上野文さま
こんにちは。
僕がしゃべり始めると夢劇場さんがスレッドを立てられた趣旨から離れていきそうなので、新しく立スレさせていただきました。こういうことに慣れていないので、それが正しい判断かどうか分からないのですが。
まず最初に申し上げておきますと、キャラクターや世界観の魅力を強調して書かれた小説を全て否定するつもりはありません。優れたものが数多あることは十分理解しております。ただ、安易に取るべき方法ではないとも考えています。
『いわゆる「世界観」や登場人物への愛着から増やされる必然性の無いエピソード』とはいかなるものか、というご質問にお答えするのは僕の知識と頭ではなかなか難しいのですが、「愛着によって生み出される」という部分より以前にまず、「必然性の無い」という部分に重きを置いて理解していただければ助かります。上野さんはかなり多くの物語をお読みだとお見受けしますが、どこかでそのような作品をご覧になったことはないでしょうか?
結局のところその「必然性」は書き手にしか判断しようのないことではありますが。
それから、「愛着」を感じているのが誰か、というのも重要な点だと思います。読者なのか。作者なのか。その両方なのか。
読者なら、よし。両方なら、なおよし。しかし作者だけなら、どうでしょう?
読者と作者の両方がキャラクターを愛する。その愛だけで作品を楽しめるほど、愛する。そのような幸福な状況は、キャラクターの魅力だけで容易に生み出せるものではないと僕は考えます。そこには、なんというか、ある意味で、「共有された歴史」のようなものが必要なのではないかと。
うまく言えませんが、上野さんが列挙された作品がいずれも近代以前の古典文学であることが、何事かを示唆しているのではないかと思います。それらの作品を否定するつもりは全くありませんし、それらが作者の自己愛に「淫する」ことによって書かれたとは僕は全く思いません。
しかし、思うに、前近代と現代では人間のアイデンティティのありようも違います。前近代の物語文学と、近現代の小説とは、全く同列には論じられないのではないでしょうか。(この項に関しては、源氏だけはちょっと除外させてください。あれは近代小説に近い気がする。読んでないから分かんないですけど)
考えるに、おっしゃった作品のうちの幾つかは、口承文学や講談のような語りをベースにしたものであり、一人の人間が書いた作品と言うよりも、多くの人々が集合的に作り上げたものだと思います。たとえ定本として後世に残されている文章の執筆者が一人であったとしても、テーマや人物については、歴史の中で多くの人が生み出し民族的に共有してきたエピソードの集合体なのではありませんか。当時はオリジナリティが求められる時代ではありませんでした。(だから、ある意味では「二次」なのだと思いますが、それはともかく)
それらの物語が、書き手の自己表現として書かれたとは、僕には考えにくい。おそらく、当時の書き手たちは、自分たちをある種の「記録者」か「語り部」か「歌い手(謳い手)」のように考えていたのだと思います。そうだとすれば、それらの主人公たちに「愛着」を感じていたのは、作者以上に、読者や聴衆たちであったでしょう。当時の読者や聴衆たちは(たぶん作者たちも)、梁山泊の豪傑たちやアーサー王やランスロット卿を(ひょっとしたら孫悟空ですら)半ば以上実在の人物だと信じていたのだと思います。一昔前の日本人にとって中将姫や鞍馬天狗がそうであったように。
それが、彼らがあのような作品を書いた「必然性」であったでしょう。そして今われわれがそれを読んで楽しむことができるとしたら、それらの古典が我々の文化の血となり骨となっているからではないでしょうか。それらの古典の価値は、現在私たちが書いている小説の価値とは、また別のところにあるのだと僕は思います。
不幸にして、現在はそのような神話的時代ではありません。
では、そのような古典の物語が持っていたエネルギーを現代に蘇らせることはできないのか? というと、「不可能ではないが、容易ではないだろう」と僕は思っています。近現代は個人の時代であり、物語は個人の「作品」としての「小説」となって、作者の名を付されてパッケージされます。そして近代社会においては(原理的には)作者も読者も対等な個人です。そのような状況下では、物語の主人公たちはアーサー王のような「半実在人物」にはなり得ず、作者の無意識と自我が生み出した産物としか、読者はみなしてくれないでしょう。また同時に、書き手自身も、登場人物を自己の分身や自己の産物として捉えることになるのではないでしょうか。自己の分身に対する愛着。僕が「自己愛」という言葉を使ったのは、そのような意味です。
その意味では、2次創作やリレー小説といった自我の壁を取っ払ったスタイルに、古の物語が有していたエネルギーを復権させる契機が含まれているかもしれません。これらが異端視されるのは、まさにその近代的な「自己」を度外視したあり方に原因があるのでしょう。あるいはアニメのルパン三世や、栗本薫氏の長い長い「グイン・サーガ」のように、何十年も書き続けることも、キャラクターを「歴史的人物」にする道であるかもしれません。しかし、前者は近代的人間観や知的所有権の概念になじみませんし、後者は非常に実行が困難な上に、初期の作品の面白さで読者を魅了しておく必要があります。
ならば、少なくとも現代においては、「キャラクター小説」もまた、たとえキャラクターの魅力を除いても十分な面白さや意義のあるものでなければならないのではないでしょうか。自らが生み出した世界やキャラクターに作者が「淫して」いれば、それは達成できないはずです。愛が無いのは困りますが、同時に作品を客観的に突き放して見直す契機も、絶対に必要だと思うのです。
論点がまとまらなくて申し訳ありませんが、僕が批判したいのは、古典的物語のキャラクターのエネルギーを復権させるという本来「容易ではないこと」を、それに取り組むための自己分析もせずに自己満足で書いている人たちのことです。あるいは、狭いサークルの中でキャラクターを神話化して閉じている人たちのことです。キャラクターに重きを置いた小説をすべて切って捨てるつもりは毛頭ありません。
夢劇場さんのスレッドでわざわざあのようなことを書いたのは、「長くなる」ことが話題になっていたのと、上記のような弊害を抱えた小説(漫画やアニメではもっと激しいのではないでしょうか)が近年あまりにも多すぎるように思ったからです。もちろん、他方では、過度にスタイリッシュで空疎な小説や、文学志向が強すぎてひとりよがりな小説などもたくさんあって、それはそれでもちろん困りものなのですが。
さて、ここからは私信のようになってしまいますが、
率直に申しますと、上野さんご自身が、一つの世界観をベースにシリーズものを書いていらっしゃる方なので、上記のような僕の私見をご理解いただけるか不安です。また、その点でご気分を害されたのではないかとも懸念しております。
しかし、上野さんの御作に関して申し上げれば、キャラクターや世界観への愛着「だけ」であの七鍵シリーズを書いていらっしゃるとは、僕には思えません。思うに上野さんは、さっき僕が言ったのとはまた別の意味での「歴史性」をあのシリーズに持ち込もうとなさってきたのではありませんか? そこに、書き、読むための動機と楽しみを――すなわち、必然性を、見出そうとしていらっしゃるのではありませんか? これは何も「時事ネタ」だけのことを表面的に見て言っているのではありません。人間、社会、国家、歴史、世界の似姿を物語として一つの架空世界の中に作り出そうとなさっている(のだと僕なりに理解しています)試みそれ自体のことを申しております。
だとすれば、上野さんは上記の僕の批判の対象ではありません。その点はご承知おきください。
しかしそれでも、あつかましい言い方で恐縮ですが、上野さんがあのシリーズ以外に新しくお書きになるものも、もっと読んでみたいと僕は思っています。そこには必ず新しい切り口があるはずですから。
筆が至らないために疑問をお持ちになった点があれば、ご面倒でなければまたご質問ください。
失礼いたします。
中村ケイタロウ