅力を強調して書かれた小説」に重きを置くことに、肯定的なスタンスをとっています。
 ですが、「客観(読者)視点としての物語上、必然性のない部分まで、作者の愛情、あるいはエゴのみでページを割くのは、書き手としてよいやり方とはいえない」と言われるなら、それは、もっともなことだとも思います。
 私の非礼なレスに、このように真摯に応対していただき、ありがとうございました。

 私信をありがとうございました。
 私は、自分が書くキャラクターや世界観に、愛着を持っています。
 ですから、それが感情に火のついた原因のひとつでもあります。
 中村ケイタロウ様。ありがとうございました。
 私は、自分が大いに誤解されるだろう試みを行っていると、自覚していました。
 あるいは、誰にも理解されないかも、と寂しく思ってもいました。
 けれど、報われました。癒されました。本当に、ありがとう。
 私は、社会を、国を、過去から流れ行くひとの繋がりを、創りたかった。綴れるようになりたかった。
 人間を書きたかった。それは似姿であれど、生きているものとして。
 それは、容易ではないことで、私自身の感情が障害となる部分も多々あって。
 でも、それが私の挑みたいものなのです。
 あれ以外も、また書いていきたいです。たぶんそれは、とても勉強になることですから。
 心より感謝いたします。
 また―――。
 
  上野文


タイトルありがとうございました
記事No: 472 [関連記事]
投稿日: 2008/08/23(Sat) 01:51
投稿者中村ケイタロウ

 こんばんは。

 寝る前に見にきたら、お返事を書いてくださっていたのですね。ありがとうございます。
 上野さんのお立場、よく理解できました。そもそもの僕の書き方が良くなかったですね。しかし、僕は今までに他の場で「ブンガク的」「ゲージュツ的」であることを批判したりしたこともありますので、必ずしも完全に一方に偏っているわけではないことはご理解ください。でも、口調には気をつけたほうがよかったです。
 あと、筆力も読書量も見識も人柄も、ほんとに大したものじゃないので、どうかご勘弁いただきたいです。特に人柄……。

 上野さんの取り組まれていることは、たしかに非常に難しいことだろうと思います。おそらく、何の問題も無く全て順調にすすむような種類の作業ではないだろうと推察します。ファンタジーから普遍へ突き抜けてゆくのには、大変なエネルギーと教養が必要でしょう。しかし難しいからこそ、取り組む価値のあることだと思いますよ。

 思うに、ほとんど読んでいないので明言はしにくいのですが、トールキンやル・グィンの作品にもやはり、違った形であれ、そのように普遍へ突き抜けていこうとする方向性があるんじゃないでしょうか。現実とは別個の閉じた世界でありながら、だからこそ、他者として現実世界に働きかけてくる。それこそがファンタジー小説固有の力なんじゃないかと思います。

 実は、キャラクターへの愛情というのは、僕にもよく分かります。「図書館の夜」の渡辺ロロが、僕はかなり本気で気に入ってしまって、「惚れた」と言ってもいいほどの気持ちです。彼女が物語をひっぱってくれたという手ごたえも感じました。
 でも、彼女を再登場させることはしないつもりです。彼女にぴったり合う小説が、他には無いような気がするので……。

 それでは。ありがとうございました。


タイトルこちらこそありがとうございました
記事No: 473 [関連記事]
投稿日: 2008/08/23(Sat) 19:25
投稿者上野文
URLhttp://www.k3.dion.ne.jp/~tomarigi/

 こんばんは、上野文です。
 こちらこそありがとうございます。
 いえ、やはり誤解した私が悪いのです。
 あと、謙遜しないでくださいね♪ 勝手ではありますが、私は貴方を尊敬しているのですから。

 ファンタジーから普遍へ突き抜けていこうとする方向性。
 これは、確かにトールキンにもル・グィンにも共通するものかも知れません。
 国や社会を書こうとしたのがトールキンで、子供から大人へ、そして老いを書こうとしたのがル・グィン、という受け取り方もできますのです。
 「指輪物語」が第二次大戦の真っ只中に書かれ、当時大っぴらに言えなかった反戦をメッセージに込められた、というのは日本ではあまり知られていません。
 ……でもって、それを指摘する者は、作者が心変わりしてダークエルフやゴブリンを敵国に見立てて書いたとか、アジア人への蔑視が作中に流れている…という事実を大抵無視します。
 「指輪物語」は幻想小説という手段で、トールキンなりに戦争と向き合った小説なのでしょう。
 「ゲド戦記」は、傲慢だった(無知だった)子供が大人になって、後進に譲り、老いて無力になって、それでも人生に向き合ってゆく、という話です。
 だから、完結には膨大な時間がかかったのかもしれません。でもって、その主題を日本のプロデューサーが意図的に政治イデオロギーに摩り替えて映画を作ったとき、彼は激怒して抗議しました。
 ……そりゃ、正反対のことやられちゃ腹立つわな。

 失礼しました。
 幻想だから書けるもの、現実への挑戦は、そんな偉大なレベルまでいかなくても、私なりに取り組んでゆきたいと思っています。
 ロロちゃんは、中村様に愛されて書かれていたと思います。
 熱意は、筆に出ますから。そして、今は、彼女に合う、「図書館の夜」以上の舞台はないのでしょう。
 ここらへんは、書き手さんにもよると思います。
 彼女の物語があれで完成しているなら、続けることは蛇足です。
 そして、完成していないのなら、いずれ中村様は筆を取るでしょう。
 それは、私にもわかりかねます…・

 中村ケイタロウ様。このたびはありがとうございました。では、また。


タイトルキャラクター愛について
記事No: 474 [関連記事]
投稿日: 2008/08/23(Sat) 22:51
投稿者中村ケイタロウ

「教え子に惚れてはいけない」という教師の職業倫理と似たような気持ちも、どこかにあります(笑)


タイトルわかります
記事No: 475 [関連記事]
投稿日: 2008/08/24(Sun) 22:46
投稿者上野文
URLhttp://www.k3.dion.ne.jp/~tomarigi/

 こんばんは、上野文です。
 わかります。
 私にとって登場人物は、配役とか俳優とかそんな感じなのですが…
 演出家や監督が過剰に私意を入れると怖いなあって。
 登場人物は物語を盛り上げてくれるけど、同時に壊せる存在でもあるんですよね。
 生徒は大切ですが、教師が特定の一人相手に恋すると…いろいろと危機ですもの。